Revolution Calling



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 その日、一体何があったのか、いつもの場所で、承太郎の目当ての売人が見つからなかった。
 そのためにうろついている人間の数---顔見知りになどなりたくはないけれど、いつの間にか覚えてしまうものだ---も、普段よりは少ない気がして、承 太郎はゆるく首を動かして、不審ではない程度に、何度も辺りを見回した。
 たまたまここを通り掛っただけだと、そんな振りを繰り返して、何度も角を曲がって行ったり来たりしていたけれど、そろそろ体の痛みがひどくなり始めて、 歩き続けることすら困難になり始めていた。
 恐らく、誰かが警察の囮に引っ掛かったのだろう。誰かは分からないし、知りたくもなかった。
 数日もすれば、何事もなかったように、同じ連中がまた顔を揃える。けれどそれまで、どこか別の場所で薬を調達しなければならない。どこへと、肩を回そう とした時に、背中の辺りに痛みが走った。ずるりと滑った足元を、慌てて傍の壁で支えて、その支えた腕にも激痛が走る。承太郎は顔を歪めて、こみ上げてくる 吐き気に耐えた。
 移動するなら早くした方がいい。じき、起き上がることさえできなくなる。
 けれどどこへと、また考えた。
 やれやれだぜ。事の深刻さとは裏腹に、軽い声で、思わずつぶやいていた。
 「どうした、気分でも悪いのか。」
 滑るような足音とともに、白い影が傍に立つ。大きな影だ。それを見上げるために回す首に、また痛みが走る。
 あのデモの傍で見た黒い車の中にいた、唇の赤い男だ。首を曲げずに、瞳だけを動かして、承太郎を見下ろしている。いかにも金の掛かっている服装と、けれ ど人に決してつけ込まれるような隙は与えない、凍るような気配と、一目でろくでもない輩だとわかる、その類いの人間だ。
 そして、承太郎は、そのろくでもない連中よりも、さらに低いところにいる人間だった。
 なぜ、おれなんかに声を掛ける。
 「どうやら、どこかで少し休んだ方がよさそうだ。ひどい顔色をしている。」
 拒む目つきを変えない承太郎になど構わないように、男が言う。優しくて穏やかな声だ。心が弱っている時に聞けば、思わず手を差し伸べてしまいそうな、そ んな声だ。嵐の夜にすがりつける、巨大な樹を見つけたような、そんな気分にさせてくれる声だ。
 薬を打った時の気分と、少し似ていると、ふっと承太郎は思う。
 「どこで?」
 思わず、応えていた。
 「君さえ良ければ、私のところへ来るといい。」
 男は微笑んで、数センチ承太郎へ向かって、顔の映るほど磨かれた革靴の爪先を、そっと滑らせてくる。
 足音のしない男だと、彼が指先で示す方にある、あの黒い車へ視線を流しながら、承太郎は思った。


 男の足取りと同じように、滑るように走り出した車の中で、承太郎は何も尋かず、何も言わず、だた黙って目を閉じていた。
 大した距離も走らないうちに車は止まり、先に下りた運転手---髪の長い、無愛想な顔をした、体の大きな男だった---が男のために車のドアを開け、そ の後で承太郎のためにもドアを開けてくれる。
 ひっそりと背の低いビルの並ぶ、いわゆる小さな工場や廃業してしまった運送会社などが固まる、あまり人気のない辺りだ。働く人間が、昼間やって来て夜に は家に帰る、あるいはその逆で、住んでいる人間など、ほとんどいない淋しいところだ。
 そんなビルのひとつ、裏口に当たるのだろう薄暗い路地に面したドアを、運転手が開けて、ふたりを促す。
 先に立って歩く男の後を着いてゆき、運転手はドアのところへ残ったまま、承太郎はひとり、薄暗いそのビルの中へ、男とともに入ってゆく。
 錆びた手すりの階段と、あちこち色の剥げたドアと、朽ちかけたこんなところにはまったくそぐわない、すらりと伸びた男の背中だった。
 細い廊下のほとんど突き当たりで、男はやっと足を止めて、そこにあったドアを開いて、承太郎に笑顔を向ける。ドアの中へ、承太郎を先に入らせて、それか ら、ひどく重々しい音を立てて、そのドアが閉まった。
 「君の、名前は?」
 部屋の中は不躾けなほど明るく、狭かったけれど、中央にどっしりとした机があり、背の高い椅子に男が腰を下ろし、机を挟む形で置かれた小さなソファに、 承太郎が坐った。
 承太郎は、名前を訊かれて、けれど答えずに、体中を突き刺す痛みに耐えながら、ソファに背を持たせかけて、わざと足を開いて、男に向かって胸を開いた姿 勢になる。
 机の上に肘をつき、あごの辺りで両手を組んで、男は別に気にした風もなく、また優しく微笑む。
 「君をまた見かけてね、どうしてか、気になった。」
 ほんとうに、心の底から承太郎のことを気に掛けているのだと、そううっかり信じてしまいそうな、声と微笑み方だった。
 体のだるさに耐え切れずに、男の言葉にうまく集中することのできない承太郎は、その甘い声を心地良く自分の中へしみ通らせて、男の真意をかぎ取ろうとす る努力を、すでに放棄したくなっている。誰がどう自分に話し掛けようが、知ったことではない。今大事なのは、とっととここから出て行って、どこかで薬を手 に入れることだ。でなければ今夜のいつか、全身をばらばらにされるような痛みに襲われて、誰かに自分を殺してくれと、泣きながら懇願する羽目になる。
 そう思いながら、明らかに薬物中毒とわかるだろう承太郎を、こんなところに午後のお茶でもと誘ったはずもない男の、曰くありげな様子も気になる。
 薬を手に入れるためなら、もう大抵のことは厭わない。
 人を殺す以外は。まだ。
 痛む頭の中で、承太郎は考えた。
 「君は、東洋系かな。中国人か、日本人か。」
 混血であることを訊かれるのは、あまり好きではない。承太郎はそれを隠さずに、唇を不機嫌に結んで見せて、
 「それがどうした。」
と、ここへ来て初めて、男に声を返した。
 「日本人か? 中国人は、あまり外の人間とは関わらない。」
 「だから何だ。」
 個人的なことを、初対面であれこれ聞きたがるのは、あまり趣味が良いとは言えない。男の、妙に品のよい微笑にごまかされそうになるけれど、元々傲慢な性 格なのか、それとも育ちが悪いという奴か。体の痛みとは別のところで、男の様子に、皮膚の下がちりちりと緊張して行くのがわかる。
 目の前に、落とし穴がぽっかりと口を開けている。どれほど深いのか、ここからではわからない。けれどそこへ飛び込んでしまえば、楽になれるのだと、そん な誘惑を感じて、立ち去ることができない。
 痛みと緊張に苛まれながら、承太郎は、ふと安らぎさえ感じ始めていた。そのことに、驚くような余裕は、今はない。
 自分がいつも寝ているベッドよりも、はるかに坐り心地の良いソファに、薬が必要であること以外は何もかも、すべて忘れてしまいそうになる。
 私には、と男が言った。
 「幸いに、金も力もある。だからたまに、それを、きちんと、持っていない人たちのために使いたくなる。それだけだよ。」
 うそだと、即座に思った。たとえそれがほんとうだとしても、人を信用することをとっくにやめてしまっている承太郎には、関係のない話だ。
 体が震え始めていた。かかとがぱたぱたと、薄汚れたカーペットの床を、小刻みに蹴り始める。それを止めようと、両膝を両手で押さえてから、その両手を、 ズボンのポケットに突っ込んだ。幸いに、その仕草は、男に対する不遜な態度と同じに見えて、そのためにそうしたのだとごまかすために、承太郎は精一杯強が りの笑みを、ふっくらと厚い---けれど乾いてひび割れている---唇をねじ曲げて見せた。
 男は、ちょっと呆気に取られたように、一瞬だけ微笑を消して、組んでいた手をほどく。
 その手が優雅に動いて、机のどれかの引き出しを開けた。
 銃でも出す気かと、身構えた承太郎の傍へ、男はそのままゆっくりと立ち上がってやって来る。思わず肩を引いた承太郎のその隣りへ、ほとんど空気も揺らさ ずに、男は静かに腰を下ろした。
 「君を助けたい、ただそれだけだ。」
 間近でよく見れば、坐った時の膝の位置や肩の並びが、承太郎とほとんどそっくりだ。体の厚みは、どうやら年上らしいこの男---まともなものを食べ、ま ともに寝ているのだろう---の方が上か。背の高さで得などしたことのない承太郎は、もしかすると、ほんとうに下らない承太郎に対する共感のようなもの が、この男が今示している好意の理由なのかもと、ふっと心のどこかが緩むのを感じた。
 空手に見えた男の手が、承太郎の方へ、わずかに動く。
 そうして、承太郎の、今はすっかり骨張ってしまっている膝の上に、ぱさりと、折りたたんだ紙幣とともに小さなビニールの袋を置いた。
 「やめようと思ってやめられるものじゃない。そうだろう?」
 男の大きな、よく手入れのされた手が、承太郎の膝を軽く叩く。
 磨かれた爪の光るその手よりも、小さなビニール袋に入った白い粉の方へ視線をとらわれて、承太郎は驚きに目を見開いたまま、もう身じろぎもしない。
 それが何かわからないというのに、一刻も早く自分の体の中に入れたくて仕方がない。
 自分に触れたままの男が、何が見返りを求めているのは明らかだった。けれど今の承太郎が彼に与えられるものなど、何も思いつかず、今すぐそれに手を伸ば したい誘惑にかられながら、承太郎は必死でポケットの中の両手を握りしめた。
 男が、また笑う。ひどく魅力的な微笑みだった。さっきよりも、さらに。
 もしかすると、そういうことなのかと、承太郎は自分の薄汚れた、みすぼらしい姿を思い出して、もし男が自分に触れようとしたらどうしようかと、広い肩を わずかに縮める。
 「私には、君の苦しみがわかる。」
 ささやくように、つぶやくように、どこか苦しげにさえ聞こえる声で、男が静かに言った。
 そのまま、承太郎へ向いていた膝を、今度は机の方に向けて、顔だけは承太郎へ向けたまま、もう一度、にっこりと笑う。笑み崩れた表情に、さっき承太郎が 感じた傲慢さはかけらもなかった。
 立ち上がり、広い背中が、机の方へ戻る。
 男が、それ以上は自分の方へ近づいて来なかったことにひそかに安堵して、承太郎は肩から力を抜いた。
 椅子には坐らずに立ったままで、男は承太郎をそこから見下ろした。
 「明日、また君に会おう。同じ場所に、同じ時間で。」
 それは、提案のように聞こえて、実は命令なのだと、もう白い粉にすっかり心を奪われている承太郎は、気づかなかった。
 膝の上に置かれたそれを取り上げ、上着の内側のポケットに入れる。礼の言葉など口にもしないまま、それでも足早に去るという無礼は避けて、承太郎はなる べくそっとソファから立ち上がり、男に向かって軽く肩をすくめる仕草---礼と、承諾の意味だ---を見せてから、ドアに向かって体を回した。
 一刻も早く自分の住むところへ戻って、ひとりきりになって、この白い粉を味わいたかった。
 ドアを開けて、もう1歩外へ出たところで、男がまた声を掛けてきた。
 「私はDIOという。君の名前は何だ。」
 穏やかな声の中に、有無を言わせない響きがあった。あの傲慢さが、またその声に満ちていた。
 ドアから、顔半分だけ振り返り、承太郎は、数拍黙り込んだ。
 絡まった視線を、うまくほどくことができずに、男にとらわれたそのまま、震える声を隠しながら、男に告げた。
 「・・・空条、承太郎だ。」
 そうかと、うなずいた男の、笑った唇の端から、細い牙が見えたような気がして、けれどもう、それを恐ろしいとも思わないまま、承太郎はドアを閉めて、ま た薄暗い廊下を歩き出した。