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そして続く道 - その声

 下で、キリコの体がねじれている。シャッコが動くたび、まるで逃れるように肩を振って、それでも腕はシャッコの方へ伸びて来るから、やめろと言っているわけではないのだと分かる。
 口先よりも躯の方がずっと素直なキリコの、音のない言葉を聞き取るのにすでに長けているシャッコは、今もキリコが知らずに促している方向へ、求められる形に躯を深めた。
 動くと、キリコの喉が反る。3度に1度、殺し切れない声が天井へ届く。意外によく響くその声を、シャッコは嫌いではなかったけれど、自分の耳には実際よりも大きく聞こえるものかどうか、キリコは声を上げるたびに腕を噛んで口元を隠し、その陰でまた、喘ぐ。
 確かに、短い廊下を隔てた部屋で眠っている赤ん坊に積極的に聞かせたいわけではないけれど、そこまでは届くまいと思うのはシャッコだけなのか、キリコは顔を背けて、今度はそこにあった枕の角を噛んだ。ぎりっと、歯列が生地を噛みちぎる音さえ聞こえて、キリコの眉を寄せた苦しげな表情へ不埒に煽られる形に、シャッコはキリコの促しには従わずに、入り込んだ躯を一度引く。
 内側を引きずり出されるような感覚は、それはそれでまたキリコの喘ぎを深くさせて、眉の間を開きながら力なく唇の端を下げ、キリコの視線が一瞬正気を失う手前でさまよった。
 シャッコはキリコへ傾いていた体を真っ直ぐに起こし、また改めて深めた繋がり以外はほとんどキリコに触れずに、キリコの奥を探る。
 キリコの喉が反る。上半身を半ばでねじり、声を殺すためか噛みついた枕へ顔半分埋めて、抱き寄せるには遠いシャッコの肩を諦めて枕へ腕を絡みつかせる。
 それを、シャッコはじっと見下ろしていた。
 動くたび、キリコが動いて反応する。快か不快か、あるいは単なる違和感か、キリコではないから分からない。分からなくても、自分の躯に伝わるキリコの内側の慄えが、それは決して不快ではないようだと伝えて来る。不快なら多分、自分の抱き寄せる腕に応えはしないだろうと、シャッコは胸の中でひとりごちる。
 反った背中がしわだらけのシーツから浮いて、腰だけ引き寄せられた形に、それはキリコ自身の意思でそうしていると言うよりも、シャッコに沿おうとして体が勝手に取った姿勢のようだった。
 深く入り込んで、深く引いて、それから浅く行きつ戻りつを繰り返す。引く時がいちばん声が高くなるのか、枕を噛む口元へ、噛み締めた奥歯らしい線がはっきりと浮く。自分で顎を砕いてしまいそうなその力強さに、シャッコは思わず眉を寄せた。
 寄せた躯の動きをゆるめて、終わったのかと思ったらしいキリコが体の力を抜いたところで、シャッコはキリコが噛んでいた枕をそこから素早く抜き取り、代わりに自分の掌を軽く乗せる。口元を覆うと言うよりも、唇に触れる風に、噛まれても構わないと、あふれた唾液でぬるりと熱い口の中へ人差し指と中指を差し入れ、その間に舌先を取る。キリコが自分からシャッコの指を舐めて、いかにも硬そうに盛り上がった拳の、その骨の間へ舌先を滑らせて来る。
 それを眺めて、ざわっと、脳の底が激しく揺れた。
 シャッコはキリコの口の中に指を残したまま、今度は上体を完全にキリコの上に落とし、指を引き抜きながら唇を合わせて、そこにキリコの立てる声を吸い取りながら躯を全身ごと深く進める。キリコの声で、シャッコの喉の奥が一緒に震えた。
 シャッコの下で、シャッコの体の重みで平たく潰されて、キリコは覆いかぶさるシャッコの体の影に、開いた脚以外はすっかり隠れて、その脚も、力なく2、3度揺れた後は、シャッコの背中にしっかりと輪を作って絡みついた。
 キリコは意趣返しのつもりかどうか、今は目の前のシャッコの胸や肩へ遠慮なく噛みついて声を殺す。さすがに痛みに耐えられなくなると、シャッコはまたキリコから躯を引いて、黙ってキリコの肩を裏返した。
 肩越しに、キリコがシャッコを見る。次に何が起こるか知っていて、それを期待するような或いは少し戸惑っているような、熱の幕の掛かったその視線に、またシャッコは背骨の根に熱をためながら、そうする必要もないのに、自分のそれへ手を添えて、キリコの中へ、少し強引に押し入った。
 シャッコ来てくれと、以前まったく違う場面で言ったキリコの声を思い出している。今の視線はその台詞と同じことだと、シャッコの中で声がした。それを信じたい自分は、案外と気の弱い臆病な人間だと、思うのと裏腹に、それはますます熱を増してキリコの中を満たしてゆく。キリコの躯が、それに、それ以上の熱で応えて来る。
 キリコはシーツに額をこすりつけて、耐える声を鼻先に逃がして、そうすれば声はいっそう甘さを増すだけなのに、当の本人は自覚もないらしい。シャッコはキリコの噛み殺す声を聞きながら、その声がまるで録りためられるデータのように、自分の脳の襞へ刻み込まれて行くのを感じている。
 実際のキリコの声の後ろに、聞いたばかりの同じ声が重なってゆく。キリコの様々の声が何重にもなり、その声で、シャッコの頭の中はいっぱいになってゆく。
 消えればいいとは思わなかった。そのせいで他の記憶を失っても、キリコの声を憶えていたいと、シャッコは思った。
 キリコの背中が揺れる。同じように揺れたくて、シャッコは自分の胸を乗せ、キリコへもっと体を寄せるために腕を喉の辺りへ回し、そのまま掌をまた口元へ近づける。
 唇をかすめたシャッコの指先を、キリコはあごを胸元へ引きつけるようにしながら、唇の間へ誘い込んだ。
 腕を頭の方へ投げ出し、さり気なくそれへシャッコの腕を絡ませて、濡れはしない躯の奥へ熱ばかりがあふれるその代わりのように、キリコの口の中は唾液が止まらずに、シャッコの長い指全部と、掌まで濡らし始めていた。
 声はシャッコの掌の内側だけに響き、残りはシーツに吸い取られて、シャッコは今は自在にキリコの声を引き出しながら、強まったり弱まったり、高くなったり低くなったりするその声の、複雑で多彩な色合いに、自分自身が煽られている。
 シャッコが果てた時に、キリコは声を飲み、シャッコはキリコの耳の裏側へ声を放った。意外と高く響いたその声へ、キリコは首をねじってシャッコを見やる。
 自分の上で長々と体を伸ばしたシャッコの下で、何とか肩を裏返し、ふたりの間で汗とぬくまった空気が一緒に滑る。
 自然に外れた躯の、その感触のまだ消えないまま、キリコはシャッコの頭を胸の上へ抱き寄せ、汗に湿った髪を撫でながら、
 「────。」
 その小さなささやきの、言葉をシャッコは聞き取らなかった。言葉だったのかどうかも確かではないその、キリコの声だけを聞き取って、また脳の襞へ刻みつける。キリコの声と言うだけで、シャッコには十分だった。
 シャッコはキリコの胸に軽く歯を立て、さっきのキリコの真似をしているだけだと知らせるために、上目遣いにキリコを見て、キリコが自分へ向かって苦笑いを返したのを確かめて、食い込ませていた歯列を外した。
 きちんと聞こえるように、けれど低めた声で、キリコ、と呼んだ。今度ははっきりと聞こえる声で、キリコはシャッコ、と返して来た。
 聞かれても平気だと思う──他に誰もいはしないにせよ──のは当のふたりだけで、睦言のような甘いその声の響きは互いにだけ使う特別のそれなのだと、ふたりは知らないままだ。

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