俺たち、ボグミン
-白と紫のちっちゃな物語-
想
いつの間にか、いつも手を繋いでいるようになった。
歩いている時も、眠る時も、隣りにいる白が、手を伸ばしてきて、指を1本だけ握る。白の小さな手を、すっぽり握り返すことも、たまにするけれど、白は、そうやって、指を握っている方が、好きらしかった。
一体、どれほど歩いて来たのか、このまままっすぐ、この世界の果てへたどり着いてしまいそうな、そんな気がして、不安ではなく、思わず白が握っている指に、力が入る。
まだ、何もない。草と木と、花と川と、他には、岩と砂と、見つけたのはそんなものばかりだ。
土は、何も言わずに、歩き続ける自分たちを、引き止めることはしないけれど、もしかすると、口にはしないだけで、無駄だよと、そう思っているのかもしれない。
仲間を見つけるのだと、それが目的のはずだった。
今はまだふたりきり、けれど、ひとりぼっちではない。
だから、こんなに遠くまで、来ることができたのだと、白をこっそり見下ろして思う。
白は何も言わない。歩き続けることが無駄かもしれないとか、仲間は見つからないのかもしれないとか、もうどこへも行きたくないとか、そんなことは、一言も口にせずに、一緒に歩いている。
今は、手を繋いで。
この世界が、どれほど大きいのか、見当もつかない。一体、どれほど遠くへやって来たのか、知る術はない。
それでも、そんなことが、そんなに気にならないのは、きっと白といるせいだ。
何の根拠もなく、白はきっと、ずっと一緒にいてくれるのだろうと、思っている。やがて仲間が見つかっても、あるいは、結局ふたりきりだとわかっても、白は、いつもこうして傍にいてくれるのだろうと、思う。
こうやって、手を繋いで。
一度、絡まり合ってしまった白の花の茎は、まだまっすぐには戻らず、少しねじけている。けれど、その、少しばかり曲がった茎も、何となく白らしくていいと、思っているけれど口にはしない。
思ったことをそのまま口にするのは苦手だ。それに、そうした時はいつも、白が不機嫌になる。
白はきっと、あれこれうるさく自分のことを言われるのが苦手なのだろう。元々、土と話す以外、口を開くのは苦手だ。
手を繋いでいると、いつも何か、そこから伝わっているような気がする。しゃべらなくても、掌と掌が、触れ合って、言葉ではない言葉を、交わしているような気がする。
もし、ほんとうに、歩き続けることに疲れてしまったら、もう、どこへも行きたくはないと思ったら、ふたりで、地面に大きな穴を掘って、土の中に戻ってしまえばいい。
花がふたつ、並んで咲いて、湿ってあたたかい土の中で、ずっと手を繋いでいればいい。
土の中でいつか、繋いだ手から、ひとつになってしまうかもしれない。
そうしたら、花は、もっと大きくなるのだろうか。
いい匂いのする、もっと大きな花を思い浮かべた。
けれど、その大きな花よりも、白の、白だけの花の方が好きだと思って、思わず足を止める。
「なんだ?」
先へ半歩進んで、伸びた腕に引きずられるように、白がこちらへ振り向く。
「なんでもない。」
そうとだけ言って、また、何事もなかったように歩き出す。
白が、ぎゅっと指を握って来た。
見下ろして、撫でるように白の手に触れて、前を向いている白に向かって、ひとりでにっこりと笑った。
白の花が、それを見ていた。
怪
相変わらず、どこへとも知れずに仲間を求めて歩きながら、俺たちは、木がたくさん折れて、倒れて、そこは、以前は森だったに違いない場所へたどり着いた。
何か、大きなものに、上から踏みつぶされたみたいに、樹々はぽっきりと、幹の半ばから、あるいは根元から折れて、地面は、葉の繁った枝と、重なり合って倒れた木に埋もれて、俺たちはしばらくの間、その光景を目の前に、言葉もなかった。
紫は、いつもよりももっと口を強く結んで、俺の手を、そっと外して、木の折れ口に触れた。
「何か、わかるのか?」
俺は、知らずに声をひそめていた。紫は、俺の方を見ないまま、首を横に振って、まだ折れた木に触れ続けている。
何かが起こったのだということはわかる。けれど、その何かがわからなくて、俺は、ほんの少し怖気づいていた。
とてつもなくいやな感じがする。今まで通り過ぎて来たところとは、何かが違う。
雨は痛かったし、森は大きかったし、川は冷たかったけれど、こんなに、背中が寒くなるような感じはしなかった。
紫は、やっと木から手を離し、俺の方を見下ろして、あごをしゃくった。
倒れた木と木のすきまに、肩を落としてすべり込んでゆく。その紫の後に、俺も黙ってついて行った。
不安を口にすることはたやすかったけれど、今は多分、何もしゃべらずに、静かにしていた方がいいのだろうと思う。いつになく真剣な紫の表情が、後ろからは見えなかったけれど、固い背中の線に現れていた。
並んで、普通には歩けない。手を繋げないと思って、代わりに、紫の首の、赤いひらひらをつかもうかと、俺は手を伸ばしかけて、やめた。
大丈夫だ。この、こわれてしまっている森を抜ければ、またいつものように歩き出せる。
仲間は見つからないかもしれない。でも、紫がいる。
紫は、ゆっくりと、音を立てずに、めちゃくちゃになった木の間を抜けてゆく。時々、小さな枝を乗り越えて、振り返って、俺がきちんとついて来ているのを確かめながら、先へ進む。
この森に、何が起こったのだろう。倒れて、折れてしまった木が、元通りになるとは思えず、俺は思わず、かわいそうにと、くぐり抜ける木の幹に触れながら、つぶやいていた。
紫に、その声が聞こえたのか、丸まった背中がそこで止まって、肩越しに俺を振り返る。照れくさくて、俺は肩をすくめて、何でもないと返す。
そうしながら、俺の中で、いやな感じは、どんどんふくれ上がっていた。
少しばかり太い木の枝が、何本も絡まるように、地面に横たわっていた。
その枝を乗り越えるしか、先に進む手はないように見えて、紫も俺も、一緒に、他に通り抜けられる、乗り越えやすいすきまはないかと、探したけれど、どこも、俺が乗り越えられる高さではない。
それでも、幹がいちばん細いところに、紫が手をかけて、揺れたりしないことを確かめてから、そこへ乗り上がる。
「くる。」
紫が、まだ下にいる俺に向かって、手を伸ばした。
その手を、俺は両手でしっかり握って、紫のいるところへのぼる。
俺をそこへ引きずり上げると、紫は、ひょいと俺を抱え上げて、
「しっかりつかまる。」
紫の首に腕を回して、俺は、紫にしがみついた。
でこぼこと並んだ、横たわる木の幹の道は、ところどころ葉に覆われて、あるいは、ぽきりと折れた部分を晒して、地面はほとんど見えなかった。
紫が、幹をのぼり、降り、一生懸命、前に進み始める。
俺は、落ちないように、またしっかりと紫にしがみつく。
いやな感じは、消えてはいなかった。紫にしがみついて、目をぎゅっと閉じて、俺は一度だけ、紫の背中でぶるっと慄えた。
眺
折れて、倒れた木たちは、沈黙していて、まるで怖がっているように、何も語らない。
ここを通らずに、他の道をたどることもできたけれど、その奇妙な沈黙は、思ったよりも広い範囲に広がっているように思えて、辺りを見回してから、やっぱりこのまま進もうと決める。
あまり長くは、ここにいない方がいいと、今はあまり見えない地面の方から、気配が伝わってきた。
風が、静かにざわめいている。何を語るわけでもない、けれど、まるで震えているように、沈黙の音だけが聞こえてくる。
森がこわれてしまっているのは、誰かが、何かが、森をこわしたからだ。
そのことを、口にはしない方がいいような気がして、白には何も言わなかった。
それでも、白も何かを感じるのか、黙って後ろからついてくる。
早くここを抜けよう。こわれてしまった森には、大きくて甘い花も、冷たくて気持ちのいい川もない。あるのは、優しい木陰ではなく、おそろしげに横たわる、無残な折れ口をさらす、悲しげな幹ばかりだ。
風がざわめいているのは、森の、泣いている声なのかもしれない。
立ち止まって、折れた木の1本1本を、撫でて、慰めたかった。けれどそれよりも何よりも、今は、一刻も早く、この場所を通り過ぎてしまおう。
重なり倒れた木をのぼり、降り、地面とのわずかなすきまをくぐって、時々葉に全身を撫でられながら、前へ進む。
白を振り返って、ちゃんとそこにいるか確かめながら、早く、このこわれた森の終わりがやって来ることを、祈る。
風のざわめきに、振り返ったりしないように、何か、楽しいことを考えようとしてみた。
白の花粉の、にがかったこと、白の花の、いい匂いのこと、白の小さな手や、時々見せてくれる笑い顔や、思いつくのは、何もかも白のことばかりだ。
あの、いちばん最初の森で見つけた、大きな花のように、白の花も、別のところは甘いのかもしれない。それは、正しいことのように思えた。
確かめたいと言ったら、確かめさせてくれるだろうか。白の花に顔を近づけて、鼻先を埋めて、少し苦い花粉を避けて、あの大きな花のように、甘いところを探す。どこかにあふれているかもしれない、甘い匂いを見つける。
見つけて、どうしよう。なめて、甘いと言ったら、白は怒るかもしれない。
自分の花も甘いかもしれないと、突然思いついて、白が怒ったら、これもきっと甘いと言って、自分の花を差し出せばいいと思い直す。
この森を抜けたら、どこかでひと休みしよう。白を振り返って、思った。
重なって倒れた幹が、山のように積み上がっているところまで来て、下をくぐって行くことはできなかったから、上へ昇って、白を抱えて歩くことにした。
白は小さくて、倒れた幹と幹のすきまに、転んで、すべり落ちて行ってしまいそうに見えたから、白を背中に抱えて、なるべく急ぎ足で、葉や枝をよけて、飛ぶように歩く。
ここを抜けたら、ゆっくり休もうと、また思う。
そうして今度は、細い枝が絡まり合って、とてもふたり一緒には通り抜けられそうになく、思わず足を止めて、
「おりる。」
白を背中から降ろした。
腕を突っ込んで、枝を持ち上げて、重なった葉に隠れた、鋭い枝に刺されたりしないように気をつけて、一生懸命すきまをつくった。
「先、行く。」
そう言うと、白は少しだけ面食らった顔をして、四つん這いになって、そのすきまへ頭から先に入って行った。
白の花が、重なった枝に絡まりそうで、そんなことにならないように、必死で枝をもっと上へ持ち上げる。
繁みの中から、痛いと訴える白の声が時々聞こえ、けれど少し後で、
「出た!」
と、うれしそうな声が聞こえた。
白が通った後を、心の中で謝りながら、細い枝を折って充分なすきまを作って、先へ進んだ。
ばさばさと葉が鳴り、頭の花をちぎろうと、鋭い枝が伸びてくるのを、用心深く避けて、枝と葉のトンネルの出口に、白の足が見える。
体をねじるようにして、ようやくそこを抜け出した。
ふたり一緒に、取れてしまった葉だらけになって、けれどそこから、森の外が見えた。
見下ろせば、懐かしい地面が見える。
木は、まだたくさん倒れていたけれど、こわれた森は、終わりに近づいていた。
ふたりでうなずき合って、先に、地面に飛び降りた。
ずいぶん高い。どしんと、久しぶりの地面に足を着いて、それから、まだ幹の上にいる白を振り返る。
両腕を、思い切り上に伸ばした。上にいる白には届かないけれど、受け止めるつもりで、腕を伸ばして見せた。
白が上で、それを見て、にっこりと笑った。
ざわめく風に、首の赤いひらひらと、頭上の花が、一緒になびいていた。
光
やって来たのは、まずは気配だった。それから、揺れと、音と、紫の方へ飛び下りるよりも先に、白は、後ろに振り返ってしまった。
倒れた木々が、地面から盛り上がり、ばらばらと崩れて落ちる。何か、巨大なものが、地面の下から、起き上がって来たのだとわかる。
その巨大な、うねうねと動くものは、あちらを向いて、大きな口を開けて、おそろしいほど長い舌で、倒れた木をすくい取っては、口の中へ運んでいる。
けれど、その巨大なものが求めているのは、木ではないように見えた。
大きく突き出した一つ目を、ぎょろぎょろと動かして、木を崩しては、何かを探している。
長い、丸い体、ぬらぬらと光る表面には、波打つ模様がまだらに走り、足があるのかないのか、倒れた木々に隠れて見えない。腕らしいものは、どこにも見当たらなかった。
あまり、仲良く友達になりたいと思う、親しみやすい外見ではないなと、白は思った。
逃げようと、紫のところへ飛び下りようと、そう思うのに体が動かない。
頭上の花は、すっかり怯えたように、白の背中の影に隠れてしまっている。
紫は、そんな白を下から見上げて、早く上に上がって、白を引きずり下ろそうと、必死に上に向かって腕を伸ばしているところだった。
声を出せば見つかると、焦る気持ちばかりが先走って、腕も足も、いつものように動かない。
逃げられるだろうか、身を隠すことができるだろうかと、つるつるとした幹に手を滑らせて、紫は、白の手を離してしまったことを、心の底から後悔していた。
白は、そんな紫には気づかないまま、巨大な口から伸びる、長い舌が、倒れている木を、さらになぎ倒すのを、呆然と眺めている。
ぱっくりと開いた、真っ赤な口の中には、ずらりと鋭い歯が見えた。
その口が、鋭く空気を切り裂いて、こちらへやって来る。舌がうねうねとうごめき、一つ目は、微動だにせず、白を見据えている。
舌先が、自分を捕らえに来るのを悟って、白は、自分の花が、いつも紫の花よりも、甘い匂いをさせていたことを思い出していた。
その巨大ないきものは、きっと花の匂いに惹かれているのだ。なぜ、同じように花を咲かせながら、そんなところが違うのか、今も腑に落ちないまま、巨大ないきものが、紫ではなく、自分を食べたがっていることに、白は、心のどこかで安堵していた。
舌が伸びる。木を弾く。白の乗っていた辺りをひと払いして、折れた木ごと、白を舌に乗せる。
やっと上がりかかっていた木から、振り落とされ、紫は、どしんと地面に落ちた。
舌に巻き取られて、身動きは取れなかったけれど、白は、ようやく紫に向かって手を伸ばしていた。
紫も、倒れた地面から立ち上がり、白に向かって腕を伸ばした。
花がふたつ、頭上にぴんと伸びて、その腕と同じように、互いに届こうとするように、花同士が向かい合った。
心配するなと、風の中に声が響いた。
大丈夫だ。何も心配はいらない。ふたりの間で、誰かがそう言った。
一つ目は、紫には見向きもせず、しゅるしゅると舌を引き寄せ、その中に巻き込んだ白を、ぱっくりと開いた口の中へ運んでゆく。
白はまだ、腕を伸ばしたまま、逃げるためではなく、抗うためではなく、紫をじっと見ていた。
こわれた森の真上で、何が大丈夫なのか、よくはわからなかったけれど、紫ではなく、自分が食べられてしまうことには、何か意味があるに違いないと、そう信じることにした。
紫も、腕を伸ばしたまま、呆然と、こちらを見上げている。
紫の、初めて見た時には、こわそうだと思った大きな瞳から、光るものがこぼれ落ちるのが見えて、それは、空から降る雨に似ていて、俺たちも、小さな雨を目から降らすのかと、そう思いながら、白はゆっくりと目を閉じた。
心配するな。大丈夫だ。
また声が響く。
同じ言葉を、今はもう見えない紫に向かって、つぶやいたのが最期だった。
ほどけた舌を滑り降り、ぬるぬるとした、一つ目の口の奥へ運ばれながら、ころころと転がる体が、ついにぽちゃりと、川のようなところへ落ちた。
そうして、そこで、白の体は、真っ白な光になって、大きく弾けた。
憶
鼻先をくすぐる匂いに、首を振って目を開くと、手に届きそうな位置に、ジェロニモが背中を丸めていた。
胸に乗った、指先を差し込んだままになっていた本に気づき、それを持ち上げて、肩を動かすと、長々と横たわっていたソファが、軽くきしんだ音を立てる。その音に、ジェロニモがこちらへ振り返る。
起こしたかと、瞳の動きが訊いたから、いいやと、首を振って、ついでに、もぞもぞと寝返りを打って、テーブルの方へ体の向きを変えた。
「何の花だ。」
ジェロニモが、透明なガラスの花瓶に入った花を、そこに置いた気配に目覚めたのだと、ハインリヒは、そこから流れてくる花の匂いに、目を細める。
「知らない。フランソワーズ、持って帰った。」
中振りの大きさの花に、鮮やかな葉がついた、華奢な茎、花びらは細く長く、二重三重に重なっている部分も見える。フランソワーズによく似合いそうな、淡いピンク色だった。
日本の花の、菊に似ていると思って、ジョーに訊いたら、名前を知っているかもしれないと思う。
「・・・夢を、見ていた。」
花瓶の位置を決めて、体を起こしたジェロニモが、横顔だけでハインリヒを見下ろした。
「ゆめ・・・?」
ああ、とうなずいてから、テーブルの花からジェロニモに視線を移して、首元と、頭の上に、そこに何かを求めるように、ハインリヒは瞳を動かした。
「何だろうな、よく憶えてない。土と、雨と、川と、森と、おまえさんに似合いそうな夢だったような、気がする。」
そう言いながら、ジェロニモが、一緒に夢の中にいたような気がして、ハインリヒは、意味もなく自分の頭を触る。
大丈夫だと、夢の最後に聞いた声は、あれは一体、どういう意味だったのだろう。
ハインリヒは、やっとソファの上に体を起こした。
まだ、少し寝ぼけている頭を軽く振って、手に持っていた本をテーブルの上に起き、立ち上がろうとするちょっと前に、ジェロニモが低く声を掛ける。
「紅茶、いれる。」
ハインリヒの返事を聞かずに、くるりと背中を向けて、壁の向こうのキッチンへ消えてゆく。
うたた寝を始めた時と同じに、またリビングにひとりきりになって、ハインリヒは、手持ち無沙汰に、花瓶の花に手を伸ばした。
大きくはない花は、単純な形をしていて、けれどそれゆえに愛らしく見え、細く薄い花びらを、右手で、そっと撫でる。
花がひとつ揺れると、他の花に当たって、全部が、ふわふわとかすかに揺れた。
花びらの中心にある、花粉の乗った黄色い部分に、ふと指先が触れる。うっかり黄色く染まった、鉛色の指先に、どうしてか視線を奪われて、ハインリヒは一瞬無言になる。
周囲には、他の誰の気配も感じられなかった。壁越しに聞こえる、ジェロニモが紅茶をいれている物音に耳を澄ませ、そうして、黄色の指先を、そっと口の中に含んだ。
口の奥に広がる花の匂いと、花粉の苦さと、また花に目をやって、ハインリヒは知らずに微笑んでいた。
どうしてか、胸の奥にかすかにある、憶えのない痛みに、ひとり目を細めながら。
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