DNT、竜のシェーンコップと魔術師のヤンの似非ファンタジー。

本の森の棲み人 8

 魔術師は本に囲まれ、微睡んでいた。
 眠気とは違う、全身を重力で縫いつけられたように身動きもできず、閉じたまぶたを持ち上げる力も足りない。
 竜の血のおかげで引いた痛みは、けれど完全に消えたわけではなく、体はまだ回復のための戦いを続けていると自覚して、魔術師はただじっとしていた。
 竜が羽を動かすたびに、その全身の筋肉が連動する。それを感じて、ああ自分は一緒に空の上にいるのだと思いながら、どくどくと耳元に響いて来る竜の鼓動を子守唄のように、ここがすでに自分にとっては安全な場所なのだと、魔術師は上がらないまぶたをひくひく痙攣させる。
 赤い鱗の石の中は心地好く薄暗く、けれどここにとどまるために小さくした自分の体は、もぞもぞと居心地悪げに、起き上がる力もないくせに、ここから早く出たいのだがとぼやき続けていた。
 なるほど、体の本来の大きさを変えると言うのは、こんな風に違和感と戦わなければならないものなのかと、自分の許へ来る時は人に姿を変える竜の、あのいつもどこか疲れているような空気は、無理をしているせいなのかと初めて我が身に思い知っている。
 体は小さい方が、回復は早いのかもしれない。けれど小さいままでいるためにエネルギーを使い、結局は同じことかと、上げようとするとずいぶんと時間の掛かる自分の腕を見やり、やけどの赤みの消えないのに、竜の血も万能と言うわけではないのだなと、魔術師は薄く苦笑した。
 埒もないことを考え続けるのが、人を殺した竜と、無惨に殺されてしまった男たちと、焼かれた自分の住み処と、燃えてしまった竜の姿絵と、そんな現実のことを今だけは考えないようにするためだと気づいていて、苦笑が消えそうになるのを、奥歯を噛んで耐えた。卑怯だと思いながら、感じない振りをする。残る痛みへ神経を集中させて、そうだ、自分の体の苦痛だけを感じていればいいと、心の中から目をそらす。
 痛い、と魔術師は思った。焼かれ、殴られ蹴られした体が、確かにまだ痛んだ。
 すでに閉じている目をさらにぎゅっと閉じて、動いている自分の心臓の音と、伝わって来る竜の鼓動の両方へ耳を澄まし、魔術師は再び微睡みの方へ心を傾けた。


 眠っていたと言うよりは、気絶していたと言う方がより正解だったろう。次に目覚めた時、魔術師はそれなりに柔らかな寝床の上にいた。
 真っ暗なそこに、動く腕を振って明かりを呼び寄せ、動けば痛む自分の体を見下ろせば、あちこちに何やら緑の葉が巻いてある。腿の傷にも、もう塞がっていると言うのに、丁寧に葉が巻きつけてあった。
 寝床も、草を集めたその上に、人の体を覆えるほど大きな葉を敷き、体に掛かっているのも同じ巨大な葉だ。青臭さは、けれど爽やかで清潔な匂いがして、少し鼻につんと来るその匂いをちょっと苦手だと思いながら、ともかくも体から遠ざけるのはやめにした。
 胸元には赤い石が戻り、そこにまだ本があるままかと、掌を押し当てながら見下ろした。
 「目が覚めましたか。」
 向こうから声がして、シェーンコップがそこに立っている。ここに光が入って来ないと言うことは、そちらにあるらしい出入り口まで距離があるのか、口が小さいのか、シェーンコップがいるなら安全なのは間違いないと、魔術師は見えないようにほっと息を吐く。
 近づいて来て膝を折る竜の手には、これも大きな葉を折り曲げて作ったらしい容れ物に、水が満ちている。透明な、暗さの中でもひと刷けの淡い青さの分かるその、いかにも冷たそうな水へ、魔術師は無言で首を伸ばした。
 ごくごくと喉を潤す水が甘い。散々火に炙られた体は乾いていて、そう言えば酒を飲んで以来水分を取っていなかったなと、魔術師は葉の中の水をすべて飲み干してしまった。
 シェーンコップは、空になった葉を伸ばして元通りにして傍に置くと、かすかに湿っている手で魔術師の頬に触れた。
 「熱がある。まだ寝ていた方がいい。」
 肩を押され、魔術師は素直に寝床に横になる。葉の布団で首まで覆われ、そこからシェーンコップへ腕を伸ばした。
 「ここは・・・?」
 「竜の谷間です。谷を越えた向こうには羽のない竜たちが棲んでいます。ここにいるのは空を飛べる竜ばかりですが、狩りに出掛ける以外は、滅多とここを離れません。」
 「君はずいぶんあちこち飛んで行くみたいじゃないか。」
 「私は好奇心旺盛でしてね。別に谷の底から出ることを禁止されているわけではなし、好きな時に好きなところへ行きますよ。もっともしばらくは、あなたの傍から離れる気はありませんが。」
 シェーンコップが自分の手を取ったのに、安心したように魔術師は少しの間口をつぐみ、じっと竜を見つめた。
 熱があると言う頬を、またシェーンコップが撫でてゆく。その指先のひんやりとした感触へ、魔術師は思わず喉を伸ばした。
 魔術師の仕草に、目を細めたのは不安だったのか安堵だったのか、シェーンコップはその伸びた喉へも指先を伝わせる。
 「ここは竜には狭過ぎましてね、私の他は誰も入って来ません。安心して休んで下さい。」
 「わたしをここに連れて来て、君の仲間は怒らないのかい。」
 「私の血を飲んだあなたは、もう竜に連なる者だ。あなたも我々の仲間ですよ、黒髪のひと。」
 シェーンコップがにっこりと言うのに、魔術師は少し戸惑ったような表情を見せる。それを問い詰めることはせず、シェーンコップも口をつぐみ、ただ魔術師の髪とこめかみの辺りを指先でなぞり続けた。
 「・・・酒でも飲みたいと言う顔に見えますな。」
 からかうようにそう言われ、魔術師はぐるりと黒い瞳を上に押し上げて見せる。
 「酒はしばらくいいよ。色々と懲りたよ。今はできれば何も考えたくない。」
 竜の血を飲んだこともかと、言いそうになって、シェーンコップは見えないように奥歯を噛んだ。
 まだ、火の匂いが魔術師にもシェーンコップにも染み付いていて、そこにはかすかに血の匂いも混じっている。それを覆い隠す緑の匂いだったけれど、それが記憶まで消してくれるわけではない。
 殺戮は竜の日常茶飯事でも、人である魔術師にはそうではないだろう。自分に敵意を向ける輩を、攻撃はしたくはないと言った通り、素直に殺され掛けたこの男を、甘いとか愚かとか、そんな風に断じる気はないシェーンコップだった。
 人である魔術師の心の内は、竜であるシェーンコップには理解し得ないのだし、逆もまた然り、分け合った竜の血がその違いを即座に解決してくれるわけもない。
 何も考えたくないと言う魔術師を休ませるために、シェーンコップは立ち去ろうと、魔術師の手をそっとそこへ置いた。
 「また後で、葉を取り替えに来ます。」
 水も持って来よう、どんな肉なら食べられるだろうかと、考えながら立ち上がろうとすると、魔術師が一緒に体を起こして来た。
 大きな葉がずり落ち、今は半裸の、傷んだ魔術師の体がそこに露わになる。鱗はない、つるりとした肌。いかにも肉の薄い、骨ももろそうな人間の体へ、なぜかシェーンコップは口の中で舌を動かして、何かを食べているように、かすかにごくりと喉を鳴らした。
 男たちのひとりを食べてしまったせいだ。味わう気などさらさらなかったから、丸飲みにしてひと噛みもしなかった。喉の中をつるりと滑り落ちて行った、何の引っ掛かりもない、人間のなめらかな体。
 魔術師を、食べたいわけではない。それでも鱗のない体へ、自分の竜の細長い舌の巻きつく様を想像して、実際にそうしたいのだと、シェーンコップは止められずに考える。
 魔術師はシェーンコップの袖を引き、うつむいて、小さな声で言った。
 「行かずに、傍にいてくれないか。」
 触れて来た掌が、かすかに熱い。確かに熱があるようだと思いながら、その手へ自分の指先を伸ばして、自分から引き剥がそうとした。
 「ひとりで静かに寝ていた方が──」
 「・・・怖いんだ。」
 何が、と訊こうとしてやめた。
 襲って来るかもしれない人間たちか、自分を焼いた火か、あるいはそのせいで見る悪夢か、それとも、竜の血を飲んで確実に変わってしまった自分自身か、シェーンコップ以外の、人を食べるかもしれない他の竜たちか。
 恐怖の対象は無数にある。シェーンコップ自身にも、恐ろしいものはある。例えば今は、こうして傍にいると、魔術師のその肌へ舌を這わせたいと考えている自分自身。そんな自分を呼び起こす、魔術師のどこまでもなめらかな肌。
 シェーンコップは、いつもより熱の高い魔術師の体をそっと抱いた。
 どう触れても引っ掛かりのない肌へ、唇の辺りは遠ざけて、背中に胸を重ねて、草葉の寝床へ一緒に体を横たえる。
 長い腕の中で、魔術師が息を吐いたのが分かる。草を巻いたあちこちから、青臭い匂いがする。魔術師自身の匂いはそこにはなく、竜の食欲をそそることはないのにわずかに安堵して、シェーンコップは黒い髪に鼻先を埋めた。
 「君は、冷たくて気持ちがいいな。」
 人の姿になっても、竜の体温は、人間に比べると少し低いらしい。熱のある魔術師には、今はちょうどいいのかもしれない。
 それ以上でもそれ以下でもなく、ただ草の寝床の一部になって、シェーンコップは魔術師を抱きしめていた。傷ついた体を休めさせるために、上がった熱を下げるために、魔術師の背中に触れた自分の胸の奥で、心臓がいつもより高く鳴るのには、気づかない振りをした。
 「・・・お眠りなさい。」
 くたりと、シェーンコップの胸の中で手足を投げ出し、やがて魔術師は素直に目を閉じた。
 眼下に見える魔術師のうなじへ、牙を立てたいと思ったのは食欲ではなかったのだとまだ悟れずに、それに耐えることはもう苦痛ではなくなって、シェーンコップも眠るためにまぶたを下ろした。
 腹の中で、食べた男の半身がゆっくりと融けている。男を美味いとはひと筋も思わず、シェーンコップはただ魔術師を抱いた腕に力をこめ、魔術師は美味いだろうかと、夢うつつに考えた。

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