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30日間好きCPチャレンジより

02 - Cuddling somewhere / どこかでいちゃいちゃする

 ユーシャラの昼寝の隙に、昼食の後の台所を片付ける。鍋はシャッコが磨き、キリコは皿を洗った。残った水気はシャッコが拭き取り、受け取ってキリコが棚にしまう。鍋は下の方だから、ほとんど床に這うようにして、けれど食器は上の棚だから、時々キリコが背伸びをしても届かない。シャッコに合わせた作りは、時々キリコに無理が出る。
 両手の塞がっているシャッコが、キリコから皿を取り上げようとしたけれど、キリコはそれを首を振って断り、こんな時用の踏み台──ユーシャラの椅子になったり、遊び場になったりすることがもっぱらだ──を運んで来て、棚の前へ届くように置いて、ひょいと上に乗った。
 台に乗ったままシャッコの方を見て、それでもシャッコの肩には届いていない。長身で長命のクエント人は最初から規格外だし、特にシャッコは、クエント人の中でも長身の部類だから、キリコはちょっと見えないように肩をすくめて、また受け取った皿をかちゃかちゃ棚の中に収めた。
 またシャッコを見る。いつもは遥かに遠いシャッコが、今は少し近い。30数年前に別れた時と、変わっていることと言えば髪の長さくらいで、その髪を自分の指に絡め取る時の、シャッコの首筋の熱さを思い出して、キリコは自分に向かってちょっと眉を上げた。
 「なんだ。」
 皿を拭きながら、シャッコがキリコの視線に気づいて訊く。キリコは唇をことさらむっつり結んで、別に、と答えた。
 何でもない、と続けようとしたのに、わずかに開いた唇がそのまま、閉じることを忘れたようにシャッコへ向かってかすかに動いて、物言いたげな、それなのに言葉の見つからない自分の、心の内側の波打ちように驚きながら、キリコは、シャッコが自分に差し出した皿にではなく、シャッコの後ろ髪に向かって手を伸ばしている。
 「なんだ。」
 またシャッコが訊いた。
 「何でもない。」
 そう答えるくせに、指先はシャッコの髪に触れたまま、精一杯腕を伸ばさなくても今は届くその髪の先へ、キリコは指先を遊ばせたまま、さっき物言いたげに開きかけた唇の代わりに、今は緑がかった青い瞳をわずかに細めて、シャッコへ向かって目を凝らしている。
 シャッコは、皿を受け取らないキリコに、いつもの表情のない瞳を向けて、髪に触れられていることが快とも不快とも見せず、キリコの手遊(すさ)びが終わるのをただ黙って待っている。
 洗われて乾いた皿はそこに宙ぶらりん、ふたりはそうしてしばらくの間見つめ合っていた。
 踏み台の上で、キリコは爪先を滑らせて、じりっとシャッコの方へ寄った。せいぜい10センチ足らず近寄って、けれどそうすれば目線はさらに近くなり、キリコは知らずシャッコの首に触れる指先に、そっと力を入れ始めていた。
 キリコを見下ろして、シャッコもキリコの方へ近寄った。半歩よりわずかに狭く、そうするとぶつかった肩をずらして、結局は体半分互いに向かい合って、もっと近く見つめ合う羽目になる。
 皿は、かたんと音を立てて、すでに洗った他の食器の傍らへ戻された。
 キリコは踏み台の上で、軽くかかとを持ち上げる。それだけで、シャッコの肩の向こうが見える。シャッコの長い腕がキリコの腰へ回る。肩ではなく、今は腰を抱き寄せに来る。たかが30センチの踏み台が、奇妙にふたりを近寄せていた。
 抱き合うのが楽だ。シャッコの目線に自分を近づけてシャッコを抱きしめて、キリコはふと自分の足元へ視線を流した。
 思った以上に床が遠い。そのまま天井を、瞳を押し上げて眺め上げてから、シャッコがいつも見ている世界を、自分の傍らへ手繰り寄せてみようとする。
 シャッコの指先が、キリコの髪を探った。大きな掌が、頬やあごの線を包みに来る。ユーシャラに触れる時には、いっそう穏やかになるその手指に触れられて、キリコは動物の仔のように喉を伸ばした。
 別に、ここから先を求めているわけではなかった。普段見ない近さにあるシャッコに、この距離から触れてみたいと思っただけだった。キリコの心を読んでか、シャッコはキリコの背中や腰の辺りに触れはしても、それ以上には指先を動かさず、ただキリコの腕の動きを慎重に見守っている。
 キリコは、胸を重ねて、両腕全部でシャッコの首を抱きしめ、踏み台の上から落ちないようにだけ気をつけながら、シャッコへ体をすりつけていた。そうできるなら、ごろごろ喉でも鳴らしそうに、そうしてついにシャッコのあごへ額をこすりつけてから、伸び上がって唇へ軽く触れる。かすめるように、撫でて遠ざかろうとしたキリコの唇を、シャッコが逃がさない。あごの先を押さえられて逃げられずに、逃げる気は一瞬で忘れて、キリコは自分から唇を開いていた。
 「・・・おれたちも、昼寝でもするか・・・。」
 ほとんど唇の位置をずらさずに、呼吸と一緒にシャッコがささやいた。
 「──昼寝ならな。」
 すかさず答えて、シャッコの瞳がちょっと泳いだのに、キリコは薄い笑みを刷いて、シャッコの髪を撫でながらまた唇を近づける。
 この近さで、ただこうして抱き合っていたいのだと、自分の腕の動きに言わせて、まだ終わっていない後片付けにわずかに心を残しながら、キリコは踏み台の上で背伸びを続けている。
 キリコを抱き寄せて、額へ唇を滑らせながら、普段にない近さで覗き込むキリコの瞳の中の小さな自分へ、シャッコが微笑み掛けた。微笑むシャッコの瞳の中にも、キリコが小さく映っている。
 ふたりの傍で、濡れた皿がすっかり乾き始めていた。

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25 - Gazing into each other's eyes / 互いに見つめ合う

 熱の上がった体からいつの間にか汗が吹き出して、皮膚が濡れている。シャッコの首に両腕を回して、その腕がぬるぬる滑るのに、キリコは決してわざとではない振りで、その腕の輪をそっと縮めた。
 体を近寄せると胸がこすれ合う。時々鎖骨や肩がぶつかって、硬い音を身内に響かせた。その合間に、湿った呼吸が音を重ねる。短さも長さも、揃っているようなばらばらのような、吸って吐いて、そうして繰り返しているうちに、時折確かに呼吸の重なる瞬間があって、それに気づくと、ふたりは必ず揃ったリズムの再びずれる一瞬の前に、微笑み合うような視線を上下で交わす。
 キリコは今も、瞳の青さをちょっとだけ深めて、何度か止めたせいでシャッコのそれとはずれてしまった自分の呼吸を、追い掛けるようにリズムを整えているところだった。
 汗で濡れた皮膚と同じように、ふたりの呼吸も濡れて湿っている。その息に、小さな部屋の空気も熱っぽくこもり、ふたりが閉じこもるシーツの中はいっそう空気が熱い。
 ATのスコープを通さない生身の視線は、薄闇の中ではもちろん利かずに、それでもこんなに近々と寄れば、閉じて開くまぶたの上下する、眼球を覆う薄い皮膚が、その動きにかすかに慄えているのが見えるような気すらする。
 そのキリコのまぶたに、不意にシャッコが唇を落とした。その唇の熱さと湿りに、キリコは思わずぎゅっと目を閉じて、自分の火照る頬が同じように熱いのだとは知らずに、もっと熱い自分の胸を反らして体を寄せ、シャッコの、これもひどく熱い背中に両腕を滑らせた。
 殺す声が、シャッコの胸に当たる。その声をそそのかすように、シャッコがキリコの耳朶を食む。耳の後ろへ舌が滑ると、もう声を耐え切れずに、キリコは頭の下の枕の端を引き寄せ、歯列の間にきつく噛む。噛みながら、ただ体が動くままに、肩を回してうつぶせになった。
 またぬるりと濡れた皮膚が、こすれながら滑り、動きにつれてかき交ぜられた空気が数瞬、ふたりの皮膚の上でだけ温度を下げて、けれどそれも、再び躯が近寄ればすぐに元通りだ。
 背中と胸が重なる間に、そうと意識もしないまま投げ出した脚を絡めるようにして、キリコの腿の間へシャッコの熱が触れて滑ってゆく。キリコはちょっと背中の根を震わせてから、待ちかねたと言うでも渋々と言うでもどちらでもない風に、腰を軽く上げて、先を読んだ動きを取った。
 膝から、シャッコの手が、体の外側を滑り上がって行く。腰の骨を指先が通り過ぎると、さらに腰を高くして、腿の裏側をこすりつけるように動く。
 キリコは、その間もシャッコの呼吸を聞いて、今はふたり分の汗に湿ったシーツの上で、そうとは気づかずに腰の辺りをうねらせていた。
 そうして後ろから躯が繋がるのに、何度も息を止めながら、ふと瞳だけを動かしてシャッコを見ようとする。肩越しの横顔で、息を止めるのと同時に声も噛み殺して、いつもこうするのを無茶だと思うのは絶対に表情には出さない。
 意外なほど、ちょっと追い詰められたようなシャッコの表情が視界の端に入って、キリコは思わず眉を寄せて、そこから視線を外した。
 無茶なのは知っている。それはお互いさまだ。それでも、そうしたいと思って、そうし続けているのはどうしてなのだろう。こすり合わせる肌から伝わるものがあると、知ってしまえばもう知らなかった以前には戻れない。互いの躯の熱さに触れてしまえば、いくら表面を冷たく取り繕っても、もう何も隠し事はできない。
 自分の躯から、この男に伝わるのは何だろうかと、キリコは考える。平たくした躯を開いて、この男を受け入れている自分の上がる熱から、この男は一体何を読み取っているのだろう。
 痛みばかりを感じているようでいて、実のところそれだけではないからこそ、こうして抱き合い続けて、その先もないふたりの間で、一体何が通じ合っているのだろう。寄せる波を受け止めながら、キリコはまだ溶け切らない頭の片隅で考え続けている。
 繋げた躯から、直接キリコの感覚を読み取ってか、シャッコが静かに躯を引く。離れた背中と胸の間に空気がぬるく滑り込んで来て、思わず反らしたその背を、シャッコが引き寄せて体の向きを変えさせた。
 空気よりもふた色濃い影と一緒に、シャッコがキリコに覆いかぶさって来る。キリコは大きく見開いた目でそれを眺めて、自分なぞすっかり覆い尽くしてしまえるシャッコの体の大きさを改めて自分の上に感じながら、けれどその重さも、そして締めつけて来る腕の力も、実際の半分も感じられないことの意味を、シャッコの背を抱きながら考えた。
 また躯が繋がる。さっきよりは滑らかに、シャッコがゆっくりと出入りを繰り返して、キリコは脚の位置を何度か変えながら、主には自分のためにできるだけ楽な位置を探り出して、シャッコの背中の真ん中辺りで手首を重ねた。
 ATなどなくても、素手でいくらでも人を殴り倒せるだろうこの男の、けれど他人に触れる手はひどく穏やかだ。幼いユーシャラに向かってと言うだけではなく、他人を傷つけるために触れることを、この男はしない。
 他人との交わりの大半が暴力だったキリコにとって、寄せ合う体がただあたたかいことは驚きだったし、力の誇示や発散のためでなく自分を抱き寄せるこの男の手指の優しい動きは、キリコにはほとんど経験のないものだった。
 また、汗で腕が滑る。ぬるぬると躯が滑り合うのは、けれど今は汗だけではなくて、今ではシャッコの胸に向かって短い息と一緒に声も吐きながら、キリコは薄目にシャッコのあごの辺りへ視線を当てた。
 上目のその視線を、シャッコが下目に捉えて、そうして、熱っぽく絡んだ視線が、繋がる躯よりもはっきりと潤みを増して、言葉より何より雄弁に、ふたりの間に優しさを通わせてゆく。
 見つめ合ったまま、躯が動く。額が触れ合い、そこで前髪が絡んで、その近さでも視線を外すことなく、ふたりは見つめ合っている。互いの瞳に互いが映り込んで、よく見ればきっと、その中の互いの瞳にも互いが映り込んでいる。
 そうして永遠に続いて連なってゆく見つめ合いは、いつまでも終わらないように、熱をたたえて繋がった躯が、するりと外れても視線は外れない。
 近づく唇の先が触れ合う一瞬前に、ようやく目を閉じて、それでもまぶたの奥の闇に手繰り寄せる互いの表情は、瞳の中に映り込んだままだった。

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22 - In battle, side-by-side / 競り合い、共闘

 ユーシャラは、シャッコのシャツが好きだ。洗ってあるものではなくて、シャッコが1日着た後で、汚れもののかごの中へ放り込んでおいたのを、いつの間にか引っ張り出して、引きずって連れ歩いている。
 ユーシャラくらいの子どもなら、10人くらいは包み込めそうなシャッコの大きなシャツを、毛布か何かのように身にまとって、時には昼寝の相手までさせる。
 最初の数ヶ月を一緒に過ごしたのはキリコだったとは言え、その後の面倒を見ているのはシャッコだったから、ユーシャラがシャッコの匂いを恋しがって、代わりにシャツを手離さないのは理解できる話ではあった。
 とは言え、時々家の外にも持ち出して泥まみれにされると、たまたま洗濯の番に当たった方には当然手間になる。ただでさえ、ユーシャラの服の、泥やら草の汁やらの染みはなかなか落ちずに毎回苦労していると言うのに。
 雨が降ったり止んだりの日が数日続き、なかなかまとまった晴れ間のない間に洗濯物がたまり、最初に着替えが危うくなったのはユーシャラの分で、その次はシャッコの分だった。
 「これを脱がせたら次がない。」
 逃げようとするユーシャラを掴まえて、くるりとシャツを首から抜かせようとしながら、シャッコが言う。
 「いい、裸でいたところで、風邪さえ引かせなければいい。」
 キリコは洗濯機の傍の洗い場へ、ユーシャラの小さなシャツや靴下を放り込むように指し示して、シャッコに抵抗するユーシャラを抑えるのに手を貸しながら、暴れるユーシャラの爪先に肩の辺りを軽く蹴られる。
 こんな時には声を荒げる前に、無言で華奢な手首やら足首をちょっと強く掴んで、ユーシャラを黙らせるに限る。
 下着だけになったユーシャラは、地面に下ろされると、一人前に怒ってるんだぞと言う風にふっくらした腕を胸の前で組み、はるか頭上の大人ふたりへ向かって、これも丸い小さな胸を精一杯反らして見せる。
 ふたりはそんなユーシャラを相手にはせず、キリコの方はさっさと洗濯に取り掛かることにした。
 すでに運んで来ている洗濯物のかごは、中身が縁からあふれんばかりで、キリコは無造作にその山のてっぺんを両手に抱え込み、分けることもせずそのままばさばさと洗濯機の中へ放り込んだ。
 キリコが洗濯機へ向いている間に、ユーシャラは裸にされた仕返しのつもりかどうか、まだ中身の残るかごの中から、素早くシャッコのシャツを見分けて抜き取り、シャッコも間に合わないはしこさで、そこから走って逃げ出した。
 「ユーシャラ!」
 ほとんど丸裸の幼児が、自分では一人前のつもりでATの置いてある倉庫の中を走り回って、何かにつまずいて転ぶと大怪我をする。シャッコはそれを恐れてすぐに後を追い、ひらひら白い下着の裾を短い足に絡ませて、それでも確かな足取りで走るユーシャラの小さな体を、ベルゼルガの陰にようやく掴まえる。
 片手にゆうゆうとユーシャラの細い胴を掴んで、シャッコは自分のシャツを取り上げると、それをキリコへ渡すために洗濯室の方へ戻った。せっかくの戦利品を取り上げられたユーシャラは、当然金切り声で泣き出す。シャッコは首を振り、キリコもため息を吐いて、同じように首を振った。
 シャッコのそのシャツが洗濯機の中へ放り込まれると、ユーシャラの泣き声はいっそう大きくなり、ここが普通に隣人のいる町中なら、子どもに乱暴でもしているのではないかと、あらぬ疑いを掛けられるところだ。
 さすがに、子ども相手に、黙れと怒鳴るわけにも行かず──怒鳴ったところで、泣き止むわけではない──、シャッコはとりあえず泣き喚くユーシャラを抱えて、その場を離れることにした。
 肩へ小さなあごを乗せるように抱き直されたユーシャラは、そのシャッコの腕の中からするりと抜け出してシャッコの肩へ乗り上がり、あろうことか、そこから洗濯機の中へ向かって飛ぼうとした。
 子どもの成長は早い。クエント人の子なら、尚更だ。さすがにこれはふたりともに予想外で、立ち去るために洗濯機へ背を向けていたシャッコは振り向くのに間に合わず、幸いに、すぐそこへ立っていたキリコが腕を伸ばして、洗濯機の中へ飛び込む直前にユーシャラを抱き止めて、すでにひたひたのぬるま湯につかっている洗濯物たちには参加せずに済んだ。
 ユーシャラが、せめて少年と言える程度に成長していたなら、きっとキリコは黙って平手打ちのひとつくらいお見舞いしたところだろう。けれどユーシャラは、やっとひとりで走り回れる程度になっただけの幼児だったし、そしてここは荒くれの傭兵たちを集めた戦場でもなかったから、涙に汚れたユーシャラをぎっとひとにらみしただけで自分の足元に降ろし、キリコはまた洗濯機へ向き合った。
 そうすると、ユーシャラは無視されたと思ったのか、今度は目標をキリコに変えて、その足にしがみついて足首辺りを必死で蹴り始める。
 子どもの癇癪には誰も勝てない。
 「・・・昼寝でもさせるか。」
 朝食が終わったばかりの、昼にはまだ間があると言うのに、シャッコが言う。ユーシャラがおとなしく寝るわけがないと思いながら、それでもそれ以外に思いつけることがなく、キリコは横顔を無表情にシャッコに見せているだけだった。
 ユーシャラは、キリコが無反応なのに焦れて疲れて、キリコの足を蹴るのを止めると、次は何に当り散らそうかとぐるりと首を回す。シャッコはそれを見て、クエント語でユーシャラに何か言った。
 そうして、その場で着ていたシャツをくるりと脱いで、ほらと言いながらユーシャラへ差し出す。ユーシャラはそのシャツに飛びついて胸に抱き込むと、顔を埋めるようにして、またシャッコが何かクエント語で付け加えたのにしきりにうなずいて見せる。
 キリコにはよく分からなかったけれど、クエント人のふたりの間で何やら取り引きが成立したらしかった。
 「それをユーシャラにやったら、次がないんじゃないのか。」
 ぐるぐる回り始めた泡立つ水を見下ろして、キリコがぼそりと言う。
 「風邪さえ引かないなら、裸でいてもいいんだろう。」
 さっきキリコが、ユーシャラのことを言ったのを、ちょっと茶化すように声だけはいつもの平たさでシャッコが言い返した。
 すっかり機嫌の良くなったらしいユーシャラを、今度は優しい手つきで抱き上げて、自分のシャツで幼児の裸をくるみながら、シャッコの口元にはもう笑みが浮かんでいる。
 シャッコのシャツにくるまれて、シャッコに抱かれて、ユーシャラはさっきまでの不機嫌などきれいに忘れたように、にこにことシャッコの太い首に抱きついて、しきりに倉庫の方を指差し始めた。
 「ベルゼルガに乗って来る。」
 「ユーシャラも一緒にか。」
 「ユーシャラには、ATは揺りかごみたいなものだ。そうだろう。」
 生まれたばかりのユーシャラごと、ヌルゲラントの地下へ落ちた時のことを、ふたり一緒に思い出す。ユーシャラがあの時のことを覚えているのかどうか、血なまぐさい戦場ばかりを走り回っていたAT乗りのふたりに育てられている幼な子は、アストラギウス語の会話を理解している風もなく、早くと言いたげに、シャッコの首を軽く叩いて甲高い声を立てている。
 ユーシャラに促されて、倉庫の方へ歩き出すシャッコの、裸の肩甲骨へ気づかれないようにじっと目を凝らして、キリコはふたりの姿が消えた後でようやくそこから視線を動かし、後ろの洗濯物の山──少し嵩が減っている──へ目をやった。
 ベルゼルガが動き出した音がする。コックピットの開閉の音に続いて、降着ポーズから体を伸ばし、完全に立ち上がった状態から歩き出す。音で、ベルゼルガの動きが、キリコには手に取るように分かる。どしんどしんと、倉庫の外へ出たらしい辺りで、きゅいーんと、ローラーダッシュの音が響いて、そうして、ベルゼルガの気配が遠ざかってゆく。
 音の方へ顔を向けながら、キリコの手は洗濯物の山へ伸びて、正確にシャッコのシャツを取り上げていた。ユーシャラが一度持てば手離したがらないそれを下目に、すかすように見て、キリコはふんと鼻を鳴らす。
 シャッコの、裸の背中がまた目の前に迫って来て、風邪を引こうと引くまいと、裸でうろうろされるのは少し困るのだと、自分の中で正直な声がするのに、忌々しげに耳を傾けた。
 ユーシャラのように癇癪を起こすわけには行かず、キリコはシャッコのシャツをかごの中へ投げ戻すと、その場で乱暴に自分のシャツを脱ぎ始めた。今着替える必要は特にはないのに、そのまま洗濯物へ仲間入りさせて、今日は3人揃って裸のままだと、何のためへの意趣返しのつもりか自分でも分からないまま、声に出してひとりごちる。
 ベルゼルガの気配がまったくないのを確かめてから、またかごの方へ手を伸ばし、さっき取ったシャッコのシャツを再び取り上げる。さすがに、抱きしめる気にはならずに、それでも思いついて肩へ掛けて、それから洗濯機の方へ向き直った。
 キリコに触れる時には必ず汗に湿っているシャッコの直の膚とは違って、シャツの手触りはさらりと乾いている。ユーシャラにはシャッコ自身の代わりになっても、キリコにはそうならない。
 シャッコのシャツを抱いたまま眠るユーシャラの姿を想像しながら、今夜、とキリコは胸の中でだけ思った。

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17 - Spooning / 添い寝

 キリコのベッドは、いつも空だ。
 夜になれば、キリコが眠るのはシャッコのベッドで、一体いつの間にそんなことになったのか、きちんと整えられている自分のベッドにキリコは滅多と近づくことはなく、キリコは当然のようにシャッコのベッドへもぐり込み、シャッコも、当然のように自分の隣りをキリコの分空けている。
 いっそキリコのベッドはそこから動かしてしまうかと、シャッコが言ったことがある。キリコは即座に首を振り、
 「時々、ユーシャラが忍び込んで来るからな。」
 幼い子ども用に、ぐるり柵に囲まれたベッドを、ユーシャラは時折器用に抜け出して、ふたりの部屋へやって来る。ふたりが一緒に寝ているシャッコのベッドに這い上がり──一体どうやって、ノブに背の届かない部屋のドアを開けて来るのか、いまだに謎だ──、そうしてどちらかを起こし、一緒に寝たいと駄々をこねる。
 まだ小さなユーシャラは、容易にふたりのどちらかの下敷きになってしまうだろうから、何とかその駄々をなだめすかして、キリコのベッドへ移動させる。キリコの枕へ小さな頭を横たえさせ、相変わらずこれは治る様子のない癖で親指を口の中に差し入れ、ユーシャラはふたりが同じ部屋にいることに安心すると、そこでまた眠りに落ちる。
 ユーシャラが静かになると、ふたりもまた、改めて一緒に眠りに落ちる。
 そのために、それ以外には滅多と使われないキリコのベッドは部屋の半分を占領したまま、そこから移動させられる予定は今のところない。
 今夜、ユーシャラを寝かしつけたのはシャッコだった。
 シャッコの長い腕の中に、くったりと小さな熱い体を横たえて、それでもそっとベッドの上に下ろそうとすると目を覚まし掛けるので、意外に手間取って、いつものように親指をしゃぶりながらようやく寝たユーシャラを置いて、シャッコはそっと部屋を出る。
 短い廊下を3歩進んで自分たちの部屋へ来ると、もうベッドの中にはキリコがいた。
 シャッコの、体の大きさに合わせたつもりか、横に長い枕の端へ頭を乗せ、きちんと左側はシャッコのために空けてある。兵隊時代の狭い寝床への慣れのせいかどうか、キリコはいつも手足を縮め気味に、ベッドの広さを味わう気もなさそうに、背中の方は今にもベッドの縁からはみ出しそうだ。
 シャッコは空いている側へ回り、そこからそっと毛布を持ち上げて、ベッドの中へ入った。
 体の重みで表面が沈み込み、内側がぎっと音を立てる。キリコは、眠っていたわけではない素早さで目を開き、シャッコが目の前にやって来たことを確かめると、さらにシャッコに譲るように、わずかに体を後ろへ引く。
 キリコをそれ以上向こうへ押すつもりはなく、けれどぴたりと体が添うように、シャッコはベッドの中へすっぽりと入り込んだ。
 自分の腰回りに乗ったシャッコの腕を、キリコは撫ではしても引き寄せることはしない。今夜はただこうして眠るだけだと、そういう意味だ。
 挨拶のために口づけを交わすこともしなければ、拒まれたと言っていちいち傷つくような熱っぽい関係でもないふたりは、あっさりと今夜の成り行きを受け入れて、シャッコはそれでももう少しキリコへ体を近寄せてから、キリコの前髪の間から額へ唇を押し当てた。ユーシャラにするのと、同じ類いの親愛の表現は素直に受け入れて、キリコはちょっと照れたように伏し目になる。
 おやすみ、とシャッコが言った。お休み、とキリコが返した。
 キリコの目の前で、シャッコがくるりと寝返りを打つ。向こうを向いて、キリコに大きな背中を向けて、今度はシャッコがキリコに少し譲るために、シャッコの体がやや遠のく。
 ふたりの体の間に渡った毛布の隙間に、すっと冷たい空気が入って来て、シャッコは知らずに裸の背中を震わせていた。
 互いに、目を閉じたのが、空気のかすかな揺れで分かる。眠りに落ちる努力を数分した後で、キリコは再び目を開けて、そのまましばらくじっとしていた。
 それから、縮めていた手足を少しだけ伸ばして、キリコはその伸ばした腕をそのまま、シャッコの方へ向ける。そっと腰へ乗せ、シャッコの眠りを妨げないようにしながら、次第に体を近づけてゆく。
 間にあった距離を押し潰すようにして、枕の上で頭を滑らせ、シャッコの首の付け根辺りへ額を当てる。シャッコの体に自分の体を添わせ、ぴったりと背中へ重なって、そろそろと腰に乗せていた腕を腹へ滑らせると、水のような滑らかさで、シャッコの手がそこへ重なって来る。
 キリコは、そこでゆっくりと息を吐いた。
 繋げることはしない体を、それでも重ねて合わせて眠る。毛布の外にある冷たい空気を拒むように、ふたりの体温でベッドの中をあたためて、静かで健やかな眠りを、一緒に貪る。
 敵はどこにもいない。襲われる予定もない。何かに備える予感など埒外にして、ふたりはただ、一緒に寄り添って眠る。傷つけることも、傷つけられることも拒んで、ここへたどり着いたふたりは、朝には何も覚えていない夢を分け合って、ひそやかな夜を共に過ごす。ふたりの眠りはあたたかく、静かで、そして恐ろしいほど穏やかだった。
 それを破るのは、幼な子の泣き声と駄々だけだ。
 そのどちらも今夜はないことを祈りながら、キリコはシャッコの背中へ伏せた目を、そっとそこで閉じる。すでに始まっているシャッコの寝息へ自分のそれを重ねながら、そっと繋いだ手は離さないままだ。
 呼吸と鼓動は一緒に間遠になり、交ざる体温はゆるやかに上昇してゆく。
 目覚める頃には、今度はシャッコがキリコの背中を抱いている。それを知らないキリコは、ただシャッコの腰へ回した腕に少しだけ力を入れて、いっそうふたつの体を近寄せて行った。

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12 - Making out / (際どく)イチャラブする

 キリコが伸び上がって来る。シャッコの肩に手を掛けてほとんどよじ登るように、まだ伏せている顔の、丸い額が白く見える。
 首に指が伸びて来ると、シャッコはキリコへ向かって前かがみになって、キリコが自分を首から抱き寄せたふた拍後で、キリコの腰へ両腕を巻く。
 キリコに肩車されてもユーシャラはシャッコへは届かないこの身長差を、最初の頃はひどく持て余したものだ。一体どうやって体を添わせればいいものか分からずに、体を倒せばまだましにはなっても、そこへ行き着くまでの手順に、ふたり一緒に散々迷って戸惑うしかなかった。
 嵩高い耐圧服の下では、少年めいた薄い体つきが強調されるくせに、裸になれば胸も肩もきちんと大人の厚みの、キリコの固い体を抱きしめて、今では自分の腕がどこならきちんと添ってゆくのか、シャッコは熟知している。
 こうして抱き合ったまま、胸を重ねるには無理がある。さっさと抱き上げて部屋に運んでしまえばいいと思いながら、キリコの求めている先がまだ分からずに、シャッコは黙ってキリコの背中を撫でていた。
 ただ、誰かを抱きしめたい時もある。誰かを抱きしめると言うことは、相手に抱きしめられると言うことでもある。それにただ応えて、シャッコはキリコの体の両腕を巻いて、キリコが一体どうしたいのかだけを探ろうとしている。
 なぜだかは分からない。他の誰に触れても、こんな感覚はなかった。キリコに触れ、触れられた時にだけ、血の騒ぐ音がはっきりと聞こえる。子どもを作る役目を負った民だけが、決まった時期にだけつがうのがクエントのやり方だ。傭兵であるシャッコはそのことに無関係であり、子どもなど生まれるはずもないキリコとの間のことは、いっそうそれから遠い。
 恐らく、クエント人であり傭兵であり続ける限りは、ひと筋も感じるはずのなかったその血のざわめきを、キリコはシャッコの中に呼び起こす。子どもを作ることとは関係なく、ただふたりは、そうしたいと言うだけのことで、互いの体に触れる。
 ぴったりと寄り添うには無理のある体を添わせて、互いの心の中──少なくとも、シャッコはキリコの──を測りながら、なぜこんなにも互いの体温と皮膚の感触がいとおしいのかと半ば訝りながら、後も先もないそのぬくもりの中へ、ゆっくりと沈み込んでゆく。
 キリコの指先がシャッコの後ろ髪へもぐり込み、指の間に絡め取った。
 いつもより近く寄って来るキリコの体から、正確にその意味を読み取って、シャッコはキリコの腰を抱いた腕の輪を、黙ってそっと縮める。
 「・・・ユーシャラは?」
 耳朶を噛んだ後にひそめた声で訊くと、
 「もう寝た。」
 低めない声で、はっきりとキリコが答える。
 だったら、そのまま抱き上げて部屋に運んでしまえば、話は早かった。それなのに、抱き合う内に少し移動した先で、キリコのブーツの踵が食卓の椅子の脚を蹴り、がたんと、狭い家中に響く音を立てて、一瞬ふたりは息も動きも止めて、ユーシャラの部屋の方へ耳を澄ませる。
 家の中は静かなまま、ユーシャラが起きた気配はなかった。
 シャッコは、ユーシャラの部屋の方を意識を半分向けたまま、すいとキリコの体を下からすくい上げ、テーブルの上に乗せてしまう。驚いて自分の首から腕を外したキリコを改めてそこで抱き直して、そうすれば近づく胸の位置で、さっきよりも近々と体が寄り添った。
 テーブルの上に坐り込んだ形に、それはユーシャラには行儀が悪いと許さないことなのに、自分がそうしていることに少しだけ居心地の悪さを感じながら、キリコはシャッコの背中へ腕を回し、目の前の肩にそっと顎を乗せた。
 互いの体が、いつもより近い。伸び上がらなくていいのは、前かがみにならなくていいのは、楽だ。腕の巻きつき方に無理が減って、ふたりは同時に、そっと息を吐いた。
 腕の中で、互いの体から、無駄な力が抜けてゆく。まるで融けるように、体がふたつ、やわらかくほどけ合ってゆく。唇が重なっても、まだ手指は不埒には動き始めない。体の近さに感謝するように、唇だけが熱をこめて触れ合っている。
 目を覚まさないユーシャラに安堵しても、さすがにここでと言うわけには行かない。それでも、まだ先へは進まずに、目の前にいる互いを、抱きしめていたかった。
 開いた膝の間にシャッコを引き寄せても、キリコの腿の内側へ掌を滑らせても、口づけ以上のことはまだ始めずに、互いの体に掛けて、巻きつけた腕が、するする自由自在に動くのを、ふたりは無言で楽しんでいる。
 馴染んだ互いの体へ、馴染んだ感覚が起こり、予想通りに血がざわめきを深めてゆく。こすり合わせた首筋に、その血の流れる音を聞いて、互いしか知らないその音へ、今はじっと耳を澄ませている。
 シャッコの腕の中で、こんな風に体をほどくのはキリコだけだった。キリコの腕の中にこんな風に在れるのは、今はシャッコ──と、ユーシャラ──だけだった。
 やっと、キリコの掌がシャッコの素肌に触れて来る。この先が欲しいと言う、キリコの小さな声だ。それでも、シャッコはまだキリコを抱きしめる腕を外さずに、額の触れ合う近さでキリコを見つめて、緑にふた色寄ったその青い瞳の中に映る小さな自分を、確かめずにはいられない。
 確かめて、それから、シャッコはやっとキリコをすくうように抱き上げた。ふたりの部屋へ向かって爪先を回したシャッコの頬を、キリコが自分の方へ引き寄せる。半歩も進まないそこで、また唇が重なった。
 キリコの体の重みに、腕がしびれ始める前にさっさと部屋へ行ってしまおうと思いながら、口づけの思わぬ深さに、シャッコの足は止まったままだった。

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10 - With animal ears / ケモ耳

 ユーシャラが、きゃっきゃと甲高い笑い声を立てて、地面を転げ回っている。髪も手足も泥だらけになりながら、夕食前のひと時、まだ暗くはならない家の前で、一体何が面白いのか、そうして午後からずっとひとり遊びを続けていた。
 今日の食事当番はキリコだったから、シャッコは見張りがてらそのユーシャラの遊びに付き合い、自分も時々一緒に地面に坐り込んで、ユーシャラが頭上に精一杯腕を伸ばし、開いた手をひらひら揺すって見せるのを、ちゃんと深く感じ入ったような顔で見ている。
 それはどうやら砂モグラのつもりのようで、あの、気味の悪い口とおぼしき辺りからわさわさ伸びる、触手の真似らしかった。
 残念ながら砂モグラのように地面の下には潜れず、それでも寝転がってじたばたと手足を振り回し、きゃっきゃ笑い続ける口元まで泥だらけにして、ユーシャラはシャッコを見ながら何度も地面を叩いた。
 「ここに呼んだりするな、キリコとおれが困る。」
 砂モグラが出て来れば狩るだけだけれど、ユーシャラの目の前でそれをする気には何となくなれず、シャッコはちょっと真顔でそんな風に、言い聞かせるように言う。
 次にはすっくと立ち上がり、ユーシャラは今度は何度もしゃがんだり立ったりを繰り返して、それから、何か同意を求めるようにシャッコを見つめて来て、シャッコがよく分からないと言う表情を浮かべると、いきなりシャッコへ向かって小さな拳を突き出して来た。
 それをするユーシャラの表情はやたらに生真面目で、それがATの動きの真似だと気づいてから、シャッコは、それがキリコのスコープドッグのつもりか自分のベルゼルガのつもりか、どっちだろうと真剣に考える。
 シャッコが迷っていると、ユーシャラはもっと分かりやすくと、幼い頭で考えたのかどうか、左腕を胸の前に斜めに掲げて見せ、それがベルゼルガの盾のことだと悟ると、シャッコは思わず大きく破顔して、
 「おまえも、大きくなったらATに乗るか?」
と訊く。
 「のるー!」
 ユーシャラが、まるでシャッコがそのATのように飛びついて来て、すするすると肩の上に這い上がろうとした。
 シャッコはユーシャラを抱き上げながら立ち上がり、服についた泥を軽く叩いて落とすと、
 「キリコにはまだ言うな。」
 「きぃぃぃこぉ!きぃーこぉ! シャッコ!」
 まだ遊びの続きで、ユーシャラはシャッコの首にしがみつきながら、広い肩へ向かって小さな頭を振り立てて、そうしながら片手をまた頭上に上げて、ひらひらと砂モグラの触手の真似をする。
 まるで拾われてゆく砂モグラの幼体のように、ユーシャラはシャッコの肩の上で暴れ続けた。
 

 ユーシャラに食事をさせるのは時々戦争になる。どちらかが膝に抱いて、どちらかがユーシャラに用に小さく柔らかく煮た肉や豆を、スプーンでひとすくいずつ口に運ぶ。素直に飲み込むこともあれば、口に入れさえしないこともある。入れた後で、飲み込んだと思った瞬間、全部吐き出すこともある。ひたすら喚いて暴れて、食事どころか抱いていることさえできないこともある。
 今日は散々遊んだせいか、逆らって面白がる気分ではないようで、シャッコにおとなしく抱かれて、キリコが差し出す食事を割合素直に食べた。
 食べながら、まだユーシャラは砂モグラの真似を続けていて、両手を頭上でひらひらさせるのをシャッコが説明すると、キリコもまた薄く懸念を顔に浮かべ、
 「ここには呼ぶな。」
と、シャッコとまったく同じことを、アストラギスウ語で言う。ユーシャラは分からない風──ほんとうに理解できないのか、振りなのかは、誰にも分からない──にきょとんとキリコを見つめ、それから斜めにシャッコを振り仰ぎ、シャッコが何度か浅く頷いて見せるのを、これもそっくりにキリコに向かって真似して見せる。
 さっき、ベルゼルガの真似をして見せたとシャッコが言い、それから、どこか照れを含んだような声音で、見込みがあると言い足したのがまるきり親ばか丸出しで、自分のそんな表情に自覚のないらしいシャッコの、ゆるんだ口元を、キリコはそうとは悟らせずにきちんと見ていた。
 
 
 シャッコが食事の後片付けをする間に、キリコがユーシャラを風呂に入れ、さすがに疲れて来たのか時々薄目になりながら、それでもまだ砂モグラの真似には飽きず、洗われてようやく体が温まると、くったりとキリコの肩へ頭をもたせ掛け、ぐずる間もなく小さく寝息を立て始める。
 ATに乗っていてこんなに簡単に寝入ってしまうと死ぬぞと、キリコは内心で真顔で考えながら、自分もシャッコも、ユーシャラがいずれAT乗りになるのだと決め込んでいることを、心の片隅では不思議にも思っていた。
 自分たちがAT乗りで、そしてそのAT乗りの自分たちがユーシャラを育てているからだ。
 まだ幼児のユーシャラの、15歳の姿など思い浮かべることもできず、耐圧服を着てヘルメットをかぶり、律儀に真っ直ぐ前だけを見て操縦桿を握っているユーシャラの、ふたりそっくりな様子など、まだ想像もできなかった。
 寝かしつける前に、シャッコがユーシャラにお休みと言うだろうと、キリコが居間へ戻ると、シャッコの姿が見当たらず、ぐるり部屋の中を見渡して、壁際全部を占めている木のベンチの上で、シャッコが長々体を伸ばして──膝から下ははみ出している──うたた寝をしているのを見つけた。
 遊び疲れたのは、ユーシャラだけではないようだ。頭の下に敷いた黄色いクッション──この家の中の唯一の彩りは、ココナの手作りだ──から背もたれへ向かってずり落ちそうに、そのシャッコにそっと近づき、キリコは無表情のまま、何となく悪戯心を起こして、ゆっくり上下している胸の上へ、こちらもすでに眠っているユーシャラを、静かに静かにうつ伏せに乗せる。
 ふたりとも、眠りを妨げられることもなく、そのままいかにも心地よさそうに、ユーシャラはすぐに口元へ親指を運んだ。キリコは足音を消して、急いで台所からコーヒー──シャッコが淹れた──を取って来ると、これも音を立てないように椅子を引っ張ってきて、ふたりのすぐ傍へ腰を落ち着ける。
 万が一、どちらかが寝返りでも打ってユーシャラが床に落ちたりしないように見張りながら、キリコはひとり食後のコーヒーを、この穏やかな眺めと一緒にしばらく楽しむことにした。
 見ている間に、ふたりの寝息のリズムが時々重なり、似ているところと言って、髪の色の淡さ程度しかないふたりの、なぜか血の繋がっていると言われればそうかと納得できるような、キリコには決して理解できないクエント人独特の、何か共通する空気のようなものを感じて、あの村で極めて閉塞的に暮らしているなら、辿ればこのふたりに血縁関係があっても決しておかしくはないのだと考える。
 ユーシャラの父親が誰なのか、いまだキリコは知らず恐らく知ることはこれからもなく、シャッコはそれを重要とは考えず、少なくともシャッコの子と言うわけではないのだと、そう言われてキリコは疑問も抱かず、いつの間にか自分も、何となくクエント流の考え方に染まっているのだろうかと、ふとキリコは思った。
 少なくとも自分は、砂モグラを食料とは思わないし、可愛らしい生き物とも思わないと、一緒に眠る義理の親子──と、するりと考えた──を眺めて、またひと口コーヒーを飲む。そうしてまた、安らかに眠るふたりを眺め続けた。
 コーヒーを飲み終えても、まだ一向に目を覚ます様子のないふたりを、キリコはようやくベッドへ連れて行く気になり、まずはユーシャラをシャッコの上から抱き取る。
 「シャッコ、ここで寝るな。風邪を引く。」
 肩を揺すり、半ば本気で寝入っていたらしいシャッコがやっと薄目を開けたところで、キリコはそう声を掛けた。
 「ベッドに行け。」
 ああ、と寝呆けた声が言い、素直に長い手足が動く。キリコを上目に認めてから、ゆらりと立ち上がり、その肩にすがるようにして、ユーシャラを部屋へ運ぶキリコの後について来て、足元の何となく危ういシャッコを、キリコは部屋のドアを開けて中へ入れてやった。
 ベッドへ向かって背中を押すようにすると、ほとんど倒れるようにして毛布の下へ這い込み、キリコはユーシャラを抱いたまま、片手だけで毛布の位置を整えて 、いつもはユーシャラにするそっくりそのままの仕草で、思わずシャッコの肩を軽く叩きさえした。
 キリコはすぐには立ち去らず、さっきそうしてふたりを眺めていたように、今はシャッコを見下ろして、自分も今ではこんな風に、うなされもせずただ静かに眠るのだろうかと、近頃見た悪夢のことを思い出せないまま、抱いているユーシャラの小さな背を無意識に撫でていた。
 くったりと、無防備に、小さくて柔らかな体を自分に預けているユーシャラと、いかにも安逸な寝顔をこうして晒しているシャッコと、このふたりは確かに親子──血の繋がりはなくても──なのだと感じて、自分を間に置いて繋がるこのふたりが、自分をふたりへ繋げ、ふたりの中へ自分を含んでいるのだと確かに感じて、何か喉の下の方へ、小さな固まりが突然せり上がって来て、キリコは音を立てないようにそれを飲み込み、そして、自分の肩に乗る小さな頭へ、自分から頬を寄せて行った。
 シャッコがよくそうするように、ユーシャラの寝汗に湿り始めているこめかみに唇を落とし、そのまま頬ずりの小さな動きをして、それからキリコは、静かにベッドの縁へ腰を下ろして、もっと近くシャッコを見下ろした。
 「──シャッコ。」
 起こすつもりはなく、ただそうせずにはいられずに、低く声を掛ける。その続きに、ユーシャラの世話で疲れているだろうシャッコを、いたわるための言葉を滑り落とそうとして、キリコの声はそこで途切れた。
 戦場から生きて戻って来た仲間たちへ掛ける言葉は幾つか知っていても、平和な日常の中でそうするための語彙を、キリコは持たない。探しても見つからないその言葉を、キリコは切なく心の中で見送って、代わりに、眠っているシャッコへ向かって、ゆっくりと体を傾けた。
 ユーシャラにしたと同じ素振りで、キリコはシャッコの額へ口づけた。思ったよりも長い間そこへとどまった後で、離れた唇のまま、お休みと小さく言い、ユーシャラを両腕に抱き直して立ち上がる。
 もうふた呼吸、シャッコを見つめた後、キリコはようやく部屋を出た。
 ドアを閉め、斜め向かいのユーシャラの部屋のドアへ辿り着く間に、実はずっと眠ってはいなかったシャッコが、枕に真っ赤になった顔を埋めて、ユーシャラのそっくりの動作でベッドの中で長い手足をじたばたさせていたことを、キリコはもちろん知らないままだった。

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