第3話 by 綾音
煙る雨の中から見る承太郎の家は、何故だかいつもよりも寂しそうにその土地に佇んでいる。
庭には、ホリィが大切に育てている紫陽花が、天からの恵みを身体いっぱいに受け、まるで唄を紡いでいるかの様に、半透明の花弁を濡らしている。
縁側から眺める見慣れた景色が、雨で濡らされるだけで幻想的に映り、それは例えるならば非現実の世界に誘われ、気がつかない内にかどわかされてしまっていたといったところだろう。
楽園に迷い込んだ少女の瞳を、花京院は微かに覗かせる。
指先が濡れるのも構わずに、下界に手を伸ばす彼の横顔に、承太郎は一瞬、声をかけるのをためらった。
彼の立ち姿はまるで一枚絵。
切り取って飾ることが出来ないからこそ、価値があるのだ。
「…花京院」
「あ、承太郎。ごめんよ、ちょっとぼうっとしてた」
「いや、いい。茶でも飲むか」
「ありがとう、頂くよ」
承太郎は部屋から座布団を持ち出し、適当に放り投げる。
外の景色を眺めていたいだろう花京院を部屋に呼び戻す様な、無粋な真似はしない。
先週、母親が買ってきていた練り切りを小皿に入れ、そっと差し出す。
承太郎の様な大の男が繊細な和菓子を出す様は、どこかアンバランス。
でも、何故かほっとする。
表情が次第に溶けていくふたりには、和菓子の甘さも隠れてしまう。
特に触れ合ったり、なにかを話す事もしない時間が、ゆったりと流れ、数え切れない雨粒が、庭の紫陽花を濡らした頃、今までの沈黙をそっと破ったのは、承太郎の愛してやまない、恋人の柔らかい声だった。
「僕が、幸せだって、思ったのは」
「何だ」
「君とこうして、当たり前に居られる事を、再認識したからだよ」
花京院の頭の中には、先程の彼女の―彼女達の―恋の終わりがリプレイされている。
この雨の様に静粛で、幻想的ですらあった、あの光景。
遠くない未来に、もしかしたら自らにも降ってくるかもしれない、儚い運命。
誰かが幸せになる、それが自分の愛した人なら、その人の幸せを願い、慈しみながら、潔く―気高ささえ持って―身を引いた彼女の横顔に、自らを重ねなかったかと言われれば、嘘になるだろう。
胸を締め付けられる感傷と、今こうして共に居れる事の幸福感。
ない交ぜになってしまった感情は行き場を失ったまま留まり、庭に降りそそぐ雨に、微かに溶けていくだけだ。
「こうして、君と共に居る。特に」
言葉の途中で、花京院はそっと、承太郎の手を握る。
「こうして、触れ合わなくても」
離れた体温は、承太郎の手に残り香を残す。
「ただ、居られるだけで…なんていうか、幸せだなあって、思った」
それきり、花京院は庭を眺めたまま、また無言になってしまった。
横顔を見つめたまま、どうしたら良いか解らなくなった承太郎は、思考を正すために、ひとくち、緑茶をすする。
雨がなにかを狂わせたのか、
そうでないのか。
微かに濡れた恋人の肩を抱きとめたあの時に、柔らかく鳴り響いた幸せの象徴によって、どこかに日常を置いてきてしまった、そんな気がしていた。
2009/6/2
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