Not Alone Again - 隣の体温
いつもなら年若の子どもたちの声がどこかから響いて来るはずのバトラー邸内は、今日は森閑としている。家族総出で写真を撮りに行くと、車を3台連ねて、なぜかその中に神の子も含まれていたのが解せず、キリコは子守りもない手持ち無沙汰で、意味もなく裏庭をひとり歩き回った。
赤ん坊がいないとずいぶんと暇だと、認めたくはなくてももう生活の中心にあの小さな生きものが腰を据えていて、この静けさをありがたいと思うよりも違和感が先にやって来る。淋しいのだと素直に思い至るには、もう少しキリコには保護者の自覚が足りない。
昼寝でもするかと、多少不貞腐れの気分で、キリコは邸内に戻り自分──たち──の部屋へ向かった。
そうして、誰もいないはずの上階から歩幅の広い足音がして、階段を軽く駆け下りて来るシャッコが、こちらも突然現れたキリコに驚いて途中で長い足の動きを止めた。
「何だ、倉庫に行ったんじゃなかったのか。」
バトラー商会の、今日はある品の在庫を調べるとかで、大した作業ではないけれど人手はいるとシャッコが駆り出され、夕方まで戻って来ないと思っていたのになぜここにいると、キリコは下からシャッコを見上げて目顔で訊いた。
「数の確認の書類を、ヴァニラが持って帰ったままだったらしくてな。」
そうやって上げて見せる片手に、紙の束。そうかと納得して、キリコはやっと自分の方へ降りて来るシャッコへ、奇妙に懐かしげな視線を当てていた。
この静かな午後の始まりに、自分は人恋しいのだとシャッコを見て突然気づく。
抱いてあやす小さな体はなく、話し掛ける誰も見当たらない。目の前にいるシャッコは、すぐに仕事に戻ってしまう。
一応はキリコの前で足を止め、再び行って来ると言う風に、軽く上体を傾けて来るシャッコへ、キリコは背伸びをしようとして、やめた。
「ちょっと待て。」
短く言い捨て、たった今シャッコが降りて来たばかりの階段を、数歩上がる。そこからシャッコを眺め、自分の足元の位置を少し変え、キリコはシャッコを自分の方へ手招いた。
促されて階段を上がり直そうとするシャッコへ、そうではないと手を振り、
「こっちだ。」
と、手すりを挟む位置を示し、階段を上がったキリコと、今は床に立つシャッコと、そうするとそのまま顔の位置が正面に合う。滅多とこんな風に、互いに立ったままで見つめ合うことのない、ふたりには珍しい形に、キリコは自分の思いつきが予想以上だったことに、青い眉の間をわずかに開いた。
天窓から明るい陽が差し込み、近々と迫るシャッコの瞳がいつもより明るい色に見える。こんな風に互いを間近に見るのは、いつだって薄闇の中だったから、シャッコの瞳はそう言えばこんな色だったかと、キリコは目が洗われるような思いに、頬の線をなごませていた。
茶色は、中心に向かってやや色味を弱め、少しずつ緑に近寄ってゆく。軍の書類には確か茶色と記してあるシャッコの瞳は、緑混じりの、時によってはむしろ緑の方が勝つ。ジャングルで見た密度の濃い、息の詰まるようなあの緑と、それはよく似ていた。
息苦しさはその緑のせいか、シャッコとの距離のせいか、キリコは結んだ唇をかすかにゆるめて、手すり越しにシャッコへ向かって首を伸ばす。
かかとをほとんど浮かせる必要もなく、軽々と届くシャッコの唇。シャッコも、キリコを抱き上げることもせず、押し当てられた唇を真っ直ぐ受け止めて、ただ胸の間にある手すりが邪魔な風に、そこへ乗ったキリコの手へ忘れず自分の手を重ねる。
指先同士が絡んで、唇はもう少し深く重なった。
明るい昼日中、こんなに開けっぴろげに示されることは滅多にない、ふたりの間の交情。抱き合えはしないけれど、この近さは確かに心地良かった。
唇が触れ、わずかに離れ、また重なる。呼吸の湿り、音、舌の熱さに、少しの間ふたりは我を忘れた。
これ以上は触れ合えなくてよかった。抱き合えたら、きっとすべて放り出して、部屋に閉じこもってしまったろうから。
手すりに阻まれ、唇と手以外は触れ合えずに、けれどいつもとは違う近さ──高さ──で寄り添って、ふたりは互いの瞳の中にいる互いをしっかりと見た。
いつの間にか、腕は下へ降り、手すりの隙間からキリコは腕を伸ばし、シャッコを引き寄せていた。それ以上はだめだと、熱く蕩けて来る頭の片隅でブレーキは掛けながら、自分のその手を強く握り込んで来るシャッコの、掌の熱さに、アクセルはどこだと体の別の場所を探ろうとした。
自分の体に当たるのは艶出しのニスのたっぷりと塗られてつやつやと輝く階段の手すりばかりで、シャッコがその気になれば、そこからキリコをやすやすと引き上げるだろうけれど、今唇以上に触れ合わせる不謹慎はさすがにふたり一緒に理解して、ようやくキリコはシャッコの体を少し遠ざけた。
頬と首筋の赤みの、写したようにそっくりのふたりは、まだしばらく互いを離せずに、前髪を絡め合うように額をこすり合わせて、まだ熱い息を吐き続けていた。
シャッコはキリコのまぶたと眉の辺りへ淡く唇を滑らせて、キリコはシャッコの耳朶の近くへ、音を立てて口づけた。
それを合図にようやく距離を開け、それでもまだ指は絡んだまま、
「・・・後で。」
ややかすれた声でシャッコが言う。もう肩の半分を向こうに向けながら、キリコにひたと据えたままの瞳は緑が広がり、いつもより輝いて見えた。
「ああ。後で。」
名残り惜しさに、もう一度、まだ手の中にあるシャッコの指をぎゅっと握って、キリコはやっと外した手を軽く振って見せる。
去って行くシャッコの足の動きへ視線は置いたまま、午睡の夢に何を見るかと、キリコは予想しながら再び頬の赤みへ血の色を重ねていた。