パラレルコプヤン。天涯孤独のヤン少年の異種同種恋愛譚。ヤンと獣。
* リアル獣姦展開含 *

変化たちの森 16

 1ページを埋めるのに苦労した挙げ句に、推薦状も慌てて頼んだアッテンボローの父親からのが1通きりと言うお粗末さで、それでも何とか作った、生まれて初めての履歴書を手に、ヤンは街を回って目についた店──自分が何とかやって行けそうな──に飛び込んで履歴書を渡すと言うことを数日繰り返した。
 予想通り、迷惑そうに履歴書を受け取ったそれらの店から連絡などなく、ワルターが元気そうなのだけがヤンの救いだった。
 もう夏も半ばを過ぎたと言うのに、相変わらず新しいものを書き出す気にはなれず、アルバイトの電話を待ちながら、ヤンは辛抱強く打ち直しの作業にだけは手を休めずに、そんなヤンの、浮かない横顔を見て、ワルターは慰めるようにヤンの足元から離れない。
 そもそも、ワルターがいなければしなくて済む苦労だけれど、だからと言ってワルターを責める気に今さらなるはずもなく、ヤンは時々爪先でワルターの頭やあごを撫でながら、なるようにしかならないさと、自分とワルターの両方を慰めるように考える。
 一日二日と時間だけがどんどん流れ、打ち直しの作業だけは進んでも、先行きに明るさがないのは変わらない。決して鳴らない電話を横目に見て、自分があまり社交的でもなければ、人好きするタイプでもないと自覚はあっても、こうもその現実を遠慮なく突きつけられると、さすがのヤンも気が滅入らずにはいられない。
 そうして、ラップやジェシカなら、こんな時にあの輝くような笑顔でうまくやるに違いないと、思ってヤンはまたワルターの頭を、今度は掌で撫でる。
 彼らの傍らで、影よりも存在感のなかった自分を、卑下したことはなかったし、自分はそういうものなのだとただ思って、けれど両親もいない自分が今ひとりきり、必死にワルターを守ろうと孤軍奮闘しているのは何もかも無駄ではないのかと、自分の無力さに頭を抱えたくなる。
 それほど恵まれた環境にいるとも言えない──ヤン自身はそうは思っていない──のに、ヤンは滅多と人を羨むと言うことがないのだけれど、今だけは、例えば両親の揃っていて賑やかに暮らすアッテンボローを、ほんの少しうらやましいなと思った。
 アッテンボローの家なら、犬を拾ったと言っても、それほど問題にもならずに犬の面倒を見れるのだろう。
 ヤンはキーボードを打つ手を止め、ラップトップを少し向こうへ押すと、その手前に両腕を組んで頭を乗せる。
 何もかもいやになったと、そういうわけではなくても、深く考えずにワルターを引き取って、何とかなるだろうと思った途端に壁にぶつかって、ヤンはその壁の前で今ひとりあがいている。手も足も出ず、無責任なことはするなと大人たちが繰り返した忠告を無視した報いだとは思いながら、それでもだからと言ってワルターをまた森へ返す気にはならず、ひとりぼっちのヤンと、どうやら仲間はいないらしいワルターと、言葉の通じない間柄が、ヤンにはなぜか心地好いのだった。
 紙の上に言葉を紡ぐのが好きなヤンと、仕草と体温で親愛を伝えて来るワルターと、様々言葉を交わした挙句に先に行ってしまったジェシカとラップのことを思うたびに、ヤンは次第にそれを信じられなくなる自分に直面して、自分の喉から発する言葉がすべて虚しく思え、ワルターといれば、ほとんど無意味になる発する言葉すべて、それに頼る必要も信じる必要もない今の時間が、自分にはいちばん相応しいのだと思えて来る。
 「ワルター・・・。」
 ヤンはずるりと椅子から床に滑り落ち、ワルターと同じ高さで床に坐り込むと、ワルターの太い首に両腕を巻いた。ワルターはヤンの気落ちが分かるのか、ヤンの肩へあごを乗せて、くんくん甘えた声で鳴く。かすかに、首輪と名札の金具が触れ合うかちゃかちゃ言う音が聞こえた。
 「ワルター。」
 ヤンがそう発する音が、自分の名だと理解しているように、ワルターがひと声軽く吠え、大きな耳をぷるぷる震わせる。
 テーブルの下に入り込むように、ヤンはワルターを引き寄せながら体を後ろに倒した。埃っぽい床に体を横たえ、ワルターが長い鼻先でヤンの鼻をつつき、ぺろりと自分の鼻を舌で舐めた眺めを思わず笑って、ヤンは自分の笑う声を久しぶりに聞いた気がして、もう一度、はっきりと声を立てて笑った。
 ここで一緒に昼寝でもするのだと思ったのか、ワルターは体をねじってヤンの胸元へ頭を寄せて来ると、灰褐色の目を閉じてしまった。
 ヤンはワルターの頭と背中を撫でながら、なるようにしかならないさと、最初よりは少し自暴自棄の失せた色合いで思い、ちらりと、相変わらず鳴る気配のない電話の方へ視線を流して、それから、ワルターの頭へ、大きな音を立ててキスした。


 電話が鳴ったのは、深夜近く、こんな時間ならアッテンボローだろうと思ったらその通りだった。
 勢い込んでしゃべるアッテンボローの、ひと言もよく聞き取れず、
 「落ち着け。落ち着けってば、アッテンボロー。」
 アッテンボローの慌てようが伝染(うつ)ったのか、ワルターも伸び上がって、電話の最中のヤンの背中に寄り掛かって来る。
 ──落ち着けなんて無理ですよ先輩。
 感嘆符が6つくらい語尾につきそうに、アッテンボローがそれでもやっと息を治めて、胸の辺りを押さえる仕草がヤンにも見えるようだった。
 ──売れたんですよ、先輩のが。
 ああそう、とさして喜ぶ気にもなれずに相槌を打つヤンの反応の薄さに焦れたのか、アッテンボローが強い口調で、例のヤンの話を登録したサイトにログインしてみろと言う。
 ──すごいことになってるんですってば。
 言われた通り、ヤンはブラウザを開いて、アッテンボローがちゃんとブックマークをつけてくれたサイトへ行くと、ユーザー名もパスワードもすべて電話越しにアッテンボローに教えられ、人差し指1本のタイピングは相変わらずのろのろと、ヤンはあごと首の間に挟んだ受話器が何度か落ちそうになったのを支えながら、アッテンボローの調子の高い声を聞いている。
 アッテンボローのその声が電話越しに聞こえるのか、会話に参加するように、ワルターもヤンの足元でうろうろして、がうがう小さく吠えていた。
 見てみろと言われたリンクをやっと見つけ、そこへ行くと、何やら数字が並んでいる。
 ──下から6番目の、森の魔女ってヤツ、数字見て下さい。
 アッテンボローがヤンのためにアップロードしてくれた話がすべて並ぶリストの、下へ行ってまた上へ戻る。タイトルを見つけて並びを右側へ見て行くと、3桁の数字が見えた。
 ──それ、売れた数なんですよ。
 え、とヤンは思わず素っ頓狂な声を出した。
 「嘘だろ。」
 ざっと眺めて、他はひと桁とも言えない数字がちらほら見えても大半はゼロの中、それだけが突出している。なんで、とヤンは思った。
 思わず傍らのワルターを見つめて、ワルターはヤンの戸惑った表情に首を傾げて応えて、ひとりと1頭は、しばらく無言になる。
 ──誰かが、先輩のその話を気に入ったって感想を書いてて、それを見た人が──
 アッテンボローが、一体何が起こったのかを説明してくれるけれど、ヤンには半分も意味が理解できず、ネットで何かが起こったらしいと、ヤンに分かるのはそれだけだった。
 誰かがまた、自分を助けてくれたのだ。顔も名前も知らない誰かが、ヤンとワルターのこの窮状を救ってくれたのだ。
 「これだけ売れたら、ワルターのワクチンも、大丈夫かな・・・。」
 思わずぼんやりした声でつぶやくと、アッテンボローがヤンが夢を見過ぎないように、多分、ときちんと釘を刺して来る。
 ──明日、先輩んとこ行ってちゃんと説明しますから。
 電話はそれで切れた。
 ヤンはまだ受話器を持ったまま、コンピューターのモニタを眺めて、分かりやすく結果の示された数字をまだ信じ切れずに、けれどこれでひとまず、ワルターに対する責任は果たせるのだと、肺ごと吐き出すように深いため息をこぼした。
 全身から力が抜け、椅子の中で思わず手足を放り出し、何とかなった、と声に出してつぶやいている。
 くうん、と問い掛けるように、ワルターがヤンの膝にあごを乗せて来る。
 「捨てる神あれば拾う神ありだ。」
 がう、とワルターが応えた。
 

 翌朝早く、仕事に出る父親に送ってもらったと言って、アッテンボローがヤンのところへやって来た。
 まだパジャマのまま、顔も洗っていないヤンはやっとふたり分の紅茶を淹れて、アッテンボローがもう自分のコンピューターでブラウザを開いているのに、何度目かの大きなあくびを噛み殺すのも諦めてしまっている。
 「で、一体何が起こったって。」
 ヤンは寝乱れて、いつもよりもずっと見苦しい髪を指先でもっとくしゃくしゃにしながら、アッテンボローに訊いた。ワルターはヤンの傍に寄り添い、一緒に説明を聞く素振りで、きちんとアッテンボローを見ていた。
 「先輩の、あの話を読んだって人が、すごく良かったって感想を書いてくれたんですよ。」
 アッテンボローがサイトのどこやらへ行って、その感想と言うのが載っているページを開き、ヤンへ見せてくれる。
 モニタの半分は埋まりそうにみっちり書き込まれたそれに、ヤンはちょっと目を剥いて、自分が書いたものよりずっとしっかりした文章へ、これを書いた人は一体どんな人物かとつい行間を読もうとしてしまう。
 「で、この人が、自分のFacebookで先輩のこの話が良かったって投稿してくれて、それが拡がったって言う話です。」
 感想の投稿文の最後に、確かにFacebookの投稿記事へのリンクがあり、それに飛ぶと、同じ人物──HNが同じ──の投稿がモニタに現れた。
 「へえ。」
 説明され、見せられても、ヤンにはまだよく分からない。とりあえず、誰かがヤンの書いた話を、とにかくやたらと気に入ってくれたのだと言うことだけは理解した。
 「へえ。」
 もう一度、今度は戸惑いを少し減らして、同じ相槌を打つ。熱い紅茶はまだ眠気に打ち勝てず、ヤンは自分はまだ夢の中にいるのかなと思った。
 「それは、いいことなんだろう。」
 「もちろんですよ。それで先輩、オレ思ったんですけど、Facebookでも宣伝した方がいいんじゃないですかね。あ、もちろん先輩はめんどくさがりだから、オレが全部やりますよ。」
 ああ、うん、とヤンは、また髪に手をやって、ぼそぼそ言ってうなずく。
 「何が何だか全然分からないから、おまえの好きにしていいよもう。ワルターのワクチンが終わったら、おまえの取り分のこと、ちゃんと話そう。」
 「あ、そういうこと言うなら、先輩に何も残らないくらいにぶん取りますよ。」
 アッテンボローがうきうき言う。取り分があるからと言うのではなく、自分の思惑が当たった喜びだ。自分の気に入っているヤンの物語を、他の誰かが同じように気に入ったと言うのも嬉しくて、この時確かに、ふたりの胸の中にラップが残して行った大きな穴の、ほんのわずかではあったけれど、それの端辺りの埋まる気配を、ふたりは一緒に感じていた。

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 森の奥深くに棲む、誰も姿を見たことがない魔女を、森に住む人々は恐れるあまりに排除しようと話し合う。魔女は信じられないほど年寄りで醜くて、いつだって邪悪なことばかり考えていて、今この瞬間にも森をすべて滅ぼしてしまうかもしれない、だからそうなる前に魔女を殺してしまおうと、皆で話し合い、うなずき合う。
 武器を手に森の住民たちが魔女の棲家へ向かおうとした時、ひとりの少女が、誰も見たことがないのに、どうして魔女が醜くて邪悪だと知っているのかと問う。だってそう言い伝えられているからと答えがやって来ても少女は納得せず、自分が先に確かめて来る、そうでないと賛成できないと駆け出し、魔女の元へひとり向かう。
 魔女は確かにそこにいた。誰かが言った通り恐ろしく歳を取っていて、聞いた通りに気味の悪い醜い姿だった。魔女は歳のせいでひどく弱っていて、もうベッドからほとんど起き上がれず、やって来た少女へ向かって腕さえ伸ばせなかった。
 あなたが恐ろしくて邪悪な魔女だから、あなたを殺すってみんなが言ってるの。
 手間だこと。そのみんなとやらがここに着く頃には、あたしはもう死んでるよ。
 そうみたいね。
 少女は魔女に訊く。あなたはほんとうに邪悪なのと。
 さあね、と魔女が平たく答える。あたしが良い魔女か悪い魔女かなんて、あたしにはわからないね。あたしがしたことが良かったか悪かったかなんて、あたしが言ったって誰も聞きはしないだろう。
 その通りだと、少女は小さな拳を握りしめた。
 好きにおさせ。あたしが死んだと分かれば、みんな安心するんだろう。
 あなたは悪い魔女だったって言われたままでいいの。
 あたしが死んだ後のことなんて、あたしの知ったことじゃないね。
 魔女は最期のひと息をこぼして、少女を見つめて言った。
 あんたみたいな子が、心配してここまで来て、あたしを看取ってくれるんだから、あたしもそれほど悪い魔女じゃなかったってことだろうさ。
 じゃあねと言って、魔女はそれきり目を閉じる。少女はやって来る森の住民たちに説明するためにそこに佇んで、ひと粒きり涙を流す。

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 何かを目指して書いたと言う覚えもない話だった。ヤンには珍しい女の子が主人公の、頭に浮かぶままただ綴った少女と魔女のやり取りを、打ち直しながらしばらく振りに読み返して、対して起伏もない内容をわざわざこうして物語にした自分にまず驚いて、これを書いた頃、一体自分が何を思って何を考えていたのかもう思い出せず、少女と魔女が、ヤンの現実の誰と誰なのかも、明確にモデルがいたのかどうか、まったく記憶になかった。
 以前読んだ物語をなぞっただけで、何もかもが架空のことだったとも考えられた。それでも、母の後に父親を亡くし、大事な友人──友人以上──をふたり失くした後では、あっさりと死を受け入れる魔女を突然見送る羽目になった少女の、戸惑いのようなものは、自分──ずいぶん過去の──が書いたと言うのに、ひどく心に響いて来る。
 何かを書いて残すと言うのは、その瞬間の自分の時間を、切り取ってはっきりとした形にしておくことだ。この時の自分のことはよく思い出せなくても、その時のヤンが確かに何かを見て感じて、こんな話を書いたのだ。
 ふうんと、モニタの字を眺めて、ヤンは頬杖をつく。その時の自分を、まるで赤の他人のように眺めて、この時の自分は、少し未来の自分について、何か予感でもあったのだろうかと考えている。
 人は簡単に消えてしまう。そして死んだ人間にとって、死んだ後のことなど知ったことではない。
 それでも、ジェシカとラップは今きっと、自分のことを考えているだろうとヤンは思った。ヤンが、ふたりのことを想い続けているように。
 ヤンは自分の膝にあごを乗せているワルターを見下ろして、凶暴な見掛けの、けれどヤンにはただ甘ったれのこの四つ足の友人も、森の魔女と同じようなものかもしれないと考える。
 そう思った瞬間、ヤンは魔女を看取った少女のように、大きく息を吸って、吐き出しながら、涙をこぼした。いつもならラップの名前を呼ぶはずの唇は、なぜか動かないままだった。
 ワルターが膝の上で伸び上がって、ヤンのその涙を舐め取った。次がまた来るかと身構えて、ヤンを慰めるために、舌は伸ばしたままでいる。
 「おまえは魔女でも人でもないもんな。」
 それが救いだとでも言うように、ヤンはワルターの頭を撫で、モニタから体の向きを外して、正面からワルターを抱きしめた。

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