第4話  by みの字


 触れていた手が滑り、外からは見えないのをいいことに、承太郎が花京院の肩を抱き寄せた。
 いつもなら、即座に体を離すところだったけれど、雨に煙る庭の眺めとあまりの静けさに、ここが現実の場ではないような気がして、つい気持ちがゆるんでしまったのだ。
 だから、らしくもなく、花京院は口を滑らせた。
 「君はまるで、いわゆる高貴な野蛮人だな。」
 つい最近読んだ本で知ったばかりの言葉を、その本来の響きのことは忘れて、目でとらえた字面で一瞬に承太郎を思い浮かべた時の、危うく本を取り落としそうになった胸の高鳴りを、思い出しながら口にする。
 「なんだそりゃ。」
 静かさに似ない素っ頓狂な声で、承太郎が訊いた。
 まだ抱き寄せられた肩を離さずに、花京院はそこでくくっと声を立てて笑う。承太郎の立てた声が面白くて、思わずその言葉を拾った本の内容のことも、一瞬に忘れて、さてどう説明しようかと口ごもる。
 「いわゆる原住民とかそういう人たちを、文明人と言われる連中──白人とか、僕たちとか──が、穢れてない純粋で心の美しい人たちだって理想化して、そういうイメージを押し付けるとか、そういうような意味だったかな。」
 僕たち、というところで、承太郎を含むべきかどうか迷ったのが、中途半端な間になった。それを逃さず聞き取った承太郎は、ちょっと面白くなさそうに唇をへの字に結び、わざと花京院の肩を抱く手に、少し乱暴に力を込める。
 「僕の言ってるのはそういうことじゃなくて、見た通りに、高貴で野蛮ってことなんだが。」
 「言ってくれるじゃねえか。」
 花京院が口にした言葉を、頭の中にその形を並べて思い浮かべ、花京院の目に映る自分の姿を、そこに見たような気がした。それを瞬時に気に入ったくせに、野蛮人と呼ばれたことを素直に喜んでいる風を見せるわけには行かず、けれどその野蛮という言葉の響きに、高貴という言葉よりも先に魅かれてしまった。花京院が、自分に対して選んだ言葉だったからという、ただそれだけの単純な理由だったのかもしれなかった。
 ほんとうに野蛮人なら、事はもっと簡単だろうにと、承太郎はふと思う。
 こんな風に、隠れて触れ合うことをしなくてすむかもしれないと、どこか人里離れた土地に住み着いた自分たちのことをうっかり想像して、今度は承太郎の唇がゆるむ番だ。
 「おれが野蛮人なら、とっととてめーをどっかにさらって行けるな。」
 「さらうって。」
 紫陽花に雨の降る庭には、まるきり似合わない承太郎の言い方に、ああ確かに君は野蛮人だと、それを好ましいと思う気持ちを隠せずに、花京院は、承太郎の肩にいっそう強く頬の辺りを押しつけた。
 「それなら、法律も何も、なんにも関係ねえ。おれたちふたりで好きにできる。いいじゃねえか。願ったりかなったりだ。」
 決して現実はそうではないから、ことさら浮かれた調子で、承太郎は言った。
 「ひどいな、僕をさらうって言っておいて、まるでそれが僕の考えみたいな言い方をする。」
 「違うのか。」
 即座に、承太郎が花京院の語尾をすくい上げる。
 ただの軽口の振りをして、承太郎が自分の方へほんの少し踏み込んで来るのを感じていた。
 承太郎の肩から少し体を浮かせ、目をそらすこともできたけれどそうはせずに、花京院は自分を見つめる深緑の瞳を見返す。
 その瞳の表情に、今日会ったあの女性と花嫁の、ふたりの抱擁を思い出していた。
 あのふたりもそうだ。煩わしい決まりごとなんか気にせずにいられる野蛮人なら、ああやって手を取って微笑み合って、ずっと一緒にいられたのだろう。
 認められないことも受け入れられないことも、今はそれほど苦痛ではない。それはそういうことなのだとただ受け入れて、承太郎と一緒にいられるなら、どんなことにも耐えられると思う。
 それでも、あのふたりの女性のように、もう子どもではいられなくなった時に一体どうなるのかと、承太郎が大学を卒業する数年後のことを考えた。
 一緒にどこかに逃げるかいと、あやうく口にしそうになって、花京院は目を細めてそれに耐えた。代わりに、まったく別のことを口にする。
 「そう言えば承太郎、パスポートが切れたって、どっちのだい。」
 「どっち?」
 「君、アメリカのパスポートも持ってるじゃないか。」
 矛先を変えるために持ち出した話題だったから、そうやって自分で問いながら、アメリカのパスポートで日本の市役所に行ってどうすると自分で思って、質問を変えようと思う前に、承太郎がそれをした。
 「もう持ってねえ。今は完全に日本人だ。」
 え、と承太郎から完全に体を離し、
 「二重国籍が認められるのは18までだからな。別にアメリカで暮らす予定があるわけじゃねえ。日本人で充分だ。」
 少しばかり忌々しさのにじむ承太郎の口調から、完全に日本人でなかった以前は、花京院には言わないいやなこともあったのかと、そう推し量る。
 エジプトへの旅は、ジョセフが保護者なら、ジョセフと国籍が同じ方が面倒も説明も少なくてすむと、承太郎が主に使ったのはアメリカのパスポートだった。子ども扱いである間は、保護者と同じ国籍の方が国境で楽なのだと、そう説明された時に、承太郎を日本人としか思わなかった花京院は、承太郎が完全に日本人ではないという事実に、ひどく違和感を覚えたことを思い出す。
 「そうか。」
 やっとそう言って、承太郎が自分を日本人だと言い切ったことにかすかな安堵を覚え、花京院は承太郎の手に自分の手を重ねると、体のぎりぎり触れ合わない近さに、きちんと坐り直した。
 承太郎には、花京院にも想像のつかない可能性があるのだ。日本人ではないから、日本を離れることも自由だし、日本ではないところで暮らすこともできる。完全に日本人である自分よりも、単純に可能性の2倍広がっている承太郎の立場を思い出して、ほんとうのところは、いつだって不安に思っているそのことから、花京院はあえて目をそらそうとする。
 承太郎なら、日本でない方が気楽かもしれない。旅の途中には考えもしなかったけれど、こうして日本に戻ってみれば、承太郎がどれほど窮屈そうに生活しているか、口には出さずに気の毒に思うことがある。
 何もかもが普通には収まらない承太郎にとって、こうやって日本で暮らすメリットはあるのかと考えても、だからと言ってアメリカへ留学してもいいじゃないかと、簡単には言えない。承太郎のためを思ってではなく、自分のことを考えるからだ。承太郎が日本を去れば、置き去りにされる自分がいるから、そんなことはおくびにも出さない。
 ほんとうに、承太郎の言う通りだ。何もかも忘れて、ふたりでどこかへ行ってしまえればいい。誰の目も気にせず、秘密だと怯えることもなく、ごく普通の恋人同士がそうするように、何の屈託もなくふたりで一緒にいればいい。
 どこへと、具体的に考えることはしなかった。そこで考えるのをやめて、花京院は、承太郎を見つめ続けるのがつらくなって、また庭へと視線を移した。
 雨がもうやみ始めている。そろそろ立ち去る潮時だと思いながら、まだ体が動かない。
 梅雨時の湿り気は、どうやら花京院の胸の内まで入り込んで来ていたらしい。下らないことをつらつら考えていたことを恥じながら、夏休みになって、もっと一緒にいる時間が増えれば、こんな不安もすっかり承太郎に伝えてしまえばいいと、半ば投げやりに考える。
 君が好きだ。
 次第に小さくかすかになる雨粒に向かって、そう唇の形だけで言う。
 言った途端に、ぬくもりを増す自分の胸の中を、承太郎にそのまま見せてしまえればいいのにと、そう思いながら、重なっていた手で、ぎゅっと承太郎の指先を握った。
 帰るよと、そう言おうと思った時、家の奥、廊下の左側から、ぱたぱたと足音が近づいて来た。


2009/6/3