本の森の棲み人 15
数日しとしとと雨の降り続いた後、やっとからりと晴れ上がったその日の午後早く、午前中は狩りに行ったと言うリンツとブルームハルトがヤンの穴蔵へやって来た。すでに前夜からヤンの傍にいたシェーンコップは人の姿のまま、リンツも、ヤンの絵を描く練習のために木の皮を抱えた人の姿でいて、竜のブルームハルトは体をくるりとまるめて日向ぼっこを始める。
ヤンは本とお茶を出し、リンツにも勧めてみたけれど、リンツは無表情に首を振ってそれを断り、すぐに木の皮へうつむき込んだ。
シェーンコップは近頃はもう、人の姿でヤンといればヤンを胸に抱え込むのを隠しもせず、リンツもブルームハルトも、人間同士は親しければそうするのかと言う風にふたり──ひとりと1頭──を眺めて、格別何を言うもでない。
ブルームハルトは無邪気に、他の竜と一緒に丸まって日光浴をするとあたたかくていいなどと言い、人間の姿のリンツが、それに対して何だか複雑な表情を浮かべたのをヤンは見逃さなかったけれど、自分からあえて何か言うこともあるまいと、ただ後ろから自分を抱いているシェーンコップをわずかに見上げて、唇の端をかすかに上げて見せただけだった。
まだかすかに湿りを残す空気の中を通って降り注ぐ陽射しはどこか柔らかく、ブルームハルトの背中の鱗を黒光りさせている。
リンツは最初の頃に比べると、ヤンを念写するのに慣れたのか、木の皮を1枚終わらせる速度が上がり、今日はついでだからと言う風に、人間のシェーンコップもそこに描いていた。
「俺と提督のふたり一緒でもいいぞ。」
自分の顔がそこに描かれるのを見て、シェーンコップがちょっとからかうように言うのへ、リンツは生真面目に、
「一緒は皮が小さ過ぎるので。」
第一、まだ人間の顔を描き写すのに十分慣れてはいないと、言い足したそうに唇を動かし掛けてから、時間がもったいないとまた手元へうつむく。
シェーンコップはそれを見てまたくつくつ笑い、ヤンは放っておいてあげようよと、無意識に、自分の体に回ったシェーンコップの腕を軽く叩いていた。
ふと、少し先の樹から、ばたばたと小鳥たちが一斉に飛び立つ音がして、何だとその場の全員がそれを目で追った後に、何やら種の違う叫び声が重なって届いて、ブルームハルトが一瞬でそこから起き上がる。
「穴に入っていて下さい。リンツ、おまえはここにいろ。」
ヤンからもう離れながら素早く言って、立ち上がったブルームハルトと一緒に、シェーンコップも駆け出した。跳ねるような3歩目にはもう竜の姿に一瞬で戻っていて、巨体がふたつ並んで走りながら、動きはあくまで軽い。
放り出していた木の皮を手早くまとめて、リンツは穴の中へヤンの肩を押して行く。
「あれ、何だい一体。」
「喧嘩ですよ、多分。」
「けんか?」
「雨でずっと穴にこもりきりでしたから、久しぶりに外に出て暴れたいんでしょう。」
行動の素早さの割りに、リンツの声には不安気な調子はなく、あくまでいつものことだと言う風だ。
「あのふたりは、けんかを止めに行ったのかい。」
「いえ、砂漠に一緒に行って、暴れ過ぎないように見張るためです。」
「砂漠?」
「ええ、この間死んだ年寄りの弔いをやった砂漠です。そこなら火を吹いても燃え広がりませんから。」
相変わらず、竜の平然と言うことにヤンは軽く頭痛を覚えて、
「火・・・火・・・そうだね、確かにそうだ。」
人間が怒鳴り合ったり殴り合ったりするように、竜は火を吹きつけ合うのか。確かにここでそんなことをすれば、森が大火事になる。
ヤンのねぐらの入り口へ入ったところで、リンツとヤンは首を伸ばしてこっそり外の様子を窺い、すでに静まった声の、けれどまだ何やら言い合っているのを聞いた。
シェーンコップの声、最初に聞こえた叫び声の持ち主たちのそれ、これ以上やるなら砂漠へ行けとシェーンコップが言うのに、火は吹かないからと言い返し、それでもシェーンコップは崖の向こうへ向かって鉤爪の先を上げ、喧嘩の当人たちはさらにシェーンコップに何やら言い返す。
シェーンコップの長い首の後ろに、力が入ったのが、ヤンにもかすかに見えた。ああ怒ってるなあと思った直後、さらに別の声が、ひどく高圧的に甲高く辺りに響いた。
新しい声は向こう側からやって来て、ヤンにはちらりと顔が見え、その途端、リンツが舌打ちした音が聞こえて、ヤンは驚いてリンツを見上げる。
竜のリンツよりもさらに白っぽい色の鱗、瞳の色は揃えたように淡く、姿は美しい竜だったけれど、今では何となく竜の顔の造作の見分けられるヤンには、声の響きと同じく、何だか権高く見えた。
リンツやブルームハルトのような親しみやすさは微塵もなく、胸を反らすようにして首を伸ばした姿は、ヤンにはお近づきになりたいタイプとは思えず、そう思った通りに、その白い竜が何やらシェーンコップに向かって言い始めた中に、人間風情がと言う言葉が混じっているのが聞こえて、ヤンは思わず首をすくめた。
リンツが、やや呆れたように首を振る。ヤンはそれへ向かって、思わず訊いた。
「あの竜は・・・?」
「・・・卵の時の私や隊長をあたためた奴でしてね。我々の父親気取りと言うか・・・卵をあたためたくらいでえらそうにされる筋合いはないんですが──滅多と会うこともないので、好きに言わせておけと、隊長が──。」
リンツがそう説明する間に、白い竜は、喧嘩をするりと収められないシェーンコップを青二才を嘲笑っている。それを遠巻きに聞いているヤンにも、腹立たしいと言う以外の感情の浮かばない声音だった。
竜にも嫌なやつはいるんだなと、シェーンコップのためにヤンは不愉快になりながら、背中に無表情を張り付かせているシェーンコップを、ちょっとはらはらと見守っている。
ヤンがそう感じる通り、この白い竜はあまり好かれてはいないらしく、喧嘩の竜たちとシェーンコップとブルームハルトは、彼を無視するように突然ばたばたと空へ飛び上がり、そのまま崖の方へ向かって行った。
白い竜は、それへ向かってまた何やら吠え、その声の聞き苦しいのに、リンツはぐるりと瞳を押し上げてうんざりと言う表情を作り、ヤンへ同意を求めるように再び首を振って見せる。ヤンも思わず、それへ浅くうなずき返していた。
白い竜は面白くなさそうに立ち去り、それを見送って、ヤンは小さな声でつぶやく。
「あの竜は、わたしのことが気に食わないみたいだね。」
あの竜を見掛けたのは初めてだけれど、シェーンコップが隠しもしないのだから、きっとヤンがこの谷にいることは知っているのだろう。
「あいつは、我々のやることは全部気に入らないんですよ。私が隊長の絵を描いた時も、わざわざ下らんことをと言いに来たくらいです。」
暇なやつだなあと、思ったのを隠せずに、それを見てリンツが、その通りですとでも言いたげにヤンへ目配せして来る。
「厄介事を収めるのは確かに上手いんですが、その後の恩着せがましさで、皆用を頼むのを嫌がりましてね。代わりに、用が済めば何も言わない隊長のところに来るんですが、奴はそれも気に食わないんです。」
特別に、ヤンのことだけを問題にしているのではないと言いたいのか、リンツはそんな風に、あの白い竜について愚痴めいたことをひとしきりこぼして、それでも、人間風情とシェーンコップに対して言い放ったことを、ヤンはいつまでも気にして、もう見えなくなった白い竜の後ろ姿を、しばらく視線の先に探したままでいた。
シェーンコップとブルームハルトが戻って来るまで、リンツはヤンを描く練習を再開し、ヤンは本の続きを読んで過ごした。
砂漠へ着くまでに頭の冷えてしまった竜たちは、もう喧嘩はやめて、結局砂漠で陽を浴びながらあの白い竜の陰口の叩き合いになったと、ブルームハルトがリンツへこぼす。
「おれたちより百近くも上で、死んだらおれたちが弔うってのに、粗末に扱われたらなんて思わないんでしょうか。」
砂に埋まった死んだ竜たちの骨を見て、自然そんな話になったとブルームハルトが続けるのへ、シェーンコップがもうやめろとぴしりと言う。
「あいつのことは、俺たちが何を言っても何も変わらんさ。死んだら皆同じだ。砂漠に運んで焼く、それだけだ。粗末もへったくれもない。」
シェーンコップが、珍しく厳しい調子で言うのに、ブルームハルトは首を縮めるようにし、それを見たリンツは慰めるような視線をブルームハルトに投げる。
「今日はこれで帰ります。」
そう言って今日の分の木の皮をまとめると、ブルームハルトを促してその掌の上に乗り、リンツはヤンへ向かって手を振った。
ずいぶんと人間らしい仕草にも慣れて、けれどこれも、きっとあの白い竜には忌々しいことなのだろうとヤンはまた考える。
ふたりが去ると、シェーンコップは人の姿になり、ヤンとともに穴蔵の中へ入った。ヤンは新しい茶を出してシェーンコップの手へ乗せ、シェーンコップはそれが青いのへ、ちらりと訝しがるような視線をヤンに投げる。
ヤンが青い茶を差し出すのは、シェーンコップが疲れているように見える時だ。
「けんかの仲裁は、君でも骨が折れるだろう。」
できるだけ軽い口調で言っても、シェーンコップには、胸の内に煩いがあるのを隠せない。ヤンのそれを正確に読み取って、青い茶を素直にすすりながら、
「あなたが気にすることはありません。」
シェーンコップは静かに、落ち着いた調子で言った。
ひとつ寝床に肩を並べて腰を下ろし、ヤンはためらいもせずシェーンコップの肩へ頭を傾ける。
「気にはしてないよ。でも、君が面倒かもと思ってね。」
「私に面倒なことなんか、何もありませんよ。」
互いにそう言い合うのが、少しばかり白々しい。今はまだ、確かに何もないだろう。シェーンコップは少しばかり当てこすりを言われ、ヤンはそれを聞いて少しばかり不愉快になるだけだ。
さて、けれどそれだけで済むのは、一体いつまでだろう。あの白い竜みたいに、いずれ誰かが声高に、ヤンを目障りだと言い出すかもしれない。それをシェーンコップが全力でかばってくれると信じても、矢面に立つシェーンコップが気の毒だと、ヤンはすでに思い始めている。
もう、一瞬で竜の姿と人の姿を行き来するシェーンコップの、変身の術の見事さを思い浮かべながら、
「わたしが竜の姿になれたら──」
思わずぼやくようにヤンが言ったのへ、シェーンコップが静かに、けれど厳しさを隠さずに後を続けた。
「あなたが無理をする必要はありません。あなたがそうしたいと言うなら止めはしませんが、竜になる余計な体力は今のあなたにはないでしょう。」
その通りだ。シェーンコップに現実を突きつけられ、それがもっとも過ぎて、ヤンは不機嫌にすらなれない。相変わらず肉を一切口にしないヤンは、木の実と魔術で胃を満たし、後はシェーンコップで補われている。それがヤンの血肉になり、以前の体力を取り戻してはいても、竜の姿でい続けるために足りるかどうかは怪しかった。
そしてヤン自身、シェーンコップがそう言う通り、別に竜になりたいと真剣に願っているわけでもない。その方がシェーンコップにとって都合が良いならと思って、けれどヤンが竜の姿になったとしても、ヤンが元々人間であることは変えられない。その変えられない部分を、あの白い竜なら恐らく永遠に責め続けるだろうと予想はついた。
何をしても、あの竜が変わらないとシェーンコップが言うのは、つまりそういうことだ。
姿を変えても、シェーンコップは竜であり、ヤンは人間だった。
ヤンはふと、黒い髪と黒い瞳を忌避され、殺されそうになっても、人間をやめたいと思ったことはなかったのだと気づく。どの瞬間も、人間になど生まれなければよかったと、心底思ったことはなかった。竜の姿のが都合が良い、そう思うことはある。けれど竜になりたいと、ヤンは望んだことはないのだ。
わたしはわたしでしかない。君が君でしかないように。
そうだね、とヤンはうなずき、シェーンコップの頬へ手を伸ばした。
腹が空いたと小さく言ったヤンの首筋に、待っていたようにシェーンコップの唇が当たる。
青臭い寝床の上で、シェーンコップの体の下に敷き込まれながら、ヤンは人の姿のシェーンコップの体を探った。鱗の手触りを、掌や舌に呼び寄せて、今は短く厚い舌でシェーンコップが自分を舐めるのに、喉を反らして喘ぎ始める。
つるりと手掛かりのない皮膚をこすり合わせて、まるで最初から人間同士みたいに、それが振りなのだと言うことにヤンは初めてもどかしさを感じて、けれど感じたことそのものを腹の奥の方へ押し込めると、汗の吹き出すシェーンコップの膚の熱さの中へ、何もかもを埋没させて行った。