挑発したのは君だ(非エロ)
湯川学×内海薫


「…あ、先生お帰りなさい」
「何をしているんだ君はこんな時間に」

午後九時過ぎ、外出先から帝都大学物理科第13研究室へ戻ってきた湯川を迎えたのは、
助手の栗林でなければゼミの学生達でもなかった。
当たり前のような顔で、内海薫が椅子に腰掛け頬杖をついていたのである。

「ちょっと、先生にお聞きしたいことがありまして」

小首を傾げ、微笑みながら宣う薫の姿は先入観がなければおそらく“可愛らしい女性”に見えるのかもしれない。

…が、しかし。
思わず溜め息を付きながら、湯川はその薫の前を素通りした。
彼女がこんな風に丁寧な口調で話を切り出すのは、確実に湯川を事件に巻き込まんとする思惑が
しっかり働いているのに違いないからだ。

「って、先生、先生ってば」
「悪いが、僕は忙しい」
「知ってますけど、でも」

上着を脱ぎながら歩みを進める湯川の後ろを、席を立った薫がちょこちょこと追い縋る。

「君には僕の都合を配慮す」
「あれ?」

さらりと湯川の苦言を遮って、彼女は首を傾げた。

「話を聞く気がないのならそもそも相談など持ち掛けてこないで欲しいんだが」

まるで人の話を聞いていない薫に、呆れた様に軽く肩をすくめた湯川は諭すのを諦める。

「湯川先生、なんか良い匂いがしますね…?」

薫が口にしたのは、そんな言葉だった。
白衣を羽織った湯川の後ろで足を止めている彼女の視線の先には、
無造作に吊された湯川の上質なジャケットがあった。

鼻先が触れんばかりに顔を寄せて匂いを嗅ぐ仕草を見せた薫は、
とっくに自分から興味を失い流し台で二人分のコーヒーを準備している湯川の背中に問い掛けた。

「先生って今日、…女性の方と出掛けてたんですよね」
「栗林さんに聞いたのか」

質問というよりは確認に近い形で聞いた薫の声質に、微妙な感情の機微を察知しながら
敢えて気付かない風体を装って、湯川は振り向きもせず逆に聞き返す。

「…はい」

と若干勢いを無くした様子で薫が素直に頷いき、彼女は再度
湯川のジャケットを見つめた。
栗林の言葉を裏付けるように、湯川の上着からは女物の香水の香りが微かに漂っていた。

おそらくは移り香だろう。けれど。


「先生、その、相手の人とは食事だけだったんですよね?」

怪訝そうな色を浮かべて湯川が振り向いた。

「その通りだが、それがどうかしたのか」

真剣な表情の薫にあっさりと、湯川が言い放った。二人分のマグカップがテーブルで湯気を立てている。

「いえ…あの、その」

口篭って薫は困ったように頭を振った。

(一緒に食事したくらいで移り香なんてする、普通?)

疑問は浮かぶが、口には出せない。言葉にしたら詰問口調になってしまうのは明白で、
けれど薫は彼を女性関係の話で問い詰める権利など持たないのだ。
聞けない…けど、気になる。
ぐるぐると様々な思いが錯綜し、唇を噛み黙り込んでしまった薫の顔を、
いつの間に接近したのかごく至近距離から湯川が覗いていた。

「どうした?珍しく難しい顔で何を悩んでいる」

「わ、わわっ!?」

完全に湯川の女性問題に関する思考に没頭していた薫は目と鼻の先にある湯川の顔に驚き、
目を見開いてざざざっと思い切り後去った。
あからさまに動揺する薫の反応を、明らかに湯川は面白がっている。

「聞こうか。何を考えていた?」
「それは…っ、な、何でもないです!」

意地っ張りが顔を覗かせる。
うっすら頬を赤く染めた薫が、湯川から視線を反らせてぶっきらぼうに言い捨てた。

「なるほど。ただ食事をしただけで匂いが移るものか気になると?」
「分かってるなら聞かないでください!」

頬を膨らませて抗議する薫に、

「直ぐに認めるなら最初から何故素直に言わないんだ、君は」

皮肉と、単純な疑問を折り込み湯川が首を捻った。

「…だってそれは先生のプライベートな部分であたしが口を挟む問題じゃ」
「嫉妬してるのか」
「そう嫉妬………、って、え!?ち、違う!!」

勢いで続いてから、慌てて薫はぶんぶんと両手を振った。

「何言わせるんですか、違います!」
「君が言ったんだろう。僕の上着についた移り香が気になると」
「別に気になる、とまでは…」
「そしてそれは君が担当している事件関連の話じゃない、完全に僕個人の私事の話だ。
だが、君は関心を示した。更にそれを隠そうとしたな。君の言動、行為に嫉妬、或いは
それに近い感情が働いていると想定することがそう見当違いの話なのか?」


「そ、それは…っ」

冷静に差し向けられて、薫は唇を引き結んで湯川を見上げた。
ほとんど睨みつける様な視線を、彼は淡々と受け止めている。

―――― 悔しい。返す言葉もなかった。全て事実だからだ。

「……頭の良い人なんでしょう」

低い声で、唐突に薫が口を開いた。

「?」
「湯川先生が一緒にいて楽しいくらいの人だから、とっても知的で頭の回転が良くて…」
「楽しかった、と感想を述べた覚えはないが」
「だって、こんな時間まで二人だったんでしょ…!?
それに戻って来て私のことを見た時、うんざりした顔したじゃないですか!」
「それは君が毎回面倒な問題を持ち込んで来るからだろう」
「私がっ…先生と対等に話ができて理解力があったら、そんな邪険に思うことなんてなかった筈です!」

低く抑えた声が震えている。虚を突かれ一瞬返す言葉を失っていた湯川が、困惑した表情で

「何を言っているんだ」

と呟いた。その何が逆鱗に触れたのかは解らない。

一瞬、言葉が詰まった。
胸がきりきりと締め付けられるように苦しくて、辛い。おそらく、それが切ないという感情なのだろう。

「私には…先生の世界は私にはとても、ついていけないレベルで」

―――報われない。だから、切ない。

「ついてこなくていいと、以前に言った筈だが」
「そうですよね、役不足ですよね私じゃ!」
「そういう意味ではなくそもそも君と僕では専門分野が」

「もういいです聞きたくない!」

ただ、それまで必死に心の奥底に留めていた薫の感情の堰は、実に呆気なく崩壊してしまったのだ。

「その、彼女はっ!」

湯川の言葉を強引に遮って、思わず噛みつかんばかりに叫ぶ。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。

「論理的で、落ち着いてて大人っぽくて美人でスタイルも良くて…そんな人なんでしょうね、私と違って!」

ヤケクソ気味に言い放つ薫に流石に気圧されて、湯川の口元から笑みが消えた。

「内海くん?」
「嫉妬?ええ嫉妬ですよ嫉妬してますよ、仕方ないじゃないですか湯川先生と私じゃ全く釣り合わないし、
そもそも先生が私なんかそういう対象として見てる筈ないし、
難しい話になんてついていけないし!単なる生意気で煩い小娘にすぎないんでしょうからっ!」
「…そうと自覚してるのなら、少しは自重して欲しいものだな」
「だって、今更そんなの…っ」

おそらく、それは湯川の本心に違いない。
何の躊躇もなく放たれた偽りない言葉だけに、薫の胸に深く突き刺さった。
痛い。マズイ、と思った。ぶわっと熱い涙が膨れ上がる。気付いた時に涙が目を覆っていて、手遅れだと気が付いた。

堪えられたのはほんの一瞬で、涙の膜はすぐに溢れてぼろぼろと幾筋も頬を伝って流れ落ちていく。

(―――バカ、こんなことで泣いてたら余計面倒臭いと思われるだけなのに)

いきなり眼前で泣かれるとは予想しなかったのだろう。
常に冷静沈着が売りの湯川の目が僅かに見開かれ、彼の戸惑いが肌で感じられた。

「何故泣くんだ」
「…っ、な、いて、ませっ…んん…っ…、くっ…う、」
「僕の」
「せんせっ…の、せいじゃ…あ、ありませっ…ん!」
「…目の前で泣いておきながら、僕には関係ないと?」

必死に鳴咽を噛み殺そうと歯を食い縛り、薫はぶんぶんと首を左右に振った。
とても今は、言葉にならない。


「…言い過ぎた、すまない」
「何で湯川先生が謝るんですか!?」

彼がどの言葉に謝罪したのかも判断がつかない程混乱していた薫は、
条件反射のように湯川に抗議してから涙を隠すように掌で顔を覆った。

「私が………勝手に…」

鳴咽で声がひっくり返りそうになり、薫はそのまま口を噛んだ。情けなくで、酷く惨めな思いだった。

只でさえ厄介事を持ち込む面倒な女刑事があまつさえ自分に惚れているとあらば、

幾ら他人に無頓着な湯川とはいえ――否、無頓着だからこそ良い気はすまい。
こう全てを吐露してしまったからにはもう、この科学者を訪ね、頼ることは出来ないと
薫の脳で冷静な部分が告げていた。

「私が一方的に湯川先生を意識してただけです、それだけです、もう迷惑掛けません帰ります」


泣き声が漏れないよう一息に言い放ってから、薫はくるりと踵を返した。
決別の言葉は口に出来ても肝心の涙は止まらない。
肩が震えているのを誤魔化せる程、湯川に注意力がないとも思えない。

「失礼します、」


と呟いてその場から立ち去ろうと一歩踏み出し掛けた薫の腕が後方から強く引かれ、
彼女は予想外の拘束に戸惑いながら振り向いた。

「何ですか…っ?」

そうして、振り向かなければ良かったと後悔する。湯川の表情があまりに優しかったからだ。

「どうして引き、止めるんですか!…台無し、じゃないです、かぁ…!」
「僕にはまだ聞きたいことがある」
「答え、られるわけないじゃないですかッ」

どうしてこの朴念仁は、平気な顔でそんなことを言えるのだろう。
理不尽に沸き上がった怒りが、薫の涙を引っ込めた。

「こういうのが1番面倒臭いんでしょ、先生には!
だからもう忘れてください、私だって望みないことくらい分かってます、
覚悟できてます、だから頑張って諦めようと…」
「どうして忘れなければならない?僕が」


まるで暖簾に腕押しだ。

「だって、仕方ないじゃない!」

腕をしっかりと掴まれているため逃げることも適わない薫は、
湯川を見上げて思わず叫んだ。

「湯川先生は私のことを好きじゃないんだからっ!」

泣き声で言い放ち、当の湯川の反応が怖くて目を逸らした薫は、そのまま顔を背けている。
やや間を置いて、湯川が静かに言葉を発した。

「君はどうしていつも早とちりの挙句勝手に判断しては暴走するんだ」
「すみませんね、いつもいつも考えなしで!
どうせ私は湯川先生が好むような知的な女性像からは程遠いですよ…っ!」


苦しい気持ちで俯いた薫の耳に淡々としたいつもの調子の、しかし何処か穏やかさを含んだ湯川の声が届く。

「それが“早とちり”だと言っているんだ」
「…それはどういう」

優しい声の調子に釣られて顔を上げようとした薫は、しかし湯川の表情を目にすることが出来なかった。

「っ!」

掴んだままの腕を強く引き寄せ、湯川が薫を抱き締めたからだ。

「君に忘れろと命じられる筋合いはない―――ようやく、自覚したというのに」
「…え」

「………」
「………」
「………」
「………え?」

たっぷり10秒以上は頭が真っ白な状態のまま硬直しながら、
薫は不意に自身の唇に湯川のそれが重ねられたのを機にようやく我に帰った。

「……!?…っ…」

僅かな身じろぎ程度では湯川の腕は解けず、されるがままに口内をたっぷり蹂躙される感覚を与えられ、
恥ずかしさと驚きと息苦しさから薫の顔が真っ赤に染まっていく。

「ん…っん、ふっ……ん、む……ん、んぅ…っ」

くちゅ、じゅく、と唾液が混じり合う官能的なキスに、薫の脳が麻痺したようにただ湯川の存在だけを強く認識する。
濃厚に舌を絡めてから、充分だと言わんばかりに彼の唇が離れていき、「ふ、はぁ…」と
艶めかしい吐息をついた薫の目尻に溜まっていた涙が、またポロリと頬を滑って落ちた。

「…君がどうも誤解しているようなので言っておくが」

キスの余韻に浸る間を与えず口を開いた湯川を、薫がぼんやりと見上げた。
湯川の表情はいつも通り飄々としているようで、

或いは熱っぽいようも見え、掴み処がない。

「勘違いって言ったって…そう思わざるを得ないじゃないですか。先生は女性と出掛けて、
移り香をぷんぷんさせながら戻ってきたんですよ。そんなの…」
「以前の学会で知り合った女性だ、確かに君が邪推する通り聰明で綺麗な人だったよ。
僕に好意を抱いていると実にストレートに打ち明けてきた、出来れば交際したいともね。
合理的なところはとても好ましいと思ったが、抱きつかれたのは予想外だった」

実験結果でも報告するような抑揚のない口調で告げて、湯川は微かに苦笑いのように唇に笑みを乗せた。

「…それで、そのまま?」

抱きつかれた、と聞いて素直に不満気な表情を浮かべた薫の問いに、湯川は苦笑混じりに答える。

「まさか突き飛ばすわけにはいかないだろう。なかなか離れてくれないので困ったのは確かだが。
……ただ」
「ただ、なんですか?」
「彼女の申し出は丁重にお断りしたよ」
「え?…そ、そうなん…です…か」

きっぱりと湯川は言い切って、真っ直ぐに薫を見据えた。ホッと安堵の心地に浸ったのと同時に、
迷いのない彼の視線に狼狽し、気恥ずかしくなった彼女の瞳は忙しなく中空を右往左往している。

「賢いだけでは、同じ話題を共有できても相手へ傾倒するきっかけには至らない。
僕が最も関心を持ち、刺激を受ける興味深い対象は他にいるからな」
「……え?」







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