湯川学×内海薫
―― さて、これは一体、どうしたものか。 (どーして、これ?) 準備室の中で、薫は言葉を失った。 白いシャツだと思っていたそれは、湯川学が普段身につけている様な、白衣だったのだ! サイズが合う、合わないの問題ではない。むしろかなりの体格差がある湯川の白衣ならば、 薫の膝下まではすっぽり覆ってくれるし袖が長いのは折り込んでしまえばいい。 問題なのは ―――― そう、問題なのは。 着替える気満々だった薫は、既にシャツもスーツも脱ぎ捨てて下着姿だ。 文句を言おうにもこんな恰好で出て行ける筈もないし、着替えと称して白衣を渡された時点で 確認しなかったのは薫側の痛恨のミスだ。湯川が『これしかない』と渡した白衣に他意はない のであろうし、実際彼が他に普通の着替えを予め用意できている筈もない。 それにしても。 下着姿の上に直接白衣を着るということに、躊躇するなというのも無理な話であって。 (こんな、……こんなの意識するの、あたしの方だけだよね?) 白衣を眺め、束の間迷った挙句、薫は思い切ってその袖に腕を通した。 素肌に白衣、なんてまるでAVみたいなシチュエーションというか恰好……かも。 いや、実際に薫はそんな内容のAVなるものを見たことはないけれど、何となく卑猥な 画像が脳裏を過ぎって1人顔を赤くした彼女はぶんぶんと頭を振る。 (湯川先生がそんなのに反応するワケないじゃない、あーあたしってばもう馬鹿!) 泰然自若としたあの湯川学が、そんなベタな状況で何を思うか ――― と考えてみても 結局いつもの無表情で、いつもの理屈(皮肉)っぽい言葉を並べるであろう程度のことしか 薫には想像できない。 せいぜいが、興味無さそうに一瞥する程度が関の山だろう。 (大丈夫、大丈夫。だって湯川先生しかいないんだし) まさか、湯川先生に限って。ぶつぶつ呟きながら、薫はボタンを留めていく。 変人として高名な“ガリレオ”先生がこれしきで、それも自分が彼にとって発情の材料に なろうなどと、薫には微塵の可能性も考えられなかった。 刑事と科学者としての付き合いはまだ数週間程度に過ぎないが、 彼が薫を異性だと認識しているかも微妙に感じるくらいの関係性なのだから。 (まぁ、それはそれで少々物悲しく思うところはあるのだけれど) 一方的に意識しているのも馬鹿らしくなり、ともかく、問題である胸元 ――― V字に ぱっくり開いた襟元にさえ注意を払っていれば、特段身構えることもないだろうと踏んだ。 下着姿の上に大きめの白衣を着るのに全く抵抗が無いと言えば嘘になるが、 ずぶ濡れになったシャツやスーツを再度身につけるよりは余程マシだろう。 さすがに下着の替えはないので濡れたままであるけれど、(というか女性物の下着を 湯川が所持していたらそれはそれでショックだ)贅沢は言っていられない。 濡れたスーツでワイシャツを包み、薫はふっと力を抜いた。 「ドライヤーでもあればなぁ…」 簡単に乾くような代物ではないが、気休めにはなるであろうし髪の毛も乾かせる。 無駄とは考えつつ準備室をぐるりと見回した薫は、当然そこに所望するものなど ないことを認めて迷うように視線を泳がせた。 なにか、あったかいものが飲みたいな。 コーヒーとか、うん、コーヒー、飲みたいかも。そうしたらきっと、もっと落ち着ける筈。 ―――― 雑念を頭から追い払い、薫は準備室から研究室へと歩みを戻す。 帰りの衣服や手段は、コーヒーを飲んでから考えよう。 …だって、とにかく今は、体が冷えてどうしようもないのだから。 研究室へ戻った薫を待っていたのは、こちらに背を向けてパソコンに向かう 湯川の後姿だった。その背中は落ち着いていて、普段と何ら変わりない。 そのことに安心を覚え、薫は自分の定位置と勝手に決めている椅子に迷いなく 腰掛けた。 「着替え、ありがとうございました」 その後姿に、来所時よりやや気安さを増した口調で薫が声を掛ける。“着替え”の 部分に若干皮肉めいた響きを込めたけれど、案の定湯川がそんな些細な感情の 機微に気付く筈がなく、「ああ」と気のない返事が戻ってきただけだった。 ともかく、彼がこちらを向くつもりが無く仕事に没頭してくれているのは、薫にとって 好都合だった。いくら彼が意識する訳はないと高を括っていても、やはり素肌に白衣 というこの恰好が恥ずかしいものであるのに変わりはない。 (こっち向くな……こっち向くな……) 効くかどうか分からないが、薫はその大きな瞳で半ば睨み付けるように湯川の背に 念を送り続ける。今のところ、彼が動きを見せる気配はなかった。 「やはりサイズは大きかったか」 「ええ、まぁ…仕方ないです、そもそも体格が違いますから。あたしと湯川先生じゃ」 ぶかぶかの袖をまくりながら、もぞもぞと身動ぎしつつ薫が答える。 「着心地も悪いようだな」 「…だって、肌の上に直接白衣着るなんて、普通はしないじゃないですか」 借りているという手前下手に答えた薫に、何が可笑しいのか湯川は快活に笑って 答えた。 「それはそうだろうな、僕もそんな着方をした経験はない」 湯川なりの冗談なのか、それとも単なる皮肉なのか。 判断がつかずムッとした表情のまま固まっていた薫を他所に、湯川はのんびりと した動作で椅子をくるりと回転させた。 「…!」 ぎっと椅子を軋ませ湯川がいきなり立ち上がったので、思わずぎょっと目を見開き、 薫は硬直したまま彼の動きをじっと目で追う。 湯川が向かったのは流し台で、彼は二人分のマグカップにお湯を注ぎ始めた。 「コーヒーでも飲んで落ち着くといい」 「あ、…はい、どうも、気を遣っていただいて…」 妙に意識してしまっている自分が気恥ずかしく、語尾が自然と小さくなっていく。 湯川の視線はほとんど薫の方を向かず、興味すら示した様子もないのを認めて (ああ、やっぱり湯川先生なら大丈夫だ) 不必要に身構えていた分肩透かしを食らったような、ようやく人心地がついたような、 複雑な思いに囚われながらも薫は微妙に唇を緩める。 何だかんだ言って、今日の湯川先生はちょっとだけ、優しい。 「何か面白いことでもあったのか」 「え、!?わ、せ、先生っ!!」 少しだけ意識を他所に飛ばした刹那の間に、気付けば思ったより接近した位置に 湯川の顔があった。眼鏡を外している彼の顔はやはり、端整に整っている。 その顔怪訝な表情を浮かべ、マグカップを携えた湯川を前に、思わず薫は椅子ごと ガタンと大仰な音を立てて後ず去った。不審そうな目線が自分に向けられるのを 感じるが、理由などまさか話せる訳がない。 「何をそんなに驚いているんだ。 僕の研究室で僕がコーヒーを煎れて運ぶのに、おかしな点があるか?」 「ちがっ、いや、あのっ、今のは、ですね、 普段白衣なんて着慣れてないから間近で見られるのが恥ずかしかっただけですッ」 明らかに慌てふためいた口調でどもりながら弁解しつつ、ばくばくと飛び跳ねる心臓を 包み込むような気持ちで、薫はさり気なさを装って白衣の襟元を両手で合わせた。 「嫌なら脱いでもいい、裸だろうが僕は別に構わない」 必死に言い繕った薫の言葉を疑いもせず、湯川は淡々と切り返す。 (この、鈍感理系馬鹿) (むっつりスケベ) 「あたしは構います!いいですもう、このままで別に」 つまりこれは(表情がいつもと同じなので分かりにくいが)からかっているだけなので あって、本気で噛み付いて得することもない。憮然として身体を丸め、上目遣いに 睨み付けるくらいの抵抗だけだ。 「大丈夫だ、それなりに似合っている」 「褒め言葉になっていません!」 こんなカッコじゃなかったら殴ってやる。 普段の軽口に近い勢いで言い合ったら、俄然闘争心が沸いてきたようで薫の 中で燻っていたもやもやした思いがふっと立ち消えた。 ―――― まぁつまりその安心感が、油断に繋がったと言えるのだけれど。 そうして、差し出されたマグカップを薫は素直に頂戴する。 ほかほかと立ち上る湯気は、どこか和んだ空気を2人の間に齎した。 「あ〜…、あったか〜」 「……」 「んー、おいしー」 「……」 「湯川先生?」 幸せそうに両手でマグを抱え込む薫の真正面で、 湯川がカップを渡した体勢のまま静止画像のように動きを止めている。 「どうしたんですか?」 瞬時、そんなに間抜けな表情でもしていただろうかと訝ったものの、何気なく彼の 視線を辿った薫はその先に自分の胸元が ――― 無防備にぱっくり開いた白衣の 襟元があることに気付いて、 「………って、ちょ、せ、先生ッ!」 つまり、泡食った。 「何見てん………あ、っつー!!」 分かり易く動揺した薫の手元がぶれ、カップの縁近くまでなみなみと注がれていた コーヒーが撥ねた。きゃあきゃあと悲鳴を上げる。 対する湯川は冷静なものだ。 「キミは、コーヒーの一杯も落ち着いて飲めないのか」 などと呆れ半分の言葉と共に、渡したばかりのマグカップを取り上げ机に移す。 「そそっかしいな、本当に」 「誰のせいですかっ、先生が変なとこ見てるから…」 「見ていただけでそんなに動揺するのかキミは」 「あったりまえですっ、信じられない、湯川先生にそんな目で見られるなんて」 「どうも忘れているようだが、僕は男性で、勿論キミは女性だ。 つまり、“そういう対象”として相手を見ることに何の問題もない。むしろ、この状況 では当然芽生えるべき感情だ」 「芽生えるべき、ってなんですか、いちいち屁理屈ばっか……って近い、先生なんか ちょっと近いですってば!!」 赤く染まった頬と涙目で反論する薫を前に、湯川にある気持ちが芽生えた。 滅多に感情が動かされることのない湯川学ではあるが、全くの無感動人間という 訳ではないのだ。女性は普通に好きだし、性欲も並に持っている。 現在、自分の感情を一言で言い表せと言われたら彼はきっとこう答えるだろう ――― つまりこれは、“加虐心”というものに近い。 ずいずいと遠慮も躊躇もなく薫との距離を縮めた湯川は、真っ赤な顔で自分を 見上げる薫の手を、唐突に掴んだ。 「ッ…!」 驚きで言葉も出ない薫に対し、当然ながら湯川は平然としたものだ。 「火傷をしたかもしれない。見せてみろ」 「ちょ……ちょ、ちょっと、待ってくだ」 必死に湯川から距離を置こうとした結果だろう。 背もたれのない椅子に腰掛けていた薫は、座位の体勢のまま無理に動こうとして 不意にバランスを崩した。あっと思った時はもう遅い。 「わっ!!」 つまり、 湯川に手を取られたまま、薫は悲鳴と共に椅子ごと床に引っくり返った。 くるりと世界が反転し、背中に衝撃を覚えて一瞬息が詰まった。 痛みと驚きと恥ずかしさと ――― 様々な感情が入り乱れ、混乱した状態で恐々と、 うっすら目を開いていく。何だか、天井が遠い。 「大丈夫か?」 低めの、耳に心地良い落ち着いた声が頭上から降ってくる。 そうして、ようやく現在自分が置かれている体勢と状況を認識した薫は、今度こそ 色を失って引っくり返った声を上げた。「先生、ちょっと先生ッ!」 「なんだ、さっきからキミは落ち着きがないな。あまり大声は上げないで欲しいんだが」 「お、お、落ち着いて、られる状況じゃないですこれはっ!」 耳元で怒鳴られ、眉を潜めた湯川学の顔がすぐ目の前にある。 ……そう、つまり、仰向けに床へ倒れた薫の上に湯川が圧し掛かっている状態な訳で。 「な、なななっ、なんでこんな…」 「キミが椅子ごと引っくり返りそうになったのを助けようとしたが、間に合わなかった」 「じゃ、じゃあ早くお、おおお起き、ましょうよ」 「……それが、そうもいかない」 「へ?なんで……」 湯川の表情は穏やかで物腰も静かなものだが、何処か通常時の彼とは違う印象が 全体を覆っている。 その目の奥に、普段抑圧されている感情が激しく渦を巻いているような。 それを追及するより先に薫はこの体勢と、彼の視線にまたしても気付いてしまった。 「湯川センセ…」 体勢を崩して倒れた瞬間に、元々サイズの合わなかった白衣は薫の体のライン から大幅にずれてしまい、左の肩が広範囲に渡って露出している。 白衣の下には下着しか身につけていない薫だ。 つまり、ブラジャーの肩紐もしっかりと、湯川の目には写っている筈で、 「きゃ ―――― ッッ!!やだやだやだ、先生のバカッ、何をまじまじと見ちゃって るんですか、どいて、先生ちょっと早くどいてくださいもうバカあ!!」 「言っておくが、キミにバカ呼ばわりされるほど落ちぶれてはいないつもりだ。 現役の大学准教授として、一応の自覚はある」 「そんな冗談言ってる場合じゃ…やだ、もう、見ないで見ないで見ないでくださいっ」 必死の嘆願は、半泣きに近い。 普段の強気な態度は生りを潜め、この時ばかりは内海薫も普通の女性に過ぎなかった。 その純な反応が、彼女があまりこういった状況に慣れていないことを物語っており、 湯川の征服欲を刺激した。 そして、不意にこんなことを思った。 彼女のこんな一面を、自分以外の別な男性に見られるのは、彼女がその相手を選ぶのは、 考えただけで非常に ――― この上なく、不愉快なことかもしれない。 ジタバタと四肢を動かす小柄な薫を、長身の湯川が押さえ込むのは造作もないことだ。 ただ、あまり乱暴に性急にことを進めるつもりもない。 「ちょ、ちょ、ちょっとセンセ、待ってくださいってばぁ!」 「…キミが悪い」 何で…と言いた気に口を開き掛けた薫に被さるように、湯川は自らの唇を重ねた。 ひんやりとした唇に触れるだけの、軽いキス。 「…………ッ!?」 途端に、研究室内を静寂が支配する。 少しうるさい口を塞ぐ意味も含めたこの行為に、面白いくらい期待通りの反応である。 驚きに目を見開いたままの薫に苦笑し、湯川は思わず呟いた。 「こういう場合、目は閉じるものじゃないか?」 「………は」 咄嗟に反応できないのか、薫はぽかんと口を開けたまま湯川を見上げている。 次第に頭が鈍重に回転を始めたのか、それに比例して薫の顔の赤みも増していく。 口をぱくぱくと動かし、何度か瞬きして湯川の姿を正確に捉え、それからようやく、 耳まで真っ赤に染めた彼女は言葉を発した。 「先生、あの…本当に、まさか、これは」 SS一覧に戻る メインページに戻る |