色彩のブルース (1)
肩と首筋を覆う髪を後ろへまとめ上げて、きっちりと縛る。長い髪を下ろしていれば見えない側頭部は、ぐるりきれいに刈られている。幾人かの学生たちと一緒に住んでいるこの家の、自分の部屋に鍵は掛からない──自分でつけても構わないと、同居人のひとりである家主は言った──けれど、誰かに無断で入られて困るような、守らなければならないプライバシーと言うものも特には思いつかない。ジェロニモはいつものように部屋を出て、すぐに玄関へ向かい、そのまま家を出た。
まだ眠っている同居人たちは、ジェロニモと同じカレッジへ通っていたり、別の大学へ通っていたり、年頃も育ちも似たような彼らは、週末には必ず人を集めて大騒ぎをする。月曜の1時間目に授業を取る愚を犯した上に、どんな授業も絶対にさぼったりしないジェロニモを、"パーティー嫌いで下戸のカタブツ"と笑っても、その口調にはそれほど悪意はない。
彼らが、ジェロニモを無理に仲間に引き入れようとはしないのには、もうひとつ理由がある。とジェロニモは思っている。
バス停までの足を早めながら、すれ違う誰とも目を合わさず、ジェロニモは自分の爪先の少し先だけを眺めていた。
すでに数人並んでいる短い列の最後尾についた途端、バスがやって来た。学生証と一緒に、学生用の定期を見せながら乗り込む時には、いつもきちんと頭の位置を下げる。2mを軽く越える身長は、人の群れから体半分突き出て、バスの天井へ触れるぎりぎりを保つのも骨が折れる。この苦行がせいぜい15分で済むのが、ジェロニモが、あの騒がしい家に住んでいる理由のひとつだ。
ジェロニモは、この街のどこにでもいる平凡な一学生だった。カレッジ入学で初めて親の元を離れ、髪の形や就寝時間にうるさいことを言われなくなり、校内で制服の着方に文句をつけられることもない。片方の肩にだけだらりと下げたカバンの中身は、けれど高校の時よりもずっと重いし、それは本のぶ厚さや冊数だけではなく、開いてこちらへ向かってくる中身の濃密さとも関係があった。
バスは、大学の構内へ入って正面玄関へ着いて止まる。また頭を下げてバスを降り、建物の中へ真っ直ぐ向かう。まだ学生の数はそれほど多くはない。何しろ今日は月曜日で、今は朝の8時を15分ほど回ったばかりだ。
ジェロニモは誰にも視線を投げず、大講義室へ向かって大股に歩き出した。時折、その身長と胸辺りのぶ厚さに、驚きの表情を浮べる学生もいたけれど、ジェロニモは濃い眉をひと筋も動かさず、彼らを視界にすら入れない。
人目を引かずにはいられないその眉の色の濃さと同じに、原始の闇のような、ぴっちりと隙間のない髪の色と艶が、その血の純粋さを表す顔立ちと一緒に、ジェロニモを否応なしに周囲と隔てていた。
自分と似た顔立ちを、この街では滅多と見ない。ここは学生の街だったから、高校すらまともに行くことの少ないジェロニモの兄弟たちには、はなから縁のない場所だ。彼らを見掛けるとすれば、始終飲んだくれて道端のベンチに寝そべっているか、怪しげなやり取りを小声でしながら、薄暗い路地の入り口に立っているかだ。
そうはなりたくないと、そう思ったから、ジェロニモは今ここにいる。大学さえ出れば、もっとましな生き方ができるはずだった。酒には手を着けない。煙草も吸わない。ろくでもない薬の類いは論外だ。学生たちの週末の大騒ぎには、そんなものが付きものだと早々に悟って以来、ジェロニモはそれらの誘いをきっぱりと断るようになった。
つまらないヤツだとか、面白くもない野郎だとか、そんな風に言われるのが耳に突き刺さらないでもなかったけれど、そんなことに現を抜かしている暇があったら、テキストを1段落でも1ページでも読み進めたかったし、入学前に想像したよりずっと頻度の高いあれこれの試験の結果で、できれば教授たちの心証を良くしておきたかった。
読んだ本によれば、女たちが昔、"男と同等に認められるには3倍努力して、3倍良い結果を収める必要があった"と言うのとまったく同様に、ジェロニモたちもまた、"白い人間たちと同等に認められる"には、彼らの数倍、あるいは数十倍の努力が必要だった。
ジェロニモの肌の色と顔立ちが、すでに彼の将来を決定する。生まれた時にスタートラインからはるか後方へ置かれて、ゴールの時点でせめて肩を並べていたいと思うなら一体どれほどあがかなければならないか、それは実際にやってみなければ分からない。
肩に食い込むカバンの重さに、少しだけ気を取られて、危うく講義室のドアを行き過ぎるところだった。
静かにドアを押して中へ入り、もうほぼ満杯の室内の、一番奥の教壇──と言うよりは、芝居のステージと言った方がより分かりやすい──へ向かってなだれ込むように並べられた椅子と小さな机の、そのさらに後ろへ坐る。椅子は座面が小さ過ぎ、細いパイプで繋がっている机との隙間に体が入らないからだ。段差のある床に直に坐っている分には、誰かの視界を塞ぐこともない。
8時半ぴったりに、今日の授業のアウトラインを手に、白い鶴のような痩躯の男がステージに上がって来て、目の前を埋めた学生たちにおはようと挨拶をした。
ジェロニモは、いわゆるインディアン居留地で生まれて、そこで育った。父親はいない。ジェロニモが生まれる前に死んでしまったのだと母親が言うのをまともに信じたことはなかったのに、ある日、
「あれがおまえのじいさんに当たる人だよ。」
と、こっそり示された老人が自分と同じ耳と鼻とあごの形をしているのを見て、確かに自分には父親がいたのだと知った。
他にも、父親違い──そして母親違い──の兄弟姉妹が数え切れないほどいると、母親は何でもないことのように言う。ここでは良くあることだったからだ。その誰もが散り散りばらばらに、母親である女の態度とここでの生活に嫌気が差してどこかへ去り、ジェロニモが物心ついた時には、ジェロニモは母親にとってただひとりの息子になっていた。そんなことも、ジェロニモの周囲では珍しいことではなかった。
母親は、お世辞にもまともとは言えないやり方で、それでも必死にジェロニモを育て、そして自分の手元から離さない──最後の息子までが、自分を見捨てて行ってしまわないよう──ことに腐心した。
彼女は、それをとてもうまくやった。だからジェロニモは、一度たりとも母親を捨てることを考えたことはなかったし、少なくとも自分に名前とミルクを与えてくれたこの女に、時折憎しみぎりぎりの感情を抱きながらも、同じ深さで間違いなく彼女を愛していた。
仕方のないことだ。人は時々、生きるために泥をかぶらなければならないこともある。かぶるどころか、泥の海に浸って、泥を肺に詰め込む呼吸すらしなければならないこともある。それでも溺れないように、必死に手足だけは動かし続けて、頭は常に泥水の上に出ているように、たとえ肺に入って来るのが今は泥水だけだとしても、明日には澄んだ空気を吸えるかもしれないから。
母親たちは、泥水の中で生き続けることを唯々諾々と受け入れた。澄んだ空気の存在を忘れた振りをして──はかない希望は、絶望よりもたちが悪い──、泥の詰まった肺で喘いでいた。ジェロニモはそう在り続けることを拒んで、澄んだ空気を求めて、自分の育った土地を出ることに決めた。
高校をきちんと卒業して大学へ行くと言うのは、そのためには最適な口実だった。もっとも、そのことを快く思わない人間のひとりが、ジェロニモ自身の母親だったけれど。
金の心配はなかった。政府の保護がある。けれど、その保護も居留地を出た途端にあれこれと制約が増えて、とにかくも学費だけは──残念ながら、奨学金をもらえるほど非凡な成績ではなかったから──何とか卒業までは払えると言う保証を得て、足りない分は自力で何とかするしかなかった。
母親は、ジェロニモのこの決心に、それまでの長患いを余計にこじらせて、まるでそうやって気弱になることでジェロニモの心を挫こうとするように、
「ここを出たらあたしは死んでしまう。」
彼女の予感は正しく、ジェロニモのカレッジ入学とほとんど同時に、彼女は痛みの緩和だけを目的にした病院へ入り──これは幸いに、政府が助けてくれた──、今はもうジェロニモの訪れだけを楽しみにしながら、最期の日がいつやって来るのかと、考えるのはそれだけだ。
ろくに手当てもされなかった数多い出産、身を守る術を知らずに伝染(うつ)された様々な病気、苦痛から逃れるための大量の酒、痛めつけられた彼女の体はすでに満身創痍で、困難と苦痛と言うしわを全身に刻んだ彼女は、ジェロニモの母親と言うよりは曾祖母のようにすら見える。
できるだけ毎日、自分の傍らへ大きな体を丸めるように運んで来る息子へ、彼女は枯れ木のように痩せ細った腕を伸ばし、その頬へ触れる。自分そっくりな肌色と、少女だった自分のそれと同じ手触りの皮膚に触れて、そうして、ジェロニモの、今では死んでしまった父親そっくりの顔を眺めて、鎮痛剤で漂うような意識の中に錯覚が入り込んで来るのを、むしろ歓迎するように、今よりは健やかだった自分が間違いなく愛して愛された──はずの──男が、ここにいるのだと思い込む。
そのためにつけた父親と同じ名前を、息子を呼んでいる振りで口にする。男そっくりの唇が、自分の名を同じようには呼び返してはくれないことだけは残念に思うけれど、それでも良く似た声が、自分に何かささやき掛けて来るのに、彼女は言葉の意味は理解せずに、ただ耳を傾けた。
大学へ行き始めて以来、ジェロニモは、外向きにはジュニアと名乗るようになっていた。ジェロニモと言う、いかにもそれらしい名前を恥じたわけではなく、その響きを耳にした時に彼らが目元や唇の端に浮べる、憐憫のような同情のような、あるいはもっと分かりやすく侮蔑らしい、そんな表情を目にするのが愉快ではなかっただけだ。
彼らは、ジェロニモの生い立ちに興味はなかったし、ジェロニモたちがこの国の寄生虫で厄介者だと言う思い込み──完全に否定することも、またできない──を変えるつもりもなく、ジェロニモが見た目通りの存在だと知ると、一体どんなずるい手を使ってこんなところへやって来たのかと下卑た想像力と好奇心だけを思う存分働かせる。
それなら別にそれでいい。一生の友人を作りに大学へ入ったわけではない。きちんと人並みの"人間"だと証明するために、それに見合う成績を取るためにここへ来ただけだと、ジェロニモはただ黙々と勉強している。
楽しいと言うことではなかったけれど、本を読み、読んだ内容を理解し、その中でひとつでも興味を引くものを見つけるのは、それを続けられる程度に面白くはあった。試験や小論文は、手を抜こうと思えばいくらでもそうできたし、逆にとことん突き詰めて行こうとすればまたきりもなかった。その、きりのない方へ自分を追いやって、ジェロニモは自分を、ただの平凡な一学生として、大学の中へ埋没させている。
どこへ行こうと、隠すことのできない赤銅色の肌と大きな体は、そうしてやっと、ただジュニアと名乗る学生になる。ただの学生で在ること、それがジェロニモの望みだった。
講義が終わり、他の学生たちがぞろぞろと外へ出てゆくのを、ジェロニモはゆっくりとノートやテキストを片づけながら待つ。彼らの大半が姿を消したのを見計らってゆっくりと床から立ち上がり、引き上げたカバンを肩にだらりと乗せて、すぐ後ろのドアへ向かった。
手前に引こうと手を掛けた扉が、勝手に自分の方へ押されて来るのに慌てて体を引き、
「あ、ごめんなさい!」
ドアの影から、小さな白い輪郭が甲高い声を立てた。
思った位置に顔がないのを訝しげに、さまよう視線がやっと頭上にジェロニモをとらえて、彼女は一瞬大きく目を見開いてから、薄暗がりに溶け込んでいたジェロニモの目の前を小走りに、慌てたように講義室の中へ駆け込んでゆく。
ふわりと揺れた髪から、甘い匂いが流れて来た。それに、決して愉快そうではない表情に目を細めて、ジェロニモはやっと明るい外へ出る。
講義前よりもずっと人の増えている四方へ伸びる廊下を、カフェテリアを目指して歩き出しながら、ジェロニモはまだ自分の胸の辺りへまといついているさっきの香料の匂いを、振り落とすように軽く肩を揺すった。
ジェロニモの眉をひそめさせるのは、もっと濃い、深い匂いだ。自覚のない自分の稚(わか)さを思い知らして来る、もっと年上の女の匂い。
優しいのね、と深い声が言う。濡れたように見える紅い唇が動く。
彼女は、ジェロニモが今いる部屋の、前の住人の母親だった。
ジェロニモがこの街へやって来た日に、彼はまだその部屋を空にしておらず、母親だと言う彼女はつやつや光るステーションワゴンの後ろへ、大袈裟に息を切らしながら小さな箱を詰め込んでいる最中だった。
物置になっている、その家の地下にもまだ荷物があると言うので、ジェロニモは自分の荷物をひとまず置いて、彼らへ手を貸した。
休まず動く間、彼女が何となく自分に目を凝らしていたのを、単なる物珍しさだろうと思いながら目の端に引っ掛けていただけだ。息子の方は屈託なく、ジェロニモの助けをありがたがりながら始終あれこれと話し掛けて来て、おかげでジェロニモは、彼がここから3つ4つ街を隔てた先へ仕事のために移り、3つ違いの弟がいて、父親は仕事狂いだと言うことを、最後に残った椅子を車の屋根に何とか載せるまでにすべて知る羽目になった。
どうもありがとう。耳に絡みつくような言い方で礼を言う母親の小さな手は、彼らの車と同じくらいきれいに爪が磨かれ、そして水仕事すらしたことがないようにひどく柔らかかった。握手のほどける瞬間に、完璧に尖らせて、なのに傷つけないように磨いてあるその爪の先が、ジェロニモの掌の中を引っかいてゆく。同時に、女の上目の視線が、何か合図でもするようにすっと細められたのを、ジェロニモはその時ただ怪訝に思っただけだった。
あの子の忘れ物を取りに来たの。玄関にすらりと立って、彼女が言う。クローゼットの棚に、大事な本を置き忘れたんですって。
引っ越しの日よりも化粧も爪の色も控え目だったけれど、鼻先をかすめる香水の匂いはずっと強かった。
勝手に探してくれと自分の部屋へ招き入れ、クローゼットの扉を開けると、その扉の陰で、棚の上を眺めるために背伸びをして、女はジェロニモへ体を寄せて来る。棚からジェロニモへ視線が移った時には、女の両手はジェロニモの首に掛かっていた。
黙って女を見下ろしていると、
「振り払わないの?」
からかうように女が訊く。あの男の姉と言うには少し無理はあっても、母親と言われればずいぶん若いと思う、間違いなく金と時間を掛けて手入れをされている女の、白い顔と、明るく染めた長い髪を眺めて、病院で痛みに溺れながら死に掛けている、自分の母親のことを思い出していた。
「下手にすると、怪我をさせる。」
低くした声の根が、けれど震えていた。女が、それを聞き取らないはずがなかった。
「・・・優しいのね。」
まるで、無知な男へ、ここが唇なのだと知らせるような鮮やかなピンクに塗られた唇が、あからさまに誘っているのだと隠しもせずに、ゆっくりと動く。
手の位置がずれ、肩と胸を撫でてから、女の体がもっと近寄って来て、そしてジェロニモへ向かって、さらに伸び上がって来る。
「もっと優しくしてくれても、いいのよ?」
母親の声ではなかった。子どもを諭すような、あやすような、ただひたすらに優しい、"ただの"女の声だった。
唇にたっぷりと乗せられた口紅の感触、濡れたようにこちらへ触れて来るのに、外れた後には跡は残さない。
女の柔らかな体を抱き返さないために、ジェロニモは必死で拳を握り締めていた。
「帰るのは明日の夕方なの。だから──」
「今夜は仕事がある。」
まだ自分にまとわりついている女の体を振り払えずに、それでも言葉だけはきっぱりと言い捨てると、女は落ち着いた笑顔のまま、
「──こっちの方が、割のいい仕事かもしれないわよ。」
意味ありげにひそめた声に、明らかにジェロニモが動揺したのを見て取って、するりとジェロニモのぶ厚い腰を抱くように腕を滑らせながら、すでに用意していたらしい、今日の居場所のメモをジェロニモの掌に握らせて、女はジェロニモの──そして、彼女の息子がほんの2週間前まで住んでいた──部屋を空手で去っていた。
操り人形のように訪れたホテルの部屋での馴れ切った態度で、こんなことが女にとっては初めてではないのだと言うことは容易に知れた。
何をする必要もなかった。彼女が全部やった。道具のように使われているのだと思い至れるような経験もないジェロニモに、暇つぶしのお遊びに付き合って美味しい思いをしたと悪ぶれるはずもなく、日陰のないアスファルトの道を歩き続ける間に、突然雨に降られて、ずぶ濡れになって寒い思いをする羽目にでもなったように、何かもやもやと言いようのないものが胸の底に残る。
終わった後で手渡された数枚の紙幣と電話番号の記された紙片で、ようやくこれが、ただ女と寝たと言うだけのことではなかったのだと悟って、数えることもしなかった紙幣の数が、後味をいっそう悪くするのに、女の次の誘いを拒む神経を麻痺させてゆく。
実はまだ見つかってもいない、勉強の合間にできる仕事で得られるはずの金額を、女は正確に知っていた。女から手渡される金は、それをはるかに上回っていた。
だからジェロニモは、口をつぐむことにした。
わたしのお友達に、あなたのことを言ってもいいかしら。
3度目の時にそう訊かれて、ジェロニモはいやだと言わなかった。言えなかった。
あなたが友達になりたいと思ったら、そうしてくれればいいの。嫌なら断ってくれればいいわ。
むやみに断ったりはしないと踏んでか、女が思いやり深げに言う。
女はそれから、適当な間を置いて、自分の"友人"とやらを送り込んで来るようになった。
ジェロニモの、ほとんど恐ろしげな無愛想さにも関わらず、まずは好奇心が勝つのかどうか、ジェロニモが自分たちの日常とかけ離れていればいるほど、彼女らはそれを無邪気に無責任に愉しめるようだった。 けれど2度目と言って態度を変えるわけではなく、3度目でも一向に打ち解けないジェロニモに、どの女たちも大抵は気分を害して、それきりになることが大半だった。
無表情で媚びることをしないジェロニモと、長々と付き合いたいと思う女の友達とやらの数は知れていたけれど、それでも物珍しさに引かれてか、女は適当な間を置いて新しい"友人"を送り込んで来る。
女も、そうやって仲介の手数料のようなものを取っているのだとようやく気づいた頃には、正しく彼女が売春の元締めであり、自分がその手駒のひとつだと理解しても、月に2、3度の、勉強の妨げにもならずに居留地の外での暮らしの不安をやわらげてくれるその"仕事"は、もう手放せないものになってしまっていた。
退屈して暇を持て余している誰彼に付き合ってやっているだけのことだと、素っ気なくジェロニモは考える。
どうせ、決して打ち解けないジェロニモに女の友人たちはすぐに飽きるのだし、そんな自分と寝たがる女の数はすぐに尽きるだろうとも思っていた。そしてその予想は確かに当たり、そこから考えもしない方向へ進んでゆくことは、さすがにジェロニモも考えつきはしなかった。
女の、最初の男の知人は、物を書くのだと言った。
ちょっと変わってていいんじゃない?
女が、あのまといつくような声で言う。
相手が男だと言われてちょっと言葉を途切れさせたジェロニモに向かって、そそるように言って、そんなに深く考えることはないのよと、まるでシャツの色でも選びかねているように言う。
いやなことはいやだって言えばいいの。いやなら2度はないんだから。
それに、と間を置いて、相手が男の時は、女の時よりもちょっと色をつけるからと、奇妙に下品な調子で付け加えられて、その下品さが逆にジェロニモの決心を促す形になった。
きれいごとのつもりはないし、胸を張れることでもないと分かっている。それなら、今まで飲み込んだ泥と一緒に、新たな泥を飲み込むだけだとも思った。肺の半分を満たした泥の量が少し増えたからって、一体どんな違いがある?
溜まった泥なら後で吐けばいい。女の言う通り、いやならいやと、その場で言えば済むことだった。
分かったとジェロニモが答えると、女はうれしそうにはしゃいだ声を上げて、その男からの連絡を待ってくれと言って電話を切った。
ちょっとおどおどと、人の目を見ない男はその態度通り見掛けも貧相で、女の時以上に、うっかり怪我をさせたりしないように気を使いながら、不愉快と嫌悪は何とか仏頂面の下に隠して、自己嫌悪に陥らないのがジェロニモにとっては精一杯の時間だった。
一体男はその時間を、払った金に見合うだけ愉しんだのかどうか、互いにろくに反応もなく、後で女が言うのは、ジェロニモのような男の前では、あの手の男は自信を失くしてしまうだけなのだと、そんな風な説明で、ようするに男は満足しなかったのだとそれを聞いてほっとしたのも束の間、女はまた別の男を送り込んで来る。
ほんとうかどうか、大学の教授だと言う次の男は、言葉遣いも態度も上品で、ジェロニモの方がちょっと気後れしたほどだった。
体格は普通、けれどきれいに整えられた髪は真っ白だったし、自分の母親よりも歳上と分かる男の体は脂肪も筋肉も失せていて、それでもどこまでも柔らかいだけの皮膚が、なぜか指先に奇妙に心地好いのが不思議だった。
慣れかどうか、最初の男ほどの嫌悪は湧かず、幸いに振り払いたくなるほど嫌だと思うことはされず、求められることもなく、1度目はただ寄り添うだけで終わった。2度目は、もう思うようにはならない自分の体の下で、ジェロニモが求める通りに応えるのだけを愉しみに、男はただジェロニモに触れ続けるだけだった。
顔も名乗られた名前も覚える気もない女たちと寝る合間に、その男がやって来るようになった。初老の男はただジェロニモに触れ、それだけで金の支払いを渋ることは一度もなく、2、3度でこちらに飽きる女たちとは違って、間を置いて繰り返しやって来る。
それが女の手だったのかどうか、ジェロニモが初老の男の相手に慣れたと見ると、次第に女の数よりも男の数の方がわずかに上回るようになり、否と言えば絶対にそれ以上は押さない女は、ジェロニモの許容範囲を巧みに読んで、目をつぶれば何とかなる相手を的確に送り込んで来る。
どの男たちも見掛けはごく平凡な、何よりもジェロニモの不慣れと若さを喜ぶ相手ばかりで、どれだけ数を重ねても生硬なままのジェロニモの振る舞い──女たちには、いずれ受けが悪くなる──が、彼らの未熟さを追及させないからだとは知らないジェロニモだった。
男たちは、時々控え目にジェロニモの外見を誉めた。勉強の合間に、この仕事のためと言うわけではなかったけれど、大学のジムへ通って増やした筋肉や、雲つくほどの背の高さや、膚の色やそのなめらかさや、彼らとは少し違う骨の造りや、そんなものを、彼らはジェロニモに触れながら賞賛する。ジェロニモは滅多とそれには返事をせず、女たちならもっと直裁に表現するそれらのことを、彼らが言葉を尽くせば尽くすほど、ただの世辞かおためごかしだと聞き流していた。
結局のところ、彼らが魅かれているらしいのは、自分たちとは異なるもの、自分たちとは掛け離れたもの、自分たちではないもの、つまりは、分かりやすく何か人間の姿をしていてけれどそうではないものと言うことだと、ジェロニモは理解していた。
ただの好奇心。普通よりも少しばかり薄汚れたそれ。珍しい動物を構うような気持ちで、彼らはジェロニモに触れ、その対価を払う。受け取ったそれでジェロニモはこの世界に自分の居場所を作り、そこで何とか生きようとしている。
自分が、この世界に割り込んだ邪魔者──物──なのだと言う自覚はあった。本来ならあるはずのないこの居場所で、大きな体をできるだけ縮めて、見えないようにと祈りながら、ここへ居続けられることを望んでいる。それを、大層な望みだと、母親や兄弟たちは言った。大層なら大層でいい。願って夢を見るのは勝手だ。そのくらいの自由は許されてもいいだろう。たとえその自由を手に入れるために、自分の体を切り売りする羽目になったとしても、最後に自分の足でその場に立てるなら、ジェロニモにとってはそれが自分で勝ち取った自由のあかしになる。
同じように体を切り売りして生きた母親が、今はぼろくずのようになって死に掛けている、あんな風にだけはなりたくなかった。していることは同じだ。けれど違う結果にたどり着ければ、それは母親──たち──と同じ道を歩んだことにはならない。泥水をすするのではなく、きれいな空気で呼吸をするために、今泥水へ、頭まで浸かっていても、そこから這い上がって後で洗い流せるならいい。洗い流して開いた目で見上げる空が、澄んだ色で高くあるなら、それでいい。
そうなるまでの辛抱だと思った。今だけだ。こんなことは今だけだ。自分を、何か人間以下のものだと思っている連中に、自分を好きにさせるのは、今だけのことだ。
ほんとに? そうかしら? 女の笑い声が聞こえた。例の初老の男が、またジェロニモに会いたいと言っていると連絡をして来て、電話の切れる瞬間に、女がそう言ったように聞こえた。もちろん、ジェロニモの錯覚だった。