色彩のブルース (2)
男はいつも同じホテルにジェロニモを呼び寄せ、バーで落ち合ってから部屋へ向かう。部屋に直接呼べばいいものをと思うけれど、どうやらバーですでに飲んでいる自分を見せて、そのせいで体が思うようにはならないのだとしておきたいらしく、まだ若いジェロニモには、初老の男のそんな矜持がよくは理解できない。「試験は、うまく行ったのかね。」
服を脱いでいるジェロニモに、男がのどかに声を掛ける。彼はまだ、上着を脱いでネクタイを外しただけの格好だ。
「──何とか。」
無表情に短く答えてから、ジェロニモは男のシャツの襟へそっと手を掛けた。
ジェロニモが大学生であることは、女がさらりと説明してあるらしい。そのことが売り文句なのだろう。先々週に会いたいと言われたのを断ったのが、中間試験が理由だったから、男はどうやら結果を一応は気に掛けていたようだ。
ジェロニモは、学生であることは否定はしなくても、どこの大学であるとか何を専攻しているとか、そんなことは一切誰にも喋らなかった。身分証の類いは、"仕事"の時には絶対に持ち歩くなと女に言われている。ここでもジュニアと名乗っているジェロニモの本名を彼らは知らず、時折、帰りを車で送ろうと言われても、ジェロニモはきっぱりとそれを断ることにしていた。
終わった後で、最終バスの時間を気にしながらホテルの部屋を出て行くジェロニモを、いかにも初心だと喜んだ女もいたし、ほんとうに学生なのねと驚いたように言った女もいた。不慣れらしく見せる演技でも何でもなく、早く彼女らの傍を離れて、自分の現実へ戻りたいだけ──深夜の市バスの中は、自分がほんとうに誰であるかと思い知るのにちょうどいい──のジェロニモには、彼ら彼女らの感じ方考え方はひどく滑稽に思える。
自分はただの学生で、まだ車の免許すら持たず、その予定もない。学費と生活費の心配をしながら、成績を下げないためにいつだって汲々としている。それだけのことだ。そう、平たい声で言ってやったら、目の前の女や男はどんな顔をするだろうかと、そよぎもしない胸の内で考えることもあった。
男のシャツの前を開き、そうされる間に、男の柔らかな薄い手がジェロニモに触れ始める。ジェロニモの腕を撫で、腹の辺りへ滑り、自分の肩からシャツが滑り落ちる番になると、男はするりとジェロニモの腕を抜けて、部屋の隅へ行って明かりを消す。男が服を脱ぐのは、すっかり暗くなってからだ。
下着だけのジェロニモをすっかり裸にするのは男の手で、男の残りは、暗闇の中で、シーツの陰で男自身がすべて脱ぎ捨てる。
触れ合う以上のことはない。男は、遠慮深げに、肉の落ちた唇で時々ジェロニモに触れて、奇妙にいとおしげなやり方で、ジェロニモの、薄くは見えてもふっくらと盛り上がっている唇を、乾いた指の腹で撫でる。
歳を取った男の体は、ただ皮膚が柔らかく波打ち、それに全身をこすられるたび、ジェロニモは不思議な気分になった。実際の年齢に、女たちが必死で抵抗しようとするのとは逆に、この男は何もかもあるまま、決して諦めたとか投げやりになっていると言うわけでもなさそうに、それでもジェロニモの張り切った膚に触れて、若さと言う手触りを愉しんでいる──そして、いとおしんでもいる──のは確かな気がした。
ジェロニモと抱き合いながら、男はジェロニモの若さを過剰に賞賛することもなく、自分の老いを卑下して見せるわけでもなく、以前自分も確かに持っていたもの、そして手に入れられただろうものを、ただ懐かしんでいるように見える。
男は確かに、見ても触れても、見目麗しいとは言い難い自身の裸体を明るい灯の下に晒すことは拒んで、けれど誰もいずれこんな風に若さを失うのだから、若さを過信してはいけないと、何となくジェロニモへ伝えているような、そんな空気があった。
男は多分、こんな風に金を払って若い男──それとも女──と寝るのはジェロニモが初めてではないのだろうし、そうして出会った幾人かは、この初老の男をそんな風に危惧させたのだろう。若さが永遠に続くものと誤解して、自分の価値を見誤る。どんどん目張りしてゆく自分の価値に気づかず、求める対価に見合わなくなった時、彼ら彼女らは誰にも求められなくなって、愕然とする。
自分はそんな轍は踏まない。
男の骨張った腕を自分の下に敷き込まないように気をつけながら、ジェロニモは体の向きを変えて、男を横向きに抱いた。
そもそも、そんな風な価値があるとも思ってない自分が、そんな思考に陥るはずもないし、若さが永遠に続かないのは、あんな風に死に掛けている母親を見て思い知っている。今男の背中を抱いて、その、少し指を押し当てればもろい骨の当たる、やわやわと頼りない体を抱いていれば、いやでもそんなことは自覚せずにはいられない。
今だけだ。またジェロニモは思った。何の感情もない相手に自分を触れさせるのも、自分が触れるのも、その代わりに受け取った金で、何の不安もなく大学さえ卒業できれば、こんなこととはすっぱりおさらばだ。
男の体が、ジェロニモの上をゆっくりと滑り落ちてゆく。つるりと頼りない指先がそっとそれに触れ、その後で、唾液できちんと湿した唇が、張りつめた敏感な皮膚へ押し当てられた。ジェロニモは喉を反らし、自分を扱う男を見ないようにして、天井へ視線を据える。次第に追い詰められてゆくのに、ふと終わったばかりの試験の結果を考えて、頭の後ろが一瞬で白けてゆく。
男の肉のない薄い唇が、似合わない猥雑な音をそこで立てた。
「知り合いが、その、君と会ってみたいと言っていてね。」
男が控え目に声を掛けて来る。もう服を着け終わる途中で、男は改めてベッドの端へ浅く腰を下ろして、上着に腕を通しているジェロニモの岩のような背中を眺めていた。
ジェロニモは男へ振り返り、何か忘れているものはないかとさり気なく上着の胸や腰の辺りへ触れ、ベッドの周囲へ素早く視線を走らせる。ジェロニモのその仕草を見て、男は立ち上がってジェロニモの傍へやって来る。
「もちろん、君が気が向けばだが。」
向き合えば、男の顔はやっとジェロニモの胸に届くか届かないかだ。ジェロニモは、まだ薄暗いままの部屋の中で、今は終わった後で少し油断している、水色のシャツの前を開いたまま──真っ白なアンダーシャツが、男を余計に老けてさせて見せる──ぼんやり自分を見上げる男の胸元へ、黙ったまま手を伸ばした。
「身元が確かなら、別に何でも。」
相変わらず素っ気なく言いながら、ジェロニモの指先は、男のシャツのボタンを丁寧に留め始めている。
男はちょっと胸を反らして喉を伸ばし、ジェロニモの手を助けるようにして、そうやって優しくされるのに満更でもないように、なめらかに動くジェロニモの指先を下目に眺めている。
「音楽をやっている男で──今は作曲の方だが、まあ、悪い男ではないよ。私と違って若いし、見た目も悪くはない。」
男が言うのを聞いて、ジェロニモはちょっとおやと思った。若くて見た目もそれなりなら、わざわざ金を払って相手をさせることもないだろうに。
その疑問を、ジェロニモはその場では口にはせず、男も、ジェロニモの怪訝の表情を読み取ったらしいのに、ちょっと微笑んだだけで何も言わない。
襟元のいちばん小さなボタンをやっと留めて、ジェロニモは男から手を離した。
「またじきに、試験で忙しくなるんだろうな。」
確かめると言う風でもなく、ひとり言めいて男がつぶやいた。わざとうなずかないことで肯定を示すと、
「君がうちの学生なら、多少の便宜も計ってやれるかもしれないんだが。」
男が、心底申し訳なさそうにそう付け加えたのに、ジェロニモは少しだけ眉を上げて見せる。
ありがたい申し出だ。そしてありがた迷惑でもある。それでも、不愉快な気分にならなかったのは、多少はこの男に対して、好意じみた気持ちを抱いているからだと、ジェロニモはその時初めて気づいた。。
3度以上ジェロニモと会おうとする人間が皆無な中で、この男はすでに常連と言えたし、それを物好きだと思う以上に、この男が見せるどこか父親めいた態度に、ジェロニモはひそかに男を信頼し始めているのかもしれない。
だから仲介役の女を間に置かずに、男の知人とやらに会うことを承諾したのか。自分の心の動きに、わずかに胸の片隅を騒がせながら、男に手渡された、連絡先を記した紙片を丁寧にジーンズのポケットの中に入れて、ジェロニモはホテルの部屋を後にした。
大学の構内にはいくつかカフェテリアがあって、まるで高校の頃のような、ただ椅子とテーブルが並んでいるだけの質素な場所もあれば、別のカフェテリアはどこのレストランかと思うような内装だったり、ジェロニモが気に入っているのは、図書館の近くの、軽食ばかりを数種類まとめて並べてある場所だった。
ここのテーブルは全部丸い。やや丸みを帯びた座面の、指先でつまみ上げられそうに軽い椅子へできるだけそっと腰を下ろし、リュックの中から取り出したノートとぶ厚いテキストをテーブルに乗せ、壁同士の出会う隅のその席で、壁に向かう形──周囲に背を向けて──で、ジェロニモは開いたテキストへ顔を落とした。
取ったノートと見比べながら、余白に書き込みを増やして行く。事前に読んで理解したと思ったことを、講義で頭の中で組み立て直し、書き取った後で、もう一度テキストの中身と照らし合わせて確認する。こうやって直したノートは、もう一度きれいにまとめ直す。手間は掛かるけれど、後で慌てないためにはいちばん良かった。
講義の合間の休憩や講義の後に、クラスで親しい誰かをつかまえて、分からなかったところをお互い尋ね合うと言う手もあるにはある。講義の後に長い列で待つ気があれば、教授へ直接質問へ行くこともできた。これと言って親しい友人もいないジェロニモは、そうすることはできずにひとりで疑問を解決するしかなかったし、教授へは、よほど必要がない限り話し掛けることはない。ここよりさらに大きな大学からやって来たと言う、ある教授へ質問へ行った時、きちんと訊きたいことをメモにまとめて行ったにも関わらず、
「すまないが、君の言ってることはひと言も分からない。」
と言われて、それ以来、忙しい彼らを煩わす気にならないと言う言い訳で、この大学で、講義以外では教授と呼ばれる人種に関わる気が失せてしまった。
幸いに、今取っているクラスの、学生たちを20人程度に分けた学習グループの方で助手をしている院生が親切で、どうしても自力では解決できない疑問点は、彼に質問することができた。
いかにも相手をしている時間がないと言う風にこちらをあしらって来る教授たちよりは、助手の彼の方が、ゆっくり時間を割いて付き合ってくれる。彼も、ジェロニモの言葉遣いに時々戸惑いは感じるようだけれど、それをジェロニモだけのせいにした態度を取らないところが、ジェロニモには気が楽だった。
居留地に閉じこもって暮らす間に、自分たちの間でだけ通じる言葉遣いや表現があるとすら自覚がないまま、こうして生まれた土地から離れて外へ出て初めて、ジェロニモは、時々自分の物言いがうまく伝わらないことに気づき、そのたび相手が、何とも言えない表情を浮かべることにも、同時に気づいていた。
おれたちとは違うんだから、仕方がない。その表情は、そんな風に言っているように見えて、違うと言うことはつまり、正しいのは彼らで、間違っているのがジェロニモの方で、だから彼らはジェロニモの間違いを許して受け入れ、ジェロニモはできるだけ素早く、その間違いを正した方がいいと、ジェロニモが聞き取ったのはそんなことだった。
同じ言葉を使っているはずなのに、だから伝え合うのに問題などあるはずがないのに、現実には、彼らには彼らの言葉遣いがあり、ジェロニモにはジェロニモの言葉遣いがある。それは共に在ることは可能ではあっても、どちらか一方が優先されるべきとなれば、ジェロニモの持つすべては、大抵の場合存在すら忘れられることになる。ここにいるのに、存在しないことになる。驚くほど目立つジェロニモの外見にも関わらず、ジェロニモは、ないも同然の存在だった。だからこそせめて、ごく普通の、ただの学生でありたかった。
ノートの余白へペンを走らせながら、試験の平均点をもう少し上げなければと、助手の彼に質問することについて書き止めたそれへ下線を引く。つい力が入り過ぎて、ペンの先でノートの紙が裂けそうになった。手首を曲げて、ペンの先を持ち上げた時、リュックの中で電子音が鳴った。
椅子の下へ放り込んでおいたリュックを、左手で引きずり出し、外側のポケットを開いて携帯を取り出す。メッセージが来たと知らせるその音をボタンを押して止めて、ジェロニモはメッセージの中身を開いた。
金曜の夜の9時に、と短く示して、ホテルの名前と住所が後に続いている。ジェロニモはペンを置き、親指で、小さなキーを押して、OKと短く返事をした。
携帯をポケットに戻し、リュックをまた椅子の下へ押し込む。何もなかったようにペンを取り上げ、また無表情にノートへ向き直る。
例の、初老の男の知り合いとやらだ。一度だけ電話で直接話をした。お互いに、気に入らなければどの時点ででも約束は反故にできると確認して、後は平坦に金額と、ジェロニモができることとしないことをはっきりと伝えて、それでもいいなら後は携帯に連絡を残してくれと言って終わった。
この、色っぽさのかけらもない極めて事務的な短いやり取りの間に、心のどこかで、彼が断ってはくれないかと期待していたのだと、ノートへ視線を戻してから気づく。
あの女なら、きっともっとそそるように話をして、相手をずっと巧くその気にさせるのだろう。その、否応なしに高められた期待を、悉く裏切るジェロニモに、あの初老の男以外に馴染みの客がいないと言うのも当然の話だ。
さて、あの男の知人とやらは一体どんな人物だろうか。一体、ジェロニモのことを、あの男はどんな風に語ったのか。
ノートの上でペンが動きを止め、そのペンの先を凝視して、けれどジェロニモの想像はどこにも辿り着かない。誰か他人の語る自分など、像すら結ばなかった。
ましてや、金をもらって寝るために会っている相手が、自分のことをどんな風に思っているかなど、嫌われてはいないのだろう程度のことしか考えつかない。
まあ、いい。再びペンが動き出す。金曜の夜の9時にと、頭の中で忘れないように反芻だけして、ジェロニモはまたノートへ意識を振り向けた。
指定されたホテルは、初老の男が使う場所より3、4ブロック先の、表通りから少し引っ込んだ場所へあった。
ひっそりとした構えの割りに、中へ入ると地味ではあったけれど落ち着いていて、ジェロニモにも金の掛かった内装だと分かるホテルだった。
いかにも学生の風体のジェロニモ──そして雲つくような大男──に、ホテルの人間は眉ひとつ動かさず、入り口から入って真っ直ぐ正面のエレベーターへ向かう間も、自分へまといつく好奇心の視線を感じることはなかった。
訳ありの人間たち用の場所だからなのか、それともほんとうに育ちの良い人間たちが集まる場所だからなのか、音も振動もなく上がってゆくエレベーターの、金属の匂いしかしない狭い箱の中で、ジェロニモは意味もなく天井を見上げる。
決して大きなホテルではない。最上階へはあっと言う間に着いて、静かな廊下へ出てから、やけに数の少ないドアを右か左かと一瞬迷いながら追って、目指す部屋は廊下の端を一度曲がった奥へあった。
足音を吸い込む絨毯の濃い青が淡く照明に照らされる廊下で、4つ数えてノックする間に、滑るような足音が素早く近づいて来て、ドアを開けた。
一瞬、白いドアの隙間から見えるその男の姿が、ドアの続きのように見えて、なぜ部屋の中が見えないのかとジェロニモは思わず目を細める。男の、銀色としか例えようのない髪の色と、同じくらい淡い瞳の色と、そして何より白い膚が、ざっくり無造作に着ている白いシャツと何もかもひと続きに見えて、それが自分をここに呼んだ男の姿だと気づくのに、ふた呼吸分掛かる。
ジェロニモは気づかず息を止めて男を見つめて、男はそんな風に凝視されて、ちょっと困ったようにそれもまた色の淡い眉をかすかに上げ下げした。
ジェロニモが男の容姿に驚いたようには、男はジェロニモの外見に驚きは見せず、まるですでに知人のような所作で、ジェロニモが何者かと尋ねることもせずにそのままドアを大きく開いた。
やあ、と言う気さくで短い挨拶だけを交わし、ジェロニモは招き入れられた部屋の中へ静かに入って──ここもまた、足音を気にする気遣いも必要なかった──、後を追って来る白い男へ肩越しに振り返る。
「坐ってくれ。コーヒーでいいかな。」
示された壁際には3人掛けのソファがあり、向かい合わせにひとり掛けの揃いの椅子が置いてある。ソファの背中沿いの壁の終わりの途切れ方から向こう側に別の部屋があることが知れ、ここはただひと晩寝るだけの部屋ではなく、人を招ぶため、或いは快適に長期滞在するための部屋だと分かる。
ソファよりはドアの近くに、目立たないようにしつられられたカウンターには、酒やコーヒーの準備が出来る用意がしてあり、男はそこへ向かう形で今はジェロニモに背を向け、ジェロニモはソファの丈夫さを心配しながら、男の背中へ視線を据えたまま、やっとそこへ隅へ腰を下した。
柔らか過ぎもしない、硬過ぎもしない、ジェロニモの尋常でない大きさと重さをしっかりと支えて、そう言えばここのドアは、ほとんど頭を下げる必要もなかったとたった今気づいて、振り返る男から視線を外しながら、さり気なくそのドアの方を見る。
「クリームか砂糖は?」
カップを片手に男が訊くのに、ジェロニモはただ頭を振って応え、男が親しげな態度は崩さずに、けれど腕の長さ以上の距離をまだ保っているのに、内心でちょっとだけひとり納得したような気分でいた。
男は自分のカップを手に、ジェロニモとは逆の端で、ソファに腰を下ろした。
こんな風に会って、酒ではなくコーヒーを勧められるのは珍しい。酒なら断ることにしている──そしてもちろんそれは客の興を殺ぐ──ジェロニモにはこの方が気楽だけれど、見た目同様に、意外と変わった男だとジェロニモは、男の方は相変わらず見ないまま思う。
白い男は、やや斜めにソファにくつろいだ様子で坐り、肘掛けに半分背中を預ける形でジェロニモの方へ向いていた。
「教授は、俺のことを何て言ってたか、訊いても構わないかな。」
客の機嫌を伺うでもない、話のきっかけを提供するでもないジェロニモの代わりに、男の方がとりあえず何かと言う風に口を開く。照れ隠しかどうか、マグの縁で顔の半分は隠したままだ。
「・・・音楽をやっていると。曲を作る仕事をしていると言っていた。」
別の客の話──ことに、客同士が互いを知っている場合──は御法度だけれど、この程度なら構わないだろうと、ジェロニモは言葉を置くように男に伝えた。そうする時だけは礼儀として、顔半分だけはきちんと男の方へ向ける。
「他には?」
「何も。」
本当らしく見せるため──この場合は本当のことだから──に、ことさら素っ気なく言って、首を振る仕草も付け加えなかった。
「そうか・・・。」
白い男はちょっと困ったように片方の眉だけの端を下げて、何か考えるように下唇を噛んで、
「じゃあ、仕方ないな、後で驚かせるのも悪いから──。」
ランプの置かれたサイドテーブルへ、上半身をひねるようにしてカップを置くと、男は空になった手の、さっきまでさり気なく見えないようにしていたらしい右手を胸の前へ持ち上げて、革手袋のそこへジェロニモの視線が吸い寄せられたのを確かめてから、それを手首の方からゆっくり外し始めた。
男に向かって目を見張る羽目になったのは、今夜は2度目だ。剥き出しになってゆく右手は鉛色で、明らかに生身ではなく、精巧な義手らしいとひと目で分かる。すべて現れると、指先まできちんと掌の形はしていて、男はきちんと見せるためかゆっくりと握って開いて、掌も手の甲も、その手の全体をジェロニモの方へ向けて見せた。
ここから、と左手が胸の前へ上がり、指先が胸の右側の半分くらいに線を描く。
「この辺りまでずっとこんな風だ。見せびらかすもんじゃないが、触るのも触られるのも気を使うから、先に見せておいた方がいいだろうと思って。嫌なら別に今帰ってくれてもいい。断られるのは初めてじゃないから、気にしないでくれ。」
何があったのだろうと、まず思った。何も考えずにその疑問を口にできるほどジェロニモは無神経ではなかったし、この男にとっては、恐らく右手をこんな風に見せるのも気の進まないことなのだろうと思ったから、ジェロニモはいつもの無表情のまま、男へ向かってかすかに首を振り、
「おれに触られるのが問題ないなら、おれはこのままでいい。」
今度も、嘘ではないと言う証拠にそれ以上のことは何も付け加えず、ただ簡潔に言葉だけを男に伝えて、今は自分を真正面に見つめているジェロニモへ、ちょっと虚を突かれたように、男はどんな表情を浮かべるべきかと迷うように、唇の形を数回変えた。
男の緊張がジェロニモにも伝わって、それをはぐらかしたり無視したり気づかない振りをしたりする気にはならず、なぜかきちんと本気で向き合うべきだと感じて、ジェロニモはいつの間にか体全部で男の方へ向いていた。
「・・・一応言っておくが、嫌ならどの時点で断ってくれてもいい。それはそれだけのことだし、俺はこういうことを個人的に受け取ったりはしないんだ。」
「──それはお互い様だ。」
いつの間にか、ふたりはソファの端と端で体を正面に向け合って、ひどく下衆な行いのためのやり取りをしているはずなのに、話し合いは奇妙に真剣で、男がやっと安心したようにひとつため息をこぼすまで、ふたりの視線はぶつかったまま、一度も外れたりはしなかった。
男は苦笑に近いような微笑を浮かべて、ずるっとソファの座面に腰を滑らせてジェロニモの方へ近寄る。剥き出しの右手をジェロニモの方へ差し出しながら、
「アルベルトだ。」
こんな交渉の場には似つかわしくない、握手を求める仕草は、恐らくジェロニモの言葉が本物かどうか確かめたかったのだろう。ジェロニモはまったくためらわずに、男の右手へ自分の右手を重ねた。
「ジェ──・・・ジュニアだ。」
しっかりと丁寧に、けれど力の込め具合には気をつけて男の手を握りながら、思わず自分の本当の名を告げそうになる。素早い訂正に男は気づかなかったのか、不審そうな様子も見せず、ジェロニモの大きな手を握り返して来る。
思った通り冷たく硬い手だったけれど、その皮膚ではない感触に、なぜかジェロニモは安堵を感じていた。
握手の手が離れると、男はまたソファの上で体を滑らせてジェロニモから離れ、それでも端には完全に戻らずに、そのまま背もたれへ向かって背を伸ばす。ジェロニモも、今は正面ではなくて男の方を向いたまま、男の右手が、膝の上に落ち着いたのをさり気なく確かめていた。
初老の男の言った通り、見た目の色合いはともかくも、容姿は普通以上に整っているし、あの男から見れば充分青年の域に入る年頃に見える。右手のことさえなければ、こんなことに金を払う必要もないのだろう。
客の誰にも等しく好奇心は抱かないことにしているジェロニモは、そこで男を観察するのをやめた。
珍しく、すでにこの男──アルベルトと名乗った──に対して、浅くではあったけれど好感を抱き始めていて、それが彼──アルベルトが右手のことを気にはしていても、だからと言って卑屈な態度は特に見えないせいかもしれなかった。
それでも、それ以上にアルベルトに向かって心を傾けるようなことはせずに、もう後はさっさと"仕事"を済ませて帰るだけだと考える。途端に、週末中に読んでおかなければならないテキストの量が頭の隅に浮かんで、少しばかり上の空になった。
アルベルトが、空気を変えるように例のカウンターの方へ目をやって、
「もう1杯?」
と、ジェロニモの手の中のカップを指差しながら訊く。意識を手元に引き戻されて、ジェロニモは一瞬、アルベルトの質問の意味をすぐにはつかみ損ねていた。
慌てたようにカップの中を覗き込んで、まだ底に少し残っているコーヒーを確かめてから、いや、と短く首を振り、それからなぜ自分がここにいるのかをしっかりと思い出して、また低い声でアルベルトへ話し掛ける。
「それより──。」
それとなく示すために、ソファの背沿いの壁の向こうへそっとあごを振って、別に友人と積もる話をしにここに来たわけではないことを、アルベルトにも思い出させようとした。
アルベルトはちょっと戸惑ったように、ジェロニモが示した方へ儀礼的に視線をやり、さてどうしようかと言う風に唇の線を迷わせる。
なんだ、こちらが断らなくても、そちらが断ると言うわけか。直に会って、ジェロニモの体の大きさに驚いて怖じ気づいた──あの女が、ジェロニモとは続かない客たちのことをそういう風に言うことがある──のかもしれない。いざそうなって、今になって気が変わったのかもしれない。
そう思っても、別に傷つきもせず──嘘だった。ほんの少しだけ、心の端を引っかかれたような痛みを感じていた──、よくあることだと胸の中でひとりごちて、男に切り出させるか自分で言い出してさっさとここから去るか、どちらにしようかとタイミングを計る。
「・・・わざわざ来てもらってすまないんだが──」
言いながら左手で口元を隠す仕草の間に、右手はそれが癖かどうか、背中の方へ動いている。
「今夜はこのままでいい。」
アルベルトが、なるべくのように穏やかに言うのに、ジェロニモはその語尾を鋭く引き取った。
「おれが趣味じゃないなら、はっきり断ってくれて構わない。最初に言ったが、これは単なる取り引きだ。気に入った気に入らないでいちいち気を悪くしたりはしない。」
「いや、そうじゃないんだ──。」
まだ言いあぐねて、今度はアルベルトがかすかに頬を染めて、何か照れてでもいるように、床へ向かって視線を迷わせた。こんな風に感情を剥き出しにすると、落ち着きのなさが何だか小さな動物を思わせて、若いとは言っても、自分よりはひと回り近くは歳上らしいこの男を、ジェロニモもまた落ち着きを失い掛けながら眺めている。
そう言えば、会った客たちと、こんな風に向かい合って言葉を交わすのは初めてかもしれない。ただの取り引きの交渉だと、色っぽさの立ち入る隙がないのはいつものこととしても、もういいと言われてさっさと立ち去らない自分が、不思議でもあった。
この男の言い訳をきちんと聞いておきたいだけだと自分の中で声がして、ジェロニモは、アルベルトがやっと冷静さを取り戻して言葉を選び終わるのを黙って待った。
「・・・いや実は、てっきり君に断られるもんだと思ってたから、今夜は何も準備もしてないんだ。君の方には準備があるかもしれないが、俺の方の、その──」
ジェロニモは、アルベルトには分からないようにちょっと目を丸くした。準備とやらが何のことかは今ひとつ見当がつかなかったけれど、こちらを傷つけないように慎重に選んだらしい物言いには素直に感謝して、自分を丁寧に扱おうとするアルベルトの態度に、また少し好意が深くなるのを感じた。
妙な男だ。自分と、金を払って寝ようと言う男が、まともな意味で普通のはずもないけれど、その普通でない男──と女──たちの中でも、このアルベルトと言う右手のない男は相当変わっている。
それが、男の元々の性質(たち)なのか、それとも右腕を失ったせいかのか、どちらなのかと考え掛けてから、自分には関係のないことだと、ジェロニモはそこで自分の心の動きを止める。
「わかった。」
ジェロニモはできるだけ静かに立ち上がって──傷ついてもいないし、腹を立ててもいないと、きちんと示すために──、壁際のカウンターへ歩いて行って、そこへカップを置いた。後はアルベルトの方を見ないようにして、影のように気配を立てずにこの部屋から去ろうとする。
慌てたように、ジェロニモを追ってアルベルトも立ち上がり、
「これを──」
と、もうドアへ向かうジェロニモの後ろから差し出して来たのは、白い封筒だった。
さすがに足を止め、アルベルトへ振り返り、
「もし金なら、何もしてないのに受け取るわけには行かない。」
それは、ジェロニモにとっては精一杯のプライドだった。金のためにこんなことをしている。けれど、金さえ受け取れれば何でもいいと思っているわけではない。
ジェロニモの声の静けさの、それでも音圧に押されてか、アルベルトはちょっとたじろいで、けれど封筒を引っ込めることはせずに、
「何もしてないわけじゃない。俺は、君の時間を買ったんだ。」
今にもジェロニモの手を取りそうに、今空いているのがあの右手のせいかどうか、アルベルトはそこまではしなかった。
「何しろこの国じゃ、話を聞いてもらうのにも医者に紹介状を書いてもらって、精神科医に高い金を払わなきゃならないんだ。君なら、会うための予約に、半年も待つ必要がないだけありがたい。」
微笑みながらさらに差し出す封筒に、さっきそれに対して感じかけた憐みとか施しとか、そんな印象も押しつけがましさも今はなく、この男は本気で、ただ誰かと一緒にいたかっただけなのだとジェロニモもようやく悟る。
聞こえないようにため息を喉の奥に飲み込んで、ジェロニモはやっとその封筒を受け取った。アルベルトが、今度は安堵の微笑みを浮かべる。その笑みを否定するように、ジェロニモの声はまだ硬かった。
「おれは精神科医じゃない。会って話を聞くためにこんなことをしてるわけじゃないし、そっちがいいならそれでいいが、後で何か言われても困る。」
「──俺の右腕のことを、面白がったり気味悪がったりしないだけで十分だ。今夜は何て言うか、君にちゃんと会ってみたかっただけなんだ。」
ジェロニモの打ち解けない態度に苛立った様子も見せずに、それでもアルベルトの声はどこか切実な響きを帯びて、そのくせジェロニモへその気持ちの揺れや弾みのようなものを聞き取らせないように、アルベルトは必死で声の根を抑えている風に見えた。
ふたりは、今また正面を向いて向き合っている。さっきソファに座っていた時よりも近づいていて、下目に見る男の、額の線と鼻筋の通り方が、ますますこんなことには似つかわしくない、どこか違う世界の人間のような気がした。
当然じゃないか、この男の皮膚は白い。白い人間が、ジェロニモと同じ世界の人間のはずがない。なぜか、もう右腕のことを聞く以前に、この男が自分に近しい存在のように思えていた。金を払って、誰かと寝てもらわなければならない──そしてジェロニモは、その金を必要としている──人間なら、どちらかと言えば自分に近い側だと思ったのだろうか。けれど今までの誰にも、そんな風に感じたことはなかった。あの、初老の男にさえ。
知らず、アルベルトに向かって目を細めて、自分の心の内側を覗き込むために、ジェロニモはそこへ目を凝らしている。
アルベルトはジェロニモを見返して、それから、1歩距離を詰めた。
「今夜はありがとう。」
まるで、親しい友人の間で何か特別の用でも済んだ後のように、心底かららしい声音でそう言い、アルベルトはジェロニモに向かって両腕を軽く広げる。伸び上がって、ジェロニモのぶ厚い肩にあごを乗せて、左腕と右腕がするりとジェロニモの背中に回って来る。
アルベルトの、突然の親しみの表現に驚いて、ジェロニモの腕はアルベルトの背中から浮いたまま、空回りそうになった。
それでも何とか礼儀正しい態度を示すために、ジェロニモは戸惑いながらもアルベルトの体にちゃんと両腕を回し、けれど力を込めずにそっと掌だけを乗せる。
そうして、腕の中に収まったその体が、自分の両腕の作る輪にぴったりなことと、しっかりと厚みを伝えて来るのが、力の加減に心配がなさそうなことと、そして、アルベルトは爪先だけの背伸びが必要にせよ、ジェロニモの方は、上体を全部折り下げる必要はなく、まるでパズルのピースが合わさったように、自分にちょうどいい大きさの男だと、そう思った。思って、思わず腕に少し力を込めた。
抱きしめるのにも触れるのにも、怪我をさせる心配のなさそうなこの男の、右腕の硬さを不意に背中に感じて、そこへ触れる時は気をつけなければと考えてから、次があると思ってるのかと、自分に向かって声がした。
体よく断られただけの話だ。呼び出して、向かい合って、もういいと言って、それでも金を払うこの男の態度は、それはつまりジェロニモのような人間──膚の色が違うこと、体を売っていると言うこと──に対しても敬意を払えるだけの気持ち──と、そして懐ろ──の余裕がある人間だと言うことだ。そんな特別な人間なら、何もジェロニモをわざわざ選ぶ必要はない。
今夜のことは、すべてこの男の気まぐれだったのだろう。人恋しくて、自分の体の不具合を晒せる相手を探さなければならなくて、たまたま今夜、ジェロニモがここへやって来たと言うだけの話だ。
誰にでもそんなことはある。触れ合うまではしなくてもいい、ただひとり言を、ひとり言でなくしてくれる誰かが欲しい、そんな時が、誰にでもある。それだけのことだ。
思ったより長い間抱き合って、アルベルトが腕をほどいたすぐ後に、ジェロニモもアルベルトからそっと離れた。
今は少しうつむき加減に、アルベルトは小さな声で、じゃあまた、と言った。ジェロニモはそれに、ああまたとは返さず、さようならと短く言って、後はもうさっさと背中を向けて部屋を出る。
我ながら意地の悪いことだと思いながら、思いがけず乱されてしまった気持ちを落ち着かせるために、ジェロニモは意味もなくうなじへ掌を当て、きれいに剃り上げてある両耳の間をざらりと撫で上げてから、そのまま束ねた髪をしごくように後ろへ引っ張った。
揺れた髪の先から、覚えのない香りがふと立って、それがアルベルトの使っている石鹸かコロンの類いの匂いだと悟った瞬間、ジェロニモは廊下の真ん中で足を止め、アルベルトの部屋のドアの方を振り返った。
あの男の右腕は、直に触れたらやはり冷たいのだろうかと、なぜだか分からないまま、その腕が自分の膚に直に触れる場面を想像した。
そして、自分に向かってまさか、と頭を振る。礼儀でまたと言っただけで、一度断った相手を再び呼び出す物好きがいるわけがない。けれど、今夜ジェロニモを呼び出したあの男は、確かに酔狂ではある。
上着すら脱ぐ間もなかった夜に、ジェロニモはジーンズの後ろのポケットにねじ込もうとした封筒の意外な厚みに今頃気づいて、運の良い夜だったとはひと筋も思わず、ただ困惑だけが後に残る。
腹立ちはなく、それでも、奇妙な男の奇妙な振る舞いに乱された心はなかなか静まらずに、エレベーターの扉の閉まる向こうへまるで忘れ物でもして来たかのように、ジェロニモはいつまでも高い天井を見上げていた。
男──アルベルトと言う名だったと、覚えておくつもりもなかった──へ、あの女の電話番号でも送っておこうかと、そう考えた時にエレベーターは音もなく止まって扉が開き、ロビーの明るさに目を細めて、白っぽく照らされたジェロニモの視界の中で、いつまでも男の微笑みが浮かんだまま消えない。