序章-3 「復讐」

    

 南の森のはずれ。
 岩山に沿って滝から流れ落ちる水が、夜の湖でしぶきを上げている。
 その湖のほとりには天然の洞窟があり、そこは盗賊の住処となっていた。

 薄暗く湿った洞窟の内部。
 広場のような大きなスペースに、無数の光が揺らめいていた。
 持ち主を失った松明が床に転がり、炎で赤く照らされた土壁にはいくつもの影が蠢いている。
 周囲にこだまする怒号とともに壁に照らされた影は、ひとつ、またひとつと倒れ、動かなくなってゆく。
 影の主は、大きく分けて二種類にわかれていた。
 盗賊団を組織するサンショウウオと、それ以外のモンスター達である。
 影達は、深夜の洞窟で不毛な消耗戦を繰り広げていた。

「グガァッ!」
 鋭利なクチバシが肉を切り裂き、サンショウウオの男が崩れ落ちた。
 鳥型モンスター、アルバトロスの男が勝利を収めたようだ。
 だが、それは一時の勝利にすぎない。
 なぜなら、五十体を超えるサンショウウオの大軍の前に、二十にも満たない数の寄せ集めモンスター達は、既に壊滅状態にあったからだ。
 気がつけば、残ったのはそのアルバトロスの男と、もう一人、ねずみ親父と呼ばれる獣人の男二人だけになっていた。

「おいドルケン! これ以上は無理だ。連中が引いている間に逃げるぞ!」
「冗談を言うな! 俺はまだ二体しか倒していない。これくらいで逃げられるか!」
 広間に続く階段の上で二人のモンスターの男が言い争いを始めた。
 アルバトロスの顔は引きつっていたが、ドルケンと呼ばれたねずみ親父はまだ無傷で元気に溢れていた。彼らの怒鳴り声で、松明の明かりが揺れた。
「バカ野郎! 状況を見ろ! 俺達二人だけでこれ以上戦えるかっ!」
「うるさい! 逃げたきゃ一人で逃げろ!」
 息がつまりそうなほど充満している血の匂いが、階下で激しい戦闘が繰り広げられたことを窺わせる。
 あらかたの敵を倒したサンショウウオたちが態勢を立て直しているため、いまは戦闘が小休止している。
 しかし、生き残りのサンショウウオが二人のモンスターを包囲し、彼らに襲いかかるってくるのは時間の問題だろう。

 ここでいうモンスターとは、この世界に住む人間エスパー以外の知的生命体、もしくは特異な能力を秘めた大型の生物を指している。
 一口にモンスターと言っても、その種族は様々で、知性を失ったもの、知性を持つが生後種族が変化しないもの、知性を持ちかつ他のモンスターの肉を食べるもので体に突然変異を引き起こすものの三つのタイプが存在している。
 それぞれは便宜的にアニマルまたはビースト、獣人、ミュータントと呼ばれる事もある。

 この生き残った二人のモンスターのうち、一人は獣人タイプで、種族は『ねずみ親父』。名をドルケンという。
 もう一人は、ミュータントで現在の種族は大鳥の『アルバトロス』。彼の名はグードといった。

「てめえら、あの村のモンじゃねえな?」
 言い争う二人の前に、大きな影が現れた。
 全身から腐敗臭のような異臭を発し、背丈は二メートルを超え、横幅はさらに広い。
 床の上に立っているのか座っているのか、足は屈折し尻が地面についている。まるで巨大な岩のような威圧感があった。
 この者こそ、盗賊団の首領。『毒ガエル』と呼ばれる大型のモンスターだった。
 巨大な図体に似つかわしく、態度は不遜でふてぶてしい。
「てめえが盗賊の親玉か!! 自分から出てくるたぁ、都合がいいや! 覚悟しやがれ!!」
「やめろ、ドルケン! いったん引くぞ!」
 腕を突き出して構えるドルケンの背丈は毒ガエルの肩までしかない。
 しかし、このドルケンは、勇敢にも自分より遥かに巨大な毒ガエルに戦いを挑もうとしていた。
 だが、グードの方は冷静に退却を考えているようだ。
 それは二人の性格の違いなのか……いや、胸中にあるものが違ったようだ。
「のこのこ出てきたのが運の尽きだぜ! あいにくだったな。まだ俺は無傷なんだよ!」
 グードの制止も聞かず、ドルケンは毒ガエルに飛び掛かっていった。
 鈍重な毒ガエルはドルケンの攻撃を避けられず、腕で身体を庇うのがやっとだった。

 ドルケンの牙は毒ガエルの右腕……いや右前足というべきか、大木の枝のような弾力のある肉の塊に深々と突き刺さっている。
 がぶりついたドルケンの口が少しずつ閉じられていく。
 ドルケンの口の中では噛まれた毒ガエルの体液が飛び散り、牙の隙間からしたたり落ちていった。
「ふん…!」
 毒ガエルは痛みに顔をしかめながらも、どこか余裕の表情を見せていた。
 後ろで見ていたグードにはそれが少し奇妙に感じられた。
 牙を突きたてたドルケンはなおも力を緩めない。毒ガエルの腕は潰され、そのまま右前足を削ぎ落とすほどの勢いだった。
「ウッ……グッ、グホォッッ!!!」
 しかし、だ。ドルケンは腕をそぎ落とす前に口を離した。
 数歩後ずさった後、毛で覆われた顔の上からでもわかるほど表情を青ざめ、床へひざを落とし、嘔吐し始めた。
 その時、グードは敵が余裕を見せていた理由を理解する事ができた。
 盗賊の親玉は、種族を毒ガエルというくらいだ。当然、その体液には毒がある。
 ドルケンは敵に毒がある事を忘れ、体液を吸ってしまったのだ。

 体内に強毒を持つ毒ガエルに牙で噛み付くということは、自殺行為に等しい。
 毒ガエルという相手と初めて遭遇した二人がその事に気づいた時には、もう手遅れだった。
「……グ……ウゲッ……ゲエエェ!!」
 ドルケンはのた打ち回って苦しんでいた。
 熱くなっていたドルケンは相手を攻撃することに意識を集中させるあまり、全力で噛み付き、相手の体液を飲み干す勢いで吸ってしまっていたのだ。
「ドルケン、逃げるぞ!!」
 グードは、床でのた打ち回るドルケンの肩を足で掴み、はばたきを始めた。しかし、鳥型とは言え、中型モンスターの部類に入るグードだ。暗い洞窟の中をドルケンを掴んだまま飛ぶのは無理があった。
 天井に、壁に、そこら中に身体をぶつけ、痣が出来た。
「ガハハハハッ! このマヌケ共が!」
 後ろで毒ガエルの嘲笑が聞こえるが、追ってくる気配はない。
 グードは、このまま何事もなく逃げ切れるなどと楽観的には考えてなどいなかったが、ひょっとしたらドルケンの与えた攻撃が毒ガエルに思いのほか大きいダメージを与え、すぐに追いかける気力を失っているのではないか……と推察した。
 その理由もなきにしもあらずではあったものの、実際は毒ガエルに余裕があっただけである。
 グードはそのことを洞窟の出口付近まで逃げた頃になってようやく理解した。
 あと少しだと希望を持ちかけた彼らの前に、モンスターサンショウウオの大軍が待ち構えていた。
 敵の多くを自分の仲間達が倒したと思っていたグード達だが、待ち構えるサンショウオの数はいまだ二十匹を超えており、洞窟の出口を完全に封鎖していた。

 グードはとっさに脇道の岩の影に隠れた。ドルケンが戦えない現在、彼らが相手にできる数ではなかった。
「すま……ねぇ……。グー……ド、おれが……あの時……ううッ!!」
「いい……もう何も言うな」
「ゲホッ……俺が……やつらを……ひきつける…………。その隙に、逃げ……」
「なんだと? そんなこと俺ができるわけがないだろう!」
 グードは物陰から様子を窺いながら、ドルケンの言葉を遮った。

「な、な……ぁ。おれたち、は……ゴホ……くっ……、親……友……だよ……な?」
「ああ、そうだ」
 グードは一瞬だけドルケンの顔を見た。
 ドルケンの顔は紫に変色し、呼吸は苦しそうだ。
「ドルケン、お前は大切な友人だ。だから俺は絶対におまえを見捨てん!」
 翼を畳んだグードは首を捻り、周囲の様子を窺った。
 洞窟の奥から首領の毒ガエルが追いかけてくる気配はない。
「グード……いい、か……おまえが……おれを……死なせたく……ないように……クッ……ゲホッゲホッ……おれも……おまえを……死なせたく……ねぇんだ!」
「ドルケン、あまり喋るな。二人でなんとか脱出しよう。あの娘のためにも……な」
 ドルケンはグードの言葉に頷くと、柱を利用しながらゆっくりと立ち上がった。
 足元がフラついているものの、即座に死に至るほどではないようだ。毒ガエルの毒は、効力が弱いわけではないのだが、即座に命を奪うほどの即効性はないようだ。もしこの状況を逃げ切れれば、ドルケンは助かる可能性が高いように思えた。
「さて、と。ここからどうやって脱出するか、だな」
 ひとまず大事には至らぬとわかり、グードは胸を撫で下ろした。
 だが、安心してもいられない。ここから脱出しない事には、二人共助からないのだ。
 グードは知恵を絞って脱出案を練り始めた。
 幸いなことに相手のモンスタ、サンショウウオは比較的知能も低く、探知能力にも優れていない。彼らが岩の裏側にいることには、まだ気づいていないようである。
 彼らになんらかの刺激を与えて隊列をかき乱せば、脱出の機会も見えてくるかもしれない。

 その様子を横目で見ながら、ドルケンは別の事を考えはじめていた。それは、想い人の事であった。
 頭に浮かぶ想い人の事を想うと、体が熱くなるのを感じた。
 命を落とす程ではないとは言え、ドルケンの身体は毒に蝕まれていた。声はロクに出せず、視界には赤みがさし、腹部は重くゴロゴロと鳴っている。さらに、頭の中をかき回されるような不快さと眩暈があった。
 ドルケンはいまの自分に何ができるか――彼女の役に立つ最善の方法を考えた。
 ドルケンの足はガクガクと震え、立っているのがやっとだった。しかし、その震えは毒の所為だけではなかった。
「グードよ……。後の事……頼むぜ……親友………」
 ドルケンはかすかに微笑むと、柱の影から飛び出した。
「っ!? ドルケン何を……!」
 グードが気づくよりも早く、ドルケンはサンショウウオの前に姿を晒していた。
 ドルケンは唸るようにして力を為、精一杯の声を張り上げた。
「ぉぃ……サンショウウオ……の……大馬鹿野郎共!! おれ……を……捕まえて……みやがれぇぇぇぇ!」
 ドルケンはそう叫ぶと、サンショウウオに見えるように洞窟の奥へと走って逃げ出した。

 グードは、一連の動きがスローモーションのように目に焼き付くのを感じながら、呆然となっていた。
 ドルケンの唐突な行動に思考がついていかなかった。
 ドルケンが何を考え、何をしたのか、それを理解するためには少しの時間が必要だった。
 そう、ドルケンは自分が身代わりとなり、グードを逃がす事を最善の選択だと考えたのだ。
 グードが生きていればきっと仇敵を取ってくれる。
 自分の命をかけた想いを、この親友は決して無駄にしたりはしない。
 そう信じるがゆえの行動だった。
「(この大馬鹿野郎!!!)」
 状況を把握したグードは、心の中で力いっぱい叫んだ。声に出さなかったのは、グードの頭の隅にある冷静さがさせたことだ。
 微塵の疑いもなく、ドルケンは自分が囮になるつもりに間違いはない。
 それがわかってもなお、グードの頭の中は混乱していた。

 ドルケンの友情に応えるべきか、それとも愚かな友人を助けに自分も飛び出すべきか。
 グードはまだ二人で逃げきる事を諦めたわけではない。
 この状況でもどうにかして二人で逃げ切れないかと頭脳をフル回転させた。
 しかし、グードとは裏腹に、毒がまわり弱気になってしまっていたドルケンの心中は、グードの察しが及ぶ所ではなかった。
 彼は残る力の全てを振り絞ってグードを逃がす事だけを考えていた。
 いまさらグードが追いかけたところで、彼の考えをあらためさせる時間はないように思えた。
 ドルケンの姿が小さくなってゆく。グードはそれを呆然と見送るしかなかった。

 グードは自らを責めた。
 敵の事ばかりにかまけて、仲間の心のケアをしなかったこと、先ほどの会話でドルケンが何を考えているか、まったく思い至らなかった迂闊さを恥じ入り、戻らない時を悔やんだ。

「生き残りがいたぞーー!」
 一匹のサンショウウオが声を上げると同時に、入り口を塞いでいたサンショウウオがドルケンを追って、全力で出口から離れて行った。
 サンショウウオ達はわき目もふらず追いかけていく。そうでなければ追いつけないほど、ドルケンは既に洞窟の奥へと消えかかっていた。
 洞窟をゆるがせるほどの地響きを立て、サンショウウオの一団がグードの横を駆け抜けてゆく。

 グードはクチバシを噛み締めながら、その光景を冷たい目で見つめる事しかできなかった。
 冷静な頭脳は、もはやひとつしか選択肢がないと決め付けていた
 本心では親友を助けに行きたかった。
 しかし、二人で助かる道は完全に断たれたように感じた。
 もしも、ここで助けに行けば親友の行為が無駄になる。
 ドルケンの気持ちを考えれば、彼の意思に沿うことが正解だと、冷静な自分がそう教えている。
 しかし、それは自分の願いとは反する行為だった。
 グードの願いは、あくまで二人で無事に脱出する事で、脳の片隅では無駄になると知りながら、まだ策を練っていた。

「くっ……くそ……」
 悔しさとやるせなさがグードを襲った。
 いっその事なにもかもを捨てて、親友を助けに行きたい衝動に駆られる。
 死ぬなら二人で一緒に、最後まで戦って死のう。
 そんな思いも込み上げてきた。
 だが、グードは最後まで冷静を保った。

 複雑な思いを振り切るかのように、グードは出口へ向かって飛び出していった。
 自分が選ぶべき選択肢は、ドルケンの友情に応えること、もはやそれだけしかなかった……。
 出口には三、四匹の山椒魚が待ち構えていた。
 グードは、群がるサンショウウオに鋭いくちばしで一撃を加えると、木の板でふさがれた出口を突き破り、光の中を舞うように飛んで行った。
 朝日が目に飛び込んできた。

 陽光を全身に浴び、巨大な大鳥が空へと舞い上がった。
 爽やかな早朝の風が、薄汚れた翼を心地よく癒してくれる。
 しかし、半身を失ったような虚しさと、やるせない気持ちがグードの胸の中で黒くくすぶっていた。
 そして、数刻後に湧き上がったのは、自分が取った選択への疑念であった。

 それが後悔に変わり、孤独と共に彼の心を縛るようになったのは、もうしばらく後のことだ。
 今はまだ、ドルケンのおかげで自分は助かったという安堵感がグードの気持ちを静めてくれた。
 心地良い朝の風が彼の身体を撫で、鬱屈した洞窟から解放された翼にわずかな安らぎを与えてくれていた。
 グードは陽の光に向かって鳴いた。
 朝に舞う一羽の大鳥は希望へ向かって飛んでいるように見えた。