本の森の棲み人 12
散々互いを食んで、シェーンコップの腹へ頭を埋め込むようにして、いつの間にはヤンは眠ってしまっていた。一体いつ、防御の次元から葉の寝床へ移って来たのか、体には脱いだ衣服があちこち引っ掛かり、シェーンコップの手足や体の下に敷き込まれているそれは、よく寝ている人の姿の竜を起こさずに取り上げるのは不可能で、新たな衣服でも魔術で取り出すこともできたけれど、ヤンはとりあえず自分の体にだけ掛かっていたシェーンコップの上着を頭からかぶり、束の間シェーンコップの寝顔を眺めた後で、ついと立ち上がって穴の外へ出た。
終わり掛かった夜はほのかに薄明るく、月は樹々の葉に遮られて見えなかった。
腹が空き、喉も乾いていた。手が届く枝に、木の実が見つからないだろうかと、ヤンは盛りの中を歩き出し、後ろを振り返り振り返り、穴の入り口が見える距離を保っておこうとする。
剥き出しの足に、夜風が冷たい。そうか、いつもはシェーンコップか、竜のリンツやブルームハルトが傍にいて、自分へ当たる風を遮っていたのだと気づく。竜たちは眠っているのか、森の中はしんと静かだった。
小さな生き物たちの気配はあっても、それはヤンには脅威ではなく、初めてひとりで歩く森の中で、ヤンは久しぶりに恐怖を忘れている。
これはきっと、ヤンが竜のシェーンコップを"食べた"からに違いなかった。半日前まで、少し歩けばすぐに萎えた手足には、指の先にまでしっかりと血がめぐり、夜風を冷たいとは思っても寒いとは思わず、いつもは手の先しか出さない、肌を見せない服装から、今はシェーンコップの上着を頭からかぶっただけ、腿から下と両腕が剥き出しだと言うのに、それを不安にも思わないのだった。
自分はもう、人よりも竜に近づいているに違いないと、ヤンは思った。鱗も鉤爪も羽もない、相変わらず弱々しい人の姿のままで、けれどヤンの中には竜の能力(ちから)が確かに在り、それをどうか、この先持て余すような羽目になりませんようにと、何に向かってかヤンは祈るような気持ちになる。
悪夢は薄れ、体の中に流れる血の熱さが炎のように全身を駆けめぐるのを、鳥肌も立てずに感じている。空腹に、静かにぐうっと鳴った胃が、そろそろ肉を食べてみてはと、ヤンに語り掛けて来る。今ならきっと、吐きはせずに噛んで飲み込んでしまえるだろう。ヤンは、思わず唇を開いて自分の歯列を撫でた。平たい人間の歯並みにちょっと安堵し、牙ではないそれでは、生肉を噛みちぎるのは不可能だと、自分の口の中をずっと探り続けていたシェーンコップの指先を思い出していた。
口の中に残る、色々の感触と、匂いと、味。緑の茶を出して飲んで、それを消してしまえばいいのに、ヤンはそうせず、つい舌を動かして自分の頬裏や上顎を舐め、そこが今空なことを、心の片隅で少し残念に思った。
ふと足元に黒い影が見え、ヤンは足を止めた。地面の穴から覗く、丸い頭。目を凝らせば、森の闇には色の足りない濃い茶の毛並みが見える。尖った鼻先、ちらりと見える牙、ああ、もぐらだと思って、陽射しを嫌うこの生きものは、夜にはこんな風に地表に顔をだすのかと、ヤンは距離を保ったまま、そっと地面へしゃがみ込む。
地下をもぐって進む生きものは、きょとんとヤンを眺め、この竜の谷に、こんな生きものがいただろうかと、小さな丸い目でヤンを観察していた。
竜にとっては、いないも同然の小さな生きものだろう。もぐらは、自由に地下を行き来し、もしかすると谷を越えずに崖の向こう側へも行けるのかもしれない。高い崖を見上げて、空を飛べない自分のことを思っていたヤンは、そうか、この谷を出るのにそんな方法もあるのだなと、特に意味もなくぼんやりと考えた。
そうして、一体どれほどもぐらと見つめ合っていたのか、突然大きな歩幅が近づいて来て、もぐらは慌てて穴の中へ隠れてしまった。
「こんなところにいたのですか。」
しゃがんだまま肩越しに振り向くと、シェーンコップがもうそこにいて、人は裸では歩き回らないのだと言うヤンの言いつけを守り、肌はきちんと覆っているけれど、ヤンはそれすら正視できず、すぐに視線を外してもぐらの消えた穴をまた見た。
「君に驚いて、もぐらが逃げてしまった。」
残念そうに言ってヤンが立ち上がるのに、
「もぐら?」
「うん、夜だからね、遊びに出て来たんだろう。」
「あなたが、夜の散歩としゃれ込んだようにですか。」
シェーンコップの言い方に、ヤンはふふっと笑って応えた。
そうして、シェーンコップの視線がヤンの体の線をたどり、剥き出しの脚へ止まったのを見て、ヤンは正確にシェーンコップの思念を読んだ。
まだ足りない。きっと、一生足りることはないだろう。もう、互いでしか満たせない飢え。ある種の食欲。ヤンの喉が、音を立てずに、シェーンコップへ向かってごくっと鳴った。
わたしを食べたいと言う君を、わたしも食べたい。
竜でなければ湧きもしない、そんな考えを、ヤンは自由に自分の、まだ人の形の脳の中に遊ばせ、シェーンコップの頬へ自分の片手を伸ばした。
唇を触れ合わせれば、じきにシェーンコップの舌が入り込んで来る。口の中をくまなく探ってゆくのを好きにさせながら、自分たちの舌が人間の形のそれではなく、細長い竜の舌ならと、ヤンはふと思った。
「・・・君を食べたい。」
唇の外れた合間に、耐え切れずヤンがそう言った時、シェーンコップの掌はヤンの腿の裏側を撫で上がったところで、上着の裾から中へ差し入れようとしていたその手を止め、シェーンコップはヤンを抱きかかえるようにして、穴の方へ戻るために薄い肩を押した。
葉の寝床の青臭さも、もう気にしている余裕もなく、ヤンをそこへ倒した時にはシェーンコップはすでに身に着けていたものをすべて脱ぎ去り、ヤンもシェーンコップの掌が衣服の下へ入り込んで来るまま、
「・・・提督・・・。」
とつぶやいて開いたシェーンコップの唇へ、自分の伸ばした舌を差し込んでゆく。
また、互いの全身へ舌を這わせ、舐める。時折、滑る唇を止めては皮膚をやわらかく噛み、シェーンコップは明らかに噛みちぎらないように加減して、最初の時よりは少しばかり余裕のある所作で、ヤンもシェーンコップを抱きしめ続けた。
体を返し、また元に戻し、唇と舌で触れるか、皮膚同士をこすり合わせるか、そうしながら、ヤンは喘ぐ合間にシェーンコップへ話し掛ける。
「わたしは、もぐらみたいだって、言われてたんだ。」
「あなたが・・・?」
シェーンコップの掌が、ヤンの下腹に添えられる。喉を反らして、ヤンは一度呼吸を止めた。
「そう、本の山に埋もれて、1日中そこから動かないから──外に出ずに、陽も浴びずに本ばかり読んでるから、まるでもぐらだって・・・。」
話す間は唇が使えず、それに少しだけ残念そうな素振りを見せて、代わりに、シェーンコップは自分の額をヤンのそれへ重ねて来た。
「我々の言葉では、もぐらは、土の竜と言うのですよ。」
「土の竜?」
「ええ、つまり、あのもぐらは我々竜の仲間です。」
ちょっと可笑しそうに、シェーンコップが笑う。へえと、ヤンもつられて笑う。
「人の言葉でもぐらとあなたが言われるのなら、あなたはもうずっと以前から、我々の仲間だったのですよ、ヤン提督。」
ヤンがシェーンコップと出逢い、ここへやって来るのは運命だったのだと、そう言葉の外へ含ませて、シェーンコップの灰褐色の瞳が近々とヤンを見つめて来る。不思議と、それに反論する気は起こらず、ヤンはシェーンコップの頬へ両掌を添えて、さらに近くシェーンコップを自分の方へ引き寄せた。
それが、そうかもしれないと言う肯定の仕草になって、ふたり──ひとりと1頭──は、またしばらく互いの口の中と膚を探り合った。
ヤンがシェーンコップの背中へ掌を滑らせ、シェーンコップがヤンの髪へ鼻先を埋め込んでいる間に、またおしゃべりが再開する。
「弔いは、どんな風にしたんだい。」
ヤンから、今にも消え失せそうな儚さが失せたのに気づいていたシェーンコップは、そろりそろり言葉を選ぶ様子で、死んだ年寄りの巨(おお)きな体を、十何頭かの竜で砂漠へ運んだところから話し始めた。
「皮を、剥ぎ取りましてね。」
「ブルームハルトが?」
「ええ、鉤爪の先できれいに切り裂くのはあいつがやりました。体から剥ぎ取るのは、私も含めて皆で。」
不思議と気持ち悪さは感じずに、竜の死体の皮を剥ぐやり方を、シェーンコップが身振り手振りで説明するのを、ヤンは時々相槌を打ちながら聞いた。
「いつもそうやって、皮を剥ぐのかい。」
「いえ、今回はリンツの絵のためにです。あの年寄りだけで、私の絵もあなたの絵も、全部賄えそうですよ。」
ヤンは目を丸くした後で、眉を寄せた。もう、シェーンコップの背を撫でる手はとっくに止まっている。
それで弔いから戻って来て、3頭で空模様を気にしていたのかと、ヤンはやっと気づいた。巨大な竜だったと言うなら、その皮もさぞかし大きいことだろう。それをまた谷へ運んで戻った手間を思って、ヤンは竜たちを気の毒に思った。そしてその皮を乾かし、ブルームハルトはさらに使えるように加工するまでやるのか。
「わたしのためだったのか・・・。」
「半分は私自身のためですよ。あなただけのためじゃない。」
シェーンコップがヤンの頬を撫でながら言う。ヤンが尖らせた唇に、幼い子をあやすように触れるだけの口づけを一瞬落とし、
「皮を剥いで、それから──?」
まるで挑むように──何に?──、ヤンが続けて訊くのへ、シェーンコップはまつ毛の濃いまぶたをわずかに瞳にかぶせ、ほんの少しだけヤンから胸を遠ざけた。
「それから皆で、年寄りの体を焼きました。肉も何もかも焼け溶けて、骨だけになるまで。砂漠の空は、その間煙で真っ暗でしたよ。」
ヤンがシェーンコップを見つめたまま、決してずらしはしない視線を、けれどふっと遠くする。まるでその砂漠へ心を飛ばすように、竜の白い骨を、砂漠で朽ち果てた檻みたいだと思いながら、その淋しい様をありありと眼前に思い描いた。
それから、シェーンコップが肝心の部分を抜かしたのに気づいて、
「──肉を食べるって言うのは、いつ?」
明らかに、ヤンがそれに気づかなければいいと思っていたのがはっきりと分かる表情を浮かべて、シェーンコップはヤンの頬を撫でる手を止めた。
「・・・皮を剥いだ後に。焼いてしまう前です。」
ヤンを気にしてか、言いにくそうにそう言った。
「リンツが、君やブルームハルトは肉は食べないって・・・。」
「ええ、我々は雌雄同体ではありませんから。」
「その、しゆうどうたいって言うのは──?」
「少なくとも、この谷に棲む私たちには、明確な雌はいません。代わりに、雌雄同体、と言うか、死んだ者の肉を食べて雌になる者がいます。死肉に対して食欲が湧くと言う言い方が正しいかどうか分かりませんが、その者たちは近々訪れる死の匂いを嗅ぎ取って、死ぬ者の許へやって来ます。死んだ後に肉を食べて、つがいを見つけて仔を生む、その仔には死んだ者の一部が受け継がれる、そういう風に我々は信じています。」
「その、つがいの相手に、君は選ばれないのかい。」
「選ばれません。雌になった者がつがいの相手に選ぶのは、たいてい同じ雌雄同体の者でしてね、その時肉を食べた者と、肉を食べなかった者がつがって仔が生まれることがほとんどです。」
そうやって話を聞けば、竜はまさしく獣であり、人間とは違うのだと分かる。ヤンは、再びシェーンコップの両頬を両掌で包み込んだ。
「君は、誰かとつがいになりたいって、思ったことはないのかい。君の仲間の誰かと、つがいになりたいと思ったことは──?」
ありません、とシェーンコップははっきり首を振る。
「私は死ぬ者の匂いも分かりませんし、その肉を食べても雌にはなれない。雌になった者が、その資格も能力もない私を選びはしません。私は、仔を生むこととはまるきり無関係なのです。」
このシェーンコップが、雌になって仔──卵だろうか──を生むところは想像できなかったけれど、雄としてさえ生殖には関わらないと言うのが、ヤンには驚きだった。
それならこうして、仔など為せるはずもないヤンと、つがいになりたいなどと言う酔狂も許されるのかと、思いながらヤンはシェーンコップの唇を撫でた。
シェーンコップの頬の線が、ふと緊張をやわらげる。横に広い、形のいい唇が、ヤンには見ていてとても心地よい動き方をする。
「恐らく大昔、我々の祖先はここで数を増やし過ぎて、谷の生きものを食い尽くし、共食いでもしたのでしょう。そうして数が減った後で、今度はもう増え過ぎないようにと、そんな風にやり方を変えてしまったのかもしれません。」
「それも、竜の書物に書いてあったのかい。」
「いえ、私が勝手に考えることです。」
相槌の代わりに、ヤンはシェーンコップの頬へ唇を押し当て、首へ両腕を巻きつける。シェーンコップがそのヤンを抱き返して来るのへ、ヤンもいっそう近く体を寄り添わせた。
「君の血を飲んだわたしは、一体いつまで生きるんだろうな。」
シェーンコップが、ヤンには見えないように、切なげに目を細めた。
「我々は200歳よりは長く生きますが、250を越えることはあまりないようです。人間の約3倍として──あなたは今、一体いくつですかヤン提督。」
「30、くらいかな。」
一瞬考えるように、瞳をぐるりと動かしてヤンは答えた。ともに過ごす相手もいなければ、自分が幾つかなどと気にする必要もないから、すっかり忘れてしまっている。
「人間が70まで生きるとして、あなたの本来の寿命が40年、その3倍として、120年程度ですか。」
「君はいくつだい、シェーンコップ。」
「私は、ええと──。」
ヤンより長い時間、シェーンコップは考え込んだ。長命になればなるほど、年齢などどうでもよくなるものなのか。
「90にはなっていないと思いますが・・・。」
あやふやに答えるのに、ヤンがくすくす笑う。それから、笑いを止めて、少し真剣な口調になった。
「君が後150年生きるとして、わたしが少し長生きすれば、わたしたちは大体同じ頃に死ねる。」
今こうして一緒にいることよりも、その方が大事だと言うように、ヤンはじっとシェーンコップを見つめる。シェーンコップはそれを受け止め、ゆっくりと、美しい花の蕾のほころぶように微笑んだ。
「もし私があなたより先に死んだら、私の肉は誰にも渡さず、あなたが食べて下さい。私はもう、私のつがいであるあなたのものです、ヤン提督。」
「その頃にはわたしの背中にも羽が生えて、君みたいに火を吹けるようになってるかもしれない。」
そういうヤンの、何もない、ただ骨張ったつるりとした背を、シェーンコップはそっと撫で、鼻先をこすり合わせた。
「わたしが先に死んだら、君が食べてくれ。残った体は、わたしの本と一緒に焼いてくれ。」
シェーンコップの唇へ、息を吹き掛けるようにしながらそう言うと、ヤンの言い終わった語尾をすくい取るようにして、
「残しませんよ。あなたの体は、骨も何もかも、全部私が食べてしまいます。」
一瞬、穴蔵の空気の重くなったように感じたほど一途な、シェーンコップの口調だった。
「私は、あなたを誰にも渡しません。私たちは、そうしてやっとひとつになれる──。」
100年以上も先の、非現実的な話を、そうして囁き交わしながら、ヤンはシェーンコップの、それが竜ゆえなのかどうか、一本気と言えばそうとも言える恐ろしいほどの熱烈さへ、かすかな身震いを覚えて、竜の想いは吐く炎と同じほど熱いのだと思った。
朝陽の昇るまでの束の間を、また手足を絡み合わせて過ごそうと、ふたりは肩を胸を近づけ、互いを食むための唇を重ね合わせて行った。