25. 斬
どれほど用心したところで、一度侵入を許せば、二度目は一層容易になる。その日も、深夜を過ぎてアパートメントへ戻ると、また闇の奥であの気配がした。もう、肌の上に直に感じられる、あの気配。ぴりぴりと膚を刺すのは、気配だけではなく、鋭いナイフの切っ先の触れた記憶もだ。
今夜は構えた銃はなく、へらりと唇の端をねじ上げて、Reaperが姿を現す。
「ずいぶん遅かったな。」
まるで、一緒に暮らしている恋人同士のような口ぶりだ。ハインリヒは思わず笑いそうになる。
手の中のブリーフケースを足元へ置き、倒れないように壁へもたせ掛けてから、握りしめていた鍵の束も、さり気なく外のポケットの中へ滑り落とす。
少なくとも、表面上はすでに塞がっているはずの傷が、ひどく疼いた。この傷の原因を目の前にして、今にもそこへ張った新しい皮膚が勝手に裂けて、血を流し出しそうに思える。
胸や腹や脇腹や肩の近くへ、するりと差し込まれたナイフ。冷たく熱い、痛み。
Reaperが、ハインリヒが動かないのを見て取って、ゆっくりと近づいて来る。
「さて、新しい取引の話をする時間だ。」
ここには、まだ誰も招いたことがない。ジェロニモやイワンさえもだ。
Reaperが姿を消してなりを潜め、彼の今の標的が自分だと悟った瞬間に、ハインリヒはジェロニモとイワンを自分の手元から離して隠した。襲われるなら、自分だけの方が身を守るのが少しは楽になる。
確かに、自分だけが傷つくなら、それは自分だけの問題だ。自分の怪我の状態を診察した医者が何を言ったか、調書を読んでもちろん知っている。けれど自分からはひと言も語らず、ショックで憶えていないのだと、それで突き通した。これから先も、思い出したと言うつもりはない。誰にも語るつもりはない。
あんなことが、ジェロニモ──そしてイワン──に起こると、考えただけで心臓の辺りがすっと冷える。そしてこれは、ふたりを守るための、ハインリヒの選択だった。
Reaperの言う新しい取引とは、標的をハインリヒだけにすると言うことだ。少なくとも今のところは、Reaperがハインリヒをこうしていたぶるのに飽きるまでは、誰かを殺したりはしない。Reaperは、ハインリヒのスーツの上着を剥ぎ取りながらそう言った。
おまえを殺したりはしない。病院送りになるほど傷つけたりもしない。その代わり、せいぜい愉しませろ。
首から抜き取られたネクタイと、どこから取り出したのか、すでに手の中にあった別のネクタイで、Reaperはハインリヒの両手首を背中で縛り、それから右足首だけを、ベットの脚へ繋げた。
病院で脱がされた服を引き取った時に、ネクタイがないことに気づいていたけれど、まさかまたこうして持って来て使うつもりだったとは思いもしなかった。
脱がせた靴を、わざと床のどこかへ向かって放り投げる。きちんと手入れされ、ついた傷の直してあるのが台無しだ。
ハインリヒがひとりで眠るベッドの上で、Reaperはハインリヒを押さえつけて、手つきも表情もひどく楽しそうだ。
ハインリヒは目をそらさずに、そんなReaperを凝視していた。
自分ととてもよく似た顔立ち。膚の色さえもっと近ければ、ほんとうに双子と言っても通るかもしれない。それでもReaperの、そのままガラスのような、人のあたたかみのない瞳は、同じように透き通ったハインリヒの瞳とまったく似ていない。浮かぶ表情が違う。膚の色以上に、その異(ちが)いがふたりを隔てている。
人を殺す者と、それを追う者。今は同じように半裸になって、同じような姿勢でベッドで躯を重ねながら、捕食者と獲物の立場は決して揺るぎもせず、Reaperは空手の素手の掌をハインリヒの首に当てて、それから、鎖骨へ歯を立てた。
少し広げたシャツの襟元の奥に、わずかに見えるナイフの傷跡。Reaperが残した、他の場所よりもひと色血の色へ寄った、まだ新しい傷跡。力を込めて触れれば、まだ痛みがある。ジェロニモさえ、まだこんな風には触れていない傷跡へ、Reaperの視線が這う。
ナイフの感触が、また膚の上へ甦って来た。ハインリヒは知らずに皮膚へ粟を立てて、ぞっと肩の辺りを強張らせた。
白い、長い1日の終わりにあちこちしわだらけになったシャツを、Reaperの指先がゆっくりとくつろげる。ナイフも銃も持たない手指は、無防備なのに恐怖をそこにたっぷりと保って、今にもその指先が自分の膚を刺し貫いて来そうに思えて、ハインリヒは凝視の瞳は動かさずに、けれど放って置けば鳴り出すだろう歯を、必死で食い縛っていた。
シャツの前が開かれ、傷だらけの体が露わになる。それを見下ろして、Reaperも着ていた薄いセーターを脱ぎ捨てた。
「背中まで同じにできなかったのは残念だな。」
背中の半分くらいを見せるように、Reaperは体をねじった。そう言う通り、背中に傷跡はない。Reaper自身が自分でつけた傷だ、手の届く位置に集中しているのは当然の話だ。
右手の指先でハインリヒの傷をたどり、左手の指先で自分の傷跡を指し示す。
「ほら、そっくりだろう?」
Reaperの右手の行き先を下目に追って、確かにその通りだとハインリヒは思った。ハインリヒを傷つけながらReaperがそう言った──"おまえのも同じようになる"──通り、ハインリヒの傷の位置と大きさは、Reaperのそれとそっくりだった。
そうして、Reaperの傷跡を直に眺めるうちに、ハインリヒはふと気づいて眉を寄せた。まさか、と思いながら、Reaperの傷跡のひとつひとつを数えるようにたどる。色合いは違う、けれど同じように浅黒い肌の上に、同じような傷跡を見たことがある。見ただけではない、指先に何度も何度も、記憶させるように馴染ませたことがある。
目よりも、ハインリヒの指先の方がきっとよく憶えている傷跡たち──ジェロニモの体に残る、数え切れない傷跡たち。
まさか、とまた思って、また目を凝らす。瞳を痛いほど見開いて、たった今自分が気づいたことが気のせいであることを確かめるために、Reaperの体を見つめる。こんなところに連れて来たくなどない記憶を引きずり出して、そこへ重ね、そうして間違いではないことを確かめてから、舌の奥に湧いた絶望の苦さを、必死で飲み下した。
同じだ。ジェロニモの傷跡の位置と、Reaperのそれはとてもよく似ている。完全ではない。それでも、向かい合ったハインリヒの位置からは、充分そっくりに見えた。
「背中が無理だったのが、残念だったな。」
まるで慰めるように、ハインリヒへ向かって言う。唇が笑っている。一体いつ、ジェロニモの傷だらけの体を、こんな風に憶え込めるほど眺める機会があったのだろう。一体、いつ、どこで?
人並み外れてと言うことすら憚られるような巨(おお)きな体を、ジェロニモは人目に晒すようなことは滅多としない。出自のせいのいざこざで幼い頃から体に刻まれ始めた無数の傷跡を、見た人を驚かさないために、ジェロニモは用心深く隠して、あれをはっきりと眺めたことがあるのはハインリヒを含めて恐らく数人程度だ。ジェロニモが素肌を見せるのは、今ではハインリヒとふたりきりの時だけだ。
必死で思い出す。他人の目があるかもしれないところで、ジェロニモがシャツを脱いだのは一体いつだったろう。そんな時があっただろうか。
Reaperの掌が、下腹へ乗る。思いの外あたたかいその手の感触に驚いて、ハインリヒは一瞬、安堵を憶えそうになった。
弾けるように、目の前に甦る光景があった。夏だ。今は空き家の3人で暮らすあの家で、フェンスで囲い、外からは覗けない裏庭で、おむつだけのイワンが刈り立ての芝生の上を這い、ジェロニモとハインリヒも、それに合わせたようにシャツは脱いだ姿で、手足を草で青く染めるイワンを眺めていた。冷たいレモネードの背の高いグラスが汗をかいて、ふたりの手を濡らしていた。イワンがあちらを向いている隙に、短く口づけを盗む瞬間もあった。
夏の間には何度か起こるそんな情景を、Reaperはひそかに眺めていたのか。一体どうやって。一体いつ。一体どれほど長く。一体どれほど頻繁に。
皮膚の下に、また悪寒が走る。この目が、自分たちを眺めていた。ただの家族として、3人だけの時間を楽しむ自分たちを、破壊の想像をしながら、この目が見つめていた。
その証のために、Reaperはジェロニモそっくりに傷跡を刻み、その自分そっくりに、ハインリヒに傷跡を刻み込んだ。ハインリヒとジェロニモの間に、はっきりと立ち塞がって、障害である自分の誇示する。Reaperはハインリヒによく似た姿で、ジェロニモそっくりの傷跡を自ら背負い、ふたりの間で、いつだってこの幸せを破壊することのできる自分の存在を見せつける。一瞬も、ふたりが自分のことを忘れないように。
ハインリヒが何もかもを悟ったのを見て取ったのか、Reaperが邪悪に微笑んだ。
「──そういうことだ。」
Reaperの手が、剥き出しになった腿に触れる。唇が、そこへ向かって下りてゆく。
薄い皮膚に歯列が食い込み、その激しさの裏側で、Reaperの聞こえない声がはっきりと聞こえた。
もう、終わることはない。こうやって、傷跡よりもはっきりと刻み込まれた存在は、消えることはない。オレは永遠に、たとえ死んだ後でも、おまえたちの傍らから去ることはない。こうやっておまえたちの皮膚になり、その下にも刻み込まれて、おまえたちそのものになって、オレは永遠にそこに在り続ける。オレがほんとうに死ぬのは、おまえたちが死ぬ時だ。おまえたちは、絶対にもう、片時もオレのことを忘れることはない。
だからもうオレは、殺し続ける必要はない。
シャツのまといつく体を、Reaperの掌が撫でる。まだ、完全には塞がり切ってはいない傷跡にはそっと触れて、自分の与えたその成果を確かめて楽しむように、Reaperはハインリヒの傷跡に触れるたびに、唇全部を歪めて笑った。
自分そっくりのその笑みを、ハインリヒは恐怖に神経を噛まれないように必死で耐えながら、右から左へ受け流そうとする。
似ているだけだ。これはハインリヒ自身ではない。いくら傷跡がそっくりでも、姿が似ていても、これはハインリヒではない。
この男は、殺人鬼のReaperだ。人の恐怖と絶望を糧にする、人殺しの異常者だ。血と苦痛に飢えて、どれほど死体を積み上げても満足することのない、空っぽの胃袋を抱えて餌を探し回る、血も涙もない人でなしだ。
自分の冷たい血の巡る体をあたためるために、人の流すあたたかい血をすする。苦痛を眺めて空の胃を満たし、けれどその食欲は今では底なしだ。
だから、恐怖と苦痛を終わらせないために、永遠の糧を求めて、こうしてハインリヒを切り刻んで痛めつける。
今は、Reaper自身が暴力の凶器だった。
膝の間に割り込んで来る躯。強張った筋肉を無理矢理こじ開けて、強引に押し入って、ハインリヒの上げる悲鳴を愉しんで見下ろしている。ナイフではなく、今はReaper自身がハインリヒを突き刺し、突き通し、突き上げて、ハインリヒの内側に触れている。深く侵入して、皮膚の上と筋肉にではなく、直接内臓の中へ、自分の痕跡を残す。見えない傷跡をそこにも刻んで、ナイフを使ったあの時よりも一層深く、ハインリヒを傷つける。切り裂いて切り刻んで、ハインリヒの体も心もばらばらにして、集めた破片を雑に縫い合わせて、傷跡が、ハインリヒが一度は壊れたのだと世界に必ず知らすように。
ハインリヒが壊れてゆく。ハインリヒを壊してゆく。破壊を愉しんで、破壊の跡をいとおしんで、一度は壊れた──自分が壊した──ハインリヒだからこそ、一層愛しさが増してゆくのだ。
自分がつけた傷跡だからこそいとおしい。自分がつけた傷跡を負っているからこそいとおしい。慈しみにも似た気持ちに、Reaper自身が戸惑いながら、壊れるからこそ魅力的なこの獲物を、けれど完全に破壊してしまっては後がないことが、心底残念だった。
いとおしいから壊す。壊せるからいとおしい。けれど死なせてはいけない。失ってしまうことには耐えられない。息の根の止まるあの、空虚な痙攣の瞬間をぜひ眺めてみたいのに、それだけはかなわない。他の誰を殺そうと、もう満足はできないだろう。何百人嬲り殺しにしようと、今感じているハインリヒの体温ほどは悦びを与えてはくれない。もう、人殺しでは充分ではない。
わざとひどく動くと、ハインリヒの胸が反った。皮膚の下が波打つのが、傷の盛り上がりに現れる。歯列で、その傷を噛みちぎってやりたいと思った。再び開いて、そこから流れ出す血。それをすすって赤く染まる自分の唇と舌。もういっそ、生きたまま食らってやろうか。
致命傷にはならない辺りから、歯を立てて皮膚と肉を食いちぎる。あたたかな肉片。喉を濡らす血。噛んで飲み込んで、自分の中へ溶け込んでゆく、ハインリヒの命の破片。
血の一滴残らず食らって、自分の中でハインリヒを繋ぎ合せる。自分の血肉を通して、ハインリヒをまたひとつの形に戻す。傷だらけのReaperの体の中に在る、同じように傷だらけのハインリヒの体。命はそこで混ざり合い、もうReaperともハインリヒとも分からないものになる。
どうだ、と、自分の思念を分け与えるように、Reaperはまたハインリヒを揺さぶり上げた。
後ろ手に縛っていたネクタイが、もがくうちにゆるんだのか、ハインリヒの右手がいつの間にか、ベッドの端をつかんでいた。耐えるように、鉛色の指がシーツを握り込んでいる。
それもまた、ナイフのような金属片を組み合わせて作られたのだろうハインリヒの義手へ、Reaperは自分の掌を重ねた。
殴るための拳にもなる、刺すためのナイフを握ることもできる、弾を込めた銃を構えることもできる、にせものの腕。自分のナイフと同じ、凶器の可能性を孕んだ、鋼鉄の手指。
驚くほど優しい手つきでその指をシーツから外し、Reaperは自分の胸元へ引き寄せた。それだけはジェロニモとはまったく似ていない、下腹へ真っ直ぐ伸びるひと際大きな傷跡へ、その指先を触れさせた。
ハインリヒが唇を噛んで、Reaperと傷跡をにらみつける。今、この義手の指先が、ナイフほど鋭ければその腹を切り裂いてやるのにと、ハインリヒが思っているのが、直接触れている粘膜から伝わって来る。
ハインリヒの手を取ったまま、Reaperは笑い声を上げた。大きく口を開き、天井を見上げ、ハインリヒそっくりの顔で笑う。
「──殺してやる。」
かすれた声が、下で言った。Reaperは、また声を上げて笑った。
それこそが自分の望みなのだと、初めて気づきながら、ハインリヒの苦痛をより深く自分の悦びにするために、Reaperはハインリヒの奥底を抉るように動いた。
押し殺しても漏れる悲鳴に、笑い声が重なり続ける。
ハインリヒの白い喉を、よこざまに切り裂く感触を想像して、夢想の中のあたたかな血のほとばしりがReaperの皮膚の下を沸騰させた。
殺さない。死なせない。なぜならハインリヒは、Reaperにとっては特別な存在だからだ。失うことの耐えられない、この世でただひとつ、Reaperが心底惜しむものだからだ。
それでも、一時の仮死を与えるために、その喉に掌をあてがう。呼吸を分断される数瞬に、空しくもがく体が、内側へ瀕死の痙攣を伝えてゆく。
引きずり込まれるように、そのうねりに飲み込まれながら、Reaperは、そうやってハインリヒから与えられる仮死へ向かって目を細めた。
ハインリヒを殺し掛けながら、ハインリヒに殺し掛けられている。
その果てへ行き着くことはできない。少なくとも、今はまだ。
掌を外して、呼吸を戻してやりながら、咳き込むハインリヒから躯を外し、その背を撫でてやるためにReaperは手を伸ばした。
いびつな慈愛が口元へ浮かんだのに、Reaper自身もハインリヒも気づかなかった。気づかないまま、Reaperの指がハインリヒの髪を絡め取り、そうしてまた、苦痛の時間が、冷たく熱く続いてゆく。