* リアル獣姦展開含 *
変化たちの森 13
翌日も、変わり映えのしない1日になり、午後遅くの散歩の道を例の林にまた選んだけれど、獣の気配も姿もなく、罠があった辺りへ寄ってみても、自分や警官たちが踏み荒らした足跡以外に見当たるものは何もなかった。どこか安全な場所で、無事にいるのだろう。そうは思っても、獣のあの足の傷が心配で、野生の生き物のたくましさを信じようとして信じ切れないヤンだった。
いつもと同じように、自分のタイピングの遅さに焦れ、頭の中にひっきりなしに侵入して来るジェシカとラップの面影と声と言葉を交わし、けれどその隙間に、あの獣の、別れの時に鳴いたひと声が入り込んで来て、むごく裂かれた傷のイメージと一緒に、ヤンの心を囚えてしまっている。
触れた毛並みの、案外の硬さ、そしてぬくもり。ヤンを真っ直ぐに見た、灰褐色の瞳。人の瞳とは違うそれが、なぜかヤンには自分に対してより親(ちか)しさを抱かせて、この世界でどうせひとりぼっちの自分と、罠に掛かってひとりぼっちになっていたあの獣と、何か重なるものがあると考え始めているのか、傷ついた獣を憐れと思う表面の気持ちの下には、もっと強烈な、衝動のようなものがある。
獣のことを思うたびに、野生の動物に手を出すなと言う、あの警官たちの警告が甦って、それはその通りだと思うのに、それでもヤンは1日中、あの獣のことを考えずにはいられなかった。
散歩の後に、薄暗くなる直前に街へ下りて買い物をする。凝った料理などするつもりもないから、何でもいいと適当に食材を選んで、そうして、もしかしてと思い切れずに、自分ひとりに必要なよりも多い量の肉を買ってしまった。
冷凍しとけばいいさ。獣が現れなければそうすればいいと自分に言い訳して、ヤンは店を後にする。
車を走らせながら、できるだけ心を切り替える。今夜はできるだけ頑張って、今掛かっているノートの分の打ち直しを終わらせるのだ。だから今夜は、少し寝るのが遅くなるかもしれない。
簡単に、胃を満たすだけの夕食を済ませ、まだ皿の後片付けをせずにぼんやりとテーブルに坐ったまま、紅茶を淹れようと考えながら体は動かずに、ヤンは片手で頬杖をついて、どこでもない虚空を眺めていた。
いつもなら、そこに現れるのはジェシカとラップのはずなのに、今日はテーブルの向かいに、前足を掛けて立ち上がっている獣のイメージが浮かび続け、言葉の通じない獣を眺めながら、ヤンはふと、父親を失くしてひとりぼっちになった自分を、周囲の人たちはこんな風に心配してくれていたのだろうかと、突然思いついて、うろたえた。
アッテンボローとアッテンボローの家族。父親の仕事仲間の大人たち。厚生委員とか何とか言う人たち。シトレ校長。弁護士のキャゼルヌとその家族。
ふた親を亡くして、天涯孤独になったヤンに、あれこれと親切に世話を焼いてくれた人たち。今も、ヤンのことを思いやり続けてくれている人たち。
いつの間にか、片手だった頬杖は両手になり、ヤンは汚れた皿の上にあごを突き出すようにして、彼らの自分への扱いを鬱陶しいと思うことの多かったことを今初めて少し恥じて、ごめんなさいとありがとうと、心の中でそっとつぶやいていた。
いつもより少し夜更かしをして、そう予定していた通りに取り掛かっていたノートの最後のページまで打ち終わると、ヤンはコンピューターの電源を切って紅茶のカップを洗い、少し痛む首をごりごり回しながら、ゆっくりとシャワーを浴びた。
熱い湯を浴びながら、キャゼルヌの言った、大学くらい行っておけとか、アッテンボローの父親の言う、書いたものを何かするとか、アッテンボローの、新しいのはいつ書き始めるのかとか、そんなことをひとつびとつ思い出して、考えて、考える終わりには必ず、人は簡単に消えてしまうんだと、自分がラップに言った言葉を胸の中で繰り返す。
自分の気持ちがどちらにより傾いているのか、ヤンはまだ見極めることができず、今はただ目先の、自分の書いたものをすべてコンピューターの中に打ち直すと言う、それだけの単純作業に没頭して、指先を動かすだけのその作業で、結局は様々な煩いから目をそらそうとしているのだと、もう気づかない振りもできなくなりつつあるのだった。
わずかずつ、自分の言葉を取り戻してはいても、それをノートにぶつけるところへはまだ戻れず、ヤンは寝るつもりでベッドへ入り掛けて、すぐには横にはならずにベッドの端へ腰掛け、ぼんやりと部屋の暗さへ視線をさまよわせた。
夏休みは半分過ぎ、何かをしているような、何もしていないような、どちらとも判別できないまま、心の端が腐って朽ち果て始めているような気分も、どこかにあった。
ジェシカとラップに持ち去られてしまった、ヤンの心の一部。切り取られたような、ちぎり取られたような、どちらにせよそこには傷口があり、見えない血が流れ、確かに痛みがある。ヤンはそれをそっと抱え込むようにしながら、今生きている。
そこから傷が膿んで腐って、自分の心はやがて壊死してしまうのかもしれないと、ヤンは平坦に考えて、その傷を治したいのか、それとも放っておいて全部腐らせた後、それが自分の体にまで及ぶのを、何となく期待しているのか、積極的にジェシカやラップの後を追おうとは思わないくせに、ふたりの今いるところへ今すぐ行けたらと、考えることはやめられない。
考える間、ヤンは、手持ち無沙汰に、両手で髪をかき回した。自分のしたいことが分からない。言われるまま、何か示されるまま、ただ体を動かして、呼吸をして生きてはいる。楽しいとか嬉しいとか、そんな感情もきちんとある。けれど、心の大半はジェシカとラップに占められたまま、これもいずれは時間が癒やしてくれるのだと、まだ幼いヤンには理解できず、その時間の長さに耐えられそうにない自分に絶望して、そうして再び、人は簡単に消えてしまうんだと、ラップの幻に向かって話し掛けている。
部屋の暗さが、そのままヤンの中の昏さのように、闇の中に髪と瞳の色が溶け込むように、自分自身が闇そのものになってしまったと、ヤンがそう感じた時、どこか遠くで、何かが長く吠える声が聞こえた。
犬か狼のような、そんな動物の遠吠え。夜空へ向かってか、今夜上がった月へ向かってか、一体何をそうして訴えているのか、どこか物哀しい、何かの生き物の声だった。
それを、自分を呼ぶ声だと思ったのは何故だったのか。ヤンはベッドから立ち上がり、ばたばたと部屋を出て、裏庭へ出るドアへ駆け寄った。
とっくに深夜を過ぎた真っ暗な裏庭には何の気配も姿もなく、方角違いで月も見えない。声はもっと別の、もっと遠くの方から聞こえて来たのだろうと、ヤンは思わず肩を落とし、そうして、夏の初めに自分が焼いて埋めたノートの、あの穴のある辺りをおぼろに見やる。
紙を焼く匂いを不意に思い出して、そうだラップもジェシカも死んでしまったのだと、なぜかその時、体の中心を貫くように強烈に思い知った。
ざわめくヤンの心中とは裏腹に、夜の裏庭は、しんと静まり返っている。
重苦しく湿った熱い8月の夜気が、なぜかヤンの首筋を冷たく撫でて行った。
肉を冷凍庫に放り込んだその日、その週末が終わればキャンプから戻ると、アッテンボローがメールで伝えて来た日、獣はヤンの前へ再び姿を現した。
散歩へ出ようと玄関を出て、ドアの鍵を掛けて振り返ったところで、獣はヤンの足元にすでにいた。気配も足音もさせず、ヤンはその姿を見て驚いた声を上げ、文字通り飛び上がってドアへ背中をぶつけてしまった。
「おどかすなよ・・・。」
跳ね上がった心臓を押さえて、そのまま獣の目線へ体を落とし、自分へすり寄って来る獣へ、ヤンはゆっくりと両手を差し出す。
「元気だったか?」
返事が聞けるとでも言うように声を掛け、獣が自分の家を知っていると言う警戒心などちらとも湧かせず、動物を見慣れない自分が、この獣はそうと見分けられる不思議にも気づかずに、ヤンは獣の頭と首へ掌を当てて、毛並み沿ってそっと撫でた。
触れて、ヤンは思わず顔をしかめる。以前触れた時はあたたかかった獣が、今は何となく掌に熱い。ずっと外にいて、体があたたまったせいかもしれないとは思いながら、ヤンは横目に、獣の後ろ足へ視線を移した。
罠に噛まれた傷口は、その周囲がヤンにも分かるほど異様に腫れ上がり、血は乾いているけれど、傷が塞がっている様子がない。
ヤンは頭をかいた。獣医はどこだったかと、もう考え始めている。警察や保健所に連絡を入れることなど、一瞬も考えなかった。
「おまえ、おとなしくできるか?」
素直に車に乗ってくれるだろうか。獣が、ヤンや他の人間たちを襲わない保証があるだろうか。それでも、獣はヤンを信じて助けを求めに来たのだろうし、ヤンも結局は、獣は何もしないと信じたからこそあの罠から救ってやれたのだと思って、立ち上がった自分を見上げる獣の頭をもう1度撫で、この傷を獣医に見せることに決めていた。
「おいで。」
再び玄関のドアを開け、獣を中に手招く。人間の家屋へ入るのはさすがにためらいがあるのか、ヤンが数分辛抱強く誘い続けると、獣はやっと用心しながら中へ入って来て、けれど閉じたドアの傍からは離れない。
「ちょっと待ってろ。」
日長1日、誰と話すこともないヤンは、しきりに獣に話し掛けながら、古い電話帳を引っ張り出して獣医の住所を調べ、財布と車の鍵を持ち、行こうとまた獣へ声を掛け、玄関の外へ出る。
獣は黙ってヤンについて来るけれど、車の後部座席へ入るように言った時は、家の中に入れる時よりさらに時間が掛かり、
「乗れってば。」
ヤンは結局獣の体を何とか車の中に引っ張り込み、嫌がっている風なのに獣はそれほど抵抗もせず、だったら最初から素直に乗れよと、ヤンは口の中でもごもご悪態をついて、やっと自分も運転席へ乗り込んだ。
地図で、獣医の住所が街の真ん中辺りにあることを確かめると、ヤンはゆっくりと車を走らせ始めた。
獣は後部座席に足を畳んで寝そべり、外の風景にも興味はない素振りで、怯えたり警戒したりするよりも、熱のせいで体がだるいのが勝っているように見えた。
「もっと早く来ればよかったのに。」
まるで人間に話し掛けるように言って、ヤンは時々後部座席を振り返る。
「その程度って思っても、簡単に死んじゃったりするんだぞ。」
返事も相槌もない気楽さで、ヤンは運転の間中、獣に話し掛け続けた。人間相手には決して言わないだろうことを、ひとり言ではないトーンで続けながら、自分の思うことが、声で言葉に出して初めてはっきりと形を持つ感触を、ヤンは久しぶりに味わっている。
獣医は、小さな店のいくつか連なった並びにあり、駐車場は幸い空いていたから、入り口の前に車を止めて、ヤンは獣を外へ呼び出した。
獣は素直に下りて来てぴたりとヤンの傍らへ寄り添うと、アスファルトの感触が珍しいのかどうか、自分の足元をしきりに見ながら一緒に歩いて来る。
受付の前には他に誰もいず、ヤンは自分を見てにっこりと微笑んだ女性が、ヤンの傍らの獣を見てちょっと目を見張ったのを見逃しはせずに、ちょっと肩をすくめるようにして彼女に近づいた。
「犬・・・が、あの、怪我をしてて・・・。」
彼女は受付のカウンターの向こう側から立ち上がり、そこから獣を覗き込むようにした。
「リードは?」
「リード?」
何を言われているのか分からず、ヤンは彼女の言ったままを繰り返す。
「引き綱。何も付けずに来たの?」
ヤンが目をキョロキョロさせると、女性はちょっと待ってねと言いざま、そちら側でしゃがんだのかどうかいきなり姿を消し、カウンターを回って現れた時には、その引き綱とやらを手にしていた。
「ちゃんと押さえててね。」
言われた通り、ヤンは慌てて獣の体を押さえ、獣はされるまま、おとなしく女性の手で首に綱を掛けられた。
「リードなしで犬を連れ歩くと、警察に通報されるわよ。」
「はい・・・。」
リードの端を手に、ヤンは自分が叱られた犬のように頭を下げ、彼女へ向かって素直に返事をする。獣はヤンのためかどうか、礼儀正しくきちんと坐った。
「じゃあ、これに記入を。」
ペンと一緒に差し出された問診票に、ヤンは自分の名前や住所を書き入れ、そして、犬の名前と言うところで手を止め、足元の獣を見下ろす。たっぷり15秒見つめ合った後で、ヤンは結局そこを空欄にしたまま、他を書き終えて受付の女性へ書類を返した。
女性は書類を見て、明らかに不審げにヤンを見て、また書類を見る。
「椅子に掛けてお待ち下さい。」
突然、妙に礼儀正しい言い方をしてヤンから視線を外し、彼女は慌ただしく奥の方へ入ってゆく。小さな扉が並んでいるのは、それぞれ診察室なのか。
「おまえのせいで、何だか大ごとだよ・・・。」
口調は迷惑そうなのに、ヤンの手は一緒に坐った獣の頭をずっと撫でていて、深く考えずに獣を治療に連れて来てしまったけれど、これからどうするんだろうなあと、ヤンは他人事のように考えている。
なるようにしかならないよなあと、獣の大きな耳で遊んでいると、女性が空手で戻って来て、どうぞと診察室らしい扉のひとつを指し示した。
ヤンが立ち上がると獣も一緒に立ち上がり、まるでもうずっとそうしていたと言うように、ヤンの傍らからぴったり離れない。怖がる様子もなく診察室の中にも、素直にヤンと一緒に入って来た。
鼻の下にはたっぷりと白い髭、白い眉も体も同じくらいにたっぷりの、上品な銀髪の獣医は、柔和そうな見掛けにぴったりの、ちょっとしわがれた声で、
「君は、もしかして、ヤン・タイロンの身内か何かかな。」
と最初に訊いて来る。
思わぬところで死んだ父親の名前を聞き、ヤンは少し驚いて肩を後ろに引いた。
「ヤン・タイロンは、おれ──ぼくの、父です。」
今度は、獣医の方がびっくりして口を半開きにした。
東洋系のほとんどいないこの街では、ヤンと言う名字は父親ひとりきりで、新しい電話帳からはその名は、仕事で使っていた電話番号と共に削除されて、それは死とともに消え去った、ヤンの父親の生の名残りのはかないひとつだった。まさか死んで2年近くも経って、こんなところで父親の知己と行き会うとは思わなかった。
そうか、と獣医が指先でこめかみをかく。懐かしげな様子と困惑した様子と、どちらにも見えて、ヤンは一体何だろうとちょっと身構える。
「いや、ウチは、未成年の患畜の持ち込みは断ることにしてるんだが・・・。」
ああなるほど、と、さっきの受付の女性の態度を思い出して、おおごとになりそうなのは獣のせいではなく自分のせいかと、ヤンは唇の端を下げて獣を見下ろした。
「確か奥さんも亡くしたと聞いておったが・・・君は、保護者は、おらんのかね。」
「いません。」
アッテンボローの家族やキャゼルヌのことを思い出しながら、けれどきっぱりとヤンは答える。
獣医は、ヤンを見ながら四角いあごを撫でた。
「君のお父さんには、ウチの女房の趣味で何度か世話になったことがあってな・・・。」
歯切れ悪く獣医は続けて、手にしていた問診票を置くと、ヤンに1歩近づいて来た。
「とりあえず、今回は特別に、君のお父さんに免じてと言うことにしておこう。ただし、ウチで診察したと、あんまり言い触らさんようにしてくれ。」
はい、とヤンはうなずいた。
特にヤンのために何か残した──保険の金とあの家は別にして──と言う風でもなかった父親の、置き土産の縁の不思議に、ヤンは、この世界の様々なものが、死んだ父親にいまだ繋がり、自分もそこに間違いなく繋がっているのだと知って、腰の高さの診察台に獣を乗せるのに獣医に手を貸しながら、心の端が物思いに沈んでゆくのを止められなかった。
獣の傷に獣医は難しい顔を作り、ヤンに怪我の状況を尋ねて来る。不法設置の罠に掛かっていたのだと言うと、罠の錆び具合を重ねて問われ、獣医はさらに渋面を作った。
傷口から膿を出して洗い、後は抗生物質と破傷風の注射だと説明され、治療のことなど何も分からないヤンはただうなずいて、ヤンを見習ってかおとなしくされるままの獣の頭を、褒めるつもりで撫で続けていた。
傷に触れられるとさすがに痛いのか、獣は悲しげに鳴いてヤンの腕の中に鼻先をしきりに差し入れて来る。
「怪我を治して、君が飼うつもりかね。」
容赦なく腫れた部分から膿を絞り出しながら、獣医が訊いて来る。間を置いて、ヤンは曖昧に答えた。
「・・・まだ、分かりません。」
どろりと大量に流れ出た黄色い膿を始末して、
「2週間後にもう一度おいで。その間に傷の治りが進まんようなら、また連れて来なさい。」
続いて、慣れた手つきで注射を素早く2回、獣も、されたことに気づいていないような手際の良さだった。
足の傷には包帯が巻かれ、獣医はヤンに、換えの包帯と、首に着けて傷を舐めるのを防ぐ朝顔型のカラーを手渡し、
「飼うつもりなら、届けもいるしワクチンの接種もしなきゃならん。金も掛かる。可哀想と言うだけで無責任なことはせんようにな。」
念を押すように言われるのを、ヤンは押し付けがましいとは思わずに素直に聞いて、明らかな腕の良さにこの獣医への信頼を重ね、こんな人が自分に良くしてくれるのも、過去の父親との付き合いのおかげなのかと、商売人としての父親の人柄へ、ふと心を馳せた。
そうして、金が掛かると言う獣医の言葉に現実に引き戻されて、コンピューターを買ったばかりで今は少し心細い、銀行口座の残高のことを今になって思い出す。
緊急用に分けてある金はあるのだけれど、それを獣医の治療費に使っていいものかどうか、ヤンは判断に迷った。
「・・・あの・・・治療のお金は・・・分割でも、いいですか・・・。」
ためらいためらいヤンが訊くのに、獣医は、やれやれと言う風に首を振り、
「ウチの女房に、色々融通を利かせてくれた君の親父さんに、そこも免じるとしよう。ただしきちんと払ってもらうがね。」
はい、とヤンはほっとしながらうなずいた。
獣は診察台から降ろされると、早く帰ろう──どこへ?あの林へ?──とでも言うように、ヤンの足へ体を押し付けて来る。
注射のせいで少し元気がなくなるかもしれないと最後に注意されて、ヤンと獣はやっと治療から解放された。
受付で差し出された請求書には、診察代や包帯の部分に取り消し線が引かれ、説明は空欄のまま、何やら割引も付け加えてある。それでも最後に出て来た合計はちょっと血の気の引く数字で、コンピューターを買うのはもう少し待てば良かったと、ヤンは少しだけ後悔した。
あるだけの手持ちを出して一部をとにかく払い、残りは受付の女性が別の請求書をその場で作って、新たにヤンに手渡して来る。
「そのリードは、次に来た時に返して下さい。」
優しくそう言われたものの、ヤンが返す笑顔ははっきりとこわばっていた。
できる限りのことをしてくれた獣医の名を請求書の中に見つけて、アレクサンドル・ビュコックと言うその名に向かって、ヤンはともかくも感謝の念をきちんと抱いた。
「おまえのせいでほんとに大ごとだよ。」
今度ははっきりと責める口調で、車まで獣を引きながら思わずこぼす。けれどその声音に、どこかあたたかみのこもるのをヤンは止められず、さあ帰ろうと開けた車のドアの中に、獣は足を引きずりながらも素直に飛び込んで行った。
帰る前に、店に寄ってドッグフードやらリードやら、獣のための買い物をしなければ、その前にまず銀行に寄って金を下ろさなければならない、そうしてほとんどゼロになるだろう数字に不安を感じながらも、ヤンは不思議と暗い気持ちにはならず、
「さあ、一緒に帰ろう。」
後部座席に向かって声を掛けるヤンの口元に、淡く笑みが刷かれていた。