H (モブ承、DIO承注意)
下卑た笑い声。4人か5人か、足音と声の混じり具合と気配と体臭、盛大に回る巨大な洗濯機と乾燥機の騒音にも関わらず、承太郎にははっきりと感じられる。振り向かないまま、たたむために手にしていたシーツを、作業台の上に戻した。一緒に作業をしていた男──メキシコ人ばかりを狙って、4人を重体にし、その後ひとりが死んでしまったために、めでたく殺人罪でここに送り込まれた白人の小男──は、見張りの目を盗んでちょっとさぼって来ると言って離れたけれど、どうやらそれはこのためだったらしい。
一緒にいればとばっちりを食う、あるいは彼だけなら彼が標的にされる、それとも、見逃してやるから承太郎をひとりにしろと、そう言われたのか。
承太郎の作業の相棒はいつも変わる。こうして、つきまとう連中ーこれも、顔ぶれが時々変わるーがいるせいか、それとも承太郎が連続殺人の凶悪犯だからなのか、あるいは別に、承太郎の知らないところで、誰かの意志が働いているのか。
ここに送り込まれたそもそもの原因の、血に染まったような紅い唇の艶やかさを思い出すたび、自分が殺した、一体どんな理由と罪があったのかいまだわからない人間たちの顔が脳裏にちらつく。
記憶が、薄い頭痛を呼び起こし、その痛みに、大事なものを失った承太郎自身の痛みが重なると、まるでそれを癒そうとするような優しい──けれど淋しげだ──笑みが、重い記憶の底に静かに広がってゆく。
洗濯作業の騒音に紛れて、足音が自分を取り囲み、そうして、まずは湿った床に引きずり倒された。
最初の何度かは、死にもの狂いで抵抗した。殺される恐怖よりも、何をされるかわからない恐怖の方が勝って、鮮やかなオレンジ色の囚人服を剥ぎ取られた時にようやくそうと悟り、察したからと言って恐怖が消えるものではなく、自分の躯を踏みにじる連中に対する抵抗は、最後まで止めなかった。
薬はとっくに体から抜けていたし、皮肉なことに、ひたすらに質素ではあってもきちんと与えられる食事と、時間の決まった睡眠のおかげで、承太郎は年齢に相応しい健やかさを取り戻していたから、背の高さだけでひとりかふたりなら充分に圧倒できた。
3人が4人になり、5人になる前に、承太郎がそれでもしつこく抵抗するのに業を煮やしたー承太郎も、彼らの執拗さに困惑していたーのか、押さえつけられた時に頭に銃を突きつけられ、それはどう見ても看守から渡ったものとしか思えず、その時やっと、これは単なる嫌がらせやありがちな暴力行為の類いではないのではないかと思い当たって、承太郎はそれきり抵抗するのをやめた。
ただの暴力なら、暴力で対抗できる。それが元で死ぬなら願ったりだと、むしろ向こうを煽るように抗ったけれど、これが実は暴力ではなく、辱めという、どこかの誰かにとっては単なる遊びなのだと気づいてしまえば、自分の抵抗はその誰かを喜ばせるだけだと、そう思い至るのに時間は掛からない。
承太郎の態度が変わっても、事態は変わらない。彼らは相変わらず承太郎のところへやって来て、ペンキの塗られたコンクリートの床や、傷と染みだらけの粗末なテーブルの上で、まるでそうやって果実でもすり潰すように、承太郎を思う様痛めつける。
剥き出しになった皮膚が、固くざらついた色々な表面でこすられ、削られ、裂けて血を吹き出す。
躯の内側へ、容赦なく押し入られて、またそこもこすられ、引き裂かれ、血が流れる。
笑う声、罵る声、呼吸と、胸の悪くなるような吐息、じかに伝わる体温と、心臓が送り出す血液の速度、その行為だけを切り取れば、限りなく人間くさい生々しい行動だったけれど、それはただ、やり方を変えた痛めつけに過ぎない。
作業台に伏せた腹の辺りに、吐き気がこみ上げて来る。突き上げられて、揺さぶられた内臓が、承太郎自身より先に悲鳴を上げる。今ここで吐いたら、今はたたまれるのを待っている、囚人たちのためのシーツやタオルがまた汚れると、ひどく冷静に考えていた。
そうやって、躯がきしんで立てる音を無視しながら、承太郎はただじっと、この嵐が通り過ぎるのを待っている。
頭の中で数を数える。殺した人間たちの顔を、ひとつびとつ丁寧に思い出す。手の中に握った銃の感触、弾が、誰かを狙って発射される時の反動、腕から肩へ伝わり、体の半分を揺るがせて、そして飛び散る、目の前の肉と血。
記憶の中に泳ぎ出してゆくと、さして深さも広さもないそこで、いくらも経たずに出会う顔がある。薄く微笑んだ、その笑みの印象と同じほどはかなげな色合いの、黒い神父服の誰か。
胸に下がった十字架を右手に握り込んで、承太郎、と正確な発音でその名を呼ぶ。
花京院。承太郎は、噛んでいた唇をゆるめて、殺した悲鳴の下で、その名を呼んで応える。記憶の幻が、承太郎に向かってくっきりと微笑んで見せた。
その微笑みに重なる、花京院よりも輪郭の強い、艶やかに紅い唇。ほとんど血の色と同じ、そこから覗く歯列の白さが、鋭く目を突き刺す。
眩しさと凶々しさに、承太郎は思わず目を伏せた。
新たに入り込まれ、突き上げられて、また唇を噛む。歯が食い込んで、破れた唇から血が流れた。乾いた舌先が、それをそっと舐め取る。
いつもなら、絶対にそんなことはしない。
薬を受け取ったら即座にそこを出て、どこか見知ったところで、白い粉を体に入れる。
DIOの目の前では、絶対に薬に触ったりはしない。
けれどその日、その前にもらった分が、量がわずかに足りなかったかの、それともいつもよりも混ぜものが多かったのか、DIOのところへ行った時にはもう我慢ができず、
「かまわない、私が席を外そう。」
承太郎の切羽詰った様子がさすがに見て取れたのか、DIOはそう言って、承太郎が何か言い返す前にさっさと部屋を出て行った。
慣れた手つきで、承太郎自身がそう思う"普通の状態"になるまでに15分程度。舐めると口の中にひどい苦味が広がるそれが、鼻の粘膜の奥へ吸い込まれると、奇妙な甘さに変わる。その甘さに脳が痺れ、その痺れが、脳の襞の表面から、一体そこに何があるのかいまだ解明されていない脳の奥へ突き進んでゆく。
すべてを通り抜けて後頭部へ達した辺りで、ほとんど意識を失うような感覚に襲われた。
いつもよりも、今日のは純度が高いのだ。そんなのを使ったら、体が保たない。ソファの上へ伸びた体が床へずり落ち、ぼんやりと、けれど必死に動かした視線の中に、DIOの、切れそうにきっちりと折り目のついたズボンの裾が滑り込む。触れればひどく柔らかそうで、その、想像の感触が、背骨のつけ根を疼かせる。
開いた口の端から唾液が垂れているのだけはわかった。DIOがそんな承太郎を見下ろして、唇が裂けるような大きな笑みを浮かべた。
私の部屋に運べばいい。
優しげな、けれど逆らわせない語調が言う。大きな影が動いて、承太郎を引きずり起こす。ヴァニラ・アイスの、憮然とした表情が目の前に突然迫る。その瞳の水色が恐ろしくて、承太郎は目を閉じた。
車に運ばれたのか、それともこの建物の中を移動しただけか、承太郎の記憶にはない。ほとんど力の入らない体が、気がつけばしっかりと硬い、けれど柔らかいベッドに、優しくくるみ込まれていた。
「大丈夫か。」
頭の乗っている固い膝は、DIOのものだ。あごを胸元に引き寄せるような形にされて、唇に冷たいガラスが当たる。水だと気づいて、素直に唇を開いた。
「私はあまり、君のような人間の扱いに慣れてはいないのでね。」
薬のせいか、それともほんとうに部屋に充分に明かりがないのか、そこはぼんやりと薄暗く、時間の感覚の失せた頭では、昼間か夜かも覚えがない。
注がれた水は、残念ながらほとんどが口の外へこぼれ、わずかに湿った唇と舌をのっそりと動かして、承太郎は与えられた小さな湿りを喉の奥へ送る、無駄な努力をする。そうしたと思っただけで、実際には唇の端が少し歪んだだけだ。
DIOが、承太郎の頭を支えて、膝をそこから抜いた。視界を塞ぐほど厚い、柔らかな枕に頭が乗り、だらしなくベッドに伸びた体を、DIOがまたいで来る。手には水の入ったグラスがあり、そのグラスから、DIOはひと口水を飲んだ。
唇が目の前に近づく。濡れた唇は、水ではなく血に滴っているように見え、なぜかこれからDIOに食われるのだと、融けてしまった脳の片隅で承太郎は思う。
重なった唇の間から、水が滑り込んで来る。承太郎は、おとなしくそれを飲み込んだ。喉を流れてゆく、他人の体温にぬくまった水分、味も匂いもない、血でなくて良かったと馬鹿らしいことを考えてから、血でも良かったのにと、同時に思った。
「こういうことは、得手ではないのだが。」
もう一度、同じように水が口の中へ注がれた。
薄いシャツの上に、大きな掌が乗る。鎖骨と首筋を探られて、その指先の滑らかさ──汚れたことなどないような──に驚いて、承太郎は思わず喉を反らせる。
「したことは、あるのか。」
問われたところで、意味が理解できない。
「テレンスに、後で叱られるな。汚いものには絶対に触るなと、私が手を汚す必要など、この世にはないとあの男は真顔で言う。おかしな話だ。」
承太郎が返事をしないのには一向にかまわない様子で、DIOの手──いつの間にか、空手になっている──が承太郎の体を、服の上から触っている。
上着はとっくに脱がされていた。ここに運ばれた時に、もう誰かが脱がせたらしい。そう気づけば寒気がして、承太郎は自分の体の中の血の流れる音に急き立てられることに恐怖を覚えて、知らずに腕に粟を立てていた。
「・・・東洋人の肌というのは、ほんとうにまるで絹のようだな。」
承太郎にというわけではなく、たとえば誰かに見せられた高価な美術品の値踏みでもするような言い方で、DIOの滑らかな指先が、それよりもまださらに滑らかな承太郎の、滅多と人目にも陽にも触れさせない肌に、直に触れる。
体の中は薬のせいで朽ち掛けていても、承太郎の外側はまだ充分に瑞々しい。それに、わかりやすい賞賛の視線を当てて、DIOが紅い唇を寄せた。
「人形と同じだが、人形よりはマシだな。何しろちゃんとあたたかい。人のぬくもりというのは、とても貴重なものだ。」
言いながら、食むように、承太郎の皮膚を舐めてゆく。時々歯を立てられると、皮膚の奥にむずがゆさが湧く。体をよじろうとしたけれど、力が入らない。DIOを上に乗せて、承太郎はほとんど身じろぎもしない。
「この、人のぬくもりに値しない人間たちがいる。君がこれから消すのは、そういう手合いだ、人の姿をしていて、人の言葉をしゃべって、偉そうに歩き回っているが、実際にはそんな価値などどこにもない連中だ。他人から奪うことしか能のない、低俗で下劣な連中だ。」
指も唇も、この上ないほど優しく動くのに、DIOの言葉は苛烈だった。言葉で誰かを傷つけるように、激しく厳しい言葉を吐き出しながら、まるでいたわるように承太郎に触れる。
両腕に抱きしめられて、重なった胸の奥で、心臓の位置も重なる。まるでそこから、血管が伸びて繋がって、DIOと血を分け合うような、そんな錯覚に陥りかけた。
「よく覚えておくといい。君はこれから、その資格のない連中から、このぬくもりを奪ってやるんだ。君は持っていて、君が奪われることはない、このぬくもりを、あの連中から奪ってやるがいい。」
承太郎に、今にも頬ずりしそうな近さで、DIOが邪悪さを剥き出しにする。その唇から注ぎ込まれる言葉は、さっき口移しに飲まされた水と同じに、承太郎の内側へ否応なしに染みとおってゆく。
頬に添えられた両手の指先に、不意に力がこもる。その手が首へ滑り、今にも自分を殺そうとするのではないかと、怯えずに承太郎が思った時、
「・・・君の唇を借りてもいいが、歯を立てられるのは、さすがに私も恐ろしいのでね。」
そう言って、おかしそうに笑ったDIOの、唇の端から覗く歯が尖って見えて、噛みつかれそうで恐ろしいのは自分の方だと、承太郎は無感動に思った。
DIOの唇が、承太郎のそれに重なって来た。水を飲ませるためではない、ただの口づけ。健やかな滑らかな唇と、荒れて乾いたざらついた唇と、色味の違う皮膚がこすれ、開いた間から、これもいかにも健康そうな舌と、色の悪い舌が同時に伸びて、ごく自然に絡まり合った。
邪悪の呼吸と、限りなく死人に近い負け犬の息が重なる。
向こうに優越の気配があるにも関わらず、承太郎はなぜか、それを慰撫と感じていた。
DIOの言う通りだ。人のぬくもりはとても貴重だ。承太郎のそれは、決して奪われることはない。DIOがそう言ったのだから、それはきっと正しいのだ。
今は半裸で、床にひざまずいている。
喉の奥に、無理矢理突き入れるのが好きな男は、今日はいない。代わりに、この承太郎は初めての男は、誰かに楽しんで舐めてもらうのが好きらしい。
両手は縛られているから何も出来ず、こめかみには銃口がぴったりと当てられている。残りの男たちは周りを囲んで、にやにやと下卑た笑みを張りつかせている。
承太郎は、言われた通りに口を開き、顔を動かし、男が時々あごや頬に手を添えるのに逆らわず、黙って喉の奥を明け渡していた。
逆らって殺されることなど恐ろしくはない。そんな脅しは、承太郎には不要だ。承太郎の従順さは、恐怖によるものではない。
承太郎にとって、これは罰だ。
ここへ閉じ込められたこと、誰にも会えないこと、勝手に死なないように常に見張られていること、薬で夢の世界──そんなものが、あるのだとして──へ飛ぶことはできず、こうやって踏みにじられて、死なない程度の苦痛を味わうこと、そして、花京院を失ったこと。
舌を動かすたびに、口の中から、男の体臭が鼻の奥へ流れ込んで来る。吐き気を催すけれど、無表情に耐えようとする。
花京院は死んだ。承太郎は生きている。
だから、これは罰だ。花京院を失って生き続けるという、承太郎への罰だ。
花京院もされたことだ。踏みにじられ、痛めつけられ、すべてを奪われた先でなお奪われ続けて、それでも花京院は、自ら死ぬという道を選ばなかった。選べなかった。その選択すら、花京院からは奪われていた。世の中のすべてが、寄ってたかって花京院を押し潰して、苦しめて、承太郎に苦痛と一緒に生かすという罰を与えるために、最後にはあっさりと殺された。
くそったれめ。
男のそれを口いっぱいに舐め上げながら、承太郎は胸の底で吐き捨てた。
花京院も同じことをされ、させられたのだ。だから、承太郎がこんな目に遭うのは、至極当然のことだ。
自分も今、花京院と同じ目に遭っている。すべてを奪われて、苦痛を与えられるだけの時間を過ごして、この拷問に耐えるという気概もないまま、ただ耐え続けている。
耐える果てに、花京院が待っているのだと、そう思うことをやめられない。
抱き合った記憶、体温を分け合った記憶、あそこに確かに在った、人のぬくもり。花京院のぬくもり。承太郎から奪われてしまった、花京院の、ひとのぬくもり。
承太郎のそれは、決して奪われることはない。DIOの言ったことは正しかった。いっそ奪ってくれと、どれだけ叫ぼうと、承太郎の声は無視され、鼻先で笑い飛ばされるだけだ。
ひとり分のぬくもりはひとり分でしかなく、それをふたりで分け合っても、充分にあたたかくはならない。
あの頃、いつも死に掛けて冷たかった承太郎の体を、花京院があたためてくれた。花京院が、自分の傍にいてくれるだけで、承太郎には充分だった。
大きく開いた唇の端が、笑みの形に上がりかける。抱いた花京院の、肩の形や肌の感触を思い出す。自然に、頬の線がほころびそうになる。
今はきちんとひとり分あたたかい承太郎は、けれどぬくもりを分け合える誰もいない。
このまま生きることを強いられた、これが承太郎への罰だ。
花京院がいるのは天国だろうか。自分が行くのは地獄だ。耐えた果てにも、多分花京院はいない。承太郎はそれを知っている。知っていても、どこか遠い先、いつたどり着けるとも知れないそこに、花京院が自分を待っていてくれていると、思うことをやめられない。
ひとり生まれて、ひとりではなく生きて、ひとり生き延びて、そして死ぬ時も死んだ後もひとりだ。
おまえもひとりか。こちらに淋しげな横顔だけを見せる花京院の幻に向かって、承太郎はまた訊いた。
男が遠ざかり、口の中が空になる。舌を伸ばしたままの承太郎の、誰がやっても同じように見える白痴めいた表情に、男たちが軽く声を立てて笑った。
どうしてか、その声に合わせてあふれて来た笑いを止められず、自分たちをばかにしているのだと思ったらしいひとりが、拳を振り上げながら承太郎に1歩近づいて来た。
ひざまずいた姿勢のまま、その拳が自分の頬にめり込むのを、承太郎は黙って受け止めようとする。
祈りのためのようなその体勢に、けれど組み合わせるための手は背中で縛られたままだ。
自分を殴る男の顔に、DIOの色鮮やかな唇が重なった。その唇の緋さを嗤うために、承太郎は胸を張ったまま、精一杯倣岸に、汚れた唇の端を吊り上げた。