本の森の棲み人 7
酒が招(よ)び込む眠りは浅い。竜のシェーンコップが起き出した気配には気づかなかったけれど、奇妙な匂いで魔術師は目覚めた。
防御の紗幕の向こうへぼんやりとした視線を向け、そこが赤く照り映えているのは、自分の、まだ寝ぼけた目のせいかと最初は思った。
何かが焦げる匂い。ぱちぱちと爆ぜ、物を燃やす匂い。魔術師は跳ね起き、雲の寝床から降りてそこへ立った。火だ。
酔っていたシェーンコップが、まさか火を吐いたのかとまず思い、その当人の姿がどこにもないことに驚いてから、魔術師は住み処の次元へ戻る。
そこはもう火に包まれ、まるで誘うように、外へ出る扉だけがまだ火に巻かれずにいる。
紙の燃える匂い。音。魔術師の大切な本たちへ、炎の指先が伸び、まるでいとおしむようにそれに撫で上げられる本たちは、黒く焼け焦げ始めていた。
咄嗟に、考えるよりも先に、魔術師はすべての本を火の手から遠ざけるために腕を振り上げる。この住み処の外へ本を放り出し、それからこの火を何とか消す術を、と思いながら、もう天井を舐め始めている赤い炎を見上げて、自分が逃げ出す方が先だなとちらりと思った。
視界の端に、無事に姿を消す本たちを引っ掛けて、空になった住み処から自分も消えようと、魔術師は扉へ向かって肩を回す。そうして、回すその途中で、めらめらと燃え上がる、あの竜の姿絵を見た。
木枠に固定され、それで逃げることができないとでも言うように、魔術師にはかすかに微笑んでいるように見える絵の竜が、無言で燃やされている。
その絵たちを救うにはもう明らかに手遅れだったのに、魔術師はその絵に向かって素手を伸ばし、壁からそれを外そうとした。
もう、半分は黒い灰になり掛かっているそれを、必死で外へ持ち出そうとする魔術師は、逆上してほとんど正気を失っていた。
竜が燃える。自ら火を吐く竜が、火に燃やされている。
絵の火がやがて魔術師の指と手も焼き、それが衣服に燃え移ると、もうなす術もなく、完全に灰と化した絵を呆然と眺めて、ようやく魔術師はここから逃げ出すために走り出す。
扉は、魔術師に体当たりされてあっさりと開き、夜露に湿った草たちの上をごろごろと転がって、魔術師は服に燃え移った火を消そうとした。
焦げた自分の皮膚の匂いに吐き気をもよおしながら、竜は無事だろうかと、火の海の中で灰燼と化した姿絵のことを哀しんで、ほんもののシェーンコップは今どこにいるのだろうと考えている。
熱傷で体中が痛んだ。ひんやりと冷たい草の上に四つん這いになって、魔術師は燃え続ける自分の住み処を見上げ、もう火を消したところで手遅れだと、屋根よりはるか高くへ上がる炎が辺りを明るく照らすのへ、喉の底でうめきをもらした。
「まだ生きてやがる。」
男の声。傍へ駆け寄って来る複数の足音。友好的なはずもないその気配へ首をねじ上げて振り向き、魔術師は、自分へ向かって振り上げられる長い棒の先を見た。
肩をしたたかに打たれ、地面に伸びた体へ、容赦なく拳や爪先が食い込んで来る。頭を抱え込み、体を丸め、殴られ蹴られるのに耐えながら、自分の視界を真っ赤に染めるのが、自分の血なのか火なのか、それとも両方かと、ちらりと見た男たちのひとりの、瞬きもせずに見開かれた目の、その顔が今日市で見た覚えのあるそれと見分けて、この黒髪と黒い瞳に向けられる敵意に対して、魔術師は今撲(う)たれる痛みよりも、自分の魂の引き裂かれる痛みの方へ意識を引き寄せられ、見えない涙を流していた。
顔の片方は腫れ上がり、そちらの目はろくに開かず、まだ無事な方の目に、きらりと何か光るものを、男たちのひとりが懐ろから取り出したのが映る。
逃げるために体をねじり、恐らく胸を狙ったその切っ先が、できれば叩き落とそうと蹴り上げた魔術師の腿へ刺さる。
大した長さもない小刀だったけれど、魔術師は自分の体の中で、その思いがけず鋭い刃が自分の血管をかすめる音を聞き、血が止まらなくなると予感した。
散々叩かれ撲られ、しびれた腕が動かない。やけども痛み続け、魔術師はもう手足を投げ出し、男たちが自分を見下ろして、どうやってとどめを刺そうかと目配せし合う顔のひとつびとつを、片方の瞳だけを動かして見た。
そうして、男たちの頭上の夜空に、金色に流れる星を見たと思った。
夜空を切り裂くそれは、現実に空気を切り裂く音を立て、光の尾を引いて地面へ降り立ち、まるでもうひとつの火の塊まりのように、こちらへ向かって輝きながら動いて来る。
竜。羽を広げたまま、体の大きさにも関わらず足音はひそやかで、男たちは自分たちに近づく竜に気づいてはいなかった。
辺りを明るく照らす、もうひとつのもの。全身を輝かせた、竜。
男たちは気づき、振り返り、そして竜は、男たちの間に、地面に血を流して横たわる魔術師を見た。
竜の全身がさらに燃え上がり、黄金の瞳に、憤激の色が走る。
男たちは走り出すために、一度身をかがめた。それよりも、竜は何十倍も素速かった。
次の瞬間、男たちのひとりの顔が、鋭く4つに割れる。竜の鉤爪に横殴りにされた男の顔は、そこだけはきれいに残った、まぶたを失った瞳をもう閉じることもできず、同じように、耳まで裂かれてもう開いたままの口の奥で、ひゅうひゅうと呼吸の音をさせながら、恐ろしい竜に瞳を釘付けにせざるを得なかった。
空気を裂く竜の鉤爪が、今度は縦に動き、男の胴体を4つに引き裂く。左胸の上を走ったそれは肋骨と心臓を一緒に割り、腹へ走る亀裂からは、まだ繋がったままの内臓がきれいにずるりとあふれ出して来た。
一番最初に、一瞬で絶命した男は幸運だった。それを、当人は知らないまま地面に転がり、もう動かなくなったけれど。
地面に広がる、最初の男の血よりは素早く、残りの男たちは逃げ出していた。
地面を這っていたふたりめは、ひと足で飛んで来た竜に後ろ頭をつかまれ、引きずり上げられた後で地面に叩きつけられた。
仰向けになった男の眉間を、竜はかかとで踏み潰した。人間の頭蓋骨は脆く、男の顔はそこでひしゃげて見事にへこみ、ぐしゃりと割れ潰れた頭蓋骨から、同じように潰れ崩れた脳みそが、どろりとあふれて草を汚す。眼窩から飛び出した眼球が、思い思いの方向へ外れて、ひとつの目は魔術師の住み処を焼き続ける火を見、もうひとつの目は竜の爪先を見ている。
念入りに、とでも言うように、竜はさらに男の胸を踏み潰した。心臓を、正確にまたかかとで踏み抜き、もう動きを止めていた心臓は、一緒に折れた肋骨に十分過ぎるほど痛めつけられて、そうしたところで流れる血もない有様だった。
3人目は、果敢にもきちんと体を伸ばして、燃える住み処の傍らを走り抜けようとしていた。さすがの竜も、これはひと飛びでは届かないだろうと、男がさらに走る速度を上げようとした時、竜がすっと息を吸った。直後、肩を伸ばし首を伸ばし、竜は耳まで裂けるほど口を大きく開き、そして吐いたのは炎ではなく、剣か石矢のような空気の塊まりだった。
白みすら帯びたそれが、男の腰を打ち、男はもんどり打ってその場へ倒れた。
背骨が断ち切られ、男はもう下肢を動かすことができなかった。それでもまだ動く腕を使い、男は這って逃げようとする。痛みにうめきながら、みじめに、草の汁まみれに汚れて果てている。
竜はまた一瞬で男の元へ飛び、男の腰をまたぐようにそこに立つと、再び大きく口を開いた。
まだ半分は体の動くことは、男にとって幸いだったのかどうか、首をねじ上げ、男は竜の、真っ赤に燃える口の中を見た。そこから吐き出される炎の、突き刺す白さで目を傷め、男はそこで永遠に視界を喪った。
男の声はまだ失われてはいず、赤も青も通り過ぎた高温の白炎に、背中を焼き尽くされ内臓を熱で煮られる苦痛に、男の断末魔の悲鳴が響き渡る。けれどそれも、一瞬よりは長くは続かなかった。
男の背中はたちまち炭化し、竜は、男の首もそれに揃えてやることにしたのかどうか、次には男の、恐怖に歪んだ横顔へ向かって炎を吐き、髪も鼻も耳も目も、すべてが焼かれ溶け消えた男の頭は、首の骨も焼け崩れて、ぽろりと男の胴体から離れてゆく。
竜は、ただの炭の塊まりになった男の首をひょいと取り上げ、最後に残った4人目の方へ振り向いた。
4人目の男は、魔術師から少しだけ離れて、この殺戮の様子にすっかり腰を抜かし、逃げることももう思いつけない風に、見れば投げ出した両足の間が濡れ、地面にもひどい匂いのする染みが広がっている。
発狂寸前の4人目は、全身をがたがた震わせながら自分の方へやって来る竜を見上げ、殺さないでくれと言う命乞いの人の言葉も、もう思い出せないようだった。
思い出したところで、竜に通じたかどうかは分からない。
竜は、手にしていた3人目の男の頭を4人目の男へ投げつけ、そしてまた、恐ろしいほど大きく口を開いた。
4人目は、ああ、自分も焼き殺されるのだと思った。思って目を閉じ、身を竦めた男を、竜は頭から丸飲みにする。
口の中へ男の上半身を収め、きれいに揃った鋭い牙で、男の下腹を食いちぎる。無傷の男の体はまっぷたつにされ、下半身が、血と内臓を垂れ流しながら地面に落ちた。
頭を噛み砕かれもすり潰されもせず、男はただ竜に飲み込まれ、すでに胃の方へ落ち始めている頭は不思議なことにまだ意識を保っていて、竜の胃液が小さな炎の集まりと言うことを知らない男は、そこへ傷ひとつない体半分で横たわり、ゆっくりと竜の体内の火に舐め融かされるのだった。
魔術師は、竜の殺戮の様を、何ひとつ見逃さなかった。
片方の目は塞がり、意識は半ば朦朧としていたけれど、自分を殺そうとした男たちの不運を、魔術師はほとんど罰のように見つめて、焼き殺され掛けた自分の苦痛と、殺された男たちの苦痛と、竜の憤怒ゆえの苦痛の、あらゆるすべてを感じ、そうして、何もかも、自分がただ黒髪に黒い瞳と言うことのせいなのだと、自分の生まれを嘆き悲しんだ。
そして、これから死ぬだろう自分を失う、竜の嘆きを、何よりも辛く思った。
竜が、魔術師の許へやって来る。怒気はまだそのまま、それでも近づくうち人の姿を取り戻し、シェーンコップは羽と鱗を残した半竜半人の姿で、横たわる魔術師の傍らへ膝を折った。
全身、殺した男たちの血にまみれた姿は、この世のものとも思えない凄まじさで、それでも不安げに自分を見下ろすシェーンコップの瞳から、次第に激高の気配が薄れ、シェーンコップはその瞳に魔術師の住み処を焼く炎を映し、長く深い息を吐いた。
「私のせいだ。」
そっと、焼け焦げた魔術師の手を取る。人の手指になったシェーンコップの手は、それでも竜の鱗と同じほど、今はひんやりとしている。その手を握り返す力はなく、
「君に、人を殺させてしまった・・・。」
魔術師がかすれる息でそう言った途端、シェーンコップの瞳がやるせなげに細められ、
「あなたを、殺そうとした連中だ。」
声がまだ怒りに震えている。今度は魔術師が、やるせなく息を吐いた。
「ごめんよ、竜の君。」
一体何に対しての謝罪か、分からず竜はただ魔術師の手を握り、傷に触れられて痛んでも、もう声も上げられない魔術師は、息絶える前に頼んでおかなければと、そこも焼けて痛む肺にゆっくりと息を吸い込む。
「君の絵は燃えてしまった。間に合わなかったんだ。」
またごめんよと小さく付け加えて、自分を見下ろして垂れ掛かって来るシェーンコップの髪の、甘そうな色に、一緒に食べた焼き菓子の味を今思い出していた。
魔術師は、再びゆっくりと唇を動かす。
「本は、無事なはずだ。外にひと晩放っておくと、夜露に濡れて傷んでしまうから、できれば君に持って行って欲しい。」
移動させた辺りを、魔術師は指先で示して見せる。
「本よりも、あなたが──」
「わたしは無理だよ、動けない。それを抜いたら死ぬし、抜かなくても血が止まらなくて死ぬ。」
左腿に突き立った小刀を指差し、魔術師はまた息を吐いた。
竜が激しく首を振る。
「あなたはまだ、この世にある本を読み尽くしてはいないし、我々の竜の書物も読み切ってはいない。あなたにはまだ、読みたい本が山ほどあるはずだ。」
やけどや腫れ上がった部分を避けて、シェーンコップはそっと魔術師のこめかみの辺りへ掌を添えた。
「うん、もう少し読みたかったな。でも、君が一緒にいてくれた──もう、十分だ。殺され掛けるのに、少し疲れたよ。わたしを殺そうとする人たちの悪意に、わたしは疲れたんだ。」
この黒髪と黒い瞳を気にしない人もいる。シェーンコップもそのひとりだ。その優しさに、いつの間にか慣れ過ぎてしまっていた。自分が憎まれ、忌み嫌われる存在だと、ふと忘れてしまっていた。
そのせいで、シェーンコップは今、死体を積み上げ、血にまみれる羽目になった。
血に汚れたシェーンコップの顔に、涙が流れてゆく。血をひと筋洗い流すそれは、小さな小さな、澄んだ河のように見えた。
竜が、声を絞り出した。
「私を──私を置いてゆくのですか。私はもっとあなたと一緒にいたい。あの菓子を食べて、お茶を飲んで、あなたと一緒に酒に酔っ払って、一緒に眠りたい。本を読むあなたの傍で、人の言葉を学んで、もっとあなたと話をしたい。その私を、あなたはひとり置いてゆくのか。あなたのために、やっと人の手指の使い方を覚えた私を、あなたは置いてゆくのか。」
言い募るシェーンコップは、知らず魔術師の手を握る自分の手に力をこめ、ここへとどめようとするように、それを自分の方へ引き寄せている。
「ここへ戻る時、背中の傷跡がひどく痛んだ。あなたは言ったはずだ、傷が治らなければ、痛んだりしたら、あなたがまた治すと。戻って来て傷を見せろと、そう言ったのはあなただ。私の傷を治すのはあなただけだ。」
魔術師は一度息を止め、そしてまた吐いた。じりじりと死に掛けながら、シェーンコップへ掛ける言葉を失いつつあった。
もう、生きようとする気力を見せない魔術師の、シェーンコップは突然その手を放すと、左手の人差し指だけを竜の鉤爪に戻し、人間のままの自分の右の掌をひと筋切り裂いた。そしてその手を、魔術師の顔の前に差し出した。
「私の血を、どうか──飲めば、あなたは死なずに済む。黒髪のひと、どうか──。」
傷からあふれた竜の、今は血が手首を濡らし、魔術師の胸元に滴って来る。落ちるその血を目で追い、魔術師は一瞬迷った。
「飲んで下さい。あなたが死ねば、私は──」
突き出される血まみれの掌の、その鮮やかな赤さへ、無事な方の目を細めて、それから魔術師は涙に濡れたシェーンコップの頬を見る。
自分が死ぬことには恐れもなかったけれど、竜の涙には胸を突かれていた。
魔術師の迷いを読んだのか、シェーンコップはふと目の色を竜の時のそれに近づけ、震える唇の声を低めた。
「あなたがこのまま死ぬと言うのなら、あなたの大切な本は、私がすべて燃やしてしまいましょう。あなたにもう読んでもらえない本が憐れだ。焼いて、あなたの後を追わせましょう。私の吐く炎なら、一瞬で灰になる。あなたが死ねば、あなたの本は全部燃えて灰になる。後には何も残らない。あなたは火から本を守ったが、私の炎があなたの本を塵にする。塵になってどこかへ飛んで行って、そんな本など、最初からなかったことになる。」
それでもいいのかと、脅しの最後を、シェーンコップは鱗を黄金に輝かせながら締め括った。
「ひどいなあ、本を人質に取るのかい・・・。」
「本だけじゃありません、今あなたがここで死んだら、私は今すぐあの市のある街へ飛んで行って、あそこをすべて燃やすでしょう。誰も彼も、見境なく殺して回ります。あなたを焼き殺そうとした連中の仲間は、すべて根絶やしにします。」
流れた血だけのせいではなく、寒気を感じて、魔術師は背筋を震わせた。
ここを襲った男たちをたちまち屠った竜は、言った通りを実行するだろう。焼き菓子を売っていた女性も、市で走り回っていた子どもたちも、あの街に住む人たちはひとり残さず殺される。もし魔術師が、今ここで生きようとしなければ。
それは困る、と魔術師は思った。自分のせいでこれ以上人が死ぬのは真っ平だった。本が焼かれるのもいやだった。ゆっくりと瞬きをした目尻に、透明な涙が、魔術師自身にすら読み取れない色合いを含んで、伝い落ちてゆく。
「・・・いいよ、飲むよ。」
そう言った途端、口元を覆って来る竜の掌を、魔術師は丁寧に舐めた。そこにはきっと、殺された男たちの血も混じっていただろう。それでも竜の血と思いながら、魔術師はそれを舐め取った。
舐めながら、そう言えば残っていた酒も焼けてしまったと、何だか妙にのんきに考える。血の生臭さに眉をしかめて、口直しに、今はお茶ではなく酒が欲しいと思う。
喉を通った竜の血が、突然胃の近くで燃え上がった。背骨を、小さな炎の柱が貫いてゆく。強張った全身の内側で、何かめきめきと軋んだ音が鳴り、自分の何かがはっきりと変化するのを感じた。
苦痛ではない、違和感。硬くなった皮膚が、鱗に変わったのかと思って、いきなり動くようになった腕を持ち上げ、魔術師は自分の顔に触れる。焼け焦げた皮膚はまだ赤く、けれど触れても痛みはなく、それは確かに人の皮膚のままだったけれど、その裏側には何か、人のそれではない感触が生まれつつあった。
見える表面には、特に変化はなかった。
シェーンコップは、自分の血を飲んだ魔術師を見つめ、闇色の瞳がその色合いの深みを増したように見えた以外は何も変わらないのに、安堵と一緒に悔しさのようなものも感じて、複雑な気分を味わっている。
傷はまだそのままだけれど、体の痛みはゆっくりと引いて行った。
刺された腿の傷は、内側からすでに塞がり始めたのか、小刀が少しずつ体から押し出され、ついにはぽろりと抜き身を晒して地面に落ちる。傷口は、周囲の盛り上がった肉の中に埋もれて、もう血も止まっていた。
見つめるうちに、傷はわずかな痕を残して平らに戻ると、その傷跡を中心に皮膚の色は赤に変わった。シェーンコップの背中の傷が、赤い鱗になった様にそっくりだった。
魔術師は、痛みのやわらいだ体から力を抜いて、手足を、深呼吸をするように伸ばした。それから、胸元を探って赤い石を取り出し、
「この中に、本を移動させるよ。」
ぼそぼそと何か唱えると、ふた呼吸の間、赤い石が光を発した。光は膨らみ、最後にぱんと弾けるように消え、石の輝きが落ち着くと、喉を反らして、魔術師はまだ燃えている自分の住み処を、悲しげに見つめた。
「もう、ここにはいられないな・・・。」
シェーンコップが浅くうなずく。それから赤い石に手を伸ばし、
「あなたも、ここに入って下さい。そこでゆっくり休むといい。その間に、私があなたを安全なところに連れて行きます。」
「安全なところ・・・?」
ええ、とさっきよりは深くうなずいて、シェーンコップはそれ以上説明もしなかった。
「──じゃあ、後は頼むよ。」
逆らわず、魔術師は再び何か低く唱え、横たわっていた地面から、血の染みだけを残して姿を消す。再び輝きを増した赤い石を掌の中に抱えて、シェーンコップはその光がおさまるのを待った。
シェーンコップは立ち上がり、ぐるりと辺りを見渡し、男たちの無残な死骸に無表情な瞳を向け、同じ瞳を曇らせて、魔術師の住み処が焼け崩れるのを見守った。
新たに燃えるものの残っていないそこで、すでに火勢は失われつつあった。朝には、男たちを探して、街の人間たちがやって来るかも知れない。死体の無惨さを見れば、竜の仕業と恐らく悟って、彼らはシェーンコップたちの後を追う愚は犯さないだろうと思えた。
追って来るなら同じように即座に殺すと、心の端すらそよがさずに、竜のシェーンコップは思う。
炎に背を向け、シェーンコップは羽を広げた。首と体が伸び、完全に竜の姿に戻りながら、胸元に抱え込んだ赤い石を、鱗に戻して心臓の辺りへ張りつかせる。
赤い鱗から、かすかに、魔術師の呼吸と鼓動の気配が伝わって来る。それは竜の鼓動と重なり、唄ともつかない旋律を奏でながら、竜の羽ばたきにも重なって行った。
次第に小さくなる火の照り映えを置き去りにして、シェーンコップは陽の昇る方角へ向かって飛んでゆく。
まだ昏い夜空を渡りながら、胸の鱗の中に抱えた魔術師の鼓動へ、じっと耳を澄まし続けていた。