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36の表現する一文字の御題1@6倍数の御題
Criminal Minds参照: Hotch and the Reaper (youtube)

10. 捕

 ひとりで暮らすアパートメントに、疲れ切ってたどり着いて、鍵の束を小さなテーブルに放り投げ、ブリーフケースは空のソファに放り投げた。
 ネクタイをゆるめながら、空になった手を最初に伸ばしたのは、部屋の片隅に置いてあるウイスキーのボトルだった。
 きっかり指2本分、自分で洗ってそこに置いたグラスに注いで、アルコールの匂いだけですでに酔いそうになりながら、グラスの縁から酒に唇を寄せる。
 そうして、いるのは自分だけのはずの部屋の、もう一方の片隅で、空気が揺れた気配を感じた。
 もうひとり分のせいで、薄まった空気の、それを揺らすのは明らかな悪意と、そしてハインリヒのスーツの肩の辺りから発する警告の感覚だ。
 すぐには振り向かなかった。誰だかはもう分かっている。いずれは自分の許へこんな風に現れるだろうと、誰にも言わず予感していた。
 Reaper。ボストンを恐怖のどん底へ叩き落として、姿を消した後も、いつどんな風に姿を見せるかと、変わらず人々を恐怖で縛り続けている。
 その恐怖の塊まりが、今ハインリヒの背後にいた。
 すでに口の中に含んだアルコールをそっと飲み込んで、ぶ厚く重いグラスをそっと元の位置に置く。彼の出現は人死にを意味する。それを違えることはない。この酒の味と同じくらい、それは確かなことだった。
 さて、死ぬのは彼か自分か。彼を殺さずに、死なさずに、何とか拘束することは可能だろうか。あるいは彼は、まんまと自分を殺し果(おお)せて またここから闇へ向かって姿を消すのか。次の獲物を見つけるまで、そこで息を潜めて、市井の人々が変わらない明日を信じ込んでいる無邪気さを、徹底的に破壊する悦びを想像しながら、血の味の残る唇をそっと舐める。
 これから起こるだろうことに、恐怖は感じなかった。あまりにも馴染み過ぎてしまった、この悪意と害意の気配へ向かって、ハインリヒはゆっくりと肩を回す。


 オレを追うのをやめろ。そうすれば、オレも殺すのをやめる。
 からかうような声。受話器を通すと、なぜかひどく親(ちか)しげに聞こえて、ふと古い友人と話をしているような、そんな錯覚に陥った。
 ある意味、Reaperは確かに古い知り合いではあった。
 なりを潜めていた10年、そして殺人の復活。追うのをやめれば、殺人は止まる。そしてReaperはまた姿を消し、人たちはひと時にせよ平穏を取り戻す。殺された人たちは無為に土の下で腐り果て、正義が為されないことを、そこから声のなく叫び続ける。
 それはできない。ハインリヒは、震える声で、けれどきっぱりとそう答えた。
 Reaperが笑う。喉に、陰にこもった笑い声だった。
 後悔するなよ。電話は切れた。
 そうして確かに、ハインリヒは後悔する羽目になった。そして後悔した時には、もう戻れないところへ来てしまっていた。
 人殺しは止まらない。Reaperが闇を走る。その後へ累々と積み上がる、無数の死体。それでもまだ、Reaperを捕らえると言うことだけは、ハインリヒの中に決意として落ち込んだまま、どこにも行かずにそこに在る。
 どこかで必ず食い止める。Reaperを捕らえて、人殺しを止める。それがハインリヒの使命だった。


 向き合ったReaperは、ハインリヒの額辺りへぴたりを照準を合わせて、それほど経口は大きくない銃を構えている。指は引き金に掛かり、ハインリヒにとっては目障りなことに、その手は黒い革手袋に包まれている。ハインリヒの、義手の右手と同様に。
 手袋だけではない、Reaperは、ハインリヒととてもよく似ている。背格好も同じくらいなら、髪の色も瞳の色も、そして兄弟とすら名乗ってしまえそうな、鼻筋や唇やあごの線。たどって行けば、あるいはDNAの検査でもすれば、どこか遠くで血の繋がりがあるのかもしれないとさえ思う。
 FBI捜査官と連続殺人鬼が血縁とは、まさしく血の凍るような冗談だ。
 Reaperがにやりと笑う。笑い方──ハインリヒは、滅多と笑い顔を人には見せない──すらそっくりだ。
 鏡を見ているようだと思わずにすむのは、肌の色がはっきりと違うせいだった。青みがかった、白と言うよりは銀色に近いハインリヒの皮膚の色とは真逆に、Reaperの肌は浅黒く、それは日に焼けたと言うよりも、地面に縫い止められた影をそのままかぶせたように、どう見ても北の国の生まれだろう顔立ちとはまるで釣り合わない。
 その肌の浅黒さのまま、Reaperは闇の中へ溶け込み、獲物を探して捕らえ、そして嬲り殺す。気に入った獲物は、できるだけ長く苦しめて、死なせない己れの手管に満足気に浮べる笑みさえ、ハインリヒにははっきりと見える。
 自分と良く似た顔が、良く似た声で、低く言う。
 「取引に応じるべきだったな。」
 ハインリヒは答えずに、ただ無表情にReaperを見つめた。自分と似ていると言うことからは心をそらし、ガラスのように透き通ったその瞳の間の、高く通った鼻筋の始まる辺りへ、鋭い視線を凝らす。
 Reaperがまた笑った。
 「それも、オレの犯人像とやらのひとつか? オレには、獲物の恐怖の表情が何よりのご馳走だ。だから絶対に怯えた様子は見せるなって、そういうことか?」
 わざとらしく、こちらへ向けた銃口をかすかに振って見せる。
 ハインリヒはその銃身と同じほど冷たい声音で、静かに答えた。
 「もし俺が怯えてるように見えないなら、それは俺が決しておまえを怖がってなんかいないからだ。」
 ふん、とReaperが肩をそびやかした。


 Reaperのやり口は知り尽くしている。だからハインリヒは、その構えた銃で殺されることはないと知っていた。
 思った通り、銃を構えたまま、Reaperが背中の方へ手を伸ばし、手探りでナイフを取り出そうとしながら、ハインリヒへ向かって1歩寄る。体が動いて、そしてしっかり握ろうとするナイフへ、Reaperの意識が向かった瞬間、ハインリヒは大きな歩幅で体を前に出し、Reaperへ飛び掛かった。
 殴ろうとした腕は銃の先で払われ、あごの先へ肘が入る。脳が揺れたのが分かる。必死で、倒れる体を支えようと腕を伸ばし、その指先がテーブルの縁をかすめて行った。
 そうだ、自分の銃はテーブルの上にある。考えた通りに、体は反射で動く。まともに動いてはいないのに、それでも思う通りに動こうとする。テーブルの端へつかまり、体を起こそうとした。起こしながら、銃を取り上げるつもりでいた。
 Reaperの革靴の先が、顔を蹴って来た。額に当たる。蹴り上げられ、体が浮いて、そのまま床へ転がった。痛みにうめき声も出ない。
 血が出ていないことを確かめながら、ハインリヒは床に仰向けになった。何とか起き上がろうとしたところで、また殴られる。
 視界が揺れて歪み、頭の中は火花でいっぱいだった。
 Reaperが、ハインリヒの体をまたいで来る。膝を折り、取り出したナイフを、ハインリヒの目の前にちらつかせて見せた。
 「さて、お楽しみの始まりだ。」
 ナイフのきらめきが、視界から消えた。次の瞬間、みぞおちの近くに火柱が走った。熱いくせに、その背骨の凍るような冷たい痛みが、また別のところへ刺し入れられる。
 ハインリヒは、床の上でうめいた。


 痛みは何度繰り返されたろうか。上体の前面を、まるで覆い尽くすように、ナイフが鋭く、静かに刺し込まれる。傷を抉ることはせず、刺した時のなめらかさと同じに、それは粛々と抜き出され、手つきの穏やかさが優しさすら錯覚させる。
 愛撫のようだと思った。そう思わせるのが目的なのだと、まだ手離せない意識を引き止めながら、ハインリヒは必死に、自分の中の誤解を解こうとする。
 連続する痛みに、脳も体も麻痺していた。痛みであるはずなのに、それはもう凍るような冷たさとだけ知覚され、皮膚と筋肉を裂き、重要な血管と内臓は巧みに避けながら、けれど確実にハインリヒを傷つけて苦しめる。
 自分の体に刺し込まれるナイフ。その鋭く砥がれた金属の一片。皮膚と肉の裂ける音が、体の中を伝わって来る。皮膚にも、筋肉にも、消えない傷を残しながら確かな出血を促し、床へ向かう血の流れは体温を奪ってゆく。抵抗らしい抵抗もできずに、だからネクタイをゆるめただけの服装には、いまだほとんど乱れはなく、ところどころ真っ赤に染まったシャツと、左肩の方へ跳ね飛ばされてねじれたままのネクタイだけが、この惨状を、正確に表そうとしていた。
 Reaperが、血で真っ赤のナイフを、ハインリヒの目の前へかざして見せる。Reaperの革手袋も、ハインリヒの血で汚れている。
 酸素を取り込もうと喉を伸ばして、そのついでに、ハインリヒはかすれた声で毒づいた。
 「・・・殺してやる。」
 「しぃー、しゃべるな。」
 Reaperが、優しい声でささやく。ハインリヒとそっくりな顔を近づけて来て、血の気の失せていっそう青い唇へ、Reaperの、熱を含んだ呼吸が掛かる。
 「出血がひどい、酸素が足りてないんだ。」
 まるで、事故か何かで怪我でもしたのだと言うように、Reaperがなだめるように言う。そこで言葉を切ったReaperと、ハインリヒはふた拍見つめ合った。
 「刺し続けても致命傷にしないために、一体どれくらい人体のことを勉強しなきゃならないか、分かるか?」
 ナイフの先が、喉に触れた。相変わらず、Reaperのささやく声はひたすらに優しく、血もナイフも痛みの方がこの場にそぐわない。
 「自慢するわけじゃないが、まあオレはその道の専門家、ベテランだな。」
 Reaperの、ガラスのような目が光る。どれほど微笑んでも、どれほど優しい声を使っても、その、血も体温も感じさせない瞳が、Reaperがすでに人ではない、ただ人の形をしているに過ぎない存在なのだとハインリヒに伝えて来る。
 Reaperの示す優しさ、ハインリヒを、効率よく破壊するための優しさ、それは確かにある種の親愛の表現だ。気に入ったものだからこそ、時間を掛けてできるだけ苦しめることが、この殺人鬼の愛の表現だ。
 体に刺し込まれるナイフは、愛のささやきだ。痛みは愛の情熱で、その果てに与えられる死は、狂おしいまでの愛の告白だった。
 そうだ、ハインリヒは、恐ろしいほど深く、この殺人鬼に愛されている。ハインリヒはそのことを知っている。この男の築いた死体の山は、ハインリヒへの愛の叫びだった。オレを見て、オレを追い駆けろと言う、この男の、歪み切った愛の叫びだった。
 Reaperの掌が、傷口のひとつへ乗る。掌が去った後へ、血まみれのナイフが置き去りにされた。
 「オレの傷を見るか?」
 また、Reaperがささやく。Reaperが、自分自身でつけた傷のことだ。殺人の容疑から逃れるために、自分自身を被害者へ仕立て上げた、Reaperが100回近くも己れを刺した、その傷跡のことだ。
 ハインリヒはうなずかなかった。どのみち、もう体が動かない。半開きの唇で短く浅い呼吸を繰り返すのが精一杯だった。
 Reaperが立ち上がりながら、両手から外した革手袋を床へ投げ捨てた。上着を脱ぎ、血まみれのナイフを血まみれの傷の上に置かれた血まみれのハインリヒを見下ろして、一度そこから離れると、テーブル──ハインリヒの銃は、触れられないままそこに置いてある──の傍の小さな明かりをつけ、またハインリヒをまたぐように仁王立ちになる。
 黒いシャツを、下からたくし上げて脱ぐと、これもまたハインリヒによく似た線の体が露わになった。
 「どうだ?」
 まどろむように、よく見なければ瞬きしているともよく分からないハインリヒの、薄く開いた瞳をとらえて、Reaperが軽く胸を張る。
 みぞおちから真っ直ぐに下りる、長い傷跡、肩近くには数センチの傷が数箇所、人差し指ほどの長さの傷跡が、無数にReaperの体を覆っていた。
 「気に入ったか? おまえのも同じようになる。」
 予言するその声音は、確信に満ちている。


 そうだ、Reaperは、自分の傷跡を、ハインリヒに写そうとしている。ここまでそっくりなふたりなら、傷跡もそっくりにしてしまえばいい。そうしてふたりは、心の中まで一緒に歪んで、時と場所を違えて生まれてしまった双子のように、ようやく互いの半身になれる。
 どこかの母親の胎の中で、ふたりは一緒だったのだ。憶えていないだけだ。ふたりは元々、ひとつのものだった。
 肉親を求める情の強さが、Reaperの、苦痛を与える動機を強くする。与える痛みの深さが、Reaperの愛の深さだ。Reaperは、こんなにも深く、ハインリヒを求め、愛していた。
 愛しているから、死ぬ直前まで痛めつけたい。痛めつけて、それに耐える様を眺めていたい。耐えるハインリヒのその気持ちこそ、Reaperにとっては返される愛の深さだった。
 「力を抜け。」
 Reaperがまたささやく。恐ろしいほど優しい声と、優しい手つきだった。覆いかぶさって来て、こちらに突きつけているのは柄まで血に濡れたナイフだと言うのに、見つめ合う瞳の表情と距離は、まるで愛し合うふたりのそれだった。
 「体が痺れて来る、素直に受け入れれば、ずっと楽に入る。」
 言葉と同時に、またナイフが刺し込まれた。ハインリヒのうめく声は、殺され掛けている声とも、愛し合う最中に立てる声とも、聞き分けがつかない。
 ナイフがそっと抜かれる。
 「気を失うほどの痛みじゃないのが困ったところだ。」
 からかうようにReaperが言い、また血まみれのナイフをかざして見せつけた。
 「さて、プロファイラーってのは、刺すってのを性行為の代替物だって言ってるそうだな。不能のせいでできないことを、ナイフでやってるんだってな。」
 ナイフの先が、首の線を滑ってゆく。痺れた体は、もうまぶたを半分しか持ち上げられない。ハインリヒは、ナイフのきらめきを、ぼんやりと下目に追った。
 「おまえもそう思ってるのか?」
 ナイフが、するりと視界から滑り落ち、血だらけのシャツの合わせ目に沿う。
 「なら、その考えを変えてやるよ。」
 またナイフが、下腹近くのどこかへ立った。そしてすっと抜き去られてゆく。
 肺の入り口で、声を立てたような気がした。
 「ほら。」
 Reaperがにやりと笑う。痛みと失血で痺れた体に、氷柱でも通ったような、残酷な笑みだった。
 血に濡れたシャツ越しに、Reaperが傷に触れて来る。まだ血のあふれるそこを、すでに血に濡れた指先が探る。痛みに、ハインリヒは声も失くうめいた。
 「ここには突っ込めないのが残念だな。」
 いつの間にか、Reaperはジーンズの前をくつろげて、それを掌の中に取り出していた。そこに差す赤みが、Reaper自身の血流か、あるいは濡れた手指から移ったハインリヒの血なのか、よくは見えない。
 Reaperは、今はナイフではなくそれを見せつけて、ゆっくりと自分の手を動かし、硬い先端を、ハインリヒの傷口にこすりつけている。
 ナイフの刺し傷に、それはあてがうのが精一杯だ。あるいはこの殺人鬼なら、もっと傷口を拡げて、ハインリヒをそうやってさらに侵すことを厭わないかもしれない。
 ナイフによる強姦、そして今は、勃起したそれによる、傷口への強姦。Reaperはにやにやと笑いながら、ハインリヒの左手を取り上げる。自分の掌を重ねて、自分のそれに触れさせて、ぬるぬるするのは流れてゆく血なのか、それとも別の何かなのか、ハインリヒにはもう考える力すらない。
 「次は、これを使ってやる。ナイフじゃなく。」
 Reaperの息が湿っていた。短く切れる呼吸。ハインリヒにも覚えのある気配と動きの後で、Reaperがハインリヒの傷口の上に果てるのには、それほど時間は掛からなかった。
 知らない間に、シャツの前ははだけられ、それはハインリヒの血まみれの素肌に触れていた。皮膚の上に流れる血に混じる、Reaperの吐き出した熱。流れ出る血とは逆に、それは、傷口の中へ滴り落ちてゆく。
 唇に何かが触れた。ナイフではなかった。Reaperの指先だったのかどうか、ハインリヒはもう気を失っていた。


 白っぽい天井、薬の匂い、忙しく立ち働く人たちが揺らす空気、目が覚めた時には、病院の小さなベッドの上だった。
 左腕に流し込まれている点滴は、強い鎮痛剤らしかった。
 「Reaperが、アンタをここに運んだんだ。」
 見慣れた赤毛と緑色の瞳。ひどく心配そうに、自分を覗き込んでいる。ハインリヒは声の方へ意識を向け、
 「・・・何だって?」
 舌がうまく回らない。考えることもふわふわとまとまらない。
 「オレだって名乗って、アンタをここへ運んだんだ。」
 ジェットの声だとは聞き分けられる。言葉もきちんと受け止めている。けれど理解できない。
 「・・・何だって?」
 まぶしさに、顔を右腕で覆いながら──それも、体がひどく重い──、ハインリヒはもう一度同じ言葉を繰り返した。
 「ジェロニモがじきにここに来る。アンタが無事だってのは知らせておいた。」
 Reaperのナイフのように、ジェットの言葉がハインリヒを鋭く刺した。
 ジェットは、ハインリヒが何をされたのか、もう医者から聞いたのだろうか。一体どんな目に遭ったのか、Reaperが何をしたのか、いつもハインリヒたちが捜査のためにそうするように、恐ろしいほど事細かに、すでに聞き出したのか。
 いずれ仲間たちも、その詳細を耳にすることになるのか。
 何よりも、今はジェロニモに会うことが恐ろしかった。
 Reaperは言った。次はと、そう言った。これでは終わらない。次がある。これはただの始まりだ。どちらかが死ぬまで続く、Reaperとハインリヒの鬼ごっこだ。
 ジェットが、仕事の顔を取り繕って、できるだけ静かに尋ねる。
 「何があったか、聞かせてくれるか。」
 腕で視線を遮ったまま、ハインリヒはその陰で視線をさまよわせた。すでに、何が起こったのか、ほとんど正確なところは知っているはずだ。後は本人から確認を取るだけ、それだけの、決められた手順に過ぎない。
 ハインリヒも、ずっとやり続けて来たことだった。
 ゆっくりと首を振りながら、腕を下ろした。ジェットを見つめてそれから、すっと視線を外した。
 「──分からない、最初に刺された後のことは、何も覚えていない。」
 真実を探るために、ジェットの視線がハインリヒの上にとどまって、そうして、それきりジェットは問うことはしなかった。
 廊下を走って来る足音。歩幅の大きなジェロニモの、聞き慣れたその気配が、すぐそこへ来ていた。

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