My Empty Room 承太郎は空っぽだった。 頭も体も空っぽのそこへ、いっぱいに詰まっていた白い粉の混じった汚水を吐き出させるために、今は鎮静剤が大量に注ぎ込まれている。それが、今の承太郎 の薬だ。 ヘロインも鎮静剤も、大した違いはない。体の中に入り、脳を侵してしまえば、どちらも同じようなものだ。 全身の筋肉は弛緩し、床を蹴るために爪先を動かすことさえ億劫だった。 半開きのままの唇から、唾液が垂れ、横たわっている床を汚す。それを拭うことはできない。承太郎は、拘束衣で、完全に動けなくされている。 暴れて困るからと、数人がかりでそれを着せられた。まるで自分を抱きしめるように、胸の前で交差させた腕は、指先まで長い袖にくるまれて、その先は背中 の近くで留められている。それは、今の承太郎にはひどく皮肉な姿勢だった。 誰も承太郎を抱きしめてくれない。抱きしめたい誰かはいない。身動きもできずに、承太郎は、ひとりきりの自分の体を抱きしめる形に、縛められている。 誰か。誰だったろう。ずっと抱きしめていたかった誰か。 だらしなく開いてしまった脳の襞をかきわけるように、承太郎は必死で思い出そうとする。ぼやけた輪郭を、手元にたぐり寄せ、それが目の前ではっきりとす るまで、宙に目を凝らし続ける。 花京院。そうだ、花京院だ。 まだ思い出せる。大丈夫だ。まだ、花京院のことをちゃんと憶えている。 承太郎の、ゆるんだ口元に、笑みらしきものが浮かぶ。 抱きしめたくて、もがいたけれど、それ以上体は動かない。 承太郎は、狂っているのだそうだ。だからここに運ばれ、閉じ込められ、薬漬けにされている。今までと何が違うのだろうと、ろくに動かない脳の片隅で考え る。 6人---警察の調書には、7人と記されている---の人間を殺した承太郎は、冷血な殺人鬼ではなく、ただの狂人なのだそうだ。ヘロインのせいで頭が壊 れ、そのせいで犯してしまった殺人だから、死刑にはならないのだそうだ。憐れな、この社会の被害者である承太郎を殺すことを、政府は拒否するだろうと、あ の、爽やかに笑う弁護士が、清々しく熱弁を振るう。その声が、承太郎にも聞こえる。 殺してやりたいと、呂律の回らない舌がつぶやく。あの弁護士を、殺してやりたい。すっかり身に馴染んでしまった殺意が、ゆるりと身をもたげる。 誰も、承太郎を殺さない。死ぬことを許してはくれない。先に逝ってしまった花京院の後を追うことが、承太郎にはできない。花京院はひとりで逝き、承太郎 はここに残される。花京院を、長い長い間待たせることになる、それを、承太郎は憂鬱に思う。 壊れかけた承太郎は、もう絶望すら感じることができない。 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。どこで道を間違えたのだろう。曲がり角はあっただろうか。標識を見落としたのか。ただの1本道だった。延々 と先へ続く、果てもない、行き止まりですらない、そんな道だった。破滅へ向かっているのだと、なぜ気づけなかったのだろう。その道を、花京院の手を取っ て、承太郎は進んでしまった。 ここは、承太郎がたどり着いたどん底だ。ここより下はなく、ここから這い上がる術もない。 承太郎は、ここにひとりぼっちだ。 花京院。忘れないように、思い出す。顔。声。ぬくもり。湿り。呼吸。腕。足。皮膚。何もかもだ。抱きしめて、抱き寄せて、ひとつになってしまいたいと、 渇望した、花京院だ。涙に濡れた頬、絶望をたたえた瞳、深く胸に突き刺さるようなため息、そして、ありがとうと言って見せた、あの微笑み。 幸せだと感じた瞬間は、確かにあった。幸せになれると、信じた瞬間もあった。あの手を取って逃げ出した夜に、夜明けが来れば、ふたりで明るい太陽を振り 仰いで、一緒に歩いてゆくことができるのだと、信じていた。 その先にあるのが破滅だと知っていて、どうして花京院を連れて行けたろう。そんなつもりはなかった。こんなはずではなかった。 光も差さない闇の中を、承太郎と一緒に走り出した花京院は、承太郎のことを、好きだと言った。だから、一緒に行くのだと、そう言った。その言葉を受け 取って、承太郎は、自分も花京院を好きだと、そう伝えたろうか。愛していると、言ったことがあったろうか。思い出せない。 あれが愛だったのだとそう思うことが、今はひどく辛い。あれを愛だったのだと認めてしまえば、愛を失ったという痛みに、承太郎は耐えられない。苦痛はも うたくさんだ。 愛ではなかった。ただ、花京院が欲しかっただけだ。空ろな自分の内側に、花京院を取り込んで、自分の手足と胸で花京院の体をくるみ込み、誰にも触れさせ ず、誰の目にも見せず、自分だけのものにしたかった。花京院を、自分そのものにしてしまいたかった。そんな風に、承太郎は花京院を欲しがっていただけだ。 あの手を、取るべきではなかった。出逢うべきですらなかった。始まるべきではなかった。承太郎は、どこかでひとり野垂れ死にし、花京院はただ神に祈りを 捧げて、そんな風に重なるべきではなかった、ふたりの運命だった。 すべては、起こってしまい、もう承太郎になす術はない。 たどり着いたここで、承太郎は、ひとり悪夢に満たされている。殺した人間たちのイメージが、薬にゆるんだ承太郎の脳を襲い続けている。血に濡れた体、逃 れようと伸びる指先、恨みのこもった瞳、叫びの形に止まった唇、積み重なる死体。けれどそのどれも、承太郎を痛めつけはしない。殺人のイメージは、承太郎 を息苦しくさせるけれど、それに恐怖はなかった。 承太郎の恐怖は、空っぽの内側に注ぎ込まれる薬と一緒になだれ込んで来るその血塗られたイメージが、自分の中を覆い尽し、他の何もかもを、そこに取り込 んで、消し去ってしまうことだ。 人殺しの情景に、花京院の面影が、恐ろしいスピードで蝕まれてゆく。積まれた死体の中に、花京院を見つけるわけには行かない。承太郎は、花京院を殺さな かったのだから。 だから承太郎は、必死で、生きている花京院を思い出そうとする。動き、喋り、息をしていた花京院だけを、憶えていようとする。重なった胸から伝わった鼓 動を、憶えているだろうかと自分に問い掛けて、憶えていると、今は聞こえるはずもないその音に、承太郎はじっと耳を澄ます。 灰色の天井を床から見上げて、承太郎は瞬きをしない。必死で見開いた目をそのまま、まぶたの裏の闇が、悪夢へ繋がってしまうからだ。 花京院のことだけを考える。そうすれば、殺人のイメージは遠のき、悪夢は薄らぐ。承太郎の脳内を埋め尽くそうとする死体の、その隙間に、花京院の微笑み が見える。生きている花京院が、承太郎に何か話しかけようと、唇を動かしている。 そうして、目を開き続けていることはできずに、痛みをやわらげるために、一度長く目を閉じた。 承太郎の世界を包んだ小さなその闇の中に、ひと色薄い影が浮かぶ。ゆるりと切り取られたような影の輪郭は、承太郎に近づくにつれ、はっきりと人の形を取 る。白い貌(かお)がそこに浮かび、承太郎に向かって微笑んだ。 承太郎。そこに立つ人影は、黒いローブに全身を覆われた花京院だった。 するりと、何のためらいもなくローブの前を開き、肩から滑り落とす。あわらになった体の前面には、あのしるしが見えた。そして、それを繋ぐ細い鎖、そし て、首から下がる木製の十字架。 承太郎。ひどく嬉しそうに、花京院が呼ぶ。 脱ぎ捨てたローブを素足で踏んで、承太郎の上に覆いかぶさって来る。その躯は、吊り上げられた鎖のせいではなく、すでにきちんと昂ぶっている。 突然自分の前に現れた花京院を愛しいと思うより先に、承太郎は、みだらがましい花京院の表情に驚いて、思わず肩を引こうとした。けれど、動けない体を花 京院に押さえ込まれ、自分の上に体を倒して来た花京院から、垂れ下がって来た鎖や十字架が、承太郎の拘束衣に当たって、ひどく場違いな、優しい音を立て る。それを、花京院が笑う。 承太郎をまたぎ、勃ち上がったそれの先端に着いた輪を、わざと拘束衣の金具に当てる。子どもの無邪気な遊びのように、カチカチと金属同士の触れ合う音 が、けれど承太郎には不気味にしか聞こえない。 しばらくの間、花京院は、承太郎の上でただ躯を上下に揺すっていた。 濡れた唇を舐めながら、腿や腹に触れていた自分の手を、そのまま胸へ運ぶ。そこにある銀の輪に指先を通し、体を吊り上げるように、引っ張る。ぎちぎちと 音がしそうに、皮膚が破れて裂けるのではと思うほど、花京院は自分の躯を痛めつけて、けれど喘ぐ声を漏らしている。 頬が赤い。首筋も赤い。下からそれを見上げる承太郎に、花京院が触れる。一体どうやったのか、拘束衣に阻まれることもなく、花京院が承太郎の前をくつろ げ、片手でそれを取り出す。そうして、自分の躯にそれをすりつけるような動きをした後で、内側に、導く動きを始めた。 何の前触れもなく、けれど花京院の体はきちんと開いていた。拡げられ、くつろいで、わずかな抵抗だけで、承太郎を飲み込んでゆく。承太郎のすべてを収め るのには、さすがにためらうような表情を浮かべて、それでも何もかも全部、数瞬後には、花京院の内側に在った。 脳の溶けるような花京院の熱に襲われて、承太郎は思わずうめく。 躯がきちんと沿うまではじっと動かず、花京院はただ、苦痛---ではない---に耐えるように眉を寄せる承太郎を、黙って見下ろしている。 大きく膝を開いて躯を支え、承太郎と繋がって、花京院が動き出す。 ぬるつく内側の粘膜で、承太郎の熱を咥え込んで、まるでそこから喉まで、一直線に承太郎に満たされているとでも言うように、胸と喉を反らし、開いた唇か ら放つ声が、天井を叩く。 喘ぐ声が、小さな部屋の壁に響いた。 躯が揺れる。承太郎を、昂めて、追いつめて、果てへ誘うように、動き続ける。その中で、承太郎のそれは、硬さを大きさを増し、それを花京院は、もっと もっと奥へ誘い込もうとする。限界などないように、際限なく承太郎へ添って来る、花京院の躯だった。 赤く血の上がった胸に、十字架が大きく揺れる。鎖が、しゃらしゃらと穏やかな音を立てる。 そこ以外には承太郎に触れることはせず、自分に触れながら、またしるしの輪を引っ張る仕草を始める。細い鎖を、引きちぎりそうに上へ引き上げ、そうする たびに、喘ぐ声が高くなる。 承太郎を、熱い粘膜でこすり上げ、時折締めつける動きを差し入れて、飽きさせずに、けれど果てることはさせない。寸前まで承太郎を引き込みながら、焦ら すように熱を引く。 そこだけで触れ、繋がっているふたりだった。 淫蕩な表情が、花京院の貌(かお)の上に張りついている。まるでそれは、花京院とは別の、借り物の皮膚のように、承太郎の目には映った。 上向いたまま、誰へ向かってと言うこともない、まるで熱に浮かされた口調で、花京院が何か言う。これが欲しかった。喘ぎに途切れた言葉は、けれど繋げれ ばそう聞こえ、思わず床から頭を浮かせた承太郎の耳に、また、声が届いた。これが欲しかったんだ承太郎。コレが欲しかったんだ。 間違いなく、そのことに没頭している花京院が、喘ぎの合間に、熱で目を潤ませ、それ以上に躯を潤ませて、承太郎を貪っている。貪れるそれ以上を、素直な 淫らさで、もっと欲しがっている。 花京院に融かされた躯の熱さとは裏腹に、承太郎は、冷え切った眼で、花京院を見上げていた。 こうやって欲しがることを、躾けられてしまった、これが花京院だ。欲しがることをもっと欲しがるように、ただ飾りだけの羞恥は忘れずに、悦ばせることを 悦ぶように、そんな風にされてしまった、これが花京院だ。安っぽいポルノ映画のように、わかりやすい喘ぎ声と表情で欲情を演じて、それで誰かを悦ばせ、自 分もそれを悦んでいるのだと、信じ込まされてしまった、これが花京院だ。 花京院を踏みにじって来た男たちの姿を、自分の上で喘ぎながら躯を揺すり続けている花京院の後ろに、承太郎は見る。 彼らの道具になるために、叩き潰され、ねじ曲げられ、そうやって固められてしまった花京院を、承太郎は、初めて憐れだと思った。 道具だと叩き込まれ、道具であることを受け入れ、道具としてしか生きられなかった花京院を、承太郎は、泣きたいほど悲しいと思った。 意思などなく、ただ、出し入れされるその刺激に喘ぐだけの、顔のない道具だ。自分を犯すそれを、こすり上げるための、肉でできた道具だ。この道具には、 体温があり、幸いに、自分で動くことができる。けれど意思はない。そんなものは必要ない。与えられる刺激に、ただ延々と喘いでいればいい。その姿で、犯す 誰かをさらに欲情させるために、欲情を演じているモノだ。 道具でしかない花京院は、道具としての快楽に溺れて、そのために、今承太郎を使っている。承太郎は、道具である花京院の、玩具だ。玩具に期待することな ど、ただその使い心地だけしかない。ぬくもりもふれあいもいらない。だた、躯の内側と粘膜をこすり合わせて、一緒に熱を味わえればそれでいい。 だからだ。承太郎は思った。 だから、花京院は、殺せと言ったのだ。承太郎に、自分を殺せと言ったのだ。 道具である自分が、承太郎の前に現れてしまう前に、ひとである間に殺してくれと、そう言ったのだ。 捨てられるか、無茶な扱いに壊れる、それが道具の末路だ。道具は、殺されたりはしない。道具はただ、もういらないと、ゴミにされるだけだ。 そうなる前に、承太郎の手で殺されたいと、花京院はそう言っていたのだ。ゴミではなく、ひととして死ぬために、花京院は、承太郎の手を必要としていた。 そしてそれを、承太郎は与えなかった。承太郎は、花京院を殺すことができなかった。花京院は、道具のまま壊されて、ゴミのように捨てられたのだ。 承太郎は、全身が痙攣するほどの痛みに襲われた。 花京院を、ほんのひと筋も救えなかった自分を、心の底から憎んだ。憎しみで死ねるなら、今すぐ承太郎は死ねたろう。 動けない体でもがきながら、承太郎は吠えた。胸を大きく反らし、喉を一杯に開いて、吠えた。 そうして、そんな承太郎に、まるで慰撫するような手を伸ばして来た花京院の胸が、まるで柘榴のように突然弾ける。赤い肉と血と骨が飛び散り、拘束衣と承 太郎の顔を濡らした。 花京院の後ろに、人影らしい大きな黒いものが、ゆらりと動いて、どこかへ去ってゆく。それを見たけれど、承太郎にはどうすることもできなかった。 微笑みを浮かべ---承太郎の知っている、花京院の微笑みだ---て、承太郎とまだ躯を繋げたまま、花京院が、ゆっくりと承太郎の上に倒れ込んで来る。 血が、承太郎の上に広がる。花京院は動かず、次第に重みを増して、だらりと伸びた腕は、偶然承太郎の頭を抱き込むような形になっていた。 花京院。承太郎は叫んだ。抱きしめることのできないその、命の失せた体を自分の上に乗せたまま、承太郎は叫び続けた。叫びながら泣いた。泣いて泣いて泣 き続けて、それでも涙は、永遠に枯れないように思えた。 |