B

 バスタブの中に座り込んで、承太郎が花京院の腕を引いた。
 「来い。」
 ひそめた声で、そう短く言って、自分の体を洗う花京院の頬の辺りに唇を寄せる。
 承太郎の呼吸は、相変わらず病んだ人間の匂いがした。
 花京院はそれに顔をしかめる振りをして、そうして、承太郎をたしなめているのだという態度を見せる。
 そうしておかなかれば、ここでは承太郎とは触れ合わないと誓った自分を、嘲笑う自分の声を聞くことになる。
 他には誰もいない、誰も来ることのない、教会の地下だ。
 ここは、花京院の聖域だった。
 ここで、完全に身を慎んでいるとは言い難かった---主には、花京院の意思や意志など、関係のないところで---けれど、それでも、自ら望んで誰かと抱き合うということは絶対に避けなければと、いつだって自分に言い聞かせている。
 特に、承太郎と知り合って以来だ。
 最後に、承太郎の住む場所で抱き合って以来、ふたりは互いの体に触れることはあっても、躯に触れ合うことは避けている。承太郎にとっては、それは花京院に対する心遣いだったし、花京院にとっては、愛する神への誓いと礼儀のせいだった。
 そんな暗黙の了解を、承太郎が今、破ろうとしていた。
 承太郎のやつれた体を、押し返すことは決して難しくはなかったけれど、なぜかそうはできず、花京院は自分に伸びた承太郎の手に自分の手を重ねて、そうして、まだぶ厚さは確かに残る承太郎の肩を、自分の方へ抱き寄せる。
 「こうするだけだ。」
 承太郎に言い、自分にもそう言い聞かせて、花京院は承太郎を抱いた。濡れた体で、自分の服が濡れるのには構わず、バスタブの縁に腰掛けたままの姿勢で、承太郎に近く体を寄せた。
 承太郎の腕が花京院の肩や腰に回り、それから、まるで花京院を抱き上げるように、バスタブの中で立ち上がる。
 花京院を逃がすまいと、腕には力を入れたまま、バスタブの縁をまたぎ、そこでもっと近く強く、承太郎は花京院を抱いた。
 「・・・脱げ。」
 承太郎の肩に向かって伸びた喉が、一瞬固くなる。
 「だめだ承太郎、ここではそんなことはしないって、決めたじゃないか。」
 言葉の調子は平たく、それを守るのだという意志はこもっていたけれど、承太郎を突き離しはしない腕が、何もかもを裏切っている。
 「何もしねえ、てめーに、直にさわりたいだけだ。」
 言いながら、手がすでに、神父服の長い上着の裾を割って、背中の方へ入り込んでいる。
 厚ぼったい上着の下の、白いシャツの、時折生地に爪の先が引っかかる音が、次第に大きさを増すのは、承太郎が、花京院の返事を聞かずに、もうそのシャツを脱がせに掛かっているからだ。
 窮屈に仕立てられている神父服の中で、乱暴にあれこれされるよりは、シャツを破かれてしまう前に、自分で脱いでしまうことに決めた。振りをした。
 素早く上着のボタンを外し、なるべく手早く肩や腕を抜く。裾の長く重いそれが、承太郎のせいで濡れている足元の床へ、衣ずれの音を立てて落ちてゆく。
 もう半分は裾を抜かれたシャツも、承太郎の手がまとわりつくのをなだめながら、脱いでゆく。
 濡れた承太郎の体は冷たく、その体に、自分の熱を与えるために、花京院はシャツの袖から抜いた両腕を、慌ててまた巻きつけてゆく。
 承太郎がそう望んだように、胸と腹が剥き出しに、直に触れ合う。濡れた膚と乾いた膚、冷たい皮膚と温かい皮膚、触れて重なって、承太郎が、背骨の奥の奥から、深い息を降りこぼした。
 花京院の背中を触る。肩や肩胛骨に触れて、広い肩に比べれば、東洋人特有に細くて薄い腰に、掌を当てる。
 背中はいつも、体の前面よりもあたたかい。体が疲れている時はなおさらだ。承太郎の全身は、いつだってあたたかかった試しがないし、花京院の腹の辺りは、たいてい冷たい。だから花京院の背中に触れて、承太郎は、体を叩く湯ではなくて、その皮膚で、自分の体を温めたかった。
 濡れている体が、いっそう冷えてゆく。花京院から体温を奪って、承太郎は、もっと温かくなりたいと思う。
 思いながら、手が動く。腰に当てていた掌を滑らせて、さっきまで触れる気のなかった、花京院のズボンに手を掛ける。さすがに花京院が慌てて、その承太郎の手を避けようと、体全体をねじった。
 「だめだ承太郎。」
 声が、うっかり高い。こんな時にはなめらかに動く承太郎の手を止めようとするけれど、容赦のない動きで、腰や腿の辺りが、無様に剥き出しにされてゆく。
 「承太郎!」
 逃げようと、体を離した。下着もまとめて引きずり下ろされて、膝の上で動きが取れないのを、無理に上体を反らして、逃れようとする。
 「なにもしねえ。」
 ほんとうだ、と、言葉の終わりに、ひどく苦しげな響きで付け加えられて、花京院はようやく観念することにした。
 こんな格好では、逃げられない。それに、承太郎の腕は、いつだって長い。抱き寄せられれば、花京院に逃れる術はないのだ。
 あったところで、ないという選択をしているのは、花京院自身だ。
 長い承太郎の腕の中に、ようやくおとなしく収まって、花京院は、自分に向かって丸まった承太郎の背中に、肩から腕を伸ばす。その姿勢で承太郎を抱き寄せれば、そちら側の肩が上がり、脇が伸び、少しばかり引っ張られた筋肉が、軽く痛みさえする。その痛みこそ、承太郎自身を表している。
 誓いを破ってしまったことに、わずかばかりは罪悪感を抱いて、花京院は、もう一方の腕は体の横に垂らしたまま、片腕と半身だけで、承太郎を抱いている。
 承太郎の長い腕が、花京院に巻きつき、腰を抱き寄せ、首の辺りに手を添えて、もっと近く体を寄せる。肩口に向かって息を吐く。深く吸い込む。次にこうして抱き合えるまで、花京院のことを、ちゃんとすべて憶えていられるように。
 腰を押しつけても、不思議と花京院は反応しなかった。ここでなければ、唇を重ねて、もっと手足を絡め合って、床の上で、肌を全部こすり合わせたい。溶かし合わせて、いっそ床の染みになってしまえばいい。
 わずかに色の違う、ふたつの肌の色は、まだらに融け合い混じり合い、元は何だったのか見当もつかない、ただの染みになってしまえばいい。
 落とそうとしても落とせない、こすり落とすこともできない、ふたりは永遠に、そこで一緒だ。
 この世に居場所のないふたりなら、平たく何の厚みもなく、ただ広がる染みになればいい。
 承太郎の濡れた体が、花京院の皮膚に乾かされ、けれど、まだ濡れている髪の先から、時折花京院の体に水滴が落ち、わずかの間、水の痕跡を残す。体温にぬくめられて消えてしまうそれのいくつかが、花京院の肌をすり抜けて、床に落ちる。
 承太郎がそう望んだ通りの染みが、床の上に広がる。まだ乾かずに、透明な小さな染みがいくつも、ふたりをそこから見上げている。