色彩のブルース (10)
ごく普通の週末、ホテルの部屋はそれなりに埋まっているようだったけれど、ロビーはそれほど混んではいなかった。フロントの向かって左手奥の、バーへの入り口へ向いて、アルベルトはぼんやりと教授を待っていた。
待ち合わせの約束をしているわけではない。誰かと会うなら週末だろうと見当をつけて、ただ待っているだけだ。この週末で3度目だった。
ジェロニモと会ったあの夜と同じに、時間も変わらないはずだと思って、ソファにやや体を投げ出し気味に、時々ちらりとフロントの中の時計に目をやりながら、辛抱強く教授が現れないかと待っている。
他に何の約束もやるべきこともない週末の夜を、こんな風に無駄にできる時間の余裕だけはある。アルベルトにとっては、こうやっていつ──果たして──現れるかも分からない教授を延々と待ち続けることも、ちょうどいい暇つぶしだった。
バーの中で待っていても良かったけれど、酒を控えているので、できれば飲酒のできる場所には近寄りたくなかった。
今夜も空振りかと思い始めて、4度目のため息が足元へこぼれた後で、エレベーターから出て来て、貧相な薄い背中をちょっと丸め気味にバーへ向かう教授の姿をようやく見つける。ビンゴ(大当たり)、と小さくつぶやいた口元に、ちょっと意地の悪い笑みが浮かぶ。
すぐに追おうと立ち上がり掛けてから、アルベルトは思い直してもう一度そこへ腰を下ろした。最初の1杯のひと口目くらい、ゆっくり味わってもらってもいいだろうと、他愛もない思いやりが湧いた。
いらいらとつい床を蹴りそうになる爪先をできるだけ押さえてさらに20分待って、アルベルトは今度こそ全身を弾ませるように立ち上がって、それから呼吸を整えながら、普段よりもゆっくりとした足取りでバーへ向かう。
教授はカウンターの真ん中辺りで、いかにも酒の味を愉しんでいる風に、穏やかな横顔でグラスを傾けていた。
それを見て、舌の上に甦ったウイスキーの円やかな香りをちょっと懐かしんで、今夜くらいは解禁にするかと、そう思った自分に向かって肩をすくめる。教授へ向かって再び歩き出す前に、アルベルトは静かに深呼吸をした。
背を伸ばして隣りへ立ったアルベルトをちらりと見てから、教授はこの再会を予想をしてはいなかったらしく、素直に驚きの表情を浮べて、今夜はその次に無邪気な笑顔がやって来た。アルベルトはちょっと毒気を抜かれて、気持ちを落ち着けるために、殊更はっきりとした声でバーテンダーにジンをくれと告げる。
「向こうのテーブルに行きませんか。」
自分のグラスを受け取って、特に他意はない提案だと言う振りでアルベルトが言うと、教授は白い眉を丸く上げて、やれやれと言う表情を作ってから、のっそりと脚の長い椅子を降りて来る。
先に歩き出したアルベルトの後を、それでも逆らわずについて来て、窓ガラスから外が見える人気のない隅のテーブルへ、教授はアルベルトと一緒に腰を下ろした。
「今夜の待ち合わせは彼とではないよ。」
丸いテーブルで向かい合った途端、教授は穏やかに、けれどぴしりと言う風に言う。学生に向かって使う声音だろうかと思いながら、アルベルトはその声を頭の中で繰り返した。
ふたりの間では、"彼"だけで通じてしまう。教授の口調を引き取って、アルベルトもまだ酒に緩まない、硬い口調で訊く。
「──最近、彼とは会いましたか。」
嘘やごまかしならすぐに見抜いてしまえるのだからと、アルベルトは教授の瞳へ真っ直ぐ目を凝らし、彼の返事を待った。アルベルトにきちんと見せるように、教授はゆっくりと首を振る。
「私の知人の──その、仲介をしてくれる女性が、彼とはもう連絡が取れんと言っていた。電話も通じないし、彼の家まで行ったそうだが、もう引っ越した後だったそうだ。大学はもう休みだし、まったく行方が知れんそうだよ。」
いかにも残念だと言う教授の言い方に嘘の響きはなく、アルベルトはそれで、指先の隅々まで張りつめていた緊張が一気に抜けて、教授の姿を見た瞬間から気負っていた何もかもが崩れ、代わりに、教授を探して待ち続けていた数週間の疲れが一気に全身を満たすのを感じた。
グラスを両手に包み込んで、縁へ指を当てながら、教授がぼそりと言う。
「・・・彼女は、彼が絶対に戻って来ると言い切ったよ。こういうことに馴染んでしまうと、なかなか抜け出せないものだからね。わたしも、やめたと言いながら行ったり来たりを繰り返している若者を幾人か知っている。彼もきっとそうなると、彼女は言っていた。」
手元へ視線を落としてぼそりぼそり喋る教授は、一体アルベルトへ向かって話しているのかひとり言なのか、よく分からないままアルベルトはそれに耳を傾けている。
"彼"と──ジェロニモと、深く関わり合う時間のなかったアルベルトにとって、教授はジェロニモについて語り合える唯一の人間だった。自分がジェロニモと寝たように、この初老の男もジェロニモと何度も寝たのだと思うと、ひどく不思議な気がした。
だが、と教授が言葉を継ぐ。
「──わたしは、そうは思わない。彼は戻っては来んよ。彼はきちんと、こんなこととは手を切ったんだ。」
きっぱりと言うのがいかにも確信ありげで、ジェロニモが消える前に、何か教授に言ったのかとアルベルトは思う。自分には、何も言ってはくれなかったと、ちくりと胸の底が疼く。だから口を開くと、つい声に意地の悪さがにじんだ。
「そう思う、何か根拠があるんですか。」
皮肉笑いが浮かぶのを止められずに、持ち上げたグラスの縁で隠す。教授は、アルベルトの声にも表情にも気づいてもいないようだった。
「根拠なんかあるもんか。ただそうだと分かると、そう言うしかない。君にだって、分かるだろう?」
と、アルベルトを上目に見た目の色の、共犯者めいた親(ちか)しさに、アルベルトの知る普段の彼に似ない奇妙な色っぽさがちらりと顔を見せ、肌を合わせた者同士の間に発生する親密さが、今ジェロニモを通して感じられるような気すらする。
教授の言う通りだった。ジェロニモは金のために体を売ることをやめたのだ。アルベルトにもそれが分かる。そしてもう、ジェロニモが二度とこんなろくでもない人の輪の中に戻っては来ないことに、アルベルトも確信を抱いた。
アルベルトともう会わないと決めたのではない。こんなことと手を切ろうと思えば、すべての繋がりを断つしかない。そこへ繋がるアルベルトも、その中に含まれていたと言うだけの話だ。捨てられたのではないとそう思えることは、確かにアルベルトの心を慰めてくれた。
ひとりきりの物思いへ沈み込み始めたアルベルトをちらりと見て、教授が尋ねて来る。
「君はその──彼とは、とても親(ちか)しかったのかね。」
まさか、と考える前に首を振っていた。唇へ浮かんでいた苦笑に、アルベルト自身は気づかず、膝の間へ投げ出した両手へ首を折るように目線を落として、革手袋の右手へ、自然に視線が落ち着く。
「俺が、一方的に、みっともなく走り回ってただけですよ。彼は俺のことなんか・・・。俺たちはただ、金で繋がってただけです。」
自嘲気味に言いながら、半分は本気で言っているつもりなのに、内心では自分の言葉をすべて否定している。違うと叫ぶように言う自分の声を耳の奥に聞きながら、アルベルトはジェロニモの言葉と態度を、ひとつびとつ反芻していた。
そうかねと、アルベルトの言うことを信じているとも信じていないとも見極めがたく、教授はただ相槌を打った。
言い合わせたように、ふたりは同時にグラスを持ち上げる。久しぶりの酒が、今夜はひどく舌に苦い。アルベルトはちょっと顔をしかめて、グラスをテーブルへ戻した。
「執着を、恋と錯覚することはよくある。大事なものを、他のものに取り替える。執着の対象を替えるだけだ。恋だと錯覚すれば、大義名分が立つからね。」
講義で聞くような言い方だったけれど、内容は辛辣だった。アルベルトはちょっと顔色を変えて、感情的に反駁した。
「俺が、ピアノの代わりに彼に執着しただけだと──?」
「違うかね?」
教授は鋭く切り込んで来た。彼と、こんな話をしたことはない。世間話と天気の話がせいぜいだったことが嘘のように、教授はまるで真剣の切り合いのように、容赦なくアルベルトの内側へ踏み込んで来る。アルベルトは右手首を左手で掴み、ぎゅっと握った。指先に力をこめながら、教授の言ったことを考えている。
違うと答えるのは簡単だった。けれど、教授に理解できるように説明することができないと、自分の内側を覗き込みなが思う。金を間に置かなければ、関わり合いようのないふたりだった。それでも、金がふたりの関係の理由ではなかったはずだと、アルベルトは、自分のアパートメントで、背中を丸めてノートやテキストにうつむき込んでいたジェロニモの、大きな背中を思い出しながら考えた。
心が確かに触れ合ったからこそ、ふたりの間に生まれた旋律があった。旋律が世界を彩って、アルベルトは確かに、音と色を取り戻していた。ジェロニモが仕事をやめる決心をしたことの、自分も理由のひとつだったはずだと、アルベルトは思った。
けれど、同じようにジェロニモと関わり合ったこの男へ向かって、それを語るのはあんまりな仕打ちだと思った。自分とは違う次元で、ジェロニモに魅かれていたに違いないこの男へ向かって、そうだ俺たちは本気だったのだと、自分の思ったままを告げるほど無神経にはなれず、アルベルトの失恋を悟ったこの男が、執着だと思えば気が楽になると、そうやって人生の処世術をさり気なく伝えているのだと気づいたのは、
「そう言うあなたは、彼のことが好きだったんですか。」
と、彼よりは幾分不粋に、率直過ぎる質問を投げた後だった。
「好意も持たない相手と寝るほど、わたしは無分別ではないよ。君ほど若くもない。恋をせずに誰かに近づくには、わたしの時間はもう残り少ないのでね。」
今度は、教授の口振りの方へ自嘲が交じった。アルベルト──そして、ジェロニモ──への明らかな羨望がそこにあり、そうして初めて、アルベルトは、自分の失恋よりもこの男の失恋の方がずっと先だったのだと悟る。
同じようにジェロニモに出会い、ジェロニモと関わり、そして同じように終わりを見たふたりの男が、ささやかな恋の結末を笑い合って乾杯することもできず、互いの屈託と物思いを自分だけで持て余して、向かい合って酒を飲んでいる。アルベルトと恋の思い出を語り合うことは、この男の分別が許さないのだ。
教授を気の毒にと思うことはしなかったけれど、優越感も抱くこともないまま、アルベルトはただ、自分のほのかな恋の始まりが、形を現す前に終わってしまったことを、今夜心底思い知った。
始まった何かは確かにあったのだ。ただ、それを差し出した両手の中に大事に抱えて、一緒に歩んでゆくことができなかったのだ。自分の右手のせいだろうかと考えることはどうしても止められず、それでも、いやそうではないと、きっぱりと言う自分の声も確かにあった。
なぜ、と考えることはもう無駄だった。教授の言う通り、もうジェロニモは戻っては来ない。そうか、とアルベルトは、自分に向かってつぶやいていた。
「お待たせ。」
不意に、この場に不似合いな明るい声が降って来る。教授の肩へ馴れ馴れしく手を掛け、東洋人の若い女がそこに立っていた。
「遅れたかしら。」
絹糸のような、落とし気味の照明の下でも艶やかさを隠せない見事な黒髪のその女は、若いと言うよりもほとんど幼いと言った方が良さそうな顔立ちで、濃い化粧が痛々しくアルベルトの目には映る。
教授は途端に保護者のような微笑みを浮べて、
「いや、わたしの方が早く来過ぎてね。」
椅子から降りて、もう彼女の隣りへ立ちながら、アルベルトへ目顔で別れの挨拶を送って来る。
「ではまた。また近い内に。」
アルベルトはもちろん引き止めることなどせず、女の背中を押して歩き出す教授へ向かって、微笑んで手を振った。
お友達?と教授に女が訊いているのが、こちらに見せている横顔の唇の動きで分かる。教授は女の方を見もせずに、いいやと首を振ったのがアルベルトには見えた。
アルベルトは苦笑をこぼし、歩くたびさらさらと揺れる女の長い髪の色に、最後に触れたジェロニモの髪の湿りを思い出して、そこへうつむきながら、右手をぎゅっと握り込んだ。
「もう時間よ。お昼、食べてらっしゃい。」
後ろから肩を叩かれ、ジェロニモは結んだ髪を揺らして振り返った。スーツ姿の女が、赤い唇でにっこり微笑んでいる。大柄だけれど、ジェロニモの傍では子ども同然の体格に見える、この図書館の責任者だ。
本を棚に並べ直すのに夢中になって、時間を忘れていた。どうやら皆はとっくに昼休みに入っているようだ。ジェロニモは彼女へ向かってうなずいて、手に乗せていた数冊の本を空いた棚に置いて、彼女が去って行ったとは逆の方向へ棚の並びを抜ける。
夏が進んで、どの図書館も冷房が効いていて常に涼しいのはありがたいけれど、休憩の間にはじっとしていると体がひどく冷える。それを避けるために、昼休みは外へ出ることにしていた。
この図書館はダウンタウンの真ん中にあって、勤め人のために出ている屋台が無数にあり、昼食は持参しなくても食べそびれる心配がない。手ぶらで来た今日の昼は何にするかと考えながら、ぶらぶらと歩道の端を歩いていて、裁判所の前を通り過ぎたところで、銀行の3軒並んだ辺りからこちらへやって来る人影に見覚えがあって、ジェロニモは思わず足を止めた。アルベルトだった。向こうも、人込みの中で頭ふたつ分飛び出すジェロニモに気づいて、驚いたように足を止める。その隣りには女の姿があった。
「やあ・・・。」
声を出したのはアルベルトが先だった。同じように軽い挨拶を返して、ジェロニモはそれきり言葉が出ず、互いに見つめ合う羽目になる。
「先に行っててくれませんか。すぐに行きます。」
黙ったままでいるふたりを交互に見て、戸惑いの笑みを浮べている女へ向かって、アルベルトが言う。その口調がとても丁寧だったことに、ジェロニモは必要もなく安堵を感じた。
女はそれならと言う風にアルベルトへ手を振り、ジェロニモへは浅く会釈をして、さっさと先へ歩き出す。明るい赤みがかった金髪を揺らして女が遠ざかるのを一緒に見送ってから、ふたりはやっと人込みを避けて歩道の奥へ寄ると、そこで1歩半分の距離で向かい合った。
「久しぶりで・・・元気そうだ。」
心底懐かしそうに、アルベルトが言う。ジェロニモはどんな表情を浮べていいのか分からず、素直に照れの色を頬の辺りへ刷いた。
「あんたも、元気そうだ。」
「酒を控えてるせいか、体の調子がいい。主治医にも誉められてる。」
「それは──よかった。」
そこで言葉が途切れて、しばらく見つめ合った後で、するりと視線が外れる。互いに自分の靴の爪先を意味もなく眺めてから、互いからは視線をそらしたまま、口を開いたのはまたアルベルトの方だった。
「大学は今は休みだろう? 何をしてるんだ?」
正直に言うべきかどうか一瞬迷ってから、ジェロニモはやはり素直に、その質問に答えることにした。
「図書館で本の整理の仕事をしてる。人出が足りてなくて忙しいが、楽しい。」
言いながら、口元へは自然に笑みが浮かんでいる。それを写したように、アルベルトも微笑んだ。
「あんたは、どうしてる?」
ジェロニモの問いに、アルベルトもまた、どう答えようかと迷う表情を浮かべた。ジェロニモは挨拶代わり程度のその質問をそれ以上押す気もなく、別に答えなくてもいいと言うつもりで唇を動かし掛けたところで、実は、アルベルトが弾みをつけるように言葉を滑り落とした。
「ドイツに──東ドイツに、帰ることにした。」
え、と声にならない代わりに、素早く眉が寄る。ジェロニモは慌てて険しい表情を作らないように気をつけて、何だって、と聞き返す。
アルベルトが唇を上下すり合わせるようにしてから、苦笑とも照れ笑いともつかない笑みを浮べて、そこへ戸惑いをひと色加わてから言葉を継ぐ。
「母から──東にいる母から、連絡があったんだ。今いるのは母の故郷(ふるさと)なんだが、そこの町で吹奏楽の指導のできる人間を探してると言って──市民クラブでほとんどボランティアみたいなもんだから、なり手がないんだそうだ。母が言うには、落ち着くまでは一緒に暮らせば飢えさせはしないからって・・・。」
「吹奏楽、あんたが?」
ちょっと呆気に取られて、思わず頓狂な言い方になる。アルベルトは見掛けによらない仕草で小首を傾げるようにして、
「指揮棒を振るのは、別に右腕がなくてもできるだろう。」
肩までちょっとすくめて見せた。
「寄せ集めだが、ちょっとしたものらしい。全国コンクールもあるって話だし、やりがいはありそうだ。」
声が思わず弾んでいるのに、ジェロニモはつられて大きく破顔した。
「あんたが楽しみなら何よりだ。」
「──音楽に関われるなら、俺には何よりの話だ。」
そう言うアルベルトはちょっと胸を張るようにして、とても誇らしげに見える。ジェロニモも、思わず背筋を伸ばした。
「じゃああんたも、ここからいなくなるんだな。」
「君はどこへ行くんだ。」
ちょっと不安気にアルベルトが訊く。ジェロニモは笑みを深くして、アルベルトの弾むような声とは違って、落ち着いた声を出した。
「おれは、居留地へ戻る。そこから、教師の資格の取れる大学へ通うことにした。」
「君が、先生になるのか。」
アルベルトが驚いた顔をして、けれど一瞬後にはひどく合点が行ったような表情で、ひとり浅くうなずいている。
「居留地には学校はあっても教師のなり手がない。だから小学生や中学生を教える教師になる。あんたがこれから行く、吹奏楽のクラブと同じだな。」
そう言った後で、ふたり同時に微笑んだ。
笑う間に、そうか、とアルベルトがつぶやく。伝えたいことも訊きたいことも、もっとある。会えない間に起こったこともひとりで考えたことも、けれど、わざわざ言葉にする必要はないように思えるのが不思議だった。
そうか、とまたアルベルトが小さな声で言う。
「俺も君も、この街から去るんだな。」
そこで言葉が途切れた。笑みが奥まり、淋しそうに自分を見上げるアルベルトを、また同じような表情で見下ろして、ジェロニモは、ここではアルベルトを抱きしめられないこととひどく残念に思った。
「・・・もう、これきり会えないだろうな。」
「ああ、そうだろうな。」
アルベルトを肯定すると言うよりも、自分に言い聞かせるつもりで、ジェロニモは間を置かずに相槌を打つ。言った途端に、喉の奥から苦い塊まりがせり上がって来た。ジェロニモは、それをアルベルトに見せないために、奥歯をそっと噛んで耐える。
ため息をこぼした音が、はっきりと聞こえて、
「あの時、きちんと言いそびれたが──」
アルベルトが低めた声で、年齢通りの落ち着きのある言い方をした。
「君には、ほんとうに感謝してる。色々とありがとう。」
すっと目の前に、革手袋の右手が差し出された。何のためらいもないその差し出し方に、ジェロニモの方がわずかの間気圧されて、この手に触れるのにはどの程度加減が必要だったかと、一瞬の間にアルベルトとのあらゆることを思い出す。自分は、この右手に触れることを許された、ごく少数の人間のひとりだったのだと、今ではもうただの思い出でしかないひそかな優越感のようなものが甦って来る。
何の変哲もない、ただの握手だった。けれどそれに、どれだけ深い意味が込められているのか、ほんとうの意味が理解できるのはふたりの間でだけだった。
おれは、この男のことがほんとうに好きだったのだと、知らず過去形で考えながら、ジェロニモは久しぶりのアルベルトの右手の硬さを、深々といとおしんでいる。
アルベルトの右手を握りながら、そう言えばさっきの女はアルベルトの左側を歩いていたと、他愛もない、けれどジェロニモにとってはこの握手同様意味深いそのことに気づいて、
「あの人が、待ってるんじゃないのか。」
握手はまだほどかないまま、自分の後ろへ軽くあごの先を振って、ジェロニモは探りを入れるつもり半分で、アルベルトへ訊いた。
「だろうな。」
アルベルトがさらりと言うのに我慢ができず、ついにはっきりと問い掛けた。
「・・・誰だ?」
ジェロニモの声がちょっと震えているのに気づいて、アルベルトが小さく笑う。握手が掌からほどけ、指先が滑り始めている。
「俺の代理人だ。東ドイツに戻るのに色々手続きがあって、彼女が書類の面倒を全部見てくれてるんだ。子どもがふたりいる人妻だ。それと、俺の好みは黒髪なんだ。」
そう茶化すように言った時、握手の終わり掛けに、指先が触れ合った。わずかに曲げた指の腹が、確かにジェロニモの指に触れて行った。
握手が終わると、もう他にするべきことは残っていなかった。したいことはあっても、すべきことはもうない。ふたりはもう、そんな風なふたりになってしまっている。
じゃあ、と言ったのはジェロニモが先だった。アルベルトは名残惜しげにその場にたたずんで、もう一度、ゆっくりとジェロニモを上から下まで眺めて、
「さようなら、ジェロニモ。」
少し無理矢理に浮かべた笑みが、泣き顔のように見える。自分も同じような顔をしていると、それを見ながらジェロニモは思う。
「さようなら、アルベルト。」
互いにタイミングを測って、同時に足を前に出した。右と左に分かれて寄って、アルベルトの右側をすり抜けて、ジェロニモはそこからようやく立ち去り始める。
数メートル進んだところで、足を止めて振り返った。2秒後でアルベルトが立ち止まり、ジェロニモの方を振り返った。アルベルトが、手を上げて振る。ジェロニモも手を上げ、振りはせずに、アルベルトがまた歩き出すのを待った。
人込みに白い人影が紛れて消えてゆくのを見送って、ジェロニモはやっと爪先を前に向けて歩き出す。
今日はいい天気だ。青い空が高い。それを目を細めて見上げて、雑踏の中にあふれる音に、自然に耳を澄ませていた。今聞こえるメロディーは、少し悲しげだ。けれど、どこか希望を感じさせる明るさもある。
歩きながら、ジェロニモは自分の目の前に目を凝らした。人たちも車も消え、建物が失せ、何もない草原が広がる。そこを渡る風が、ジェロニモの頬を撫でてゆく。なだらかにそよぐ草のてっぺんから、自分に向かって振られる小さな手たちを見た。それよりも少し大きい手は、あれは伯母のものか母のものか。あるいは、会ったことのない父親のそれか。カチャ、とつぶやいた後に、思わずテジュ、と父親に呼び掛けていた。
ジェロニモ、と自分を呼ぶ声がする。その声へ引き寄せられるように、ジェロニモは前へ向かって歩き続けている。自分を手招くその人影たちへ向かって、思わず駆け出しそうになるジェロニモの口元には深い笑みが浮かび、そして瞳の中には、あふれる色が輝いていた。
- 後書き -
最後まで読んで下さってありがとうございます。
shさまにお誘いいただいて、書く書く詐欺を繰り返しつつも、shさま作の同ネタをご褒美にしつつ、何とか最終話までこぎつけました。
毎度のことですが、延々と終わらず、ただ長引かせる悪癖は悪化の一途をたどるばかりのようですorz
とは言え、ジェロたんが男娼でハインさんがその客と言う、自分では絶対に思いつかないアイデアに、RE5と平4と言う変則的な組み合わせのイメージで、楽しく悩みながら書かせていただきました! 面白かったー!
ほんとうに、最後までお付き合いありがとうございました。54万歳。
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毎度のことですが、延々と終わらず、ただ長引かせる悪癖は悪化の一途をたどるばかりのようですorz
とは言え、ジェロたんが男娼でハインさんがその客と言う、自分では絶対に思いつかないアイデアに、RE5と平4と言う変則的な組み合わせのイメージで、楽しく悩みながら書かせていただきました! 面白かったー!
ほんとうに、最後までお付き合いありがとうございました。54万歳。
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