Suite Sister
Mary B 花京院の父親は、珍しい工芸品や美術品を、個人で輸入する仕事をしていた。数は多くなかったけれど、趣味のことなら金に糸目 はつけない堅実な顧客をきちんとつかんでいて、彼らのために、世界中のあちこちを飛び回るのが常だった。 来年になれば、高校受験が始まってゆっくりはできなくなるから、その冬休みを家族一緒に過ごそうという父親の提案で、その時父親が仕事で出掛けていたメ キシコまで、母親と一緒に行くことになった。 学校では国名と地名くらいしか習わないその土地が物珍しく、冬だというのに暖かな気候も気に入って、何より、家族が揃って顔を合わせる機会などあまりな かったから、母親はひどくうれしそうに父親に甘える仕草を見せることもあったし、花京院は、見知らぬ土地で、不自由でもそこの言葉を使って自分たちを気 遣ってくれる父親の姿に、素直に感動していた。 滞在したホテルは、よくある大きなビルのような建物ではなくて、ひたすら広い敷地に、個別に家が立っているという形式だった。寝室が2つ、居間があり、 こちら風のキッチンもついていたから、市場に出掛けて、なるべく見慣れたものを手に入れて来て、母親が一生懸命料理をした夜もあった。 父親が、たまに昼食に参加できないことはあったけれど、日本では滅多とない、家族3人が一緒にばかりいる時間だった。 大学に行ったら、スペイン語を習いたいな。まだ高校受験が先だと言うのにと、父親は、笑いながら花京院の頭を撫でた。まだ身長は追いついてはいなかった けれど、近頃急に大人びた息子に、彼はうっすらと目を細める。 ついでに中国語とドイツ語もやって、卒業したら父さんの仕事を手伝うか? 花京院は顔を輝かせて、父親を見上げて、いいよと即座に微笑む。 父親の向こう側には母親がいて、ふたりのやり取りを、ひたすらに優しい表情で眺めている。 「ほんとうに、絵に描いたような、幸せな家族の図だったよ。思い出して、いつもそう思う。」 間にそう挟む花京院の声は、思い出話の明るさとは裏腹に、鬱蒼と昏い。 滞在も半ばを過ぎて、そろそろ帰りの準備をと、考え始めていた頃、夜遅くに誰かが、彼らのいる家のドアを激しく叩いた。 ひどく訛った英語を話す彼らは、紺色の制服を着ているのが3人、私服がふたり、警察だと名乗って、中に踏み込んで来た。 麻薬の密輸容疑だと、ひとりが父親に言う。家宅捜査をするから、その間全員拘束すると、そう早口に告げて、父親も母親も花京院も、その場で後ろ手に手錠 を掛けられた。何が何だかわからず、もう全員寝る支度をしていたから、金もホテルの鍵も身分証明書も何も身に着けていず、逆らわない方がいいと必死に冷静 に言う父親に従って、皆おとなしく彼らの車まで連れて行かれた。 何かがおかしいと気づいたのは、車---古ぼけた、警察らしいことを示すマークなど何も、ただのバンだった---の中で、銃を突きつけられたまま、目隠 しをされ口を塞がれ、手足をさらに縛られた時だった。何とか逃げ出せないかと、抵抗した父親を、男たちは容赦なく殴った。母親が、震えながら小さく叫ん だ。 家捜しに残っていた男たちが車に戻って来た気配がして、車はどこかへ走り出す。警察ではないと悟っていたけれど、もうどうすることもできなかった。 車の中で、男たちがしきりと何か言い争っていた。日本人、という単語がやたらと聞こえた。 男たちは、何の理由か仲違いをしているようだったけれど、車はそのまま走り続け、途中からやけにがたがたと揺れ、きちんと舗装されていない道を通ってい るのだとわかる。町中から離れ始めていることだけは確かだった。 隣りの母親に寄り添う振りで、車の揺れに紛れて、花京院はこっそりと目隠しをずらした。上向けば、限られた範囲だったけれど、周りの様子が窺えるくらい にはなった。 その仕草に、花京院が怯えていると思ったのか、母親が、花京院の髪に頬をすりつけて来る。彼女もそうして、一緒にいるから大丈夫だと息子に伝えながら、 自分にも同じことを言い聞かせていたのかもしれない。母親をわずかに追い越したばかりの身長も、結局は何の役にも立たないことを、花京院は死ぬほど悔しい と思った。 揺れ続けていた車がようやく止まり、外に引きずり下ろされ、素足の裏に土が触れる。足の縛めだけは解かれて腕を取られて歩き出すと、じきに夜露に濡れた 草が触れた。どれだけ必死になっても、真っ暗で何も見えない。車のライトを頼りに進む彼らの視線を追うと、目の前に、大きな納屋らしい建物の断片が見え た。 大きく開いた扉の中に、車も入り込み、ライトが縛られた花京院たちを照らすように停まり、男たちが全員、3人の目の前に揃う。 制服を着ているうちのふたりが、どうやら花京院たちのものらしいパスポートや金を、私服のうちのひとりに見せて、パスポートのどこかのページを開いて、 声を低く罵り合い始める。 その様子を盗み見ながら、花京院は、なるべく体を縮めて、隣りの母親にぴたりと体を寄せた。怯えてもいたけれど、母親に、自分のぬくもりを感じて、少し でも安心して欲しかった。 日本人という言葉が、また聞こえる。彼らが誘拐したかったのは、自分たちではなかったのだろうか。 制服のひとりが3人に向かって銃を構えたまま、残りの4人が、こちらに背中を向けて、何やら相談を始めた。 明らかに、これからどうするかを話し合っているのだ。 男たちの、ぼそぼそとした話し声を聞きながら、最悪のことばかり考える。全員この場で撃たれて、男たちはどこかへ去ってしまう。死体が見つかるのは一体 いつか。花京院たちが行方不明だと、誰かがすぐに騒ぎ立ててくれるだろうか。日本に、きちんと連絡は行くのだろうか。母方だけ残った、それほど親しく行き 来しているわけではない祖父母の顔を思い出す。もっときちんと、頻繁に会っておけばよかったと、今さら思う。 やっと話がまとまったのか、ふたりがバンの中から何か取り出して、納屋の外へ出て行った。 残った3人は、銃を見せつける---見えないのに---仕草で、怯え切っている花京院たちの目の前を、何度も行ったり来たりする。煙草を吸い、時には何 か冗談を言って笑い合い、酒が何かを飲むような動作をひとりが見せた時には、3人が全員、大きな声を上げて笑った。 誘拐という現実を前に、彼らはやけに陽気だった。 父親は、ごく自然に、母親と花京院を自分の後ろに隠すような位置に体をずらしていて、それを察した花京院も、縮めていた足を伸ばして、母親を自分の体で かばうような位置になった。父親に見えていたのかどうかは知らないけれど、男たちがちらちらと、奇妙に光る目で母親を眺めているのに、花京院はずっと前か ら気づいていたからだ。 不安は大きくなるばかりだ。まだ殺されないらしい。外へ出て行った男ふたりは、何をしているのか。助かるかもしれないという、甘い考えは一切浮かばな かった。殺すなら、無駄な時間を掛けずに、あっさりと殺してくれればいいけれどと、自分のためだけではなく、幼い花京院は考える。 銃で撃たれるなど、想像したことすらない。だから、撃たれればどれほど苦しいのか、考えただけで胸が苦しくなる。頭かどこか、当たった瞬間に絶命できる ところがいい。足や腹なんて、頼むからやめてくれ。彼らに言葉が通じるなら、そう言いたかった。 恐怖が突き抜けると、ひどく冷静に、現実的になる。銃を持った男3人を前に、家族全員で逃げ出すなんてことは不可能だ。ひとりで逃げようとすれば、残っ たふたりが殺される。抵抗して傷つく羽目になれば、死ぬより痛い目に遭う。苦しみたくない、苦しめたくない、おとなしくしていれば、じきに時間を掛けずに 殺されるだろう。死んだ後のことは知らない。知らなくていい。知りたいとも思わない。 家族揃って楽しい時間を過ごして、そして、こうやって揃って同じ場所で同じ時に殺されるのは、ある意味で幸運なことかもしれない。最後まで一緒だと、そ う思った。 同じことだ。帰りの飛行機が墜落したかもしれない。大した違いはない。誰だっていつかは死ぬし、それは不意に襲って来る災難だ。 やがて、外に出て行った男たちが戻って来た。 彼らは、引きずって来た大きなシャベルを、車のそばに乱暴に放り投げた。 そのうちのひとりと、制服姿がふたり、父親を引きずり起こした。急に遠ざかった体温に、母親が気配のした方を見上げ、塞がれた口で、精一杯叫び始めた。 父親も同じように、連れ去られながら、何かわめき始めた。残った家族は助けてくれと、そう言っているのだろうと思いながら、花京院も必死で、言葉にならな い声を上げた。 抗う体をふたり掛かりで引きずられて、父親の姿が闇の中に消えてゆく。ひとりは構えた銃で、しっかりと父親の背中に狙いを定めていた。 声も気配も消えた後で、何かが弾けるような音が2回、聞こえたと同時に、母親の体は、花京院の隣りでびくりと大きく慄えた。 男たちが戻って来る。奇妙にひそやかなささやきが交わされた後で、下卑た笑い声が、それに続く。 今度は、母親の体に、男たちの手が掛かった。 塞がれた悲鳴の行方を追って、花京院は思わず立ち上がろうとした。肩を、誰かの足が蹴る。倒れたところで、腹をひどく踏みつけられた。内臓が喉までせり 上がって来るような痛みにうめくと、誰かが振り返り、あまり無茶はするなというようなことを言ったらしい。足が去り、花京院は、苦痛にに体を丸める。 停めた車の向こう側に連れて行かれたらしい母親と、男たちの気配が、伝わって来る。誰かが車を蹴ったらしい音、くぐもった悲鳴、気配、今度こそ、花京院 は、取り憑かれた恐怖から、逃れることができなくなった。 気配と物音だけになる。花京院を見張っていた男が、車の後ろから戻って来た男と入れ替わり、また気配が続く。 もう、何を窺うこともできず、花京院は必死でそこから顔を背け、ただ、何もかもが終わるのを、耐えながら、待った。 男たちは、荷物のように、母親らしい人影を抱えて、また外へ出て行った。今度は、乾いた音は1度きりだった。 やっと自分の番だ。どんな風に殺されるのだろう。父親のように、ただ撃たれて、穴の中に放り込まれるのか。あるいは、と、想像すらできずに、母親の受け た苦痛を思って、体が慄えるのを止められなかった。 戻って来た男たちは、そこから花京院を引きずり起こして、外へ連れてゆく代わりに、再び車の中へ放り込んだ。また足を縛り、男たちも全員で乗り込んで来 て、納屋を出て、さらにどこかへ向かって走り出す。 連れて来られた時よりも、長い距離を走ったように思えた。起こったことすべてが信じられずに、揺れる車の中で、花京院はいつの間にか気を失っていた。 「助かるかもとは、思ってなかった。何のためかわからないが、子どもの僕だけは、どこか別の場所で殺すことにしたんだろうと、そう思ってたんだ。」 恐ろしい記憶を、淡々と語る花京院の口調が、より深い恐怖を呼ぶ。いつの間にか、承太郎の腕に、鳥肌が立っていた。 連れて行かれたところには、人々のざわめきがあった。どこかの、比較的大きな町であることだけはわかった。 怯え切って、抵抗する気も失くした花京院は、ここで見知らぬ誰かの手に受け渡された。誘拐犯の男たちは、短いやり取りの後で静かに姿を消し、ようやく縛 めを解かれた花京院は、奇妙に身なりのいいその男に、じろじろと眺められた後で、小さな部屋に放り込まれた。部屋の中には、すでに男の子ばかりが数人い た。 正確にはわからなかったけれど、どの子も花京院よりは年下に見え、痩せ細った手足を縮めて、一様に小さな体を寄せ合っている。小さな部屋の隅に丸まった 毛布らしき山が、彼らの寝床らしかった。 膚の色も顔立ちも違う花京院に、彼らは怯えた目だけを向け、声を掛けて来ようとはしない。仕方なく、もう一方の壁際に寄って、花京院も同じように膝を抱 えた。 何が起こるのかわからず、知る術もなく、いつの間に眠り込んでしまったのか、足を蹴られて目を覚ますと、部屋の中に、銃を構えた男と、食事の皿を抱えた 男がいた。与えられた、何が入っているかわからない薄いスープは、味も何もなく、空腹のはずなのに、3口も食べられなかった。他の子たちは、それをがつが つと平らげていた。 空になった皿を集めて、花京院の皿も取り上げ、男たちは部屋を出てゆく。明かりのない部屋は、外から鍵が掛けられ、それきり子どもたちはひっそりと静か になって、闇の中手探りで、毛布の中にもぐり込んだ気配があった。 翌日、腕を引かれて、そこにいたひとりが外へ連れ出され、戻っては来なかった。その夜の食事---同じように粗末な---を、花京院はきれいに平らげ た。 そして、ひとり減った分の、余っているはずの毛布に恐る恐る手を伸ばし、誰もそれに文句を言わなかったから、その夜はそれにくるまって寝た。ひどい日々 に、すでに神経が慣れつつあった。 「何とかして生き延びようなんて、そんなこと思ってたわけじゃない。そんなことすら考えられないくらいに、神経が麻痺してたんだ。3日目に、早々と僕の 番が来た。」 銃を持った男がやって来て、突然花京院を部屋から連れ出した。 服を脱がされ、冷たい水を浴びせられ---洗ったつもりだったらしい---て、大きいけれどごわごわのタオルを1枚与えられただけの格好で、あの最初の 日に見た、妙に身なりのいい男の前へ連れて行かれた。男のそばに、背の高い、ちょっと散歩に出て来たという軽装の白人の男がいて、いきなり裸の、まだ濡れ たままの花京院に近づくと、動物か何かにそうするように、軽くあごを持ち上げた。声も掛けずに、品定めするように、顔の左右を確かめて、かろうじて腰の辺 りを覆っていたタオルを剥ぎ取ると、慌てて体を隠そうとした花京院の手を止め、そこから1歩引く。男は、指で小さな輪を書く仕草をし、意味がわからずに戸 惑っていると、銃の男が、花京院の肩を突き飛ばして、男に背中を向けさせた。 やっと正面を向いて、タオルを取り上げることを許されて、花京院はその場に突っ立ったままでいた。 身なりのいい男と白人の男は、にやにや笑いながら何か話し合い、互いにいろんな手振りや仕草を見せ合った後で、やっと握手を交わした。何か、自分につい ての取引が成立したらしいことだけは、花京院にも理解できた。 「その白人の男が、僕をここへ連れて来たんだ。ビザやパスポートを、どうやって偽造したかなんて、僕は知らない。中国人の養子ということになってたらし い。そんな手続きも全部、多分僕を買った代金の中に入ってたんだろうな、きっと。」 男は、背が高いという以外には、これと言って特徴もない外見で、けれど時折底光りする目に、異様な色が見て取れた。 30階以上あるアパートメントに、ひとりで暮らしていた男の住まいは贅沢で、花京院はバスルームのついた部屋をひとつ、全部与えられた。外から鍵が掛か るという以外には、清潔なベッドは大きかったし、テレビも置いてあって、快適な場所だった。 そこへ落ち着くと、男はすぐに花京院の服を脱がせ、下着も着けさせない裸の上に、自分の大きなシャツだけを着せた。 最初の数日、男は花京院に触れることはせず、まるで預かった親戚の子どものような扱いをして、一緒に食事をし、一緒にテレビを見て、まるで言葉が通じな いのに、必死で意志の疎通を図ろうとした。 誕生日はいつ? 紙とペンを花京院の目の前に置いて、男が訊く。誕生日という単語は聞き取れた気がしたけれど、確かではなかったから、そんな時にはいつ もそうするように、花京院は肩を縮めて、男を上目に見た。生まれた日だよ、わからないかな。男がまた何か言う。花京院は、言葉がわからないと表情に浮かべ て、男を見つめるだけだ。考え込んでから、男が不意に、指先を振りながら歌い出した。ハッピーバースディートゥーユー、ハッピーバースディートゥーユー、 花京院を指差して、同じところを繰り返す。やはり誕生日を訊かれているのだと、ようやく悟って、男の、少し外れた音程がおかしくて、花京院は思わず笑いな がら、引き寄せた紙に、自分の誕生日を書いた。 そこに書かれた数字を見て、男の眉が寄る。紙と花京院を交互に見て、男は、花京院の字の上に横線を引くと、そのすぐ下に、2年ほど若い誕生日を改めて書 いた。 ペンの先で、花京院の字を何度も何度も線で消しながら、自分が書き直した誕生日の方を丸で囲む。それを花京院に見せて、花京院をペンで指し、それはよう するに、これからはこちらの方が正しい誕生日だからと言うことなのだろうと、花京院は肩を縮めたまま、男に向かって素直にうなずいていた。 その誕生日が、男が渡された偽造パスポートに記された誕生日であり、そしてそれが花京院の実際の年齢だと、男が告げられていたものらしかった。 男が望んだほどは、花京院が幼くなかったことは、いわば契約違反と言えたけれど、手続きが面倒だったからか、それとも花京院が、実際にその程度に幼く見 えたからか、男は花京院を買った先へ戻すようなことは考えずに、花京院をそのまま手元に置くことに決めたらしかった。それをありがたいと、その時花京院は 思った。そう思うことが、すでに何かがおかしくなってしまっているのだということに、気づきさえしなかった。 男が仕事へ戻り始めると、日中は、花京院はバスルームに、全裸で閉じ込められた。毛布と一緒に、男が戻るまでそこにいる。洗面台から水は飲めたけれど、 食べるものは何もなく、育ち盛りにはひどく辛いことだった。 それが1週間も続くと、男の帰りを心待ちにするようになり、自分をそこから出して食事を与えてくれる男が、優しい天使のようにさえ思えるようになってい た。 男の機嫌が良ければ、服---男のシャツ---を着たままでいることを許される日もあったから、花京院は何とかして、彼の機嫌を取ろうと、機会さえあれ ば必死に、彼の生活を観察するようになった。 男は、花京院が自分から彼に触れることを好み、彼のシャツを着ていたい---それが、彼のシャツだからこそ---という態度を示すことを喜び、甘えて懐 く仕草を見せると、花京院を抱きしめて頭を撫でてくれた。 抱きしめることに、そのうち、親が子どもにするキスが加わり、そのキスも次第に、親子のそれとは似ても似つかないものに変わってゆく。花京院は戸惑いな がら、男のすることを、すべて受け入れていた。 愛しているよと、一緒にいる間は何度も言われ、男が仕事に出掛ける時は、バスルームのドアを閉める前に、必ずそう言う。花京院も、それを口移しに、男に 言い返すようになった。 男の部屋で、男のベッドで、全裸でそこに寝る。男の手が、足や腕に触れる。骨張った肩や背中を掌で撫で、その後を、唇が追いかける。気持ちの悪さやくす ぐったさばかりが先に立って、膚が粟立つのを止められない。やめてくれと、その言葉を飲み下して、男の手が導くまま、彼にも触れる。 男の肌は、いつも熱くて、湿っていた。薄闇の中でも、男の底光りする目が見える。寒気を覚えて、その目を見たくなくて、花京院は男にしがみつく。男はそ れを、花京院が欲しがっているのだと、誤解してくれる。男の、重くて大きな躯に押し潰されて、呼吸が止まりそうになる。花京院を傷つけないように、あれこ れと男が先に試す優しさは、花京院のためではなく、彼だけの快楽のためだと気づくのは、もう少し後だった。 バスルームに閉じ込められなくなると、男は、花京院の部屋の中に、ベッドとバスルームの間にワイヤーを渡し、そこに鎖で手錠を着け、花京院の左手を繋げ て出掛けるようになった。 全裸で過ごさなければならないのは変わらなかったけれど、それで少なくとも、部屋の中だけは、それなりに自由に動けるようになった。 男が持ち帰ってくれるアメリカン・コミックの雑誌を、絵だけ楽しんで読み、テレビのチャンネルをあれこれいじくるうちに、子ども向けの番組も見つけた。 セサミ・ストリートを見つけた時は、懐かしさに、思わず床に坐り込んだまま、そこで小さく飛び上がった。 言葉を少しずつ覚え、最低限の意志が通じるようになると、男は自分のことをお父さんと呼ぶようにと言い、花京院のことを、K---ケイ---と呼び始め た。養子の親子だというカモフラージュだけではなく、そう呼ばれることに、男はいっそう興奮するらしく、ベッドの中では特に、花京院の言葉をいつもそその かした。 初めて躯を使われたのは、男と住むようになって、ふた月近く経ってからだった。 男の指使いに、何となく予想はついていたものの、掌に触れるそれが自分の躯の中に入るとは思えず、うつ伏せになった腰を引き寄せられても、その時にはま だ怯えはなかった。触れる熱さと、引き裂かれる痛さに襲われて、初めて体を引こうとして、男の腕にがっしりと抱え込まれた。 息が止まった。痛みという生易しいものではなく、躯の内側と内臓全部を、男が引き裂いているように思えた。まだ骨細かった体を、男は絞め上げるように抱 いて、容赦なく躯を進めて来る。花京院の泣き声に構っているようではなかったけれど、全部はどうしても収められなかったらしく、外して、また押し込もうと して、それを何度か繰り返した後で、舌打ちをして花京院から離れて行った。 抱き上げられて、自分の部屋に運ばれ、その夜は部屋に鍵を掛けて、男はひとりで去って行った。 どこをどう動かしても、痛みの走る全身をベッドに横たえて、花京院はひと晩泣き明かした。翌朝は、むっつりと一言も口を聞かない男に、久しぶりにバス ルームに閉じ込められ、ドアが閉じる直前に、いつものように、お父さんと呼び掛けたけれど、男は愛しているとは言い返してくれなかった。 きちんとできなかったから、男は怒っているのだと思った。おまえなんかもう愛してないと、彼は言っているのだ。泣き叫ぶばかりで、我慢の利かない花京院 など、もういらないのかもしれない。男に見捨てられることを、花京院は恐怖した。男の望む通りにできない自分を、役立たずだと心の中で罵り続けた。 その夜、いつもより少し遅く---と感じた---帰って来た男は、相変わらず一言も口を利いてくれず、黙々と食事の準備をし、無言の食事が終わると、ひ とりでテレビを見始めた。 花京院は、自分を無視し続ける男のそばに坐ると、その腕にしがみつき、必死で甘えて見せた。邪険に振り払いもしない代わりに、一向にテレビから視線を外 すことをしない男の膝に這い上がり、テレビへの視界をふさぐように、自分から拙い口づけを仕掛ける。ようやく、男の視線が花京院に移り、それでもその腕 が、抱き返すためにはまだ動かない。それだけでは、男の機嫌を治してもらうには不充分なのだと悟って、自分がしでかしたことの深刻さに恐れおののきなが ら、必死で、この失敗を償うにはどうしたらいいか、考えをめぐらせた。 「もう愛してないと、だからおまえなんかいらないと、そう言われるのが死ぬより怖かった。見捨てられないためなら何でもするって、そう思った。」 稚ない口づけでは男の心はほどけず、仕方なく、花京院は意を決して床に膝を滑り下ろした。男の膝を撫でながら、軽く開かれたそこへ、這い寄ってゆく。自 分から、そんな風に男に触れるのは、初めてだった。 薄い掌を乗せて、上目に男の様子を窺いながら、ベルトに手を掛けた。男は、テレビを見続けている振りをしながら、花京院の手を助けるように、軽く腰をソ ファから浮かせる。目の前に飛び出して来たそれは、すでに期待に膨れ上がっていて、醜悪に地面を這う、虫の胴体のように見えた。触れるだけで、まじまじと 間近に眺めたことなどない。怖気づきながら、男がいつも自分にそうするやり方を必死で思い出して、両手を添えた。目を閉じて、唇を近づけて、吐き気を飲み 下しながら、口を大きく開いた。 男の声が、かすかに聞こえる。決して愉しんでいるわけではないという表情を隠せずに、精一杯舌を使って、舐めた。開いたままの唇の端が痛くて、いつに なったらやめてしまってもいいのだろうかと、そればかり考えていた。 腰の位置をずらして、男が、花京院の方へ躯を寄せて来る。そうして、背中に覆いかぶさるように体を倒して来て、花京院の腿の裏へ、腕を伸ばして来た。 喉の奥に、押し込まれたそれが、いっそう深く突き立って来る。男は、花京院の頭を押さえ込んで、ゆっくりと躯を揺すり始めた。そうしながら、男の手が脚 を滑り上がり、昨日果たせなかった場所へ、指が触れる。触れて、入り込んで来る。 指の数はすぐに増え、上と下とを同時に侵されながら、花京院の顔は、あふれた唾液と涙で、ぐしゃぐしゃに汚れていた。 もう、舌もろくに動かせなくなったのに気づいたのか、男はやっと花京院の唇から遠ざかって、花京院の隣りに滑り降りて来た。そして、花京院を軽々と抱え 上げて、ソファにうつ伏せに押しつける姿勢を取らせると、そのまま躯を繋げに掛かった。 空気が尖って、喉を刺す。悲鳴を漏らすまいと、手首を噛んだ。涙が途切れずに、ソファを濡らす。男が乱暴に動く。荒い息遣いと、舌を打つ音。痛みが、 いっそう激しくなって、躯の中に火柱が走ったような気がした。男が、ふと動きを止めて、花京院の背中の近くで、ひどく切なげに吐息をこぼしたのが聞こえ た。 男が、動き出す。小刻みに、押し込んだり引いたりを繰り返して、上にずれ上がる花京院の頭は、何度もソファの背に当たり、首や背中が痛んだ。噛んだ手首 だけは放さずに、けれどもう声も出ない。息をしているかどうかも、自分でわからなかった。 こうすることに、一体何の意味があるのか、まったく理解できなかったけれど、男が花京院に愛していると言った、それと何か繋がりがあるに違いないと、心 から信じる必要があった。でなければ、こんな痛みと気持ちの悪さに、どうして耐えられるだろう。 気がつくと、男のベッドで、男に抱きしめられていた。いつの間に、どうやって終わったのか、記憶がなかった。自分の体ではないように、手足に感覚がな かった。愛してるよという男のささやきに安堵して、また気を失うようにして眠りに落ちて行った。 男は、留守の間に花京院を閉じ込めておくことをやめ、少しずつ、ごく普通の振る舞いを許してくれるようになった。 花京院を買い物に連れ出し、図書館へ連れてゆき、仕事の休みの日には、公園へも連れて行ってくれるようになった。それでも、自分の傍から片時も離れるこ とは許さずに、それが杞憂に過ぎなかったにも関わらず、花京院が逃げ出すのではと、常に警戒している風だった。 「僕は、逃げ出すなんてこれっぽっちも考えなかったのに、彼はいつだってそれを、過度に心配してた。そのせいか、僕が彼以外の人と口を利くのを、怖いく らいに嫌ってた。」 花京院が、ほんとうのことを話してしまうかもしれない、あるいは、誰かに助けを求めるかもしれない、男はそう考えていたのかもしれない。けれど、男に捨 てられることを何よりも恐れていた花京院は、そう言われた通りに、お父さんと呼ぶ男の傍にじっとしていて、話しかけられても、言葉があまり分からない極度 の恥ずかしがり屋という態度を、どこでも決して崩さなかった。 誕生日が過ぎた頃、ある夜、普段よりも少しだけ改まった服装をさせられて、車に乗せられた。 夜に出掛けることなど初めてで、どこへ連れてゆくとも、男は言わない。ただ、良い子にしていろとだけ、何度も念を押された。 男の言う良い子とは、男の都合の良い時だけ口を開いて、余計なことは一切言わずに、男の言うことをきちんと聞くということだ。 そこは、人の多さの割りに、妙にひっそりとしたパーティーだった。白人の、適度に金の掛かった身なりの男ばかりの集まりだと言うのに、声高に話す誰もい ず、皆互いの耳元で、どこかにちらちらと視線をやりながら、何かささやき合っている。 男たちに寄り添うように、ぽつりぽつりと、花京院のような少年---あるいは、もっと年少の男の子---の姿が見える。ここには、似たような趣味の男た ちが集まっているのだと気づいて、花京院は体を固くした。男の上着の腕をしっかりと掴んで、決してはぐれたりしないように、他の少年たちを眺めている男 を、不安げに見上げる。 男たちは、自分の小さな連れを、自分の子どもと言ったり、あるいはもっと直裁に、ペットと言ったりしていた。参加者たちは、不躾けに、視界に入る少年た ちを値踏みし、自分に連れがいようといまいと、好みの少年を見つけると、連れの男へ話しかけるために、そちらへ動いてゆく。 自慢の場でもあり、情報交換の場でもあり、もっと率直に、何の憚りもなく、少年を品定めできる場だった。 男は、花京院よりももっと幼く見える子を見かけるたびに、そちらへ視線を移すけれど、それほどは心を動かされないらしく、参加者の間をゆっくりと動きな がら、ちらちらと花京院に注がれる視線に、鼻が高いようだった。 少年たちは、南米系に見える顔立ちが多く、黒人の子も数人いた。どの子たちも、花京院と同じように、他の誰とも---特に、他の少年たちとは---口を 利かないようにと言われているらしく、ほとんど互いに目も合わせない。 男は、同じように少年を連れた男たち数人と話をし、連れのない何人かの男たちと、花京院には聞こえない---聞こえても、よくわからない---ひそひそ 話をした。始終にこやかに、男はひどく機嫌が良かった。 この類いの男たちの間では、少年を貸し借りすることがそう珍しくはないのだと知ったのは、そのパーティーから数週間経った後だった。 最初は、交換だった。東欧のどこかから連れて来たという少年と花京院を、男たちが取り替え、別々の部屋で、それぞれが愉しんだ。事前に言い含められた通 り、花京院は一言も口を利かず、別の男に触れられる数時間を、ただ黙って耐えた。 男が交換したがる子たちは、いつも必ず花京院より年下で、花京院を欲しがる男たちは、滅多と触れることのない東洋人の、いつまでも幼く見える華奢な体つ きを喜んだ。 交換に慣れると、今度は、花京院だけが貸し出されるようになった。花京院の知らないところで、男は誰かの持ち物の少年を借り出しているらしかったけれ ど、そのことは一切花京院には知らせなかった。 借り出した男のところへ連れて行かれ、数時間だけのこともあれば、ひと晩だけのこともある。あるいは、男がそれを許せば、数日から1週間ということもあ る。 相手の男たちは、内科医だったり、弁護士だったり、歯科医だったり、あるいは、警察関係者だったり、ようするに何かあれば、便宜を図ってくれる地位にあ る連中ばかりだった。 絶対に秘密にしなければならない性癖だったから、男たちの結束は固く、だからこそ少年たちも、その輪の中に組み込まれている限りは、常に厳重に守られて いた。もちろん、外の世界へ出さない、触れさせないための、強固な守りであったけれど。 男たちは大抵、花京院を手荒に扱いはしなかったけれど、奇妙なことは様々させたがった。 他の少年と、目の前で触れ合うことを強いられたり、ふたりがかりで相手をさせられたり、その場でだけ、別の呼び名を与えられたり、相手を違う呼び方で呼 んだり、女の子の格好をさせられたこともあった。 縛ることを好む男もいたし、鞭を使うのが好きな男もいた。躯の内側をきれいにするのだと言って、液体や薬を注ぎ込みたがる男はまだましで、排泄物を食べ たがる男には、さすがに鳥肌が立った。 「そうする時には、2、3日前から果物しか食べさせてもらえないんだ。彼らは、自分の欲求を満たすために、滑稽なくらい真剣だったよ。」 張りついたように微笑む花京院の視線が、相変わらず床のどこかをさまよっているけれど、その先に見ているのは、まだ幼かった自分の姿だ。承太郎は、いつ の間にか組んだ両手を、真っ白になるほどきつく握りしめている。 誰のところに送られようと、花京院が帰ってゆく先は、男のところだった。 戻って来た花京院を、まるで何も変わっていないと確かめるように、あるいは、他の誰かの気配を感じ取って、わざと嫉妬するゲームをしたがっているよう に、男は優しく抱きながら、何をされたか微細に説明させる。どんな風に縛られたのか、どんな風に叩かれたのか、どんな道具を、どんな風に、どこに使われた のか、そして花京院が、それを愉しんだかどうか、男は必ず知りたがった。 いやだったと言っても、愉しんだと答えても、男はいつもわずかに不機嫌になって、自分の躾が悪いと思われるじゃないかと、不平をこぼす。一体どうすれば 男の機嫌が治るのか、一向に理解できないまま、花京院は男を悦ばせようと、精一杯男に触れた。 そんな風に男に飼われ、男の世界にだけ閉じ込められて、少年くささはそのまま、けれど背も伸びて肩幅も広くなった花京院は、17の誕生日を迎えていた。 |