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色彩のブルース (9)

 大学を数日休んだ間に、死亡届けをどうしたらいいかと、ジェロニモは母の身内に連絡を入れた。
 死んだ母親の異父姉である伯母は、妹がついに亡くなったと聞くと、かわいそうにと声を詰まらせ、いつ死んでもおかしくない長患いだったにも関わらず、まるで突然の思いも掛けない死のように、長々と嘆き悲しむ声をジェロニモに聞かせた。
 彼女は、同じ部屋にいるらしい自分の娘──ジェロニモの従姉──にそのことを告げ、娘の方は母親ほどはショックを受けた様子もなく、気の毒にと通り一遍の悔やみの声がジェロニモにも届き、そのさらに後ろでは、彼女の子どもたちらしいにぎやかな声が、途切れもせずに続いていた。
 この伯母と母はそれなりに行き来があったけれど、ジェロニモ自身は身内の誰とも特に親しんではいなかったので、従姉のこの様子に特に憤りもせず、伯母が素直に母の死を悲しんでくれたことだけで充分だと思った。
 ──あんたの母さんの届けのことは、保安官にでも訊いてみるから。
 伯母が、やっと自分の泣き声をなだめて言う。それからちょっと声を改めて、いかにも年長の女らしく尋ねる。
 ──あの子のなきがらはどうするの? まさかそこで埋めるわけじゃ。
 伯母の語尾を遮って、まさか、とジェロニモは首を振り、今は自分の机の上に置いてある母親の骨を振り返って答えた。
 「そっちに連れて帰る。死んだら川に流してくれって、カチャ(母さん)はずっとそう言ってた。」
 ──そうだね、それがいい。
 言いながら、伯母の声が電話から少し遠ざかった。代わりに子どもの声がいきなり近づいて来て、伯母をしきりに呼ぶはしゃいだ様子が伝わって来た。どうやら、彼女の孫のどれかが膝に乗ろうとしているらしい。
 おやめ、と伯母の声がそれをたしなめて、受話器が移動するがさがさと言う音の後で、伯母の声の合間に子どものくすくす笑う声が交じりながら、やっと会話が元に戻る。
 ──それで、あんたはいつ戻って来るの。あの子を連れて帰って来るのはもちろんだけど、あんたひとりで、まだそこにいるつもりなの。
 大学へ行くと言った時に、母の味方をして、この伯母もジェロニモが居留地を離れることに強硬に反対した人間のひとりだったことを思い出した。
 「まだ大学が途中だ。卒業するまでは──」
 ──卒業したら戻って来るの? どうせ学校が終わったら終わったで、今度は仕事がって言い出すに決まってる。
 今度は伯母の方が、ジェロニモの言葉を最後まで待たなかった。居留地を離れて以来、自分からは彼女に連絡を取らなかった理由を今さら思い出して、それでも年長者への礼儀で、ジェロニモは、彼女のこちらを責め続ける言葉を黙って聞いている。
 伯母の言うことは大方真実だったし、いずれはと口では言いながら、あそこへ戻ることはもうないだろうと考えているジェロニモの浅い考えなど、伯母にはとっくにお見通しだ。
 電話を切るタイミングを計りながら、それでも電話の向こうから伝わって来る伯母の家族の、賑やかと言うよりはいっそ喧しいざわめきを、ジェロニモは今ひどく懐かしく聞いている。
 走り回る子どもたちを追いかけて、叱り飛ばす従姉の声。そんなことはへいちゃらで騒ぎ続ける子どもたち。その喧噪を、やれやれと言う風に、それでもどこか幸せそうに見つめる伯母の、母親と同じ色の濃い瞳。
 自分が持たない家族と言うものが、確かにそこに在った。
 ジェロニモは切れ目のない伯母の小言を聞き流しながらも、夏の休みの間に、伯母の家に居候させてはくれないかと、ふとそんな考えが突然浮かぶ。
 9月の新学期への不安を、ひと時忘れて、子沢山の家族の中にちょっと肩と背中を丸めて入り込み、じゃれ掛かる子どもたちの守りをしながら過ごす夏は、それほど悪い考えではないように思えた。
 母の弔いを言い訳にして、伯母は恐らくジェロニモの頼みを断らないだろう。
 久しぶりに聞いた伯母の声に、母とは似ないその顔立ちに、それでも確かに血の繋がりを感じて、伯母のこの遠慮のない、ジェロニモの都合にはまったく頓着しない無神経な物言いも、血の親(ちか)さゆえだと思えば今は決して不愉快ではなかった。
 母の骨を連れてあそこへ戻り、母を悼んで過ごす夏に、子どもたちの騒々しさはいい気晴らしになりそうだった。
 ジェロニモの浸かった泥水に、まだ触れたこともない子どもたち。手足の先が浸かったところで、拭って洗ってきれいにしてやればいいのだと、ふとそんな風に思った。
 伯母の声がまだ続いている。子どもたちの無邪気に騒ぐ声を拾い聞きしながら、受話器を耳から少しだけ遠ざけて、ジェロニモはまた母親の骨を振り返り、喉の奥へ向かってゆっくりと深く息を吸い込んだ。

 
 つるりとした金属の容器は、鏡のようにつるつるした表面に、覗き込むと自分の顔が映り、それを嫌ったわけではないけれど、殺風景な部屋の中では輝くような銀色がひどく目立ったから、隠すようにタオルで包んで紙袋に入れ、クローゼットの隅がしばらくの間母親の居場所になった。
 日に何度か取り出して抱きかかえ、膝に乗せたそれに向かって声を掛けるのが、ジェロニモの新たな日課になった。
 母親の骨にそうやって話し掛けるのは、明るいうちだけにしている。まだ部屋の明かりを点ける必要のない間──日の長い今の頃は、夜になってもまだずいぶん明るいままだ──に、骨の入ったそれをクローゼットから出して、そうやってまるで母親に呼吸でもさせるように、部屋の中の自然な明るさは、死んだ母親の骨に話し掛けると言う行為の薄気味悪さを確かにやわらげてくれる。
 眠ったままだった病院の母親と、骨になった母親と、どちらも返事がないのは同じだ。ジェロニモは一方的に彼女に言葉を掛け、彼女が、自分の吐き出す言葉を吸い取ってくれるのだと信じて、一方的な会話を、虚しいとも思わずに続ける。
 耳には骨があったろうかと、今夜はそんなことを考えながら、母親の骨をいつもと同じに抱きしめていた。
 両腕の中に抱え込んだ銀色の骨壺はひんやりと冷たく、つんもりなめらかなつまみのついている蓋を開ければ、恐らくすぐに灰が見えるのだろう。それをまだ実際に見たことはなく、灰になった骨さえ目にしなければ、母親が死んだことを完全に信じないままでいられると、ジェロニモは他愛もなく考えていた。
 骨壺の冷たさが、死んだ母親の冷たさを思わせる。いくら自分の体温であたためても、すぐにぬくもりを失う、弾力のない皮膚。今はその皮膚と肉体すら失った、母親の骨の灰。
 電話越しに聞いた、伯母の家の騒がしさが、ジェロニモを余計にひとりぼっちに感じさせる。母親はもういない。もう、ジェロニモをジェロニモと呼んで、抱きしめてはくれない。
 母親はもう、長い間死んだも同然だった。微睡みの中で、自力の呼吸と鼓動だけが、彼女が生きているあかしだった。
 それでも、少なくとも体温のあるあの体は、触れることのできる実体があったのだと、灰になった彼女を抱きかかえて、今ジェロニモは思う。
 抱かれて、自分の名を呼ばれて、そうやって自分がここに在ることを確かめる。自分と言う唯一無二の存在が、確かにあるのだと、肌で感じることができる。
 母親が逝ってしまった後で、誰が自分にそうしてくれるのだろうと、ジェロニモは思った。誰が、自分を抱きしめて、自分の名を呼んで、おまえはここに確かにいるのだし、いてもいいのだと、そう言ってくれるのだろうと、母親のなれの果てを抱きかかえて考える。
 母親すら、ジェロニモをその名で呼ぶ時に、手繰り寄せていたのはジェロニモの父親だった。母親すら、ジェロニモを見ていてはくれなかった。 
 愛されなかった人間は、死ねばすぐに忘れ去られてしまう。忘れられないために、母親は愛された記憶にすがりついた。死を迎えたその後も、愛してくれた人たちが自分のことを覚えていてくれる。記憶の存在は、死と言う現象を打ち消してくれる。今こうして、ジェロニモが母親を思い出しているように、ジェロニモが覚えている限り、母親は死んだ後も生き続けることができる。そうやって彼女も、愛した人間たちを、自分の身内に生かし続けていたのだ。
 そしてジェロニモは思う。母親にすら愛されなかった自分のことは、一体誰が覚えていてくれるのだろうかと、死体の自分を想像して、それを見下ろす瞳の、どれにも見覚えのない、悲しみの動揺の浮かばない奥行きのない色を、ジェロニモはまざまざと思い浮かべることができた。
 泥の沼に、髪の先まで浸かり切った人生だった母親の、けれどそれは自分のそれよりもずっと幸せだったのかもしれない。愛された記憶を抱えて、それを反芻し続けた母親の、ジェロニモには到底選べるとも思えないその生き方を軽蔑すらしたこともあったと言うのに、その泥沼から抜け出そうとあがき続けているジェロニモの生き方が、母親よりも幸せだと誰が言えるだろう。
 確かに自分は愛されたのだと信じ切っていた母親と、愛された記憶のないジェロニモと、幸せになれなければそれは負けたことになると、はっきりと考えたことはなかったけれど、今ジェロニモは、自分がひどく負け犬のように思えて、そう思って薄寒くなった背中を抱きしめてくれる母親はもうどこにもなく、伯母の、早くここへ戻って来いと繰り返す、ほとんど呪詛のような口振りを、慰めのように感じ始めていた。
 また、母親の骨の灰を抱きしめる。爪の先が当たって、かつんとそこで甲高い音を立てた。その音に、まるで世界が割れでもしたようにはっとなって顔を上げると、よく磨かれた鏡のような表面に今にも泣き出しそうな自分の顔が映っていて、そのひどく情けない表情に、確かな姿形を持って寄り添って来る人影があった。
 あの男なら、と不意に思う。あの男なら、大事な誰かが死んだことの痛みを、きっと分かってくれるだろう。ほんとうに、切り裂かれたように体の中が痛むのだと言えば、きっと自分の右の義手を眺めて、ああそうだろうと微笑んでくれるだろう。
 その死を嘆いて、嘆く自分の痛みを持て余して、苦しくて苦しくて、自分がまるで砂漠にひとりきり永遠に取り残されたような気持ちになって、そんな堂々巡りを繰り返しているジェロニモを、あの男なら笑ったりしないだろう。
 ジェロニモは母親の骨を胸から離し、そっと壊れ物のように机の上に置いた。それから突然ばね仕掛けの人形のように動き出して、上着を掴んで部屋を飛び出した。


 バスに飛び乗った後で、電話することもできたのに、ジェロニモはそうしなかった。
 外は薄暗くなり始めたこの時間に、アルベルトがアパートメントにいなければ──いるはずだと思い込んでいる──、それはそういうことだと、まるでそのことにすべてを賭けでもしているように、まとめた髪が乱れるのも構わず、ジェロニモはバスを降りてから必死に走った。
 何かに追われるように、今夜アルベルトに会わなければならないのだと勝手な思い込みだけで足を前に出し、アパートメントの建物に入った時には、そのジェロニモの必死の形相に驚いてか、守衛の男がブースの中からぎょっと目を見開いた顔を見せた。
 「おい、あんた。」
 ぞんざいに、それでも奇妙に必死に声を掛けて来るのに、もうエレベーターのボタンを押しながら一応は振り向いて顔を見せ、見覚えのあるその男もジェロニモをここへは何度か来たことがある顔と見分けたのか、ああ、と口先でだけ安堵のような小さな声を漏らして、またブースの中の椅子へ腰を収めた。
 今日に限っては、エレベーターの到着が遅い。一度、どこかの階で止まったのを、壁でも殴りそうに苛立たしい気持ちで待って、ようやく開いた扉から人たちが完全に降りるのも待たず、彼らの肩先をすり抜けるようにして、ジェロニモは小さな箱の中へ駆け入った。
 扉の上の数字の並びに、のろのろと電気の明かりが移動してゆくのをいらいらと眺めて、噛んでいる唇の端の痛みにも気づかない。足音も、自分の大きな体が揺らす空気の動きにも気を止めず、ジェロニモはまた小走りに、アルベルトのアパートメントへ向かって走る。
 さすがに臙脂のドアの前では数秒動きを止め、何とか荒い息をわずかに治めてから、恐る恐るそのドアを叩いた。
 足音は、すぐにはやって来なかった。もう一度、今度はもう少し大きな音で叩く。やっと中で人の動く気配がして、面倒くさそうに足をひきずる音が近づいて来る。
 「どなた?」
 ドア1枚隔てただけだと言うのに、いかにも不審げなアルベルトの声は、電話で聞く声よりも遠く聞こえる。ジェロニモは決心したように、胸を大きくふくらませて息を吸い、吐くのと一緒に、その声に応えた。
 「──おれだ。」
 息を止めた沈黙。驚いている。そして、ドアを開けるかどうか、迷っている。それが、ドア越しにもはっきりと分かる。ジェロニモは知らずに拳を握りしめて、このドアの開くことを、心の底から祈った。
 ノブを回す音が聞こえて、ドアがほんの少しだけ開いた。アルベルトの瞳が両端を切り取られて半分量だけ見え、その色を見た瞬間、ジェロニモは大きな罠でも上手く避けたような安堵を感じて、掌に食い込んでいた指先からそっと力を抜く。
 怒り、羞恥、困惑、それと、かすかではあっても、決してジェロニモのこの突然の来訪を邪魔には思っていないらしい、年長者の余裕のようなものをすべてない交ぜにした表情を確かに瞳の中に浮べて、アルベルトは静かにドアを大きく開いた。
 目顔で入れと示されて、そこからはいつものように足音を消し、ジェロニモはアルベルトの傍を、体を斜めにして通り過ぎた。ドアを閉めた後はアルベルトが先に立ち、それに続いて中へ入ると、やや薄暗い部屋の中で、3人掛けのソファのこちらの端の明かりだけがともされ、座面には投げ出された本が見えた。テーブルの上にあるのが、どうやらコーヒーか何かのマグらしいことを見て取ると、少なくとも今はアルベルトが素面らしいことを悟って、ジェロニモはまた別の安堵を覚える。
 「突然押し掛けて来て、すまない。」
 ソファまで後数歩のところで足を止め、ジェロニモはそこから、まだ自分に背中半分向けたままのアルベルトへ、できるだけ真摯な声音で言った。
 アルベルトはジェロニモの方をあえて見ないようにしながら、ソファの上に放り出していた本を取り上げてテーブルへ置き、坐れと言う風に、ジェロニモへ向かってあごをしゃくる。
 「別にいい。どうせ俺はいつだって暇だ。」
 ジェロニモはまだその場から動かず、自分と目を合わさないアルベルトを見ていた。
 手持ち無沙汰の沈黙にさすがに耐えられなくなってか、アルベルトは自分の足元へうろうろ視線をさまよわせたまま、
 「──君がまた、ここへ来るとは思わなかった。」
 最後に会った時の、ひどい言葉の投げつけ合いを思い出して、ジェロニモはほんのわずか眉を寄せた。
 「俺は、ずいぶんひどいことを言ったからな。」
 「それはお互いさまだ。」
 やっと顔を上げたアルベルトへ視線を据えて、あの時は酔っていたからとは言い訳が続かないことに、張りつめている心の端を少しだけゆるめて、ジェロニモは自分がどれほどこの男のことを好きなのかと、今場違いに自覚する。
 「コーヒーでいいならすぐ──。」
 自分のマグへ手を伸ばしながら、アルベルトができるだけ軽い口調で言う。
 右手も素足も剥き出しの、だらしのないアルベルトの普段着の姿が、ジェロニモから、ここへ来るまでにあふれそうなほど抱え込んで来た悲しみを、ほんの一瞬拭い去る。そしてそれはたちまちジェロニモの胸をまたいっぱいにして、心の周囲へ建て回していた塀のようなものを、あっさりと乗り越えてゆく。アルベルトに会えた安堵が、ジェロニモを心弱くしていた。
 キッチンへ行こうと、ジェロニモから1歩後ろへ下がったアルベルトへ向かって、ジェロニモは唐突に口を開いた。
 「──母が死んだ。」
 アルベルトの目が大きく見開かれ、ジェロニモを凝視する。髪と同じ色の眉が寄り、呼吸困難の魚のように、これもまた色の淡い唇が、ぱくぱくと音を立てずにただ動いた。やっと出た声は、震えていた。
 「いつ──?」
 「先週だ。骨になって、今はおれのところにいる。弔いは、向こうですることになってる。」
 ジェロニモが一気に言った後、アルベルトはほとんど駆けるようにジェロニモの目の前にやって来て、そこで両腕を伸ばして、ジェロニモを抱きしめた。右腕の固い感触が背中に触れると、ジェロニモは目を閉じて、アルベルトの右肩にあごと頬をこすりつけて、何度か短い瞬きをした。
 両腕に力を入れてもびくともしないアルベルトの体は、確かにあたたかく、そして確かにここに在った。色違いの皮膚が触れて重なり、ジェロニモは母親の骨の灰の入った容れ物のことを今なぜか思い出しながら、やっと彼女の死に正面から向き合っているような気がした。
 アルベルトの首筋は、力強く脈打ち、やや位置はずれてはいても重なっている胸から鼓動がふたつ一緒に聞こえて、一定のリズムを刻むその音が重なり絡まり、ふたりの間で命の旋律を生み出している。
 アルベルトに抱きしめられ、アルベルトを抱き返して、それはただそうだと言うだけの、それ以外にはまったく意味のない抱擁だった。
 やっと体が離れると、アルベルトはジェロニモの腕を引いてソファに坐らせ、自分もその隣りへ腰を下ろした。
 「普通なら酒でも勧めるところだが。」
 また、自分のマグを見返ってアルベルトが言う。声にはやや軽口めいた浅さが交じり、この場の深刻さを少しでもやわらげようとするその口調に感謝しながら、ジェロニモは小さく首を振って見せた。
 「・・・俺も、実はあれきり飲んでないんだ。」
 あの小競り合いを、アルベルトは自分以上に真剣にとらえていたのかとちょっと驚いて、ジェロニモは眉の片方を少しだけ上げる。
 「おかげで、コーヒーを淹れる腕前がちょっとだけ上がった。」
 口調がさらに軽くなる。ジェロニモはそれにつられて微笑み、それから、アルベルトには隠しながら、小さく小さく喉の奥でだけため息を吐いた。
 アルベルトがそっと左手を伸ばして来て、ジェロニモの、額へ垂れた前髪をかき上げる。撫でつけるように髪の流れに触れながら、掌が頬へ乗る。アルベルトのその手に向かって、ジェロニモは寄り掛かるように顔を傾けた。
 「ちゃんと寝てるのか? ひどい顔色だ。」
 アルベルトが、今度は真剣な口調で、眉の間をはっきりと狭めて訊く。答えは返さずに、代わりのように、ジェロニモはアルベルトに向かってゆっくりと瞬きをした。
 様々のことを押し隠す気力を手放して、無理をやめた途端に、何もかもが内心から噴き出して来る。ひとりきりで必死に背を伸ばして立ち続けて来た足元を崩し、今は地面に這いつくばっているような気分で、そのまま全身の力を抜いて、その場へ横たわっていたいと思った。
 言われて初めて、きちんと眠ったのはいつだったかと考える。母の死の知らせの後の病院での仮眠以来、自分の部屋で横にはなっても眠気は遠いまま、眠れはしてもわけの分からない夢まみれの、訪れるのは浅い眠りだけだった。
 遅れた分の勉強が捗ってちょうどいいと思ったのは、あれも単なる現実逃避だった。締め切りを延ばしてもらったレポートは、きちんと書き上げて昨日提出はしたものの、一体何を書いたかすでに記憶がない。
 そうか、自分はとても疲れているのだと、ジェロニモは初めて気づいていた。
 ちょっと言い淀んで、アルベルトがジェロニモの肩越しにどこかへ視線を投げ、それから、言い難そうに言葉を継ぐ。
 「その、少し眠った方がいいんじゃないのか? 君が嫌じゃなければ睡眠薬もある。俺が処方されたやつだが、君だったら大丈夫だろう。」
 「・・・ここで?」
 アルベルトの掌に顔半分預けたまま、ジェロニモは下目に、今ふたりが向かい合って坐っているソファをちらりと見た。
 このソファで、と言う意味では決してなかったのだけれど、アルベルトは首を振って、ジェロニモの後ろへ向かってあごをしゃくる。
 「俺のベッドで寝ればいい。少しきちんと眠れたら、きっともうちょっとましな顔色になる。」
 子どもでもあやすように、薄く笑みを浮かべながら、アルベルトはジェロニモの頬を撫でた。
 そう言われた途端に、アルベルトの言う自分のひどい顔色が見もしないままはっきりと感じられて、ジェロニモは不意に重くなった体をもう動かすのすら億劫になり、素直にうなずいていた。
 アルベルトは弾むように身軽に立ち上がると、キッチンへ行って冷蔵庫から水のボトルを出し、足早に戻って来る。ジェロニモに向かって差し出す右手には白い錠剤が乗っていて、さすがに睡眠薬にはためらいを感じて、ジェロニモは戸惑いながらその小さな塊まりを指先につまみ上げた。
 「ごく弱いやつだ。鎮痛剤と一緒に飲んでも大丈夫なくらいだから、心配しなくてもいい。」
 ジェロニモの躊躇を見て取ってか、アルベルトが安心させるように言う。薬など滅多と飲まない──病気になることが滅多とない──ジェロニモは、覚束ない手つきで錠剤を口の中に放り込み、受け取ったボトルから水を飲んだ。
 水は取り上げられ、空手になったジェロニモの腕をまた引き、アルベルトは大きな背中を寝室へ向かって押す。ほんとうに子どものように、アルベルトの言うまま動いて、たった今飲んだばかりの薬がまだ効いて来るはずもないのにもう眠気を感じながら、ジェロニモはベッドの傍で上着を脱がされ、着ている服をゆるめられてから、上掛けの下に押し込められた。
 アルベルトは枕の位置まできちんと整えてから、ジェロニモをすっかりベッドの中にたくし込んで、うず高く盛り上がった肩近くをぽんぽんと叩くことまでやった。
 またジェロニモの髪を撫で、それから、ああ忘れていたと間近の表情に浮べて、ジェロニモの髪からゴムを引き抜く。長い髪がさらりと枕の上に流れ、それをまた撫でながらジェロニモの額にそっと口づけて、
 「お休み。」
 心を直に慰撫するような、優しい声だった。
 「・・・おやすみ。」
 薄目にアルベルトの背が部屋を出て行くのを見送って、ジェロニモは間もなくすっかり目を閉じた。夢を見た記憶のない深い眠りが、じきにそこへ降り落ちて来た。
 
 
 目覚めは突然やって来た。きっぱりと開いた目の中が白く満たされて、まぶしいと感じる間もなく、眠気は吹き飛んでいた。
 横向きに、軽く丸めていた手足をそっと伸ばして、シーツの肌触りや伸びた爪先が空回るのに、ようやくここが自分の部屋でないことに気づく。
 そうだ、アルベルトに、寝て行けと言われたんだった。起こした半身をひねって後ろを見ても、そこはただ空のままで、アルベルトがベッドに来なかったことを示している。ジェロニモはそろそろと素足を床に降ろし、とりあえずは脱いだ服を身に着けながら、閉まったままのドアへ向かう。
 ソファの背と、その向こうにキッチンが見えて、そこにはすでにアルベルトの背があった。
 「やあ、起きたのか。」
 ドアの開いた音に気づいてか、アルベルトが明るい顔でジェロニモへ振り返る。ジェロニモは口元を掌で撫でて、それから寝乱れたままの髪をかき上げた。
 「今何時だ。」
 「10時になるところだ、朝の。」
 言いながら窓の方へあごをしゃくるのに、ジェロニモも視線を合わせた。確かに外は、もう完全に昼間の明るさだった。
 アルベルトのくれた薬は、どうやらほんとうによく効いたようだ。目覚めの爽やかさで体すら軽く感じられて、キッチンへ向かって歩きながら今日の講義のことを考えたけれど、さぼることがそれほど深刻とも思えず、ジェロニモはそこで考えるのをやめた。
 「もしまだ頭がぼんやりしてるようなら、シャワーを浴びて来るといい。完全に目が覚める。」
 眠気は完全に去っていたけれど、熱い湯を浴びるのはいい考えだと思った。バスルームの方を眺めて、アルベルトの提案に同意を示して、それから何気なく後ろのソファへ振り返る。
 3人掛けのソファには丸まった毛布が置いてあり、クッションが片端に集められて、同じ側のテーブルの上には本が数冊積み上げられている。明らかに、アルベルトがそこで夜を過ごした跡だった。
 ジェロニモの、ひとりきりの安眠を尊重したのか、あるいは単純に、ベッドの大きさが少々心許ないと読んでか、どちらにせよ、ここで過ごした初めての夜がひとり寝だったことをちょっとだけ奇妙に思いながら、ジェロニモは、アルベルトの提案通り、シャワーを浴びるつもりでそちらへ爪先を向けた。
 「卵はいくつだ? 俺はスクランブルだが、君は?」
 目は覚めているつもりなのに、声を掛けられると言葉をきちんと受け取るのに少々時間が掛かるようだ。ジェロニモは怪訝な表情を隠さずに、アルベルトを見返った。
 「ソーセージと卵くらいしかないが、君も食べるだろう?」
 朝食の話をされているのだと、そう言われてやっと気づいて、それから急に空の胃が存在を主張し始め、腹の虫が鳴き始めたのを静めようと、ジェロニモはうっかり自分の腹へ掌を当てる。
 「・・・3つで、スクランブルでいい。」
 分かったと、アルベルトがうなずいて微笑む。アルベルトの笑顔を照らす午前中の陽射しの明るさが気恥ずかしいほどで、ジェロニモは赤らむ頬を隠すために、慌てて肩を回してバスルームへ急いだ。


 湯気で曇った鏡の中でも、自分の顔色がずいぶんましになったのがきちんと見えて、夕べはよほどひどい顔をしていたのだと、脱いだ服をまた着けながら思う。少し濡れてしまった髪を何とかタオルで拭き取りながら、ドアの向こうの、キッチンの物音へ耳を澄ましている。
 夕べまで心を占めていた重苦しい深刻さが、今日はずっと軽くなっているような気がする。考え込んでも仕方がないと、そう言う声が聞こえて、それもそうだと素直にうなずいている。不思議と、大丈夫だと言う、例の上の空の声は聞こえなかった。その声が今は聞こえないことに安堵して、ジェロニモはようやくバスルームを出る。
 キッチンとリビング部分を仕切る位置のアイランドに、大きな皿を出して、アルベルトがその前に椅子を置いているところだった。
 「ああ、ずっとましな顔色だな。」
 浮かれていると言う調子では決してなく、それでもアルベルトの声も表情も明るい。部屋にあふれる陽射しのせいかと思いながら、ジェロニモはその椅子へ、示されるまま腰を下ろした。
 アルベルトはシンクを背にして、ジェロニモと向かい合う位置に坐り、
 「訊かなかったが、カプチーノで良かったのかな。」
 皿の傍に、久しぶりに見るマグが置いてある。縁までいっぱいに満たされ、そちらに顔を向けただけでコーヒーが強く香った。思わず口元をちょっとだけほころばせて、ジェロニモは浅く何度もうなずいて見せた。
 こんもりと盛られた卵はきれいな薄黄色で、一緒に焼いたソーセージがきちんと並び、さらに薄切りのサラミとハムもある。また腹の虫が、辛抱もせずに鳴る。ジェロニモはフォークを取って卵をすくい、無言で口の中に放り込んだ。
 アルベルトも、自分の皿へうつむき込む。ふた口三口卵に手を着けた後で、
 「・・・夕べは、よく眠れたみたいで、良かった。」
 かちかちと、フォークの先が皿に当たる音の合間に、静かにそう言った。
 「薬がよく効いた。ベッドに入った後のことは何も覚えてない。」
 アルベルトの方は見もせずに皿にうつむいたまま答えて、ジェロニモはあっと言う間にソーセージを胃の中に収める。
 誰かが作ってくれた食事は久しぶりだった。病気の母親を抱えて、自分の面倒は自分で見て来たし、こんな風に誰かに世話を焼かれることは滅多となく、甘やかされることに照れくささを感じながらも、同時にそれを心地良いと感じるのは、相手がアルベルトだからだろう。
 皿はすぐに空になり、ジェロニモはカプチーノのマグに手を伸ばして、窓の外を見ている振りで、まだ食事中のアルベルトの視線を何となく避けている。昼間の明るさの中で会うには、少しばかり差し障りのあるふたりの関わりだった。
 まだ濡れて冷たい髪を、肩の後ろへ払いながら、今は初めてここから見る街の朝の表情に少し本気で目を奪われて、この街に来て1年近くになると言うのに、ゆっくり外の風景を眺めたこともなかったことに思い至る。淹れたばかりのコーヒーをゆっくりと飲んで、時間のことなどすっかり忘れて、ジェロニモは、夕べ感じた体の重さや億劫さとはまったく別の、奇妙に気持ちのいいけだるさを感じていた。これも夕べの薬の効き目なのか、痛いほど張りつめていた神経が、今はゆるゆると皮膚の下を撫でている。
 重荷を下ろしたように、急に楽になった体で、もうその荷を背負い直すことにためらいを感じ始めている。薬の効き目がすっかり切れてしまえば、またいつもの、病的なほど勤勉な──振りのできる──自分が戻って来るのかと、さして危機感も抱かずに考えていた。
 明るい風景にじっと目を凝らして、その中を歩きながら、太陽を見上げてそれに感謝することさえ忘れていた自分に気づく。あらゆるものから切り離されて、孤軍奮闘していたつもりで、実際はただ自分の周りに壁を作り、そこであらゆることから目をそむけていただけではなかったのか。口元へ寄せたマグをそこで止めて、ジェロニモはぼんやりと考え続けている。何かふと、不意に頭の隅をかすめて行った、光のきらめきのようなものを感じて、その姿を確かに捉えるために目を細めて、けれど目の前に見えるのはただ街の姿だけだった。それでも、今何か、とても大事なことを思いついたのだと思って、ジェロニモは視界を狭めてその光の尻尾を掴まえようとした。
 かちりと、音がして、はっとそちらへ意識を引き戻された。アルベルトが空になった皿を重ねて、シンクへ運んだところだった。
 シンクの縁へ寄り掛かって、アルベルトが胸の前に腕を組む。自然に、鉛色の右手に視線を吸い寄せられ、ジェロニモはそこにさっき見えた気のする光があるかもしれないと、埒もないことを考えながら、眉を寄せて目を凝らした。
 「君は笑うかもしれないが──」
 言い出して、言葉を切る。アルベルトの笑みが、ちょっと苦笑の色を強めた。
 「勉強する君を見てて、大学へ行くのも悪くないかもしれないと思ったんだ。」
 笑うのではなく驚いて、ジェロニモは思わずあごを引いた。
 「俺はようするに音楽バカで、ピアノを弾く以外のことは何も知らない。今のまま、部屋に閉じこもって、何をするあてもない曲を書き続けるのは別にいいんだが、もう少し別のことをするのもいいかもしれないと、君を見てて思ったんだ。」
 喋りながらまた、アルベルトは椅子へ戻って来た。
 60になって大学へ戻る人間もいる。アルベルトが今さら大学生になると言うのも、別に珍しい話でもなかった。けれど、アルベルトが自分と同じように本の山に囲まれて頭を抱えている姿がちょっと想像できず、ジェロニモはアルベルトの考えをちょっと意外に思った。
 「大学で、何を勉強するんだ。」
 意地の悪い質問かと思いながら、尋いた。
 「ドイツ語、とか。」
 さすがに、すらりと答えるには気が咎めたのか、言葉の間が不自然に空いた。そしてジェロニモは、その答えを受け取って、思わず吹き出していた。
 「・・・それは、ずるい気がする。」
 「どこかの音大のピアノ科にもぐり込むよりは、良心的な選択だと思うんだが。」
 「そんなことしたら、最初の授業であんたの顔を見た瞬間に、教授がきっと真っ青になって逃げ出す。」
 「この国じゃ、俺はそんなに有名じゃない。」
 軽口のやり取りの間に、さり気なく自虐めいた冗談も差し入れて、それでもふたりの口調は、部屋の中の明るさに相応しい響きを保ったままだった。
 「外国語を専攻するのに、母国語の人間は制限されるんじゃないのか。」
 ちょっと真面目になってジェロニモが訊くと、アルベルトは身を乗り出すようにして、
 「それがそうじゃないんだ。ちょっと面白半分に調べたんだが、そういう制限は一切ない。俺がドイツ語を専攻するのはまったく無問題なんだ。」
 面白がるように、無邪気に唇の端を大きく上げた。
 「君らだって、普通に英文学を学ぶだろう。その言葉を理解できるからって、あらゆることが分かるわけじゃない。案外、俺みたいに偏った人間には、自分の使う言葉を改めて勉強し直すのも必要かもしれない。」
 半ば冗談めかして始めた話を、語る間にきちんと筋道が見えて来たのか、アルベルトは意外と本気の表情と口調で真面目な言葉を並べ始める。ジェロニモは、その響きを冗談へ戻すために、小さく茶々を入れた。
 「じゃあおれは、おれの母語を専攻できる大学を見つけて、そっちに移るべきだな。」
 「悪い考えじゃないな。」
 アルベルトは真面目にうなずいて、コーヒーをひと口飲んだ。
 ジェロニモは一瞬真顔になり、さっき見た光のきらめきがまた視界の端をよぎったような気がして、一体何がひらめいたのかと、アルベルトに視線を据えたまま、今じっと見つめているのは自分の心の内側だった。
 何か今とても大事なことを、アルベルトと真面目に話し合っているような気分で、ジェロニモはもやもやと自分の中に湧いて来る霞のようなものの、せめて輪郭でも捉えようと、一体自分が今何を感じて何を考えているのかを、はっきりさせようとしていた。
 頭の半分は恐ろしいほどくっきりしているのに、後の半分はどこかぼんやりとして、自分の内側を説明する言葉がしっくりとは浮かばない。まだ薬の効き目が残っているのだろうと思って、カプチーノへ唇を寄せた。
 「俺が大学に行くことになったら、試験や論文の締め切りの前に、君を誘って一緒に勉強ができる。」
 「時期が同じとは限らない。」
 「いいんだ、どうせ君は試験前だろうと後だろうと、ずっと勉強し詰めじゃないか。」
 ずっと冗談交じりだった口調が、その時だけ、心配そうに親身な色を帯びた。マグの縁から自分を見つめるアルベルトの瞳の色が、わずかに濃さを増す。その色をじっと見つめ返したいと思いながら、逆にジェロニモはカプチーノを飲む振りで、するりと窓の方へ視線をずらした。
 「頑張り過ぎると、どこかで無理が出て来る。息抜きだってたまには必要だ。」
 アルベルトの指先が、テーブルの上に置かれてちょっと迷うように動いた。そこから腕を伸ばして自分に触れようとしているのだと分かっても、今手を差し出すのは何となくアルベルトへの甘え──アルベルトは、明らかにジェロニモを甘やかしたがっている──のような気がして、ジェロニモは自分を引き止めるために軽く拳を握りしめた。
 代わりに、言葉はその場に素直に滑り落とした。
 「・・・息抜きなら、今してる。」
 言った途端、まるで幼じみた自分の言い草に驚き、そしてそれを聞いたアルベルトも、驚きに唇を軽く開けて、アルベルトがあんまり真っ直ぐ見つめて来るのに照れて、ジェロニモはまたアルベルトからぎこちなく視線を外した。
 アルベルトが、そっと椅子から降りた。アイランドの縁を回って、ジェロニモの傍へやって来る。上半身だけをアルベルトへ向けて、ジェロニモはまだ目を伏せたままだった。
 アルベルトの両手が頬に掛かる。あごを軽く持ち上げられ、額が、ごつんと当たった。
 珍しくほどかれたまま、指先へ掛かって来るジェロニモの髪を面白がって、アルベルトは声に出して笑いながら、ジェロニモの首筋を全部指先の中へ収めようとした。
 触れられた途端、体温が上がり、鼓動が速まるのが分かる。首筋に脈打つ血管が、アルベルトの指先を確かに叩いている。ジェロニモは、目を閉じた。
 唇が重なる。ジェロニモの両手がアルベルトのうなじへ掛かり、銀色の細い髪の中に、乱暴に差し込まれて根元を探った。
 「君が、いいなら──」
 重なってこすり合う唇を、一度無理矢理引き剥がして、荒い息に途切れながら、アルベルトがやっと言う。ジェロニモはアルベルトを逃がさずに引き寄せて、椅子を蹴るように立ち上がっていた。
 

 アルベルトのシャツは、ドアを開いたところで床に落ちた。ジェロニモのシャツは、アルベルトのシャツとベッドの間で脱ぎ捨てられた。
 カーテンを引いてあっても、昼間の明るさは容赦なく、それでも構わずにふたりは裸になって、ジェロニモが起きた時のままのベッドへ飛び込む。互いを抱きしめて掌が動く間、唇はほとんど重なりをほどかなかった。
 アルベルトの冷たい固い掌が、背骨の上を滑ってゆく。その手が首の後ろへ添えられて、指先が髪に絡みついた。ジェロニモの長い髪が垂れ落ちて、アルベルトの顔を覆う。その髪を時々かき上げながら、アルベルトはついでのように、髪の根へ何度も指先ももぐり込ませた。
 時々体の位置を変えて、アルベルトが上になると、今度はジェロニモがアルベルトの髪をくしゃくしゃにした。柔らかくて頼りない髪は、乱暴に扱うとそこから切れてしまいそうで、アルベルトを抱きしめる時には手加減はなくても、髪に触れる時には気をつける。同じように、久しぶりに触れるアルベルトの右腕の扱いにもきちんと気をつけて、無我夢中と言う風でも、ふたりはどこか穏やかに互いに触れている。
 夕べひとりで、夢も見ずに眠ったベッドで、今はアルベルトと抱き合って、もしかして自分はまだ眠ったままでいるのではないかと思いながら、アルベルトを抱きしめる腕に力をこめずにはいられない。アルベルトを逃がさないためにではなく、自分がすがりつくようにして、ジェロニモはアルベルトを抱いた。
 どれだけ触れていても、アルベルトの躯は相変わらず反応を返さず、それでも、互いに熱くなる躯があれば充分だった。
 アルベルトの両腕が首に絡みついて来る。片腕だけで抱き寄せて、ジェロニモはそのまま体を起こした。ふたり分の体重に、ベッドが悲鳴を上げるようにきしむ。汗に濡れた額をこすり合わせながら、鼻先と唇の先を交互に触れ合わせて、開いた両脚の間に互いを囲い込むようにして、ジェロニモはアルベルトの膝を撫でた。
 内腿へ指先が入り込むと、避けるようにアルベルトが腰をねじる。睫毛の触れそうな近さでアルベルトをじっと見つめて、ジェロニモはアルベルトの動きを止めさせた。
 片掌にそっと握り込む。ジェロニモの肩に額を押し当てて、アルベルトが声を噛む。手応えのないそれを、ジェロニモは脆い獣の仔の扱いにして、できるだけ穏やかに指先だけを動かした。
 お返しのつもりかどうか、アルベルトも左手を伸ばして、ジェロニモに触れて来た。こんな風に体を近寄せれば、嫌でもあちこちへごつごつと当たるそれを、アルベルトは掌の中に何とか収めて、しばらくの間はそうやって、互いに好き勝手に互いに触れていたけれど、時々互いの掌の動きが揃って、それからまた少しずつずれてゆく。
 アルベルトの2倍遅く、ジェロニモはアルベルトに触れていた。指先の立てるかすかな音と、唇の間から漏れる濡れた音と、ずれて重なって、そうやってまるで、一緒に何かの曲でも演奏しているように、ジェロニモの耳には確かに音楽が聞こえている。ふたりでそうして奏でる曲の、優しくても鮮烈な旋律が、ジェロニモの皮膚の下にゆっくりとしみとおってゆく。
 果てることを目的にしなければ、このままずっと触れ合っていられた。それでも、ジェロニモが終わらなければアルベルトを傷つけそうで、だから思い切ってアルベルトの右手を取って、自分の方へ引き寄せた。
 両手を重ねて、その中に、互いのそれを一緒に包み込んだ。アルベルトの固い指先が、初めて自分のそれに触れる。アルベルトはそうすることに躊躇を隠さず、けれどジェロニモはその手を逃がさなかった。
 触れるだけでよかった。アルベルトに触れ、ジェロニモに触れ、互いのそれが触れ合い、熱に溶けそうになりながら、触れ合う指先が互いの指の間に入り込み、時々手を握り合うようにして、そうして触れ合った。
 熱くはならないアルベルトの指先を、ふたり分の体温があたためてゆく。ぬるりと触れて、汚すことを少しの間気にして、それでもジェロニモは、アルベルトにそうして触れられたかった。
 果てるためではなく、躯と皮膚と、何もかもを寄り添わせるために、ふたりは抱き合って、触れ合っていた。
 息を止めた後で、長々と息を吐いたジェロニモの背を、アルベルトが左手で抱いて撫でた。右手はまだ、そこに触れたままだった。
 

 引いてゆく熱の代わりに、けだるさが体を満たしてゆく。恐らくとっくに昼を過ぎているだろうと思いながら、ふたりは起き出す素振りは隠して、ベッドの中で体を寄せ合ったままでいた。
 ジェロニモはアルベルトの右腕を胸の前に抱え込み、アルベルトはそのジェロニモの髪を、ずっと梳いて指先を遊ばせている。時々ジェロニモが肩口に頬をすり寄せて唇を押し当てると、アルベルトは返事のようにジェロニモの髪に口づけて来た。
 部屋の空気はまだ蜜のようにどこかとろりと濃く、ふたりに怠惰を許して、さらにもっとと促して来る。薬の効き目の残りかどうか、ジェロニモはじわじわと脳の半分以上を、また眠気に溶かされつつあった。
 アルベルトも、夕べはソファでよく眠れなかったのか、長く目を閉じたままのジェロニモへもっと体を近寄せて、押し寄せて来る眠気を妨げようとはしない。
 子守唄のように、さっきまで耳の奥で聞いていたふたりが一緒に奏でた曲を思い起こして、ジェロニモは、それをきちんと楽器か何かで再現できればいいのにと考えている。そうして、頭の中に常に音楽が溢れていると言うアルベルトの気持ちを、ほんのわずかでも味わった気分になって、アルベルトの大学へ入るかもと言う話を思い出していた。
 大学へ入ったら、もう音楽はやめてしまうのかと、そんな問いが胸に湧いて、それを尋ねる立場に自分はいるのだろうかと、また考えた。アルベルトのピアノを聴きたいと思っているのは、世界に自分だけではない。けれどアルベルトと、こんな風に近々と抱き合えるのはきっと自分だけだと思うと、少々無遠慮な質問も許されるような気もした。
 無遠慮、と思ってから、伯母との電話を思い出し、そして彼女の声に重なる、これも遠慮のない子どもたちの声を思い出して、あれも聞きようによっては音楽的に聞こえるに違いないと、すっかりアルベルトの目線になって考えている。
 ぎらぎらした陽射しを遮る何もない、押し潰されそうな家のまばらに並んだ自分の生まれ育った土地が、不意に目の前に浮かんで来る。母が、そこからジェロニモを手招いている。ひと色、鮮やかさの足りないその風景に、不意に胸をえぐられるような痛みを覚えて、ジェロニモはいっそう強くアルベルトの腕を抱きしめた。
 「ジュニア?」
 怪訝そうに、アルベルトがジェロニモの顔を覗き込んで来る。それに上目に応えて、部屋に溢れる明るさに負けずに、確かにここに在るアルベルトの、白っぽい輪郭を視線でなぞってから、ジェロニモは言葉にできない深い想いをこめて、抱いているアルベルトの右腕を指先でそっと撫でた。
 「・・・ジュニアじゃない。」
 不意にそう口をついて出た言葉で、義手の表面が白く曇る。それはすぐに消え、近々と寄せた自分の顔が、ぼんやりとそこへ映ったのがまた見えた。
 「何だって?」
 アルベルトが、ジェロニモの髪を撫でる手は止めずに、もっと顔を近づけて来る。不審と不信の分かち難く入り混じった表情を再び上目に見てから、ジェロニモは、さらにすがるようにアルベルトの腕を自分の胸へ引き寄せた。
 「それはおれの名前じゃない。」
 アルベルトが表情を消した。それを悪い方へ受け取って、ジェロニモは黙り込む。アルベルトはジェロニモの沈黙を正しく聞き取って、抱きしめられた右腕を引き取りはせずに、そのままさらに体を近づける。
 「じゃあ、君の名前は何て言うんだ。」
 低い声が耳へ直接掛かる。問い詰める口調ではなく、響きはあくまで穏やかだった。
 「ジェロニモ。」
 ふた拍アルベルトを見つめてから、やっとそう言った。ずっと呼ばれていた自分の名前なのに、ひどく久しぶりに聞くような気がして、自分の声を口移しに、アルベルトが色の薄い唇をゆっくりと動かすのをじっと見ている。
 「ジェロニモ。」
 わずかに発音の、どこかずれている響きが、だからこそほんものに聞こえて、それは確かに父親の名ではなく、ジェロニモ本人の名だった。
 「それがおれの名前だ。」
 まるで説得する風に、ジェロニモはアルベルトの水色の瞳を覗き込むようにしながら言った。そうか、とアルベルトが微笑みを浮べて、こつんと額を合わせて来る。そこでまた、アルベルトがジェロニモを、ジェロニモと呼んだ。
 もうこの街では、呼ばれることはないだろうと思っていた、自分の名だった。父親のそれではなく、ジェロニモは今初めて、自分の名を自分のものにして、これで充分だと思った。
 父親を通してではなく、自分自身を真っ直ぐに見つめて、その名を呼んでくれる誰かがいただけで、もう充分だと思った。そうして、母親もきっとそうだったのだと思った。自分を見つめてくれる誰かを、母親も欲しがっていたのだと思った。
 アルベルトが、目の前で微笑んでいる。アルベルトの金属の右腕を抱きしめて、ジェロニモも微笑み返した。
 くつくつと、意味もない笑いがふたりの唇から同時にこぼれ始めて、ざらりと自分の髪を撫でる音が、ジェロニモの耳の中へ一緒に流れ込んで来る。頬へ流れて来たアルベルトのその掌に、偶然の素振りで軽く唇を当てて、ジェロニモはもう一度、今度は自分自身に向かって微笑んだ。


 抱いて、そのまま眠りに落ちてしまったアルベルトの右腕はいつの間にかどこかへ抜き取られ、目覚めた時にはアルベルトの背に胸を重ねる姿勢でいた。
 部屋の中はまだ明るいまま、何時かと首を回し掛けてやめ、ジェロニモは大きな体をできるだけそっと動かしてベッドを抜け出す。音を立てないようにしながら、ベッドの周りを回って、脱ぎ捨てた服を拾い集めた。
 シャツを首に通していると、ベッドがきしんだ音を立てて、白い生地越しにアルベルトが動いているのが見え、シャツを体に添わせながら肩越しにだけ振り向いて、
 「まだ寝てていい。」
 「君は・・・?」
 「帰る。明日はちゃんと講義に出ないと、後で困る。」
 寝乱れた髪へ手をやりながら、アルベルトがちょっと罪悪感めいた表情を浮べた。ジェロニモの言い方で、今日は講義があったことが伝わって、しまったとちょっと思ったけれどもう遅い。ジェロニモは努めて表情を変えずに、指先で首周りに散った髪を軽く梳く。
 「返してくれ。」
 髪をまとめる仕草をしながら、アルベルトへ向かって手を差し出した。夕べアルベルトがほどいた後、髪をまとめていたゴムは以前そうしたように、右手首に着けていたのを確かめている。アルベルトはジェロニモの手と自分の右肩を交互に見比べてから、惜しむようにゆっくりとした仕草で、持ち上げた右の手首から髪のゴムを取り、さらにゆっくりとジェロニモの掌へ乗せた。
 手早く髪をまとめて、それで身支度は済んだからもういつでも出て行けるのに、ジェロニモはまだ少しの間そこへ立って、ベッドへ上体を起こしたアルベルトを眺めていた。
 剥き出しの右腕に目を凝らし、眉の間を寄せて目を細め、視界を狭めてアルベルトだけを見つめる。周囲のあらゆるものを切り取って、ジェロニモはアルベルトだけを見ていた。
 恐ろしいほど静かだった。空気は動かず、声を出さず、耳を澄ませばアルベルトの言う、世界にあふれた音楽が聞こえて来るのだろうけれど、あえてそれには耳を傾けずに、ジェロニモは今アルベルトだけを見つめていた。
 白にも濃淡がある。殺風景に見える白の連なりも、よく見れば驚くほど色鮮やかだ。その中で、アルベルトの白は、ひと際輝いて見えた。
 ぼんやりと頭に浮かんでいたことが、今少しずつはっきりと輪郭を持って自分に迫って来ていた。ジェロニモはそれをきちんと掴み取ろうとしていて、すり硝子越しに見ていた世界を、今初めて裸眼で眺めているように、自分の中を確かに満たし始めている様々のことに、真正面から向き合っている。
 瞬きもせずにアルベルトを見つめたまま、ジェロニモはベッドへ1歩近寄った。
 「あんたには──色々と世話になった。」
 唇が自然に動く。悲痛さも淋しさもなく、言葉が淡々と胸の中から滑り落ちて来る。
 「ありがとう。」
 そう言った時、アルベルトの目が大きく見開かれ、最初に浮かんだのは照れだったけれど、すぐに困惑が後を追い、視線がジェロニモの頬と瞳の間をさまよった。
 「何だかまるで・・・もう最後みたいな言い方じゃないか。」
 できるだけ、冗談めかして言ったつもりだったのだろう。声の底が震えていた。それは、ジェロニモにもはっきりと聞き取れた。
 「あんたには色々考えることがあって、おれにも色々考えることがある。そんな風に気づかせてくれたことに、感謝してる。」
 ジェロニモの声は、静かで、震えも迷いもなかった。
 「ありがとう。」
 もう一度言って、アルベルトへまた手を差し出す。今度は、握手のためだった。
 「君は──」
 言葉はそこで途切れ、悲しげな沈黙が後を満たし、それでもアルベルトは唇を真っ直ぐに結んで、差し出されたジェロニモの手をきちんと握った。アルベルトの右手は、皮膚もなくほんものでもなくあたたかくもなく、それでも確かに、ジェロニモにとっては人の手だった。
 するりと、重なった手がほどける。見つめ合う視線は絡まったまま、また数秒、ふたりは動かずにいた。
 「さようなら。」
 ジェロニモがそう言った途端、アルベルトがベッドを降りようと投げ出していた両脚を引き寄せる。
 「いい、あんたはそこにいてくれ。見送ってくれなくていい。」
 「・・・ジェロニモ。」
 せめて、と言う声音で、アルベルトが、数時間前に初めて知ったその名をつぶやく。その時だけ、ジェロニモは静かな心に小石を投げられたような波紋を感じて、ふた息呼吸を止めた。
 「いい、ひとりで行く。」
 言い切った語尾が、けれどわずかに震えを残す。
 ジェロニモはアルベルトをそこへ残し、いつもの足音を気にした所作で部屋を出ると、朝食の後もそのままのキッチンを右手に見ながら、アルベルトのアパートメントを出た。
 雨の後のように、視界の中が鮮やかに見える。無表情を保つつもりで、険しさの淡く浮かんだ表情のまま、大きな動作で歩いている。ロビーには違う守衛がいて、ジェロニモに向かって手を上げてくれたけれど、ジェロニモは代わりに浅く会釈をして大きな歩幅のまま建物を出た。
 バス停へ向かう途中でやっと足を止め、上着のポケットを探る。携帯を取り出す指先に何か紙片が触れ、携帯と一緒に取り出してみると、大学構内の掲示板で見つけた、図書館での仕事の連絡先だった。
 それを掌に乗せて見下ろしながら、取り出した携帯で、ひとつだけ登録してある番号を呼び出す。相手はすぐに出た。
 ──あら、珍しいじゃない、こんな時間にそっちからなんて。
 女の、いつものちょっとうきうきしたような声が聞こえて来る。ジェロニモはいつも以上に腹の辺りへ力を入れて、どうしたのと気もなさそうに訊いて来る女の声に、自分の声をかぶせた。
 「突然で悪いが、仕事は辞める。あんたとはもうこれっきりだ。」
 ──ちょっとなによ突然、取り分に不満でもあるの? まさか他から声が掛かったわけじゃないでしょうね?
 予想した通りに、女が取り乱した分高圧的になった口調で問い質して来る。
 「他に行くわけじゃない。おれはもう、あんなことは二度としない。それだけだ。」
 女の声の高さとは逆に、ジェロニモの声はいっそう低くなる。女はちょっとの間気圧されたように黙り込んだけれど、すぐにいつもの調子を取り戻して、猫撫で声を出して来た。
 ──やめて一体どうするの? 他に、こんな実入りのいい仕事なんかないわよ。あなたまだ若いから分からないかもしれないけど、わたしって案外友達思いで親切なんだから。
 ゆっくりと、またバス停へ向かって歩き出す。女に好きに喋らせて、何を言われようと気持ち変える気はなかった。
 「その親切は、これからは他の奴にしてやればいい。おれはもう充分だ。」
 ──わたしが充分じゃないのよ。言ったことなかったけど、あなたのこと、歳の離れた弟か自分の息子みたいに思ってるのよ。いいじゃない、もっと甘えてくれていいんだから。もし取り分に不満があるなら、ちゃんと顔を合わせて話し合いましょう。
 息子と言われて、女にその気はなかったろうけれど、ジェロニモは心臓にナイフでも当てられたように、すっと首筋が冷えた心地がした。それに合わせて、声のトーンがさらに冷える。
 「そんな必要はない。この番号はじきに使えなくするし、おれはこの街から消える。あんたとは二度と会わない。」
 ──消えるってどうする気? 大学はやめるつもりなの? そんなことしたらご両親が悲しむわよ!
 悲しむと言う両親は、もう自分にはいないのだと、ここで女にわざわざ告げる義理もなかった。
 バス停が見え始めていた。それでも足は速めず、まだ女との会話を続けている。
 泣き落としが効かないと悟ると、今度は妥協案が来る。
 ──夏の間だけ休むってのはどう? 羽を伸ばして遊びたいんでしょ? 9月にまた連絡して来てくれればいいわ。
 女は、予想よりも執拗だった。自分なぞ、いくらでも替えの効く手玉だと思っていたけれど、案外そうでもなかったらしい。それについては何の感想も浮かばず、ジェロニモは淡々と、女に向かって同じことを繰り返した。
 「おれはもう、あんたには二度と連絡しない。これっきりだ。」
 ──いいわよ、そう言うなら好きにすればいいわ! でも、気が変わったらいつでも電話して来て。お願い。いつになってもいいから!
 最後の辺りは、泣き叫ぶように女は言った。目の前にいたら、服を脱いでしなだれ掛かって来そうだと、ジェロニモは心も揺らさず考える。やっと静かになった携帯へ向かって小さく深呼吸して、今度は少しだけ冷たさの減った声を出した。
 「あんたには色々世話になった。感謝してる。」
 決して嘘ではなかった。それでも、アルベルトに言ったそのままを同じように女に向かって口にして、こもる想いがまるで違う。この女がいなければ、あの初老の男を通してアルベルトと出会うこともなかったのだと、改めて考えた。考えながら、もう何か言い続けている女の声には構わず、電話を切った。
 携帯からすぐに電池を外し、ばらばらのままポケットに放り込んだ。さっき取り出した紙片はもう片方のポケットに戻し、そうして両手はポケットに入れたまま、バス停のベンチへ腰を下ろす。
 目の前を行き交う車の音に耳を澄まし、バスを待ちながら見上げた空が、今日はどこまでも底なしに青い。

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