Not Alone Again - 焼かれた瞳
裏庭から、女たちのはしゃぐ声が聞こえる。ひとつはココナ、もうひとつは末娘のチクロ。その声の合間に、一生懸命何か言う赤ん坊の声も聞こえた。行き届かない元傭兵ふたりの、代わる代わるの世話の時とは違って、赤子の声は何やら嬉しそうに、キリコの耳には響いて来る。バトラー家の助けがなければ、赤ん坊のミルクの調達さえままならないキリコだから、餓え死にさせないようにただ必死だったふたりきりの放浪の頃を思えば、ここでの暮らしはまるで天国──特に、神の子にとって──だった。
皆に可愛がられ、争って抱き上げられ、それでもこの子の親はキリコ──とシャッコ──なのだからと、世話の順番はきっちりと回って来る。今では少々泣き喚かれても動じもせず、夜泣きの間に裏庭を抱いてさまようのに、キリコはすっかり慣れてしまっていた。
いつもありがたいと思っている──そんな風に改まって言えば、照れてしまうのはバトラー家の人々の方だと知っているから、キリコはそれをただ彼らを見つめる視線に込めるだけだった。
チクロか赤子が何かしたのか、突然ココナが弾けるように笑う。つられたようにチクロも甲高い子どもの声で笑い、ずいぶんと楽しそうだなと興味を引かれ、キリコはふと止めていた足を裏庭の方へ向けた。
何と言うことはない、赤ん坊が坐っている自分の足元の芝生を一生懸命掴み、ちぎっては辺りに撒き散らしているだけだ。それでも、口をへの字に結び、握れば石ころほどしかない小さな手で果敢に芝生に挑んでいる様は、確かに見ていて十分可笑しくはあった。
キリコも思わずそれを見て薄く微笑み、誰も自分に気づいていないのをいいことに、しばらくそこへ佇んで3人を黙って見ている。
何度も芝生をちぎり、とうとう指に引っ掛かる長さの草が失くなってしまったのか、赤子の指は何度かそこで空回りした。神の子は不審げに自分の手を見つめ、草を見つめ、それなら別の場所をと思ったのか、短い体を反転させて斜め後ろ辺りへ腕を伸ばす。まだ重い頭がそちらへ引かれ、不意に傾いた体が支え切れずにそのまま後ろへ倒れた。
一瞬、赤ん坊は何が起こったか分からずに、倒れた状態すら悟れずに、体の下に敷き込んだ腕をじたばたと泳がせようとしたけれどそれも果たせず、そこでやっと自分の不自由な体勢──まったく望んではいない──に気づいたらしく、突然火のついたように泣き始める。
今ではキリコもすっかり慣れてしまった、小さな爆発だ。それでも咄嗟に、もしかして頭を打ったのではないかと思った瞬間にはもう足が動いていて、届くはずもないのに、反射的に腕が前へ伸びていた。
けれどキリコがそこから駆け寄るよりも先に、当然ながらその目の前にいるチクロが赤ん坊を素早く抱き起こし、
「あー痛かったね。痛かったね。びっくりしたね。大丈夫よ。ケガはない? どこか痛い?」
ひどく大人びた調子で声を掛けながら、何の迷いもなくそのまま赤子を抱きしめた。
赤ん坊は、痛いのではなくただ驚いただけだったのか、チクロに抱き寄せられてさっさと安心してすぐに泣き声を鎮め、ココナは自分を甘やかしてはくれないのかと、ちらりとそちらに視線を流すことさえした。
キリコは足を止め、やはり黙ったままその光景を眺めて、痛んだかもしれない神の子の丸い頭を優しく撫でているチクロの、穏やかに動くこれも小さな手へ目を凝らしている。
「イタイのイタイの、飛んでけー。」
歌うように、チクロが言う。その後を、ココナが続ける。ココナの手もまた神の子の頭へ伸び、チクロの手を覆うようにして、打ったのかもしれない辺りを撫でた。
高さの違う女の声の、イタイのイタイの飛んでけーと言うそれを、キリコはなぜか胸に痛みを感じながら聞いた。
そうして、痛むのは実は胸ではなく、自分の体の至るところに残る傷の跡だと気づく。
異能生存体がどうのと言う体質のせいかどうか、怪我や手術の跡はほとんど残っていず、あるのは傷を負ったと言うキリコの記憶だけだ。それでも、あまりに数の多いそれのひとつびとつをきちんと覚えてもいず、キリコに残っているのは、ただその痛みの思い出だけだった。
ひどく折れて、皮膚を突き破った骨、焼かれて皮膚を失くした両足、ほとんどばらばらになったことのある大腿骨、脱臼は数知れず、肋骨の骨折など、もう怪我のひとつにすら数えてもらえなかった。痛む傷、体、医者は治療のために、遠慮なく手荒に扱う。止血のために縛り上げられ、色の変わってしまった腕、突き刺さる注射の針、麻酔なしで肩から地雷の破片を取り出されたのはいつ、どの時だったか。
痛む体に触れられる恐怖。触るなと、息も絶え絶えに言ったこともあった。あの叫び──キリコにとっての──は、一体誰かの耳に届いたものか。
今は触れえざる者と呼ばれるその皮肉に、キリコはもう冷笑すら浮かべることもできず、今チクロに何のためらいもなく抱きしめられ、それを短い腕で抱き返している赤ん坊を、やるせなげに見つめている。
ココナもヴァニラもゴウトも、キリコに触れることに躊躇がない。ひどく傷ついて、死に掛けているキリコを見たことがないせいかもしれない。包帯だらけで、見えているのはほんのわずかな指先だけと言う悲惨な姿のキリコを、見たことがないせいかもしれない。
キリコにとって長い間、触れられると言うことは痛みを呼ぶ行為でしかなく、怪我をしていない時など滅多となかった軍生活の間、そしてそれ以前も、キリコが誰かに触れられる時は、傷の手当てのためだけだった。
傷と痛みだらけの記憶の中に閉じ込められた、キリコの孤独。自分を焼く炎を見つめ続けた瞳。無意識に、神の子と裁定された赤ん坊を、そんな風にはしたくないと思ったのかもしれなかった。救ったなどと言う大袈裟な気持ちは決してなく、それでも、赤子には誰かの──優しい──腕が必要だと、あの時のキリコは思ったのかもしれなかった。
自分を抱きしめる腕。その腕へ向かって抱き返す腕を伸ばす自分。誰かを抱きしめると言うことは、自分も抱きしめられると言うことだ。痛みのない、深い触れ合い。それを教えてくれた大事な人たちのことを、キリコは静かに考えていた。
泣き止んだ赤ん坊は、今はチクロの膝に乗り上げるようにして、すっかり痛みなど忘れてまた楽しげに声を立てている。
唇の端に淡い笑みを残して、キリコはようやく肩を回し、賑やかな裏庭を後にした。