パラレルコプヤン。天涯孤独のヤン少年の異種同種恋愛譚。ヤンと獣。
* リアル獣姦展開含 *

変化たちの森 17

 アッテンボローのおかげで、様々の煩雑な手続きの後で、ヤンの手元に約束通りに金が届き、ヤンはすぐにワルターを獣医に連れて行った。
 獣医のビュコックは、首輪と名札をつけて再びやって来たワルターを見てかすかに眉尻を下げ、腫れも膿も引き、きれいに塞がった傷口を診察した後で、次はワクチンの接種においでと穏やかな声で言う。
 初回に貸してくれた引き綱を返しながら、ワルターと言う名になったと受付の若い女性に言うと、彼女もヤンに向かってにっこり笑ってくれた。
 借りていた金を返すと言うのは、肩から大きな岩でも取り除かれたように、ヤンはつい軽い足取りで車に戻りながら、ワルターもつられて機嫌良く歩くのに、人気のない駐車場で歌でも歌い出したい気分になる。
 後はワクチンさえ終われば、ワルターは正式にヤンの家族になる。
 今ではキッチンの床やソファの前のスペースや、ヤンのベッドの半分をきっちりと自分のものにしているワルターは、とっくにヤンの1日の中に馴染み切って、ヤンがそう躾けたわけでもないのに、大声で吠えることもなく、外に出ればヤンの傍らから離れず、さっきも獣医の診察台の上できちんとおとなしく、それでも嫌なことをされる時には、ひどく悲しい目つきでヤンを見る。
 助手席に坐って、窓の外を見たりヤンを見たり、もう何年も前からずっとそうしているような素振りで、これがほんの数週間前、罠に掛かっていた野生の獣だったとはとても思えない。
 ヤンはハンドルから外した手を伸ばして、ワルターの頭を撫でた。
 残る不安は、新学期が始まってヤンが学校へ戻ると、昼間おとなしく留守番ができるかどうかだ。これからは、放課後はさっさと家に帰ればいいやと思ってから、放課後をいつも一緒に過ごしたラップのことを思い出し、ジェシカとラップを欠いた後に入り込んで来たワルターを、ヤンはまた横目に見やる。
 「頼むからいい子にしててくれよ。」
 鼻先をつついてやると、くすぐったそうに首を振って、ワルターは自分の鼻をぺろりと舐めた。


 学校が始まると何もかもが元通りに、けれどロッカーの前にも、廊下の片隅にも、階段の踊り場にも、そこに見慣れていたラップの姿はなく、常に騒がしい校内で、ヤンの孤独はいっそう深まることになった。
 ラップの転校以前にはそれをつらいと思ったことはなかったのに、昼休みにアッテンボローといても、互いに互いの間にラップのいた隙間をふと見つめて、黙り込むことがある。
 元通りになっただけなのに、それはちっとも元通りではなく、時々ヤンは、ラップはまた父親の転属について行って、転校しただけなのだと思い込もうとした。短い付き合いだったな、楽しかったよ、じゃあまたな、そう言ってラップは、他の街の他の高校へ移って行っただけだ。1年足らずの付き合いで、わざわざ手紙のやり取りをしたり、そんな面倒をする気もない、ただそれだけのことだ。
 ラップは次の学校でも、きっと明るく楽しくやることだろう。すぐに友達を作り、週末を騒がしく過ごして、父親のせいで転校の多い自分の境遇を愚痴る振りで笑い飛ばし、そうしてまた次の街へ移ってゆく。
 ジェシカは今頃大学で、新しい暮らしに馴染みながら、新しい友人たちに囲まれて、輝くような日々を過ごしているだろう。
 ジェシカとラップが連絡を取り合っているのかどうか、あのまま付き合うことを続けているのかどうか、ヤンは知らない。それぞれの街に落ち着いて、あのふたりがどんな暮らしをしているのか、ヤンに知る術はない。
 そうやってヤンは、想像の世界に逃避して、アッテンボローが話し掛けて来るのにも上の空の返事をして、今は見せるノートもないのに、アッテンボローはどうしてまだ自分と一緒にいるのだろうとぼんやり考えている。
 アッテンボローは、学校で会うと奇妙に焦点の合わない瞳を向けて来るヤンを心配はして、けれど何をどう言っていいのか分からず、言葉少なに、新しいものを書き始めたかと、飽きもせず問い続けるだけだ。
 この年頃の2歳の差は大きく、けれど年齢よりもやや幼いヤンは、先輩と呼び掛けてもアッテンボローにはどこか頼りない少年にしか見えず、だからこそ不安混じりで放っておけないと言うのが本音のところだった。
 両親を亡くし、未成年がひとりで暮らす──しかも街から外れた場所で──と言うのがどれだけ面倒か、姉のふたりいるアッテンボローはひとり暮らしには憧れつつも、そんなことになったらまともに学校に通うかすら怪しいと、自分のことは正確に把握している。
 だからこそアッテンボローの両親は、ヤンがともかくもまともに学校生活を送り、どこかよそへ外れると言うことをしないのに、自分たちの息子の友人としてひそかに感心もしているのだった。
 ヤンは、ワルターを引き取って以来、ワルターの世話を通して、父親の死以来周囲がどれだけ自分のことを心配しているのかを自覚したけれど、それが即座にヤンの孤独を解消してくれるわけではなく、ラップ──とジェシカ──の死を結局はまだ受け入れることもできず、言葉の通じないワルターとの時間に慰められても、それがすべてを癒やしてくれると言うわけでもなかった。
 最後の授業が終わると、ヤンは急いで家に帰り、ワルターを裏庭に出し、それから一緒に散歩に出て、その間ずっとワルターに話し掛け続ける。すべてひとり言だ。
 ラップってやつがいたんだ。友達だったんだ。とても大事な友達だったんだ。
 友達と言う時に、ヤンはいつもそこに微妙な響きを加えて、ワルターがそれを理解しようとしまいと、構わず語り続ける。
 始まりと終わり。ワルターと分け合う同じベッドを、ラップとも分け合った、短い時間。ジェシカとラップの間に割り込む羽目になった自分のことを、ヤンはそうとは気づかずに、自嘲気味に描写して、ふたりは元気かなと、ワルターに向かって問うようにつぶやく。
 逝ってしまった人間のことを、元気だろうかと思う、その馬鹿馬鹿しさにヤンは知らん振りをして、散歩の間中、ヤンの足に頭をこすりつけるようにして歩くワルターは、数分に1度はヤンを見上げ、自分の、この人間の友人は大丈夫だろうかと訝しむように、その大きな耳をふるふると振る。
 わたしはあなたの友人ではないのか。そのともだちのようにはなれないのか。
 ワルターが、灰褐色の瞳で問い掛けて来る。ヤンはそれをまだ聞き取れずに、どこか意識はおぼろのまま、散歩の終わりにひとり言も一緒に終わる。
 ワルターは頭を下げ、ヤンに促されて家の中に入ると、立ち上がってヤンに飛びつく。ヤンの首筋に自分の首筋をこすりつけて、匂いを分け合う獣独特のやり方で、ヤンに友人のしるしをつけ、そしてヤンを慰めようとする。
 ヤンはそうされてワルターを抱きしめ、ラップとはまるで抱き心地の違うワルターの、硬い毛並みを撫でて、この時だけは自分はひとりぼっちではないのだと思う。
 ひとりと1頭の9月が、そんな風に過ぎようとしていた。


 そろそろ木の葉が黄色や赤に染まり始めた頃、ヤンは突然ラップの母親からの手紙を受け取った。
 小さなカードに、簡潔に、ラップが埋葬された墓地の住所が記され、墓参をしてくれるならありがたい、自分はその時にその場にはいられないけれど、息子には良い友達がいてほんとうに幸せだったと書き綴られて、美しく流れる文字の間には、けれど彼女の、こうやって書くことすらつらそうな様子がヤンには伺えて、白いカードを手に、ヤンは知らず片頬を歪めている。
 ついに自分は、ラップの死に直面するのだとヤンは思った。もうごまかせない。ラップは他の街に引っ越して行っただけだと、思い込むことはできなくなる。
 身を引き裂かれるように思いながら、ヤンはアッテンボローを墓参に誘った。
 この街から2時間ほど離れたそこへ、ヤンの運転で行かせるのは不安だと言うアッテンボローの父親に連れられて、ふたりはそれぞれ花束を抱えて、ラップの墓参りに出掛けた。
 背の高い柵に囲まれた広大な墓地の、事務所でラップの母親からの手紙を見せると、丁寧に墓の位置を教えられて、延々と連なる、どれほど飾っても無個性になる墓石の中に、やっとラップの墓を見つける。
 石の新しさも、刻まれた名のその縁の鋭さも、秋の訪れに勢いを失った芝生の緑の中ではすべて陰鬱な灰色に塗り込められて、名前の下に記された20年に満たない年齢が、余計に悲しさを誘う。
 そうか、ラップは死んだのかと、ヤンは思った。ほんとうに、ラップは死んでしまったのだ。世界のあちこちにまだ気配を残し、視界の端にその影を閃かせながら、けれどラップはもうどこにもいない。
 ラップは元気だろうか。埋められたここではなく、恐らくジェシカと一緒にいる、どこかで、ラップは元気だろうか。
 自分はそこには行けないのだ。少なくとも、まだ。
 アッテンボローが肩を寄せて来るのに、ヤンは自分の肩を寄せ返して、少年ふたりは、黙ったまま友人の墓を見下ろしている。
 アッテンボローの薄い肩から伝わる体温に、ヤンは抱きしめたラップのぬくもりを思い出して、あのあたたかさは永遠に失われてしまったのだと思う。
 同じシーツにくるまって、混ざる体温の上がる、誰も知らないふたりの時間。皮膚を溶かすように抱き合って、声も息もひそめて、ふたりきりで分け合った秘密。
 ラップと一緒に埋葬された、ふたりの秘密。この墓を掘り返しても、そこに見つけることはできない、ラップとヤンだけが知っている秘密。
 アッテンボローがついに足を踏み出して、手にしていた花束を墓石の前に置いた。
 花びらの鮮やかな色彩が、不意にラップの墓を、他の墓石たちから区切るようにくっきりとその輪郭を鮮明にし、そこだけ突然夏の再来のように、一瞬、ヤンは時間が引き戻されたような感覚に陥った。
 夏の始まる直前の6月の終わり、そこへ時間が戻り、ラップが微笑んで、ヤンへ向かって腕を伸ばす。ヤン、一緒に、ジェシカの行く大学へ行こう。3人で一緒に。ずっと一緒にいよう。
 声が聞こえるような気がする。ラップが、そこで自分を呼んでいるような気がする。
 ヤンはふらふらと前へ出て、けれど花束を抱えたまま動かない。
 ヤン、オレと一緒に行こう。ずっと一緒にいよう。オレとジェシカとおまえで、家族になるんだ。
 そんな未来もあり得たのだ。
 ヤンはそっと墓の前に膝を折り、自分の花束を、アッテンボローの供えたそれの隣りへ置いた。
 すぐには立ち上がらずに、墓石に触れる。刻まれたラップの名前を揃えた指先でなぞり、恐らく夏の間陽射しに絶えず晒されて、ずっとぬくまったままのその灰色の石の、思いがけないあたたかさを、ヤンはラップの体温と同じだと思った。
 ラップは、確かにここにいるのだ。ラップはここで眠っている。ひとりきりで。それでも、色んな人々に愛されて。
 ラップの選んだ家族。ジェシカとヤン。ジェシカはラップと一緒にいる。いつかヤンも、そこに加わるのだろう。いつの日か。
 ヤンはやっと立ち上がった。立ち上がりながら、小さな声で、ラップ、と呼んだ。
 アッテンボローがヤンに近づいて、肩を抱き寄せて来る。ヤンは素直にアッテンボローの肩へ頭をもたせ掛け、大きく息を吐きながら間遠な瞬きをした。
 ラップとは違う体温。もう、ヤンが触れることはない、ラップの体温。
 少年たちは無言で、友人の墓を見下ろしている。人の身長分の深さに埋められた友人を見下ろして、その隔たりを永遠のように感じて、だからこそ今生きている互いの温度へすがるように、薄い肩を寄せ合っている。
 車の中で待つアッテンボローの父親のことなど忘れたように、ふたりはまだ肩をほどかず、ラップの墓の前から動かない。
 ふたりが供えた花束の花びらが、青い空から降り注ぐ穏やかな陽射しを集めて、ラップの笑顔と同じほど明るく輝いて見えた。

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