ゆですぎそうめんえれじぃ 3
ヤンは、知らずにシェーンコップの訪れを心待ちにしていた。だからシェーンコップが、今度はしその葉とねぎと6個入りの卵とペットボトルの麦茶──すでによく冷えていた──を持ってやって来た時、ヤンは見たことのない店の買い物袋に入ったそれを受け取りながら、どうぞと、奥へ向かって腕を伸ばしていた。
シェーンコップはやや戸惑いを刷いて、それでも断らずにではと、手の切れそうな折り目の入ったズボンの裾を軽く持ち上げて、これもぴかぴかに磨かれた革靴を脱ぎ、そこから体をかがめてくるりと三和土の方へ向いて、脱いだ靴を狭い玄関の端っこにきちんと揃えた。
丸まった、作業着の灰色の背が、またそこで団地と一体化して見えて、ヤンはもう長いことこの男を知っているような錯覚に陥りながら、もしかしてシェーンコップはこの団地の精霊なのではないかと、暇な時によく頭に浮かぶ、秩序のない夢想の端っこへ爪先を差し込んでいる。
買い物袋を抱えてそのまま途中の台所へ入ると、シェーンコップもついて来る。先に居間に通せば良かったと思いながら、ヤンは袋を相変わらずごちゃごちゃのテーブルに置き、中身をそっと取り出し始める。
シェーンコップは台所の、玄関近くからの出入り口へ立って、そこで動くヤンを見つめていた。
空になった袋は、つい癖でまたテーブルのどこかに放り、そのままそうめんを茹でる湯を沸かし始めた時、
「私がやりましょう。」
すっと、シェーンコップが手を伸ばして来る。
赤い卵のパックをそっと取り、開けて、その傍らにビニールを取ったしその葉を置く。狭いテーブルの上で動くシェーンコップの手指は、まるで舞台の上の俳優の演技のような優美さだった。
台所の、ぎらぎらしいくせに色合いの乏しい照明の下ですら、シェーンコップの、この世界から独立した輪郭はくっきりと際立って、なんてきれいな男だろうと、ヤンはまた思う。
シェーンコップはヤンに訊かずに、そこに置かれたそうめんの木箱を開けた。
「お気に召しませんでしたか。」
ちょっと落とした声で尋ねる目の先に、あれきり二束しか使っていないそうめんの、まだきれいに並んだままの姿で、ヤンは慌てて、
「わたしが作ると、美味くできないからもったいなくて・・・。」
嘘ではないけれど、つい言い訳めく。シェーンコップは淋しそうに、そうですかとごく淡く笑みを浮かべて、
「つゆはまだありますか。」
と、冷蔵庫を振り返りながらさらに問う。ヤンはぼうっとそこに立ったまま、深くうなずいた。
失礼、とシェーンコップは短く言い、あまり体を動かさずに上着を脱いだ。椅子の背に掛け、その上に、素早くほどいたネクタイも置いて、それからシャツの袖のボタンを外し、くるくると肘まで巻き上げる。
大きな掌のままの骨の太い手首に、いかにも固そうな筋肉に巻かれた腕が現れて、その腕は最小限の動きで台所のあちこちへ振られ、見る見るうちに、薄焼き卵が焼かれ、ネギが小口に切られ、しそも細切りにされる。
フライパンは、油は、ボウルは、菜箸は、何か入れ物は、小皿は、とシェーンコップが小声で訊くたび、ヤンは狭い台所の中で、シェーンコップと体をすり合わせるようにしてあちこちに動き、言われたものと取り出して手渡した。
何度も指先が触れ、そのたび思わずシェーンコップを見上げると、シェーンコップも同じ目色でヤンを見つめて、
「そうめん、茹で過ぎてしまう──。」
ヤンは思わず小さくつぶやくのに、
「ええ、気をつけましょう。」
シェーンコップはヤンから目を離さずに、これも小さな声で低く応えて来る。
ユリアンとはまた違った手際の良さで、たちまちふたり分の、そうめんの昼めしが出来上がった。
ろくに手の出せなかったヤンは、居間の卓袱台にあれこれ運ぶのだけはきちんと手伝い、シェーンコップは、ヤンが慌てて押入れから出して来た座布団へ、向かいではなくヤンの隣りの位置へ置いて、きちんと正座で収まる。
いただきますと、箸を取り上げる前に手を合わせるシェーンコップの横顔を盗み見て、ヤンも急いで手を合わせた。
ひと口ずつまとめて、氷を乗せるやり方ではなく、シェーンコップはガラスの器に水を張り、そこに氷とそうめんを泳がせて、ヤンはへえと思いながら、氷水の中からそうめんをすくい上げた。
垂れる水をできるだけ切り、例のつゆにひたして、もう箸につかんだ瞬間に感触の違うそうめんを、ヤンは期待をこめてつるつるとすすり上げた。
歯に触れ、舌に触れ、頬の内側に触れ、喉に触れ、そこを通って食道から胃に通り落ちてゆく、白い滝の、鋭いほど細い流れ。ごくかすかに、ほんとうにごくかすかにあるめんの塩みに、舌と胃壁が時間差で反応して、消化の早いそうめんがもう血液の中へ混じり始めて、つゆに含まれる甘みが、ヤンの血を熱くさせた。
美味い、と思わず、唇の間からすすり切れなかったそうめんの端を覗かせたまま、ヤンが行儀悪くつぶやく。隣りでそれを聞いたシェーンコップが、いかにも嬉しそうに微笑んだ。
薄焼き卵は、淡く甘い。そうめんとつゆの味の絡みに参加して、薄いくせにふっくらとした舌触りが、歯列の柔らかく食い込む感触と重なって、そのまま小さく噛んで飲み込んでしまうのが惜しいほどだった。
そうめんの歯触りとつゆの美味さが、絶妙に絡み合って口と喉で踊る。美味いと、繰り返し繰り返し、ヤンはふたり分の盛り付けを、深くも考えずにどんどん箸にすくい取り、めんが吸い込むただの水道水さえ、シェーンコップが盛り付けたからかどうか、カルキ臭さの失せている気がする。
魔法みたいな手だと、思った。自分では絶対にこんな風には茹でられない。薄焼き卵は、焦がして苦くなるのが落ちだ。ユリアンが作ってくれるそうめんとは、違う風に美味い。つゆの器にうつむいて、ヤンはユリアンに会いたいなあと思った。
箸の止まったのに気づいたのか、シェーンコップが、どうしましたと訊いて来る。
「ちょっと、大学に行ってる息子──養子なんだが、その子のことを思い出してね。向こうがホームシックになるのは分かるが、わたしがこんなになるとはね。あの子も、こんな風にそうめんを、とても上手く茹でてくれてね。おかげでわたしはすっかり自分で料理なんてしなくなってしまって・・・。」
「他に、ご家族は──?」
シェーンコップが、立ち入り過ぎないようにと、用心しながら訊くのに、ヤンは別にと言う声音を作った。
「ふた親とも、わたしは早くに亡くしてしまったから・・・ユリアンが──その子が、家族と言えば唯一の家族でね。」
氷水の中に、まだひとすくい半くらい、そうめんが残っている。ふたりは箸を止め、そうめんではなく、開けっ放しの窓の外ではなく、互いを見つめていた。
シェーンコップが、ゆっくりと、薄焼き卵の油に濡れた唇を開く。
「私も、身内はいませんでね。祖父母と暮らしていましたが、他には特に──。」
「両親は?」
シェーンコップが使った気に、ヤンは一向に気づかない。シェーンコップは苦笑いをこぼした。
「ちょっと事情がありましてね、随分前に、一緒には暮らせないと──。」
やっと、悪いことを訊いたと思ったヤンは、言葉を濁しながら、箸の先をそうめんの氷水に差し入れ、残りの半分をすくい上げた。
「色々、あるね、どこの家も・・・。」
ええ、とシェーンコップが、ヤンに続いて箸の先を氷水へ伸ばす。同じタイミングで、ヤンの箸から、水の切れるのを待っていたそうめんがするりと滑り落ち、それを追いかけたヤンの箸とシェーンコップの箸の先が、氷水の表面で絡まり合う。揺れる水面で泳ぐ、いびつな形の氷が、ふたりの、まだ離れない箸の先をつついてゆく。
箸の先を離さないまま、シェーンコップへ、引き寄せられるように肩を近づけたのはヤンの方だった。あぐらの膝の片側を座布団の外のたたみへ落とし、そのヤンへ向かって、シェーンコップが肩の位置を落として来る。
互いの箸の先をつまみ取る形のまま、氷と、今日は見事に茹で上がったそうめんが、ゆらゆら、行き場を失って揺れていた。
そうめんに比べれば、なめらかさの足りない、それでも今は薄焼き卵の油でうっすらぬめった唇が、つゆのだしの味と香りのする呼吸のために、そっと開いてゆく。
ヤンの背の方で、扇風機が、きこきこ首を振り続けている。シェーンコップの方へ持って行くには、電源コードの長さが足りないのだ。
扇風機の風を遮るヤンの背へ、ついに箸を置いたシェーンコップの手が添えられ、ヤンもかしゃんと箸を放ると、シェーンコップの首と頬へ両手を添えた。
唇が離れても手は外れず、鼻先と額と前髪は触れ合ったままでいた。
「せっかくのそうめんが、のびてしまうね。」
「もう、残っていませんよ。」
「でも少し残ってるから・・・わたしが全部食べるよ。」
「無理はしなくても──」
「美味かったから、もったいないよ・・・。」
「・・・そうですか・・・。」
ねぎとしその匂いがする。甘いつゆの、みりんの香りか、アルコール分など飛ばしてあるはずなのに、ふたりとも酔ったように頬が赤い。
「そうめんは、お好きですか──。」
ヤンを見つめて、瞬きもしない灰褐色の瞳が訊く。そのまつ毛の濃さと長さに驚きながら、ヤンはうんとうなずいた。
「私も、そうめんが好きですよ、とても。」
「──のびたそうめんも悪くないよ、きっと。君が作ってくれるなら、特に。」
抱き合うには、台所で少し汗をかき過ぎていた、ヤンはそれを気にして、シェーンコップから少し体を引いた。
つゆよりは色の薄い麦茶が、ガラスの器の向こうに置いてある。窓から入る日差しを浴びて、きらきら輝いている。ヤンはそれへ手を伸ばし、汗だらけの喉を反らしてごくごく飲んだ。
「明日は、何を持って来ましょうか。みょうがはどうですか。」
シェーンコップが、氷水の中に放り出されたヤンの箸を取り上げ、ヤンのつゆの器の上へ渡らせる。
麦茶のグラスを置いて、横目にシェーンコップを見て、ヤンは答えた。
「君の薄焼き卵があれば、わたしはそれでいいよ。」
卵はまだ、ふたつ残っている。ねぎもしそもまだある。シェーンコップが来て、そうめんを茹でてさえくれれば、他に別にいるものもなかった。
そうですか、と言って、また手を合わせるシェーンコップの隣りで、ヤンは残りのそうめんを、水っぽいのも構わず、全部つゆにつけてすすり込み、まだ残る唇の熱さを、そうして冷まそうとした。