そして続く道 - 普通の日
昼を食べた後に少し遊んで、眠くなったらしいユーシャラを、昼寝に寝かしつけて、静かになった食卓付近にシャッコの姿は見えず、昼食の片付けは終わったはずの台所から気配がした。「何をしている。」
大きな背を丸めて、何やら熱心に手元へうつむいているシャッコに、キリコは後ろから声を掛けた。
「ユーシャラは寝たか。」
答える前にそう訊かれて、ああとキリコがうなずいたのを振り返って見てから、シャッコはキリコへ向かってちょっとあごをしゃくる。
「何だ。」
洗い物の終わって空のシンクの傍で、シャッコは大きなスープ皿に何やら作って、それにナイフで切れ目を入れているところだった。
やや茶色に寄って黒い、透明感のある、触れればぷるぷると震えそうな外見の、ふとコーヒーの香りがして、キリコは思わず目を細めた。
「ゼリーだ。コーヒーの。」
「ゼリー?」
言葉を置くようなシャッコの言い方を思わず口移しに、そう言えばグルフェーで、たまにはちょっと目先の変わったものをとキリコのためにココナが出してくれたことがある。甘い菓子は嫌いではないけれど、コーヒーだけならそれで文句もないキリコに、それならこれでと、変わらないままのあのとろけるような笑顔で、ガラスの器に盛って差し出してくれたことを思い出して、あの小さな四角の山は元はこんななのかと、シャッコの手元を眺めてキリコは思った。
シャッコも1、2度振る舞われたはずだけれど、ココナに一体いつ作り方を訊いて来たのか、強いコーヒーの香りに誘われて、キリコは思わずそこへ手を伸ばしそうになる。
食事と言って、野営に毛の生えたようなレベルで、主にはグルフェーを出る時に大量に運んだ缶詰と保存食ばかりの、ここではこれは十分に変わったご馳走だった。
無数の切れ目を縦横に入れ終わって、シャッコが端のいびつなのを、ひとつスプーンですくい上げた。それを先に自分で食べてから、味見の結果を表情には一切浮かべず、隣りのひと欠片をまたすくい取って、今度は隣りで辛抱強く作業を見守っていたキリコへ差し出す。
ユーシャラに摂らせる食事のようだと思いながら、キリコは一瞬だけ唇をとがらせ、それからそのゼリーとやらへ向かって口を開けた。
スプーンから、つるりと口の中に滑り落ちて来る。甘くはない。コーヒーの、苦味よりは酸味の強い、どこか果物のような爽やかさが舌の上に広がって、シャッコと同じに、美味いと大袈裟に表しはしなくても、もうひとつと動く瞳が言っている。
ココナが作ってくれたそれの味と比べながら、キリコは唐突に、あれは自分の誕生日とやらのためだったことを思い出した。クリームのごってりと塗られたケーキなど、見ただけで胸焼けを起こしそうなキリコのために、何か特別にと、あれはそうではなかったか。
大仰なことを嫌うキリコへ、それ以外そうと分かるように特別変わったことはせずに、それでもそのために選んだコーヒーは少しばかりいつもとは違う豆だからと、ココナそう言っていた気がする。
そうして、もう日付など関係のないここでの暮らしで、一体今日は何月の何日だと思い巡らして、どう考えても自分の誕生日などではないことに思い至ってから、
「おまえが生まれた日は、いつだ。」
キリコは呆れるほどの唐突さで、シャッコに訊いた。
シャッコは一瞬考え込むような表情を目元に走らせたけれど、小さなボールにころころとコーヒーゼリーを分け入れながら、
「知らん。テダヤが憶えているはずだが、おれには関係ないからな。」
これもまた、クエント人特有の無関心さのひとつか。確かに、知らなくても不便はない。それはキリコも同じだ。それでも、シャッコの誕生日を知っている──それだけではなく、あの男は恐らく、シャッコが生まれた時からをすべて知っている──と言うテダヤに向かって素早く湧いたのが嫉妬らしいと、心のどこかが痛みを伴って揺れたのに、キリコは自分で驚きながら、そこから心をそらすために、まだ舌の上に残るコーヒーの香りへ意識を寄せた。
分け終えたゼリーへ、シャッコが用意していた白い蜜を掛ける。匂いで、ユーシャラの飲む山羊の乳と分かるけれど、それよりさらに甘い香りがした。
「砂糖を入れて煮詰めた。ユーシャラには甘過ぎるからな。」
だから、ユーシャラの寝た後で、自分たちだけで、こっそりと。
自分へ差し出されたボールをまだ受け取らずに、キリコはシャッコを見上げている。
ユーシャラを育てるためのここでの暮らしで、今だけはユーシャラをあちらに置いて、ふたりだけで。互いの誕生日すら知らないふたりは、それでもまるで生まれた時にはその運命を定められていたように、辺境の土地にひと時根を下ろし、今肩を寄せ合うように生きている。
ココナたちと同じだ。やっとボールへ手を伸ばし、キリコは思った。
ココナとヴァニラとゴウト。ユーシャラとシャッコとキリコ。血の繋がりのない者たちが、巡り会って一緒に流れてゆく。同じ屋根の下で、同じ食卓を囲み、似たような物を好んで、そうやって些細なまま、日々は流れてゆく。
ココナたちは、互いの誕生日をきちんと祝い合うのだろう。祝ってくれる誰かがいて、初めて生まれた日は意味を持つのだ。生まれて来てくれてありがとう、この世に在ってくれてありがとう、出会ってくれてありがとう、同じ時を過ごしてくれてありがとう。ありがとう。ありがとう。
キリコは、同じことを今、シャッコとユーシャラに対して思った。生まれた日を特別に知る必要も、祝う必要も、確かにない。それでもキリコは確かに、シャッコとユーシャラに出会えたことに感謝している。
まるで引き寄せられるように、再会したシャッコとキリコと、その間に今はユーシャラがいる。
ユーシャラの生まれた日のことを思い出しながら、それが一体何月の何日だったか、正確な記憶はないキリコは、きっとココナたちなら覚えているだろうと思った。
ユーシャラの誕生日を、いつか祝おう。一緒に。3人で。
シャッコの作ったゼリーの、白い蜜の甘さを先に舌に乗せて、この爽やかな苦味を初めて味わうユーシャラの、まだおぼろにしか浮かばない少年の顔を何となく想像しながら、キリコは自分のボールからゼリーをひと欠片すくい、さっきシャッコが自分にそうしたように、シャッコの口元へ差し出してみる。
特に他意のない仕草だった。さっき自分の心の端へ浮かんだ感謝の気持ちを、何となくそうして表わしたくなって、そうしてみただけのことだった。キリコの瞳の色を読んだのかどうか、シャッコの頬の辺りへ怪訝の表情が刷かれはしたけれど、それは瞬きの間にも足らず、シャッコはキリコの方へ向かって背高い体をかがめ、キリコの差し出したスプーンを素直にくわえた。
「・・・美味いな。」
シャッコがもぐもぐと口を動かすのを見て、やっとキリコが言う。ああ、と素っ気なく、これを作った本人はただ浅くうなずいて、
「今度は、山羊の乳だけで作ってみるか、ユーシャラ用に。」
「そうだな。」
狭い台所で、ふたりは高さの揃わない肩を並べ、一緒にコーヒーのゼリーを食べている。子どもの寝ている間に、ふたりきりで。ふたりだけで。何の変哲もない、そんなただの普通の日だった。