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果て (了)

 何の変哲もない午後だった。
 夕飯はどうするかと、イワンの腹をミルクで満たしてしまえば、後は自分のことだけ心配してしまえばいい長い夜のことをちらりと考え始めるような、そんな時間だった。
 静かな通りだった。どの家も贅沢に庭に囲まれて、ぐるり塀か木々に隠されて、わざわざ覗きでもしない限り、隣人のしていることなど目にすることもない。
 それでも、他の家の内情に興味は示さない──ここらでは、それが上品で真っ当なこととされている──にせよ、誰がどこに住んでいて、誰とどういう関係なのかはきちんと知れ渡っている。外を歩く人たちは必ずこの辺りの住人だから、見掛けない顔は、見られてはいないようでいてきちんとそうと見分けられていた。
 だから、ここへは数度ひっそり立ち寄ったことのあるハインリヒが、ほとんど気配を消してジェロニモとイワンに会いに来たのなら、あら珍しいと、見掛けた誰かはそう思うだけだ。
 それがハインリヒではなかったのだとしても、背格好も顔立ちもハインリヒそっくりなReaperなら、静かに玄関のドアを開けて中へ入りリビングまで忍び込んだとしても、誰もそうとは気づかない。
 ジェロニモ自身さえ、かすかな足音に、キッチンで小さく切ったリンゴを与えていたイワンをそこに残し、リビングの真ん中で自分に向かって銃を構えているReaperと対峙した瞬間すら、それをハインリヒだと最初は見間違えたほどだった。
 そっくりだ。けれど笑顔の邪悪さに、ジェロニモは何が起こっているのかを瞬時に悟り、自分の体の陰に隠れて見えないはずの、キッチンの中とそこにいるイワンへは決して振り向かずに、自分へ向けられた銃口をただ静かに見つめた。
 Reaperが、空いている左手を、ごそごそと丈の短い革のジャケットのポケットに突っ込み、手の中に小さな何かを取り出した。
 片目だけでちらちらとジェロニモを見るようにしながら、素早く親指を動かす。ぷるるとこの場に似合わない可愛らしい電子音を立て、耳に添えたその携帯は、すぐに目的の場へ繋がった。
 「オレだ。」
 Reaperがつぶやくと、向こうでハインリヒが息を飲んだ気配が、ふっと拡がったReaperの瞳から伝わる。ジェロニモは、身じろぎもせずにそれを見つめている。
 Reaperはまたにやっと笑うと、その携帯をジェロニモに投げて寄こし、あごをしゃくって、話せと命令して来る。
 ジェロニモは、すぐにも握り潰せそうなその小さな機械を、できるだけ無表情で自分の耳に当てた。
 「・・・おれだ。」
 ──イワンは無事なのか。
 「今のところは。できるだけ何とかする。」
 ──5分でそこに着く!
 ひどく動揺している声。こんなハインリヒの声は聞いたことがない。5分は無理だろう。後ろに、大きな通りの雑音が入る。この近くまで来ているならもっと静かなはずだ。それでも、10分でなら何とかなるかもしれない。
 ジェロニモは、Reaperには聞こえないように見えないように、胃の下辺りへ向かって深く息を吸い込んだ。
 ──絶対に、怯えているところは見せるな! そいつの思うつぼだ。
 「・・・ああ、分かってる。」
 獲物の恐怖を食らって生きる化け物。そうと頭で理解はしても、この瞬間にも、目の前の銃で撃たれれば殺されるかもと思う警告の音が脳の内側へじわじわとしみ込んで来る。自分が殺されれば、次はイワンだ。小さな赤ん坊の首をひねるなら、わずか数秒の手間か。
 あるいは、と、恐怖を振り払うつもりのはずが、もっとおぞましい想像へ傾く。
 ここから連れ去られて、ハインリヒが遭ったような目に遭わされるのか。長引かせる苦痛。絶え間ない命乞いの後にやって来る、頼むから殺してくれと言う、世にも情けない哀願。
 自分だけならいい、だが、イワンは?
 それきり黙ると、指を振って見せてそれを返せと示すReaperに、ジェロニモは通話は繋がったままの携帯を放り投げた。
 器用に携帯を受け取り、ジェロニモから視線は離さずに、Reaperはまたハインリヒへ話し掛ける。
 「そう言うことだ。せいぜい急ぐんだな。」
 ハインリヒが何か喚いたようだったけれど、ぷつりと会話は途切れ、携帯はまたReaperの上着のポケットに収まった。
 「さてと。」
 いかにもうきうきと、まるで家族旅行の計画でも立てているような声音で、Reaperがまたジェロニモに向かってにやりと笑った。
 不愉快な笑顔だ。これから自分を殺そうとしている相手に、怯えを見えないとすれば、後は軽蔑くらいしか残っていない。それでもジェロニモは、イワンのために相手を挑発しないように、自分の腹の底に湧いて来る何もかもをすべて飲み込もうと努力した。
 「心配しなくていい、長引かせずに殺してやる。すぐにあいつがやって来るからな。時間がない。」
 それがいかにも残念だとでも言うように、Reaperは肩さえすくめて見せる。
 また深まる軽蔑と、そして相手の物言いにはまったく嘘も誇張もないと言う事実に、改めて恐怖が心臓を噛んで来る。その痛みを落ち着かせようと、さらに深く息を吸い込んで、それからジェロニモは、とにかくもイワンの無事のためにどうするべきかと考え始めた。
 どうしたらいい。どうすればいい。こんなことを考えるのは、ハインリヒの十八番だ。10分足らずでここへやって来るだろうハインリヒが目のするのは、一体何だろう。
 自分の死体でも、傷ついたイワンでもないことを祈りながら、ジェロニモは、どのタイミングで体当たりを掛けようかと、銃口を見つめて足を踏みしめた。
 肩をわずかに落とす。銃を弾き飛ばすためと心臓の辺りをかばうために、左腕で上体を軽く抱え込むようにして左肩から突進する姿勢を考えていたところで、不意に目の前で何かが弾けた。
 ぱんと言う乾いた音と、粉々の破片、そこへ混じる、つぶれたトマトの実のような赤、薄く上がる煙の向こうで、Reaperの右手が一瞬で消えた。その手に握られていた銃も、一緒に。
 Reaperが、戸惑った表情で、自分の右手と銃の姿形を、探すように視線を迷わせる。痛みと衝撃は、それからやって来た。
 驚愕の叫び、激しい混乱の色の浮かんだ瞳、それでも人を傷つけることは忘れないのか、背中へ回した左手は、再び現れた時にはナイフを握っていた。
 だらだらと流れる血も構わずに、手首から先を失くした右手も一緒に振り回して、Reaperは惑乱状態のままジェロニモに襲い掛かる。
 イワンだ。イワンがやったに違いない。銃を暴発させ、武器と右手を失わせた。それならついでに、どこかへテレポートして姿も消してはくれないかと、ジェロニモはReaperのナイフの先をよけながら思う。
 めちゃくちゃに振り回されるナイフの切っ先のせいで、思ったよりも距離を詰められない。Reaperは怒りに我れを忘れて、完全に錯乱状態だった。
 おかしな理屈だったけれど、Reaperが流している血に触れたくもなければ、床にできた血だまりに近寄るのすら嫌悪が湧いて充分に近づけず、ジェロニモはReaperの振り回すナイフを止められないでいる。
 そうしてよける間に、数度ナイフの先がシャツの上から膚を切って来た。腹や腕、みぞおちの辺り、どれもごく浅く、先に撫でられた程度ではあったけれど、流れる血と痛みは、十分にジェロニモの神経も荒ませてゆく。
 ナイフをよけるたびに、何とか爪先の方向を変えて、今ふたりは、ジェロニモがそう狙った通り、玄関へ向かう形に対峙していた。
 2階へ上がる階段の裾に置いた、小さな丸テーブルは倒れ、そこに並べていた写真立てはすべて床に落ちて割れていた。その上をReaperもジェロニモもめちゃくちゃに踏み荒らし、きれいに磨いた床はすっかり傷だらけだ。ガラス片の混じる小さな血だまり、踏みつけられた写真と写真枠、赤い足跡をそこに残して、男がふたり争う部屋の中は、さっきまでの静かな暮らしをくまなく踏みつけて、すでに驚くほど荒れ果てていた。
 そして、遠くに、パトカーのサイレンが聞こえ始める。
 「やっとご到着か。」
 失血のショックか、青冷めた頬に、それでもまだ不敵なままの、あの邪悪な微笑みを浮かべる。Reaperのその精神力に感嘆しながら、同時に、自分の熱する血が、コントロールできないほど沸騰し始めて、それは軽く恐怖を凌駕して、今ジェロニモは、この男を捕らえて押さえつけることだけを考えている。
 ──いや、違う。
 そうではない。沸騰する脳の奥で自分の声が言った。
 ──殺せ。殺さない限り、この男は何度でもおまえたちを狙う。
 息の根を止めなければ、一生逃げ回る暮らしに甘んじるしかない。赤ん坊のイワンを、この男がどんな風にいたぶるつもりか、想像できるか?
 ジェロニモが知っているのは、この男がナイフを使って人を刺し殺すのがとても好きだと言うことだ。ハインリヒは教えてはくれないけれど、新聞や雑誌の記事で何度も読んだ。驚くほど鮮明な、被害者の写真も一緒に並んだその記事を、ハインリヒが苦い顔をすると知っていても、わざわざ手に取って読まずにはいられなかった。人の体を、何度も何度も、執拗に刺し続ける。すぐには死なせないために、巧みに急所を外して、苦痛をできるだけ長引かせる。その苦痛と恐怖と絶望を食らって、この男は生きている。残酷な人殺しが、この男の糧だ。
 そうして、病院で会ったハインリヒの、嬲り殺される寸前の、弱った姿を思い出した。包帯だらけの、体から無数の管をぶら下げた、ハインリヒの姿。ろくに声も出せず、失血の衰弱で、ジェロニモの手を握り返すのが精一杯だった、ハインリヒの姿。
 この男がやったことだ。そして、今自分の目の前で、この男は自分を殺そうとしている。ハインリヒにやったようにはできないだろう。時間がない。そうして、そうさせるつもりはない、と突然ジェロニモは思った。
 踏み込んだ爪先が、Reaperの流した血だまりに浸る。ぬるりと滑りそうになるのを、何とか踏みこたえて、両腕を、Reaperの首へ向かって伸ばした。
 明確な殺意が、どこからともなく湧いて来る。殺すべきだと声が言う。けれど、近づくサイレンの音にハインリヒの顔が重なり、個人の心情は殺意に傾くとしても、公僕である部分は、逮捕の後に裁判を経て、刑務所の中へ一生閉じこめておくことを選ばなければならない。それがハインリヒの立ち位置だった。
 だからジェロニモも、それに従う気持ちを自分の胸の中に覆い被せて、とりあえずはナイフを何とかしようと、首へ向かっていた手をReaperの肩先へずらして行った。
 ジェロニモの両手がReaperの左腕へ触れた瞬間、ほとんど額の合う近さで、ふたりは見つめ合う羽目になった。
 顔いっぱいに広がる、Reaperの不敵な笑み。邪悪さをいっそう深めて、そしてジェロニモがその笑みを確実に目にしたことを確かめた後で、くにゃりと、ナイフの先が柔らかくどこかへ受け止められてゆく。
 ふたつの体をぶつけ合うようにした勢いのまま、Reaperのナイフの先は、Reaperの左胸へ差し込まれていた。
 じわりとにじみ出て来る血。Reaperは柄に添えられたジェロニモの手をそそのかすように、自分でナイフをぐるりと抉った。あ、と絶命の声が、ハインリヒそっくりの唇から漏れ、傷口からあふれ始めた血が、ジェロニモとReaperの手を一緒に濡らした。
 ずるりとジェロニモへもたれ掛かるようにして、Reaperの体が床に崩れ落ちる。仰向けに、見開いたガラス質の目はジェロニモに向けたまま、四肢を無力に投げ出して、Reaperは動かなくなった。
 深々と、胸に突き立ったナイフ。Reaperの体もジェロニモの体も、ふたりの血で染まっている。
 ジェロニモは息を飲み、横たわったReaperの傍らへ両膝を折った。
 自分に向かって微笑んでいるように見えるのはなぜだろう。好意のこもった笑みではない。あの、今尚邪悪なままの笑みだ。暗闇の中でほくそ笑んでいるような、Reaperの最後の微笑みだった。
 サイレンがようやく途切れ、人が駆け込んで来る足音が聞こえ、玄関のドアが静かに、けれど勢い良く開いた。滑るように、銃を構えたハインリヒが走り込んで来る。
 ふたりは視線を合わせ、それから一緒に、血を流して横たわるReaperを見た。
 ハインリヒは構えた銃をまだ下ろさずに、無言でふたりの傍へやって来て膝を折り、最初にReaperの首筋に触れて脈を確かめた。
 視線だけが、Reaperからジェロニモへ移る。
 「・・・止めるだけのつもりだった。刺すつもりはなかった。」
 「──分かってる。」
 短く、それ以上は言わせない鋭さでハインリヒはその会話を終わらせ、Reaperの、見開かれたままの、今はほんとうにただのガラスのように見える瞳に、動揺したまま見入っているジェロニモの肩へ、やっとそっと触れる。
 「イワンはどこだ。」
 「・・・キッチンにいる。一歩も近づけさせなかった。」
 そうだろう、と、リビングから玄関までの荒れ具合を、立ち上がりながらぐるりと見回して、ハインリヒは思った。
 「今、救急車を呼ぶ。」
 やっと銃を腰のホルスターに収め、同時に携帯を取り出して、もう他の仲間や救急隊員に連絡を取り始めている。FBIと胸と背中に大きく書かれた防弾ベストを着けたハインリヒは、そんな姿は何度も見たことがあるにも関わらず、今は遠い他人のように見えた。
 てきぱきと携帯の向こうに向かって状況を伝えて指示を与える。馴染みのない、ハインリヒの仕事の貌(かお)だ。ジェロニモは、それをぼんやりと眺めていた。
 「イワンを見て来る。」
 ジェロニモの肩をもう一度撫でて、音もなく立ち上がったハインリヒが、床の血の足跡やガラス片を避けてキッチンへ向かう。その背をちらりと肩越しに見送った後で、ジェロニモはReaperの体の下に広がり始めている血だまりから、すでに汚されている床へ視線を流して、ふたりが暴れてひどい有様の部屋の中をひと渡り見回した。
 「もう心配ない。一緒に病院へ行こう。もう少しここでおとなしくしててくれ。」
 キッチンで、できるだけ普通の声で、イワンへ向かって話し掛けるハインリヒの声が聞こえる。いつも、ふたりともがそうするように、背の高い椅子の中へしっかりと坐らされたイワンへ、それでもきちんと目線の位置が同じになるように腰をかがめて、そうして今イワンに話し掛けているハインリヒの姿が、背中の向こうに、ジェロニモにははっきりと見えた。
 迷いのない足音がまた戻って来て、ハインリヒは、今度はジェロニモの傍らへ膝を落とし、何も言わずにジェロニモの頭を自分の方へ引き寄せる。
 「・・・無事で良かった。」
 きちんと剃り上げた頭頂部へ、ハインリヒの息が掛かる。あたたかい、生きた人間の呼吸だった。ジェロニモは思わず強く目を閉じ、引き寄せられるまま、ハインリヒの肩口へ頭を傾け、そうしながら、右腕をハインリヒの背中へ回した。
 明らかに速度違反の車の走行音と、それに重なるサイレンの音。次々にこちらへ集まって来る警察の車両に混じって、音程の違う救急車のサイレンも聞こえ始めていた。
 ハインリヒが、ふと今気づいたと言うように、抱き合うふたりを見つめたままだったReaperの目を見下ろし、今は瞳孔の開き切ったそれを、静かに義手の右手を伸ばして、まぶたを押し下げる。
 目を閉じた死に顔からは不思議と邪悪さが薄れ、人殺しの気配が遠ざかり、ばたばたとここへ呼ばれた皆が入り込んで来るまでの数瞬、ふたりはようやくふたりだけの静かな世界を取り戻していた。


 今日は、ベッドに繋がれているのはジェロニモの方だ。
 切り裂かれて血に汚れた衣類はすべて証拠として押収され、病院には幸い、ジェロニモの体も何とか覆える患者着があった。
 体に残る無数の傷跡を隠すために普段からきっちり着ている長袖のネツシャツが幸いして、Reaperに切られた傷は深くはなく、縫いはしたものの傷は残らないだろうと医者は言う。
 イワンは、一切手出しをされなかったにせよ、一応の用心に一緒に1日は検査入院と言うことになった。
 遅くとも明後日には家に帰れる。Reaperに侵入されたあの家ではなく、Reaperから隠れるために仕方なく空にした、イワンとジェロニモとハインリヒが3人で暮らしていた、あちらの家にだ。
 Reaperは死んだ。検死の結果は、明日にでもハインリヒの机の上へ届くだろう。ジェロニモは、どこをどう突つかれようと正当防衛以外考え様もない。必要なら弁護士──実のところ、弁護士資格のあるハインリヒ自身がその役を務める気でさえいる──を立てて、きちんと正式な記録を残す手筈だ。
 ハインリヒとジェロニモは、ただふたりきり、Reaperから生きて逃げ延びた被害者だ。Reaperが積み上げた死体の数を、ふたりは無言で思い返して、それでも自分たちを決して幸運だとは感じてはいない。
 時折部屋の外を通る看護士や医者たちから丸見えだけれど、ハインリヒは構わずジェロニモの肩へ腕を回し、ジェロニモもハインリヒの背中を抱き寄せて、ふたりはそうして、言葉も交わさずにただ体を近寄せている。
 右手の吹き飛んだReaperの死体。銃の暴発だとジェロニモは言った。ハインリヒにもそう見えた。そして、ジェロニモはあれはイワンがやったことだと知っている。ハインリヒは、ジェロニモがそうだと知っていることを知っている。イワンは、ふたりが知っていると言うことを知っている。
 Reaperは死んだ。胸をナイフで刺されて──あるいは、ジェロニモの手を借りて自分で刺して、Reaperはそうやって死んだ。
 ジェロニモの手は、Reaperの血で確かに汚れた。そして、イワンもそれに手を貸した。あの場で、ハインリヒなら手を止めるはずのないReaperをさっさと撃ったろう。そう言うことだ。Reaperは死んだ。それもまた確かに、結局は名を変えた殺人だった。それが人殺しのReaperの選んだ果てだった。
 オレを殺したのはおまえたちだ。Reaperの、あの背筋を凍らす冷たい声がどこかで聞こえる。そうだ、そのためにReaperはハインリヒたちを選び、そしてハインリヒたちの手で殺された。Reaperはそう仕組んで、まんまとそれをやり遂せた。
 人殺しのReaper。今日誰が死ぬかを選び、誰が死なないかを選ぶ。あらゆる人間の生殺与奪の権を握り、人の命を玩んだ。おまえが今日死なずにすんだのは、オレがそう決めたからだ。オレが、おまえを今日は生かしてやってもいいと、そう思ったからに過ぎない。死んで尚、Reaperの気配はまだ世界に色濃く残り、その残滓が、高笑いを続けている。
 Reaperは死んだ。けれど、Reaperの記憶と記録は永遠に残る。ハインリヒもジェロニモも、そしてイワンも、Reaperのことを忘れることはできない。
 こうやって身を寄せながら、もっと親密に、暗闇の中で素肌を寄せる時に、その肌の上に刻まれた傷のことを、忘れることはできない。
 Reaperのあの体の傷跡は、きちんとすべて記されて残る。そしてReaperの被害者であるハインリヒとジェロニモの記録も、同じほど詳細に残される。いつか誰かが気づくだろうか。Reaperのそれよりも明らかに古いジェロニモの傷跡が、Reaperのそれそっくりであることと、そしてハインリヒのそれは、Reaperの傷跡を一部そっくりそのまま写したものだと、いつか誰かが気づくだろうか。
 ジェロニモからReaperに写され、Reaperからハインリヒへ写された傷跡たち。そうやって、Reaperは永遠にふたりの上におぞましい記憶を刻み続ける。どれほど年月が経とうと、ふたりが体を寄せ合うたびに、ぴたりと重なったはずの素肌の隙間に、必ずぬるりと入り込むReaperの気配だった。
 忘れることはできない。ふたりが死んで、先に死んだReaperの体が腐って土に溶けて消えても、それでもまだイワンが残る。恐らく最後に残るイワンの、その幼い脳へ刻みつけた記憶がこの世から完全に消滅するのは、一体いつだろう。
 そうやってReaperは生き続ける。惨憺たる記憶として、そしてよりおぞましい記録を残しながら、Reaperは傷つけた人たちの脳と皮膚の中で生き続ける。いずれは、その血肉そのものになることすら望んだのかもしれないReaperの傲慢さに思い至ると、ハインリヒは再び背筋の凍る思いがした。
 そのために、ハインリヒは生かされ、ジェロニモの手は汚され、イワンの幼い心は踏みにじられた。
 誰よりもよくハインリヒのことを理解していたReaper──そして、ハインリヒは誰よりもReaperのことを深く理解していた──は、自分の死に方をこんな風に選び、こんな風に生き続けることを選択し、そうして、死んだ後も人々を傷つけ苦しめ続けられるように──それが、Reaperにとっては生きると言うことだから──、だからこそ、ハインリヒもジェロニモもイワンも生き延びた。Reaperが、そうすることを選んだからこそ、ハインリヒたちは今生きている。
 抱き合いながら、ぬくもりを寄せ合いながら、そのことに安堵もしながら、ハインリヒは今深く絶望している。恐怖を排除し、苦痛に耐えて、冷静にReaperに対処した後で、それでも絶望だけは最後に消えずに残る。Reaperにとっては何よりのご馳走の、人の絶望。
 そうだ、生き続ける限り、後ろにReaperの喜ぶ餌を撒き残しながら、ハインリヒたちは生きてゆく。 死んで尚、Reaperは肥え太り続けるだろう。恐怖と苦痛と絶望を食らって、そうやって生き続ける。これからは、ハインリヒたちの影として。
 それでも、とハインリヒは思った。影は、本体なしには存在できない。だから、影の踊りはいずれは終わる。顔を上げて、太陽に向かって歩く限り、影は後ろを追って来るのがせいぜいだ。決して、歩く前を塞がせないように、影は、永遠に後ろへ引っ込んでいるように、明るい路を探して歩こう。
 ひとりではない。ジェロニモもいる。イワンもいる。ハインリヒはひとりではない。
 ようやく、ジェロニモの腕のぬくもりに、ハインリヒは肩の力を抜いた。
 そこだけはReaperに傷つけられなかった背中を、今ジェロニモが抱いている。その腕には包帯が巻かれ、点滴の管も通っているけれど、Reaperのつけた傷は恐らく残らないと、医者はそう言った。
 すべてを傷つけられ、嬲られ、踏みつけられたわけではない。こうなってもまだ、無傷のまま残っている何かがあるはずだった。
 抱いていたジェロニモの頭を、もっと近くに引き寄せて、それから、ハインリヒはきれいに刈り残された黒い髪の先へ唇を滑らせた。義手の右手を、ジェロニモが取って握る。それを握り返して、ハインリヒが小さく息を吐く。
 院内放送がハインリヒの名を呼ぶ声へ、ふたりは一緒に顔を向けて、それから見つめ合って、ようやくかすかな微笑みを交わした。

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