I Remeber Now 承太郎は、半ば目覚めていたけれど、はっきりとしない意識のまま、狭いベッドの固さを、また背中に確かめていた。 清潔に見えるけれど、とことんよそよそしい部屋の中で、承太郎はひとりきり、ぼんやりと白い天井を見つめている。 濃い深緑の瞳に、その色に似合う生気はなく、どこか薄く膜のかかったような焦点の合わなさで、ゆっくりと瞬きを繰り返すうちに、乾いてひび割れた唇が、 何かの言葉を形作る。 明かりがついているということは、今は夜に違いない。首を回し、ベッドの周りのわずかに見えるベージュ色の床に、けれど靴らしいものは見当たらない。 体が重い。腕さえ持ち上げられない。このベッドに横たわるのは、今ではただの肉の塊まりと化した、空条承太郎と呼ばれたこともあった、人だったものの残 骸に過ぎない。 承太郎は、乾いてひりひりする唇を、ほとんど唾液のない舌先で湿そうと、無駄に口を動かした。 唇がまた、何かの音を形作ろうとする。何かが、承太郎を、かすかに揺すぶっている。何かが、喉元まで、じわりじわりとせぐり上がって来ていた。 自分の体の中に起こっている音に耳をすませようとした時に、ぱたりぱたりと足音が近づいて来て、そうして、承太郎の部屋の前で止まる。 「どうしたの? もう消灯時間を10分も過ぎてるのよ。まだ起きてるの?」 言いながら近づいて来る看護婦は、承太郎よりはふた回りは年上だろう、骨の細い女だった。 「眠れないの?」 ベッドの上に体をやや折り曲げるようにして、看護婦が顔を近づけて来る。 彼女の瞳は、黒々と暗い色をしている。その目を見つめ返したつもりだったけれど、承太郎の瞳はぼんやりとし過ぎていて、彼女にその動きは見えなかったら しい。 承太郎の目の前で、看護婦が手を振る。ここにいると、合図をしているような振り方だ。承太郎は、体の重さに耐え切れずに、それに反応しなかった。 ぼんやりと開いた目だけが、見えているとも思えないまま、彼女の姿を映している。 「もう1本、打った方が良さそうね。」 つぶやいて、彼女が一度部屋を出て行く。 開いたままの部屋のドアから、看護婦の詰め所---すぐそこにあるようだけれど、この部屋から出たのことのない承太郎は、正確な位置を知らない---で 誰かが聞いているのか、ラジオらしい声が聞こえてくる。どうやら、ニュースのようだ。 数人の政治家や宗教グループのリーダーなどが殺された事件は、市全体に大きな衝撃を与えており、突然始まったこの事件は、先日、容疑者が緊急逮捕さ れ・・・これは、当初考えられていたようなテロリストグループの仕業ではなく・・・容疑者の個人的怨恨などが理由の犯行という警察の見解で・・・容疑者は 現在病院に収容され、厳重な警備の元・・・容疑者の身元は明らかにされておらず、これからの捜査に・・・では次はスポーツとお天気のニュースです。 懐かしい、耳障りな声だ。 現実の世界に起こっている、禍々しい出来事を、平坦な声に乗せて、電波に流す。色も匂いも抜き取られた現実の事件は、そうやって、ただ字が並んだだけ の、事実という事象に変化させられる。 あれは現実ではない。承太郎自身が、今ここで、大量のトランキライザーで、みなの安全のために麻痺させられている承太郎こそが、醜い現実の、そのひとつ だ。 看護婦が戻って来る。ラジオの声はドアの向こうに消え、彼女の足音も気配も、ラジオから流れる音そっくりに現実味が欠けていると、承太郎はぼんやりと霞 んだままの頭の隅で考える。 「ゆっくりお休みなさい。」 腕を取り、皮膚を軽くこする指先。いつだって女の指先は、凍るように冷たい。今では粟立つこともない、反応することを忘れた弛緩しきった皮膚に、ちくり と鋭い痛みが走り、そうして、体の中に、なまあたたかい液が注入されるのを、承太郎ははっきりと感じている。 その、おそらく人間の体温に合わせているのだろうあたたかさに、ふと思い出すものがあって、承太郎は、うつむいている看護婦には見えないまま、またゆっ くりと瞬きをした。 かきょういん。 唇が動いて、ほんのわずかに、声が漏れた。 注射を終えた看護婦は、もう一度承太郎の顔を覗き込み、それからベッドの頭上の明かりを消して、そうして、部屋は真っ暗になった。 足音は遠ざかり、承太郎はまた、真っ暗な部屋の中にひとり取り残される。 じきに、承太郎の意思に反した、強制的な眠りがやって来る。その眠りは、血にまみれた悪夢に満たされて、目を覚ましたところで、承太郎にとっては現実す らも悪夢だったから、寝ていようと起きていようと、大した違いはないと言うのに、それでもこの、薬が次第に効いてくる瞬間が、承太郎は身震いするほど嫌い だった。 必死で、眠気に逆らうように、唇を動かす。 花京院。 今度は、もう少ししっかりした声が出た。 闇に吸い込まれたその声に応える誰もなく、承太郎はまた、ゆるゆると瞬きを繰り返す。どんどん重くなるまぶたを、死に物狂いで持ち上げて、また、呼ん だ。 鉛のような体は、もう頭から切り離され、手足も何もかも、ただそこに在るというだけだ。重い。ベッドに溶け出してゆく感覚が、心地良くなって行くのを、 そのまま受け入れてしまいたい。 あえぐように喉を反らして、息をした。 ぱちんと、濃い霧のかかる頭の中で、小さく弾けた音を、確かに聞いた。 思い出した。憶えている。一体どうやって始まったことだったか。昨日のことは思い出せない。ただ、あの連中に言われたことを、言われた通りにやったこと だけは、憶えている。あの連中が、おれに言ったんだ。やれと、そうすれば、物事はするりときれいに片付くからと、そう言ったんだ。思い出した。憶えてい る。憶えている。今なら思い出せる。憶えている。 唇は、いつの間にか動かなくなっていた。 |