俺たち、ボグミン
-白と紫のちっちゃな物語-






 雨は、濡れるし、痛いからきらいだ。
 でも、川を見た時、雨はきらいでも、水はきらいじゃないと気づいた。
 思い切り飛べば、飛び越えてしまえそうな細さで、きらきらと流れる水を、川だと言ったのは紫だった。
 「かわ?」
 「川。」
 「かわ。」
 「川。」
 「川・・・。」
 見上げて、見下ろされて、紫の言ったことを口移しにして、そう言えば、たくさん雨が降った日に、地面にたまって、足元を流れて行った水のことを思い出して、あれのもっと大きいのだなと、ひとりで納得する。
 この川の水がどこからやって来たのかよくわからないけれど、それは多分、どうでもいいことなのだろう。
 川の端に近づいて、しゃがんで、そうして、わずかに波打つように揺れる水の表面が、きらきらと光るのに目を奪われる。
 ゆっくりと、掌をそこに乗せた。
 ふわりと、掌が浮き上がるように、水が、手を押して、流れてゆく。小さく上がった水飛沫に、ほんの少し驚いて、俺は目を見開いた。
 紫が、ようやく俺の隣りに来て、俺と同じように、そこにしゃがみ込んだ。
 水にひたした俺の手の傍に、紫も手を伸ばして、ふたつの手が、水の中に並ぶ。
 白くて小さい俺の手と違って、紫の手は浅黒くて大きい。その手が、いつもあたたかいことを、俺はよく知っていた。
 水の中で、ふたつの手は、同じように濡れて、同じ冷たさで、並ぶそれを見下ろして、俺たちふたりは仲間なのだと、突然思う。
 こんなふうに、一緒に、冷たく流れる水の中に、掌をひたしていることが、そのことのあかしのように、俺には思えた。
 掌を返して、水から持ち上げると、掌に乗った水が、ざあっとこぼれてゆく。掌からこぼれ落ちる水は、小さな、ささやかな雨のように見えて、ほんものの雨は好きではないけれど、そうやって自分の手から生まれた雨を、きらいではないと、俺は思った。
 まるで、俺のやっていることを真似するように、水から手を取り出した紫が、突然濡れた手を、俺に向かって振った。
 冷たい水滴が、ぴしゃんと俺の顔に当たる。
 驚いて目を閉じて、ぷるっと顔を振って目を開けると、いつもとは少し違うふうに、紫が笑っていた。
 紫が、また、俺に向かって濡れた手を振る。飛んで来た水滴が、頬からあごを流れて、そうしてようやく、俺は紫にからかわれているのだと知った。
 俺は、にいっと笑うと、急いで両手で水をすくって、それを全部紫めがけて、かけてやった。
 ばしゃんと音がして、頭から水をかぶった紫が、目に流れ込む水を避けるように、目をぎゅっと閉じて、開いて、俺の方を見たまま、大きな片手に水をすくって、俺に向かって手を振り上げる。
 時々、川の中に片足だけ入れて、雨とは違う、川の水で、俺たちは全身ずぶ濡れになるまで、水際で水を掛け合って遊んだ。
 ひどく楽しそうな紫がうれしくて、ぽたぽたと頭から水をしたたらせながら、俺は飽きもせずに、また両手で水をすくう。
 その日、俺は、初めて、笑う自分の声を聞いた。




 多分、白が、声を立てて笑ったせいだ。
 花が咲いたのは、ずぶ濡れになった体を、川から上がって、水際に坐り込んで、乾かしている時だった。
 疲れて、目を閉じていて、風が流れてゆく音だけを聞いていた。
 ぱちんと、何かが小さく弾けたような音がして、肩越しに振り返って、その拍子に揺れたつぼみが、ゆっくりとほどけかけているのが見えた。
 思わず息を飲んで、自分の花をじっと見つめた。
 白も気がついて、息を止めて、こちらを見ていた。
 気がつくと、ひそめた息を、一緒にそろえていた。まるで、物音を立てたら、ほどけかけたつぼみが、また閉じてしまうような気がして、身じろぎもせずに、そっと開いてゆく花びらを、ふたりで見ていた。
 固く、丸く合わさっていたつぼみの花びらは、ゆっくりとふくらんで、やわらかな音がしそうに、いちばん外側から、はがれ落ちるように、開いてゆく。
 その様が、まるで、白の笑った顔のようで、気づかれないように、ちらりと白を見てから、やっぱり花が咲こうとしているのは、白のためだと、そう思う。
 つぼみは、長い長い時間をかけて、ついに花へと生まれ変わった。
 花びらが、いっぱいに開いて、ゆっくりと、頭の上に立ち上がる。まるで胸を張っているようだと、上目に見上げて、思った。
 白が立ち上がって、そばへやって来ると、一生懸命に肩にのぼって来ようとする。腕を持ち上げてそれを助けると、白は、必死の面持ちで肩の上に立って、そこから、咲いたばかりの花に向かって腕を伸ばした。
 すくっと伸びた花に、白の手は届かず、肩の上で爪先立ちしている白の、伸びて、反りきった胸を見て、わからないように肩をすくめる。
 白が、肩から落ちないようにそっと手を添えて、もう一方の手を、すっかり開いた花びらに向かって伸ばして、白のために、少し位置を下げる。やっと手が届いて、白が、その花に両手を添えた。
 大きく開いた花の真ん中に、こすりつけるように鼻先をうずめて、くふんと、白が小さくくしゃみをする。
 自分の花の匂いはわからない。白がきらいでないようにと、こっそりと祈った。
 「俺のより、大きくてきれいだ。」
 白が、やっと花の向こうから顔を出して、まるで念を押すように言う。
 唇がへの字になっていて、それは、不機嫌に見えるけれど、実は機嫌の良い証拠なのだと、今は知っている。
 なんだかよくわからないけれど、白は、咲いたばかりのこの花を、気に入ったらしい。
 もう一度、検分するように、花に近々と顔を寄せて、白はやっと花から手を離した。
 花は元通り、ぴんと上を向いて、白はそれを見届けてから、ぴょんと肩から飛び降りた。
 「俺の言った通りだ。そっちの花の方が、大きくて、ずっとずっときれいだ。」
 言葉に、重みを付け加えるためのように、腕を組んで、ぐっと胸を反らす。そうしても、まだまだ小さな白を見下ろして、心の中でくすりと笑う。
 大きさは違うけれど、色も形も、白の花と違いはないように見える。それでも、こちらの方がきれいだと言い張る白に、無理に言い返す気もない。
 花が、無事に咲いたことがうれしくて、白が、この花を気に入ったらしいことがうれしくて、どちらが大きいとか、きれいだとか、そんなことはどうでもよかった。
 まだ坐ったままでいると、白が、
 「行こう。」
 への字の唇のままそう言って、すたすた先へ歩き出す。
 慌てて、その後を追うために立ち上がって、つぼみの時とは違う感触に、少しだけ戸惑って、後ろを振り向いた。
 大きく開いた花は、声を立てて笑う白に、そっくりに見えた。




  夜眠る時には、紫に寄りかかって、たらんと花を背中の方にたらしたまま、眠る。
 土から元気をもらうために、爪先は土に埋めて、こくんと首を折って、紫は、俺より先には眠らない。まるで、俺が眠ってしまったのを確かめないと、眠れないとでもいうように。
 俺は、眠っている間に、いつもいろんな夢を見た。目覚めてしまえば、ひとかけらも覚えていない夢だったけれど、楽しかったことや、恐ろしかったことだけは、憶えている。
 目覚めて、紫の笑顔を見上げて、楽しかった夢を、紫には見せられなくて残念だと思うことや、夢の中で味わった恐ろしい思いを、紫に味あわせなくてすんだと、安堵することや、そんなふうに目覚めることにすっかり慣れてしまって、時折、俺は、ひとりきりで目覚めることを想像して、ひどく不愉快になる。
 暗い土の中から引き抜かれて以来、ずっと紫と一緒にいるのだと、改めて気づいて、たとえば、ひとりきりになることや、他の誰かが、俺たちふたりに加わることは、ひどく想像しづらかった。
 仲間を見つけるために、こうやって長い間歩き続けているのに、その時が来ると、仲間なんか別にいらないと、言ってしまいそうな気がして、俺はひとりで肩をすくめる。
 でもきっと、紫は他の仲間を見つけたいのだろう。俺とこのままふたりきりではなく、他の誰かと一緒に、もっと仲間を増やしたいに違いない。
 そうなっても、紫は、俺を時々は肩に乗せて運んでくれるだろうかと、そんなことを思いながら、俺はやっと、眠るために目を閉じた。


 紫に、置き去りにされるような、そんな夢を見たような気がする。
 ごろごろと、岩の転がるその場所で、紫は、岩を持ち上げ、転がして、どんどん先へ行ってしまう。 俺は、岩を乗り越えて、必死に紫の後を追っていた。紫は、大きな岩をものともせず、俺の方へは振り返りもせず、掌をすりむきながら、俺は、小さくなってゆく、大きいはずの紫の背中ばかり見つめていた。
 目の前の岩は、少しずつ大きくなってゆく。どんなに腕を伸ばしても、どんなに高く飛び上がっても、俺には乗り越えられない。
 地面に落ちて、顔も手も、泥だらけになる。
 最後に見えたのは、紫の首から伸びる赤いひらひらと、同じ高さで揺れる、きれいで大きな、紫の花の、色鮮やかな花びらだった。
 転がって、群れる岩のすきまから、俺は、もう立ち上がる気力もなく、紫の背を見送っていた。
 だから、目が覚めて、真っ先に顔を上げて、紫がそこにいることを確かめた。
 紫の、服の袖をつかんで、ぱくぱくと唇を動かして、いやな汗の吹き出していた額を、俺はその袖で拭った。
 紫は、いつもと変わらない表情---無表情、ということだ---で、そんな俺を見下ろして、もうとっくに起きていたのか、爪先は、地面の上に出ている。
 どうしたと、瞳は見下ろしているけれど、言葉には出さない。そんな紫に向かって、妙なことを口走ってしまいそうになって、俺は、いつもよりも、もっとへの字に唇を結んだ。
 それから、頭が動かしにくいことに気づいた。
 紫から離れようとすると、頭が紫の方へ引っ張られる。首をへんな方へ傾けたまま、俺は、横目でそちらを見た。
 俺の花が、上の方へ伸びて、紫の花の茎に、くるくると絡まっている。
 紫は、俺の花が傷まないように、少しだけ胸を反らして、首を後ろに向かって伸ばしている。
 へんな夢のせいで、俺の花が、紫の花を、引き止めようとしたのかもしれない。
 動こうとすると、茎がへんに引っ張られて、少し痛んだ。
 「肩、乗る。ほどく。」
 紫が、俺に向かって、左腕を伸ばした。花のことを気にしながら、俺はいつもよりゆっくりと、紫の腕につかまって、肩の上に上がる。
 茎の絡まった花をふたつとも、顔の前に運んできて、俺は一生懸命、茎をほどこうとした。
 まるで、俺の指にさからうように、俺の花は首を振って、あちらこちらへふらふらと揺れる。茎を折ったりしないように、花びらを散らしてしまったりしないように、俺は用心して、やっと絡まった茎をほどいた。
 ほどけた途端に、紫の花は、いつものようにぴんと上に立ったけれど、俺の花は、ねじけた茎のせいで、ひどく不機嫌そうに、そっぽを向いている。
 俺は、悲しくなって、紫の肩に乗ったまま、紫の頭にしがみついた。
 「じき直る。大丈夫。」
 紫の大きな手が、俺の頭をぽんぽんと撫でた。
 悲しくて悲しくて、それから、どうしてか怖くて、俺は、紫の頭に、しがみついたまま、小さく震えていた。




 花が、ふたつとも咲いて以来、白は、時々、ひどく悲しそうな顔を見せる。
 どうしたと訊いても、はっきりとは答えない。だから、しつこくは尋ねない。
 不機嫌とは違う。思い当たることもなく、ただ黙って、白を見下ろしている。
 一緒に歩いていると、花の匂いが、鼻先をくすぐる。ふたつ一緒に、揺れて、匂いを漂わせる。
 口にすれば、白がむきになって言い返すから、何も言わない、けれど、白の花の方が、やっぱりいい匂いだと思う。
 白の花は、茎が少しだけねじけてしまっていて、まだまっすぐにはならない。それを気にして、あんな悲しそうな顔をしているのかもしれない。
 そんなことは、関係ないのにと思っても、やっぱり口にはしない。
 黙って歩いていて、白が転んだ。
 大きな石ではなかったけれど、またぎきれなかった白は、その石につまずいてしまったらしかった。
 白は、地面に坐ったまま、打った膝を抱えて、歯を食い縛っていた。
 血は出ていない。よかったと思って、汚れた服の泥を払う。そこも一緒に打ったのか、土のついた頬を、首に巻いた赤いひらひらで---前にも、何度もそうしたことがある---拭うと、白がこちらを見上げて、ありがとうと小さな声で言った。
 「あるける。」
 地面に両膝を伸ばした白に、訊いた。両方の膝を、曲げたり伸ばしたりして見せて、白は、うなずいてから、ゆっくりと立ち上がろうとした。
 触れはせずに、倒れることがあったら支えようと、腕を差し出して、足を伸ばす白を見守った。
 とんとんと、打った方の足で地面を軽く蹴って、大丈夫だと、白が見せる。うなずき返してから、また歩き出す。
 歩き出してすぐに、首を後ろに引っ張られる感触に、思わず肩越しに振り返った。
 斜めに見下ろすと、白が、赤いひらひらと握っているのが見えた。
 歩くのに、助けが必要なのだろうかと、思って足を止める。
 一緒に足を止めた白は、赤いひらひらを握りしめたまま、唇をきゅっと結んで、何か言いたげにこちらを見上げていて、土や風と話をするように、白の考えていることがわかったら、どんなにいいかと、ふと思う。
 「あるけない、休む。」
 ちゃんと、普通に歩いていたなと、思い出しながら、そう言ってみた。
 白は、即座に首を振った。
 もう二拍、間を置いてから、赤いひらひらを引っ張られると、首が痛むから手を離してくれと、どうやって頼もうかと考える。
 「足、痛む。肩乗る。」
 右肩を指差して言うと、これもすぐに、白が首を振った。
 「歩ける。痛くなんかない。」
 白の言うことがほんとうなら、赤いひらひらを握りしめているのには、何か別の理由があるらしい。
 それを訊いても、多分答えてはくれないような気がしたから、重ねて問うことはやめた。
 さっき、土の汚れを拭った頬が、少し赤くなっている。足は痛まなくても、そこは痛いのかもしれない。
 今日は、もっとゆっくり歩こうと、思いながら、赤いひらひらをつかんだ白の手に、そっと触れた。
 丸まった、小さな指を、おどかさないように、少しずつ開かせる。白の掌をほどいて、赤いひらひらを抜き取って、代わりに、その手を、自分の手で包み込んだ。
 「行く。」
 また---ゆっくりと---歩き出して、手はつないだままだった。
 掌の中で、白の手が動く。指が、伸びたり曲がったりして、それから、こちらの指を握りしめてきた。
 白の小さな手は、とてもとても、あたたかかった。




 雨が降っている時は、雨宿りをして、雨がやむまで、待つ。
 草の生えたところにもぐり込んで、雨をよけて、暗い空を見上げる。
 俺が、雨の中を歩くのはきらいなのだと、紫は思っている。そうしてその通りに、俺は、雨の降る中を歩くのはだいきらいだった。
 みっしりと生えた、草の根元に、ちょうど、葉の重なる辺りに入り込んで、坐って、時折上へ顔を突き出して、ただじっと、雨のやむのを待つ。
 草の根元は、いつもあたたかくて、少し湿っていて、どこよりも強く土の匂いがして、その地面を見下ろしては、俺も土の中に埋まっていたのだと、そんなことを思い出す。
 青くさい匂いをかぎながら、俺も紫も、ちっともおしゃべりではないから、時間はただ、静かに流れてゆく。
 雨の日は、みんな息をひそめているようで、何もかもが静まり返る。
 雨の粒が、地面を叩いて跳ね返る、やわらかな音だけが聞こえる。


 ざあっと降り出した雨は、今はしとしとと降りながら、一向にやむ気配がない。
 俺は退屈で、何度もあくびをして、何度もうとうととして、ぱっちりと目を覚ましても、まだ雨が降っている。
 風や土と話のできる紫が、じっと地面に坐ったまま、空を見上げようともしないのは、まだまだこのまま降り続くと、知っているからだ。
 俺は、周りを囲む草の葉をひっぱったり、かじったりしながら、じきにそれにも飽きて、今度は、紫の体によじのぼって遊び始めた。
 腕をつかんで、のぼって、肩に上がる。肩にたどりつくと、今度は頭の上を目指す。紫の顔をけったりしないように、頭の横から、後ろへ回って、そこから、上へのぼる。
 紫の頭は、つるりとしていて、何のとっかかりもないので、のぼるのが難しい。肩を軽くけって、腕と足をいっぱいに使って、一生懸命よじのぼる。一生懸命になりすぎて、紫の左耳の後ろを、ちょっとだけ強くけってしまって、しまった、と思ってのぼるのを一度止めたけれど、紫は、ほんの少し頭を動かしただけで、何も言わなかった。
 蹴ったところが、赤くなったりしてないか、後でちゃんと見ておこうと思いながら、紫の花の根元の辺りに、やっと手が届いて、俺は体を、上へずり上げた。
 紫の頭のてっぺんに着いても、そこに立ち上がるわけにはいかないので---すべったら危ないし、紫の頭を足蹴にするほど、俺は失礼なやつでもない---、そのままゆっくりと、今度は紫の右肩へ下りてゆく。
 足さえそこへ届けば、つるんと頭の横をすべり落ちて、耳に引っ掛からないように気をつけて、肩へ下りるのは簡単だ。
 そのまま地面に降りようかと思いながら、俺はしばらく、紫の右肩にとどまったままでいた。
 紫の耳に手をかけ、上を見上げて、咲いて以来、日に日に色鮮やかになる紫の花に、俺は腕を伸ばした。
 俺のよりもずっと大きいその花は、近くによると、もっといい匂いがして、鼻先を埋めるように顔を近づけて、俺はふと、思いついて花の中心をぺろっとなめた。
 花の匂いが口の中に広がって、それから、
 「・・・にがい・・・。」
 吐き出すようなにがさではなかったけれど、甘いことを予想していた俺は、意外な結果に、思わず大きな声を出していた。
 紫がこちらに顔を向けて、俺が何をしているのかと、訝むように見やってくる。
 俺を見た紫の瞳が、少し大きくなって、紫の手は、そのまま俺を肩から抱き下ろしてしまった。
 紫の膝の上に乗せられ、正面から向き合うと、紫の指が俺の鼻をつついた。そのまま、俺の口元や頬の近くを拭って、どうやら、花の粉が顔を汚していたらしい。
 「甘いかと思った。」
 紫が少しだけ唇を曲げて、大きく首を振る。
 「おれたちの花、あまくない、にがい。」
 俺は、思わず残念そうな顔をする。
 何となく、紫の花は、匂いと同じほど甘いような気がしていたから、けれどそれを紫には言わずに、俺はむうっと唇をとがらせた。
 それを見て紫が笑って、俺はほんの一瞬、退屈な雨宿りのことを忘れていた。


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