ゆですぎそうめんえれじぃ 27 (YJ了)
ぼんやり目を覚まし、ヤンが向こうを向いて毛布の中で体を丸めているのを確かめて、シェーンコップはひとり先にシャワーを浴びに行った。水音で目を覚ましたのか、ベッドに戻るとヤンは毛布を体に巻きつけてそこにぺたりと坐り込み、ここは一体どこかと訝しがるようにシェーンコップへ視線を滑らせて来る。
「今何時。」
明らかに叫び過ぎと寝起きでひどくかすれた声で訊いて来るのへ、ええと、とまとめておいた自分の服のところへ行って、一緒に乗せておいた腕時計を見る。
「そろそろ6時ですね。始発は多分とっくに動いてますよ。」
「まだ、動きたくないよ・・・。」
そう言いながらずるずるとベッドの上を滑り、毛布ごとふらふら立ち上がる。
きちんと起きているのかどうか、ヤンが寝ぼけた足取りでバスルームへ向かうのを、シェーンコップはやや不安気に見送った。
毛布はドアのところで置き去りにされ、そのせいできちんと閉まらないドアは開け放したまま、ヤンがシャワーを浴び始める。
やれやれと思いながら、とりあえずシェーンコップは、ひどく乱れたベッドを、普通に使った程度に見えるように直し始めた。
途中で、もうすっかりぬるくなっている自分のコーヒーを飲み干し、ウーロン茶はひと口だけ飲んで、後はヤンのために残しておいた。
ぴんとは張れないシーツに、やや不満は残り、枕のカバーにもヤンが散々噛んだ跡があるのに、まあいいと目をつぶることにする。こんな有様なのは、何も自分たちが初めてでもなかろう。
バスローブを拾い、後でバスルームに放り込んでおこうと、ベッドの足元の方へまとめておいた。
水音が止まり、しばらくしてからヤンがぽくぽく戻って来る。湯気のまた残る体を毛布で覆い直して、シェーンコップが、とりあえず寝乱れた程度になるようにしたベッドへ、ぽすんと腰を下ろす。
シェーンコップはそのヤンに、まだ中身のある紅茶のペットボトルを手渡した。
それを飲みながら、ヤンは上目にシェーンコップを見て、ペットボトルの口元に顔の半分を隠すような仕草で、
「・・・もう1回、する?」
空手なら、きっとシェーンコップの、ボクサーのウエストバンドに指でも引っ掛けに来たろう。
シェーンコップは、それに苦笑で答えた。
「今やったら、昼まで眠り込んで、今夜もここにいることになりますよ。」
それでもいいけど、とヤンが思ったのが顔に出た。シェーンコップはそれを読み取って、わざと渋面を作って小さく首を振って見せる。
ヤンが空にしたペットボトルを取り上げ、まだ飲むかと、今度はウーロン茶の大きなペットボトルを見せると、うなずきもせずに腕を伸ばして来るのに手渡して、シェーンコップはヤンの隣りへ腰を下ろす。
昨夜と同じように、喉をいっぱいに伸ばしてそれを飲む、ヤンの首筋に目を当てて、誘っているつもりはないのだろうけれど、全身のあらゆるところが妙にシェーンコップをそそって来る。もう一度したいのはヤンだけではなかった。
ヤンは飲み残しのウーロン茶をシェーンコップに差し出して、シェーンコップはそれを受け取り、中身を一気に飲み干した。
濡れた唇を拭おうとした時、ヤンが隣りから体を伸ばして来て、その唇を自分の唇で拭うように、不器用な口づけを仕掛けて来る。
唇も舌も、口の中の粘膜はどこもかしこも、互いに探り合って触れていない場所はないと言うのに、改めてシェーンコップはヤンの舌裏と頬裏の熱さに驚きながら、今度はベッドではなく、絨毯の床にヤンを引きずり下ろしたくなった。
やめとけ、とヤンを抱き寄せた腕に、最後の理性を振り絞って、ただ抱いただけにとどめて、こつんとヤンの額へ自分の額を軽くぶつけて、
「帰りましょう。」
ヤンが、今度は素直にうなずいた。
それでもベッドから立ち上がる前に、額の続きで唇を触れ合わせて、けれど舌を差し入れなかった自分を、シェーンコップは心の中で褒めた。
シェーンコップの上着のポケットだけが、コンドームの箱で嵩張って、ふたりは空手でホテルを出る。
昨夜だけの仮の隣人たちはすでに立ち去った後、散歩の人影などあるはずもないこの辺りでこの時間、白々しく明るい道の上にはふたりしかいなかった。
どちらからともなく手を繋ぎ、昨日よりさらに照れ臭い足取りで駅へ向かう。
ホテル街をそろそろ抜けると言う辺りで、突然ヤンが足を止めた。
「あ、猫。」
するりとシェーンコップの手を離し、普段にはない素早さと大きな歩幅で、路上にたたずんでいた白黒の猫へ、ヤンが向かってゆく。
顔の汚れた、明らかに野良の白黒猫は、けれど人間には慣れているのかヤンが近づいても逃げはせず、ヤンがしゃがんでそっと背を撫でるのに、うっとり目を細めさえする。
この先の居酒屋の並びを餌場にしているのだろうかと、シェーンコップはそこで足を止めて、このひと組を眺めながら考えていた。
猫の丸い背を撫で、頭を撫で、あごの下に人差し指を伸ばして撫で、ヤンは楽しそうに猫に触れて、けれどやがて猫は、ヤンが餌をくれる人間ではないと気づいたのか、ヤンの足に2、3度体をこすりつけてから、じっとヤンを見上げた後で、これで愛想は終わりと言う風に、ふいと向きを変えて立ち去ってゆく。
途端にヤンは、丸めた背中に猫に去られた淋しさを塗り込め、路上にしゃがんだ姿勢のまま、名残り惜しげに路地の間に消えてゆく猫を見送った。
その背を、シェーンコップは黙って見ている。
やっと立ち上がり、シェーンコップの方へ向いたヤンへ、シェーンコップは近づこうとしてそのまま動かず、5歩の距離のままヤンを見つめ、目を細め、そろそろぬくみを増して来る朝陽が当たってきらきら光るヤンの黒髪に、それをずっと見ていたいと思った。
瞬きと一緒に、シェーンコップは不意に口を開く。
「──一緒に、猫、飼いませんか。」
え、とヤンが目と口を丸く開いて、たった今猫が去った方を向きながら、そちらを指差した。
「猫って──今の、あの猫?」
「いや、あの猫じゃなくて──うちの庭に居着いてる、三毛猫です。」
シェーンコップは、うっすらと自分が微笑んでいるのに気づいていた。ヤンはまだ驚いたままの表情で、そんなシェーンコップを見ている。
「三毛猫? 君のところの庭? 庭があるの? 一戸建て?」
矢継ぎ早に、ヤンが訊いて来る。今まで、ヤンに訊かれたこともなければ、シェーンコップが話しもしなかったことだ。
あの団地の部屋で過ごす、それだけで完結していたふたりには、その他──その外──のことなどあまり意識にも上(のぼ)らず、シェーンコップが、ヤンの団地のある市と隣の市の境い辺りに住んでいると言う程度は知っていても、それがどんなところでどんな風に暮らしていると、ヤンは興味もなかったようだった。
「2階建てで、小さい庭のある家ですよ。私を育ててくれた祖父母の持ち家で、亡くなった後に私が引き継ぐ形になった家です。」
シェーンコップが初めてそう説明するのに、へえとヤンが相槌を打つ。
「猫がいるの?」
ええ、とシェーンコップはうなずいた。
ヤンの黒い瞳が、ちょっと深さを増した。
「祖父が亡くなった後に、勝手に庭に出入りするようになりましてね、雪の降る日に、さすがに寒そうだと思って物置にダンボール箱を入れてやったら、何となく居着かれて・・・。」
出してやったのは、古い毛布だけだった。飼うと言う責任を持てず、餌は一切与えたことがない。水だけはきれいなのを取り替えて、それだけでも乾いてあたたかい寝床に満足してか、三毛猫はそこから出て行く様子はない。
「その猫が、最近子猫を連れて来るようになりましてね・・・しかも2匹。」
話し続けるシェーンコップは、その猫たちが庭をとことこ行き来する様を思い浮かべて、いっそう微笑みを深くする。瞳の穏やかさが、ヤンへ向ける時とまったく同じに、シェーンコップにその自覚はないのだった。
「その三毛猫の仔?」
「違うでしょう、多分。柄が違うし、その三毛猫はオスでしてね。」
「三毛のオス? 珍しいね。欲しがる人がいっぱいいるだろうに。」
「だから、放っておくだけのウチに居着いたんでしょう。」
何となく、そろそろ三毛猫を家に入れようかと、漠然と考えていた時に子猫連れで現れ、さすがに3匹は引き取れないと、シェーンコップは近頃考え続けていた。ひとり暮らしで猫3匹は荷が重い。飼うと決めるなら、無責任なことはしたくはなかった。
ヤンが、シェーンコップの方へ3歩戻って来る。
「仔猫は、どんな猫?」
「1匹が薄茶の・・・ミルク入りの紅茶みたいな色のメスですよ。もう1匹はオスで、顔やら足の先が黒くて少し毛が長くて、シャム混じりか何か、そんな感じの猫です。」
「へえ、茶トラのメスも珍しいんだよ。へえ、三毛のオスに薄茶トラのメスに、シャムみたいなオスかあ。」
寝不足で、少しどんよりしていたヤンの目が今は輝いて、その黒い瞳を見ながら、シェーンコップはもう、ヤンと一緒に猫を風呂に入れて大騒ぎになる場面を想像していた。
「・・・名前、もうつけた?」
「まだですよ。あんたが一緒に飼ってくれるなら、一緒に考えて下さい。」
ふうん、とヤンが首を傾げ、それからごく浅く肩をすくめた。あごを胸元に引きつけ、急に生真面目な顔つきになると、意を決した、と言う風にシェーンコップに訊いて来る。
「君の家、わたしの本、全部置ける?」
なるほど、それがいちばん重要と言うわけか。本棚の谷間に、ひっそりとたたずむヤンの背と、開いた本に向かって折れた首の頼りなさを思い出して、シェーンコップはゆっくりと深くうなずいて見せた。
「あんたのところみたいに、ひと部屋全部本棚にしましょうか。必要なら改装したって構いませんよ。何なら週明けに、あんたのいる銀行に、家の改装費のローンの話でもしに行きますか。」
なるべく冗談めかして言いながら、シェーンコップの声の底が震えている。ああ、自分はそんなに真剣だったのだと初めて気がついて、改めてヤンへ向かって灰褐色の瞳を細める。
ヤンが、唇の端が耳の下へ届くほど大きく微笑んだ。
「改装費のローンより先に、猫用の貯金を考えた方がいいよ。去勢とか避妊とか病気とか、猫は保険が利かないからね。」
言葉の終わりと同時に、ヤンの手が、シェーンコップの手へ伸びて来た。
掌が重なり、指が絡まり、先に踏み出したヤンの足へ引かれるように、シェーンコップもまた足を前へ踏み出す。
「猫が3匹かあ・・・大変かな。」
語尾をすくい上げて、まるで挑むように、隣りからシェーンコップを見上げて来る。そのヤンへ向かって体を傾け、目線の高さを合わせながら、
「あんたと私とふたりなら、大丈夫ですよ、多分。」
そうだねと言う代わりに、またヤンが微笑む。
そうして駅へ向かって歩きながら、いつの間にか歩幅が揃い、大通りへ出る手前までヤンはシェーンコップにくっつくようにして歩き続ける。
まだ人の少ない通りの、それでも伝わって来るざわめきを、シェーンコップは少し残念に思った。
足元へうつむいて、ヤンがぼそりと、ひとり言みたいに言った。
「君のとこの猫、シャムみたいなのは、ユリアンて名前はどう?」
突然そう言われて、シェーンコップは思わず足を止める。
「もう決めちまうんですか、まだ見てもないのに。」
驚いてシェーンコップが言うのに、
「じゃあ今日これから見に行くよ。」
反論は受け付けないと、シェーンコップの方へあごを突き上げながらヤンが言う。
駅に近づくにつれ、別れがたさが募って来るのはシェーンコップだけではなく、握った手に力をこめて、シェーンコップはヤンの手を取り上げ、その手の甲へそっと口づけた。
「・・・いいですよ。」
自分でも驚くほど優しい声でシェーンコップがそう言うと、いきなりヤンが赤面し、頬から首筋まで、一瞬で真っ赤に染め上がる。
奥歯を噛んで、唇を結んで、シェーンコップから少しだけ離れて、体は駅へゆく方へ向きながら、また足は止まってしまった。
ヤンは何か道の上に探している素振りでそっぽを向き、そちらへ向かって言うように、再びぼそぼそ口を開く。
「・・・また、映画、一緒に行ってくれる?」
「いいですよ。今度は家から一緒に行きましょう。そしたら駅で変なのに絡まれずに済みますよ。」
「また、そうめん茹でてくれる?」
「いいですよ。あんたが食べたいなら、冬中そうめんでも構いませんよ。」
「また、あのホテル、行く?」
「・・・いいですよ、あんたが行きたいなら、また行きましょう。」
そこで一度、ヤンは黙り込んだ。まだ駅へ向かって動き出す素振りは見せずに、瞬きと同じタイミングで、ぎゅっとシェーンコップの手を握って来る。
「今日、また、する?」
シェーンコップは一瞬、このままヤンの手を引いて、ホテルに戻りたい気分になった。けれど、ヤンと猫たちを合わせて、ヤンの本を置こうと考えている空き部屋をヤンへ見せて、その目の輝くところを見たい気持ちが勝って、ヤンの言う今日はまだ始まったばかりだからと、応えるようにヤンの手を握り返した。
「・・・ええ。」
上ずった声がうっかりかすれた。
それきりヤンはもう何も言わず、呼吸の音の数えられるほど静かになって、人通りのない明るい道の真ん中で、ふたりは視線を合わせず向かい合っている。
ふと思いついて、ヤンと同じほどの唐突さで、シェーンコップは言った。
「シャムみたいな子猫がユリアンなら、薄茶の子猫はカリンてのはどうですかね。」
ヤンが、やっとシェーンコップを見上げた。
「可愛いな、それ。」
言うのと一緒に、やっと足が動き出した。
路地を抜けて通りに出て、近づく駅前のざわめきに負けない朗らかさで、
「宝くじ買おうよ。当たったら猫の貯金にする。」
まだシャッターの下りている宝くじ売り場をヤンが指差すのに、シェーンコップはまた微笑んでいいですよと繰り返した。
シェーンコップの家へ向かう路線へ続くアーケードの下へ入ってゆくふたりの背中に降り注ぐ朝陽の白さが、そうめんみたいだった。
YJ編了