ゆですぎそうめんえれじぃ 24
秘密を打ち明けた後では、もう隠す必要もないと言う風に、涼しい風の吹くある日、エアコンは止められ、再び窓が開いていた。そして、例の本が詰め込まれているのだと言う部屋の襖も開かれ、薄暗いその部屋を埋め尽くす本棚の谷間に、ヤンはふらりと入り込んで、何やら本を取り出して来る。片膝を立てて、床に新聞を開いていたシェーンコップの脚の中へ、ヤンはその本を手に入り込んで来て、まるでシェーンコップを座椅子のようにそこに落ち着いてしまった。
「新聞読んでるんですがね。」
「わたしも本を読むよ。」
いやそうではなく、とは言えないのはなぜなのか、シェーンコップはヤンを正面に抱えて新聞の紙面への視界をやや遮られ、仕方なく新聞を自分の左側の床へずらして、首をそちらへねじって読むのを再開する。
窓から入る風にはもう熱風の湿りの名残りさえなく、こうして体が触れ合っていても汗のにじみ出ることもなく、まったく快適な季節になったと、近頃はここでヤンのために熱い紅茶を淹れることも覚えたシェーンコップだった。
「この週末、暇? 土曜と日曜。」
本から目を離さず、突然ヤンが訊く。シェーンコップは新聞から顔を上げ、ヤンの頭へあごの酒を乗せるようにしながら、ええ、まあと答えた。
「だったら映画見に行こうよ。2本立て。」
今時2本立てとは珍しいと思いながら、タイトルを尋ねてすらすらヤンが答えるのは、両方ともシェーンコップが学生の頃に見た憶えのある映画だった。
「両方とも同じ映画館で昔見たんだけどね、またやるって言うから懐かしくてさ。」
まだビデオだった頃に、借りて見たこともある。物語の色がすべて青に見える映画と、もう1本は、フィルムのせいで黄みがかった画面の映画。
シェーンコップも懐かしいと思った。あれは両方とも、確かに映画館で見るべき映画だ。
そこで待ち合わせの場所を、映画館の最寄り駅と決めて、本を読む時は必ず紅茶を欲しがるヤンのために、シェーンコップはそろそろ台所へ向かう潮を窺いながら、読み終わった新聞をそっと閉じた。
映画館の最寄り駅には大きな大学があり、様々の路線が乗り入れている。
その大学には縁のないシェーンコップには、まるきり知らない駅だけれど、街と路線の数の割に駅自体は小さく、ヤンにここと言われた場所まで迷うことはなかった。
土曜の、もう夕方と言う時間のせいか、大学生と言う姿はあまり見掛けず、今日も仕事だったらしいスーツ姿や、遊びに出た帰りかこれから遊びに向かうのか様々の年齢の若者たちや、まれに子ども連れの男女や、皆がそれぞれこれから乗る路線のホームへ向かって、談笑しながら歩いている。
シェーンコップは、どこにいても頭ひとつ半高い体でその人混みをすり抜けて、待ち合わせの場所へ向かっていた。
遅刻はしていない。約束の時間まで後15分ある。ヤンが、遅れてくるタイプか時間ぴったりのタイプか分からず、迷った時のことを考えて少し早めに出て来た。
改札前の柱の前、流れる人たちの向こうにヤンの姿を認めて、シェーンコップは、早めに来るタイプかと意外さに、思わず微笑んで足を早めた。
見ているうち、ヤンが改札正面からゆっくりと足を滑らせるように、柱のこちら側へ移動して来た。何だと目を凝らすと、そのヤンを追うように一緒に移動して来るサラリーマンらしい男が見え、ヤンは不機嫌にそっぽを向いて男から離れようとし、男はその拒否の態度にもめげずに、ヤンの肩に今にも触れそうに手を伸ばしている。
こうして見ると、ヤンはとても社会人には見えず、下手をすると高校生──黙っていれば、とても気弱そうに見える──だ。なるほど、この男は、高校生らしいヤンにちょっかいを出しているところか。
シェーンコップは、仕事の会議で現場を考えない無茶を言うスーツ組へ使う時の、強面と声を引き出した。
音もなく突然目の前にぬっと現れたシェーンコップへ、男は化け物でも見たみたいな驚愕の表情を浮かべ、ヤンに向かって伸ばしていた手を慌てて引っ込める。
「連れに御用なら、私が伺いますが。」
前置きも何もなく、シェーンコップが慇懃無礼に低い声で上から言うと、何だかぬるりとした印象の男は、すっと気配を消してすたすたと改札の中へ入ってしまった。
ヤンは膨らませていた頬を元に戻し、寒気でも振り払うようにぶるりと一度肩を震わせる。
「ありがとう、やっと行ってくれた。」
男が消えた方を見て、ちょっと吐き捨てるように言うヤンに怯えた様子はなく、つきまとわれただけで、妙なことをされたわけではないのかと安堵もしながら、自分が時間通りに来ていたらどうなっていたのか分からないと思うと、思い知らせるために駅の外へ引っ張って行って、どこかの路地で改心するまで脅しつけてやってもよかったとシェーンコップは思った。
「行こう。」
もう忘れたみたいにヤンが駅の外へ向かって肩を回すのに、もう一度改札の中へ視線を走らせながら、シェーンコップも黙って肩を並べた。
大学がある方とは反対に進み、居酒屋のずらりと並んだ路地を数本通り過ぎて、向こうの歩道に銀行やちょっと洒落たレストランを見ながら角を曲がる。少し進んだ突き当りにある映画館は、今にも崩れそうな古びた建物で、普段は半分はポルノを上映し、それで何とか経営の成り立っている類いの、ちょっとひとりで入るには躊躇する佇まいだった。擦り切れ、けば立った絨毯の床、固くなりほころびのある革張りのベンチ、ガラスケースに菓子の並んだ売り場では、くたびれたワイシャツ姿の男性がぼんやりチケットも売っている。シェーンコップは、子どもの頃を思い出していた。とてもふらりと、ひとりで映画を見に来る雰囲気ではない。
ヤンが自分を誘ったのはそのせいかと、駅での不愉快なひと幕を思い出しながら、幸い自分たちしか客のない中、悠々と真ん中の席を陣取った。
いつもは、その背の高さで後ろの客の視界を塞ぐことを避けて、いちばん後ろにしか坐らないシェーンコップは、スクリーンへの距離の近さが物珍しくて、ぎしぎし言う椅子の中で視線の角度を定めながら、すでに内容は知っている映画へ心を飛ばしている。
ここさ、とヤンがシェーンコップへ顔を近づけて来た。
「前は5本とか6本とかまとめてオールナイトでよくやってて、よく来てたんだ。」
「映画、好きですか。」
「好きだよ。もっとも学生の頃は貧乏で、封切りを好きに見るなんて無理だったけどね。」
長い足を、何とか前の座席に当たらないようにして、やっと見るための姿勢を定め、ヤンがまた自分の方へ口元を寄せて来るのへ向かって頭を傾けた。
ヤンが、自分たち以外は誰もいないのに一体何を憚ってか、さらに声を低める。
「ここ、嫌いじゃないんだけど、学生の頃は、ガラガラなのに時々突然隣りに人が来たりして、駅のあのサラリーマンじゃないけど、ちょっとめんどくさい時もあってさ。」
警察や警備の人間に言っても、男相手の妙なからかいはまともに取り合ってもらえないだろうことは、シェーンコップにも想像できた。シェーンコップでさえ、まだ背の伸びない頃、年上の少年にちょっかいを出されたことはある。まだぶん殴って抵抗するなど考えたこともない頃だったし、だからこそ相手も、反撃できないと読んでそんな振る舞いを仕掛けて来たに違いなかった。
「だから今日は、私を誘ったんですか。」
ヤンがやっと笑う。
「そういうわけじゃないけどさ──たまには外に出るのもいいかなと思って。君が映画が好きかどうか、先に訊くべきだったかな。」
もう映画が始まると言うこんな時に、今さらヤンが言うのへ、今度はシェーンコップが苦笑した。第一、今日見るこの映画を、以前見たことがあるかどうかすら尋ねなかったくせに。
「映画は嫌いじゃないですよ。」
そこで一度言葉を切り、シェーンコップは椅子の中で姿勢を変える振りで前かがみになりながら、ヤンの視界の中から自分の横顔の位置をずらした。
「──それに、あんたと一緒なら、前に見た映画をまた見るのも悪くないです。」
ヤンが、意外なことを聞いたと言う表情を確かに浮かべたのが、横目にちらりと引っ掛かる。ブザーが鳴り、照明が落ち、他の映画の予告編も何もなく、映画が突然始まった。
ヤンが急いで顔を正面に戻し、シェーンコップも椅子の中に腰を落ち着け、まだちょっと脚を持て余しながら、腹の上に両手を組む。
覚えているところも、記憶があやふやなところもある。こんなシーンがあったかとか、こんな台詞だったかとか、字幕はまったくあの頃と同じなのかどうか分からず、それでも、あの時極めて強く印象に残った色はそのまま鮮やかに、次第に視界を塗り潰すようにこちらに迫って来る蒼の強烈さに、シェーンコップは何度も目を細めた。
隣りのヤンも、坐り心地の悪い椅子の中で身じろぎもせず、スクリーンを凝視していた。
青のない時も、視界から蒼が消えない。ヤンと抱き合っている時と同じだと、シェーンコップは思う。海の中で泳ぐ生きものがヤンに見え、そのヤンに誘われて、酸素のない海底へ向かってゆく自分の、盲いたそのままがスクリーンに映し出されている。
まるで、もう長い間この映画を見たかったのだとでも言うように、シェーンコップはそこへ見入り、ほとんど呼吸をしていることにさえ気づかなかった。
呼吸よりも大切なことがある。酸素よりも大事なものがある。海と言う場所に含まれ、そのものになる自分。
溺死は苦しいはずなのに、酸欠の脳は酔ったように苦痛をどこかへ置き忘れ、シェーンコップもヤンも正面を向いたまま、いつの間にかヤンがシェーンコップの膝へ伸ばして来た手を、シェーンコップは戸惑いもせずにそっと握っている。
蒼い海の底へ、一緒に。海水の満ちた世界で、何も隔てられずに。
今度は砂嵐の黄色い画面へ移っても、手は離れないままだった。
草木すら見えない、砂と泥の荒野。斜めに傾(かし)いだカメラが、不安定に映す砂埃にまみれた女の足。居心地悪げに、のっそりと動き回る登場人物たち。人工の色はどこまでもどぎつく、乾いた砂の黄色がこの空間を他から隔て、孤立と孤独の中で、それでも次第に優しく関わり合ってゆく人々。
孤りでいることも悪くはない。ふたりでいることも悪くはない。皆でいることも悪くはない。その時その時、居心地の良い場所を選べばいい。やって来るのも自由なら、立ち去るのも自由だ。ここは人が立ち寄り、去ってゆく場所。けれどとどまることを選ぶ人もいる。
砂の荒野もまた、海の底と同じほど、ヤンとシェーンコップを親(ちか)しくする。
会いたい、一緒にいたい、そうやって繋がり合う。シェーンコップはいつの間にか取ったヤンの手を自分の両掌の中に挟み、今は黄色く染まった自分の視界の正面にヤンを据えられないことを残念に思いながら、ヤンの、節のない指を丁寧に撫でた。
少年が、まだ少しつたなくピアノを弾く。マジックを披露する女の指先が優雅に動くのに、シェーンコップは、自分はヤンに魔法を掛けられたのだと思った。
ヤンの指がシェーンコップの指の間にするりと入り込んで来て、離れないようにぎゅっと握る。シェーンコップはそれを握り返して、ふたりの視線はスクリーンから離れないままだった。