村井茂×村井布美枝
前回:布美枝~豊川の場合~(非エロ)(番外編) 夕日が落ちかけて、空が薄赤く染まる頃、茂はぶらぶらと帰途についた。 おんぼろの我が家から、ほのかにカレーの匂い。ふっと頬が緩むと同時に、ぐう、と腹が鳴る。 建てつけが悪くて、開けっ放しになってあった引き戸をくぐると、 ちょうど勝手口から布美枝が出てきて、洗濯物に手をかけた。 「ええ匂いだな」 茂の声に一瞬驚いて振り返る。夫の姿を確認すると、やや呆れた顔で微笑んだ。 「さすがおとうちゃん。カレーの匂いに誘われて帰ってきた」 くすくすと笑いながら、洗濯物を取り込み始める。 「肉は入っとるんだろうな」 「まあ、ちょんぼし?」 「だら、たまにはええ肉を食いきれんくらい買ってみろ」 いつまで経っても貧乏性の布美枝に、やや呆れて軽く頭を小突いた。 「おとうちゃんももうええ年なんだけん、若い頃みたいに食べとったらすぐにぜい肉がつきますよ?」 やや嫌味っぽく、目を細めて諭される。癪に障るので、反撃に出た。 「そげなら今晩あたり、久々におかあちゃんでも食うかな」 「えっ」 振り向いた顔が紅くなっているのは、夕日に照らされている所為ではない。 「なかなかええ運動になる」 「…もぅっ!」 いつだってこちらが一枚上手でなければ面白くない。 照れながら、それでもくすくす、と笑う布美枝に近寄って、その艶やかな唇を吸い寄せた。 じゃれ合いのようにして二度三度口づけ、やがて細い腰に手をまわして身体をぴたりと合わせる。 既にうっとりとしている布美枝の瞳に、映る自分の顔を確認し、改めて濃厚に接吻した。 離れればすぐに俯く布美枝の唇を、下から掬って重ね合わせる。 当たり前のように、布美枝の身体は我が身に馴染む。そうなるように最初から創られていたかのように。 額を合わせて、息を整えながら橙色に染まる布美枝の肌を撫でた。 「…おかあちゃ~ん」 勝手口の向こうから、藍子の声がした。慌てて互いに一歩ずつ後ずさる。 昼寝でもしていたのか、寝ぼけ眼で扉からのろのろと現れた藍子の手には、 ずいぶんと使いこんで、ぼろぼろになった黒い手帳が握られていた。 「おちてた」 「…あ!もしかしたら豊川さんのかも」 布美枝は手帳を受け取り、裏表を確認してから、そう言って茂を振り返った。 「さっきまでいらしとったんです。用があるとかで急いで帰られたんですけど」 布美枝から手帳を受け取り、茂はパラパラと2、3ページめくってみた。 確かに見覚えのある斜め書きのクセのある字は、豊川のものらしかった。 「ひとっ走り行ってくる。まだその辺におるかも知れんからな」 頷く布美枝を見、まだぼやっとしている藍子の頭をくしゃっと撫で、茂は小走りに駆け出した。 - - - (韋駄天の名を欲しいままにしていたあの脚力は、いずこ…) 布美枝に言われたことは癪だったが、下駄で走っていることを差し引いても、 踏み出す足はどんどん鉛のように重くなり、吸い込む空気の薄さに苦しむ。 確かに若くはないかもな、と茂は悔しそうに顔を歪めた。 ふと顔を上げると、商店街を抜けた先のあぜ道を、とぼとぼと歩く見知った背中を認めた。 「豊川さん」 息切れした声でなんとか呼び止める。 ぎくり、と一瞬肩をすくめて、ゆっくりと振り向いた豊川は、いささか青ざめたようにも見えた。 「あんた、これを落としていったようですな」 茂が手帳を差し出すと、はっとした顔をして、しかし何故かすぐに苦笑って礼を言った。 やけに歪んだネクタイに手を宛て、また少し微笑ってからそれを解く。 空を仰ぎ、何かを見送るように目を細める豊川の視線を、茂も追って同じく空を見上げた。 もう冬だな、髪を巻き上げる冷たい風に、茂はぼんやりと思った。 「先生、気分転換の散歩も結構ですが、締め切り、来週ですよ」 いつもの勝ち気な猫のような笑みを浮かべながら、豊川はくるくるとネクタイを巻き、ポケットに仕舞う。 ぼりぼりと頭を掻きながら苦笑した。 「今日は何か用がありましたか」 「ああ、ええと、受賞祝いに寄っただけです。おめでとうございます」 深々と頭を下げられる。慌てて茂も姿勢を正した。 「あんたのおかげです。あんたがおらんだったら、こげなことには」 そう言うと、豊川はまた少し笑った。 「奥さんにも同じことを言われました」 「はあ」 布美枝が同じことを?布美枝と豊川がどんな会話を交わしたのか、少し気にかかった。 ゆっくりと歩き出した豊川に倣って、茂も歩を進めた。 「…先生?」 「はい」 「先生と奥さんはどうやってお知り合いになったんですか?」 話題が急に妙な方向へ進んだので、茂は思わず締まりのない顔を豊川に向けてしまった。 が、どうやら冷やかしなどではなく、相手は真剣な様子でこちらを窺っている。 「…見合いです。親が無理矢理決めてきたようなもんで」 「へえ…!意外だな。随分と仲がいいので、大恋愛なんだと思ってました」 「いや、あんた、普通、ですよ」 周りからはそんなに仲がいいように見えているのだろうか?それこそ大恋愛の成就したような? 照れくさくなって俯きかけたところへ、ぴたりと歩みを止めた豊川の脚に危うくぶつかりそうになる。 顔を上げて豊川を見ると、何か言いたげな表情がやけにもの哀しく見え、一瞬戸惑った。 「どげしました」 問いかけても、「いえ」と微笑して目を逸らす。 何か悩み事でもあるのだろうか、今日の豊川はやけにセンチメンタルな趣きがある。 「ははあ、さてはあんた、嫁でももらおうと考えておるのではないですか?」 茂の言葉に、豊川は驚いたように顔を上げ、そしてすぐに破顔した。 「あははは、いえ別に。そういうわけではありません」 「悩んでおるように見えたんだが。まあ、あんたほど男前がええなら、嫁探しに苦労はせんでしょう」 「とんでもない。理想の女性はなかなか居ないものです」 「理想がおるんですか」 はた、と豊川の表情が一変する。 また先ほどのもの言いたげな、どこか申し訳なさそうな表情だった。 豊川は少し俯いて、ネクタイを仕舞ったポケットに手を入れ、再び茂に向き直った。 「先生、私はね、先生の奥さんが理想なんです」 「…は」 「私は、奥さんのことが好きでした」 (――――――………) 絶句、とは本当に言葉を失くすことなのだと思った。 瞬間、頭が真っ白になって、やがてじわじわと脳内で勝手に言葉の咀嚼が始まる。 が、理解をして呑み込むまでに相当の時間がかかった。 「あ…あんた、ど、…え?」 何しろ、想い人だと言うその亭主に向かって、堂々と宣告したのだ。 余程の自信家か、本物の馬鹿正直か、どちらかしか居ないだろう。 「それで…」 どうしたいのだ、と問う前に、茂の反応に慌てたのか、済まなさそうに豊川が補足する。 「あ、けど、だからと言って何もありません。奥さんには何も言っていないし、 言ったところでどうこうしようとか、そんなことを考えているわけではありません。 それに、もう整理はついてます。本当にただ、好きだった、というだけのことです」 豊川の心情は測り兼ねたが、「だった」を強調したところを見ると、今はもう諦めているということなのか。 「それでええんですか」 ふいに、問いかけたあとで、問うてどうするのかと思った。 豊川も意外な面持ちで茂を見、そして苦笑した。 「…いいも何も。欲しいと言ったらくれるんですか?」 「あ、いや…」 言葉に詰まった茂に、豊川は笑って「冗談です」と言った。 「これからだって、何も変わりませんよ。私はただの編集者で、貴方は漫画家で。 そしてあのひとは…ずっと貴方の妻です。何も…何も変わらないんです」 まるで自らに言い訊かせるようにして、豊川は神妙に頷いた。 布美枝を「あのひと」と呼ぶ、思慕を匂わせる言い方が、やや茂の内側をちくりと刺した。 「あんたは随分…もの好きですな」 ようやく得心して、ため息とともに声が出た。 「鈍くさい田舎者ですよ。ぼんやりしとるし、顔は空母みたいに長い。 いっつも大人しい分、何かあるとこげに目を吊り上げて怒り出して…」 「のろけにしか聴こえませんね」 すかさず皮肉めいて言われ、ぴたり、と茂の口が止まった。 くっくっと笑われるのに耐え難く、髪を掻き毟って俯いた。 「すみません、突然変なことを言い出して。どうにも吐き出しておきたかったみたいです」 すっきりした、という表情は、本当に晴れ晴れとしていて、不思議と茂も肩の力が抜けた。 「…不毛な横恋慕でしたね」 ひゅるりと冷たい風が舞った。それを見送ってから、豊川は「さて」と息を吐く。 「社に戻ります。先生、また来週お伺いしますから、原稿お願いしますよ」 先ほどまでの憂いじみた表情は消え、すっかり仕事の男の顔になった豊川がそこには居た。 ぺこりと一礼して、去っていった豊川の背中を、茂はしばらく見るとも無しに見送っていた。 - - - 女房に懸想を抱いていたと告げられても、いささかの嫌悪も抱かなかったのは、 やはり豊川の人望とその誠実さゆえのことなのだろう。人徳というヤツだな、と茂はしみじみ思った。 回想するその傍らで、豊川の「愛しの君」とでも言うべき布美枝は、何も知らずに墨を塗っている。 一心に原稿を睨みつける眼と、その横顔を、しばしぼーっと眺めた。 風呂上りの、ややもたついた長い黒髪を耳に引っ掛けてあると、白い肌と対照的に互いを際立たせ、 白はより白く、黒はより黒く、鮮やかさが増していた。 なで肩のラインから伸びる腕は、茂の指をぐるりと回して掴んでしまえるほど細く、 微細な線の間に筆を運ぶしなやかな指は、茂のそれと絡ませたときには、 簡単に折れてしまうのかと思わせるほど頼りない。 今はきゅっと引き締められた唇も、口づければとたんにほわりと緩んで潤んでしまう。 白い肌が上気して紅色に染まる瞬間は、何度見ても内側から何かに突き上げられる感覚を生む。 布美枝に惹かれる男が居たということは驚きだったが、おかしな話ではないと思う。 亭主の自惚れと言われても、この女には妙なところに人を惹きつける魅力があるのは間違いない。 ただし、快感に淫れる最上の艶やかさを知るのは、ただ独り自分だけだけれど。 と、さすがに茂の視線に気づいたのか、件の女房は、きょとんとした顔を向けて首を傾げた。 「ん?」 慌てて机に向き直り、筆を進めるふりをする。ちらと横を窺ってから、小さく咳払いをした。 「…き、今日、豊川さんとどげな話をしとったんだ」 「どげなと言われても…すぐに帰ってしまわれたから…。 あ、漫画賞の受賞、おめでとうございますと仰っとられました」 「それだけか」 「編集部の方と盛り上がったみたいですよ。抱き合って喜んだって」 「うん、それから?」 「受賞の電話をもらったとき、おとうちゃんが随分あっさりしとったから、 様子が知りたくていらしたんじゃないかなあ」 「そげか。他には」 「…」 「…なんだ」 急にぴたりと口を閉ざし、何やら怨めしそうに茂を見つめてくる目に、思わずたじろぐ。 「…どげしました?さっきからやたら矢継ぎ早にあれこれ訊いてきて?」 訝しがる布美枝を前に、茂は心の中で舌打ちをした。 豊川を不快に思うことなどなかったとはいえ、それでも二人の仲が気にかかるのは正直なところ。 知らず知らずにそこを探り出そうとしていた本音に、釘を刺されたような気がした。 「べ、別に。ただ訊いてみたかっただけだ」 「ふうん…?」 小さく首を捻りながら、布美枝は再び原稿に向かった。 「…あ」 と、すぐに顔を上げた布美枝が、「あ」の口のまま茂をしばらく見つめて 「豊川さんに何か…言われたんです、か…?」 おずおず、上目遣いで尋ねる。どこか、ばつがわるそうな表情だった。 ぴん、と茂の第六感とでもいうところが、勢いよく撥ねあがった。 「思い当たることがあるのか」 「え…や…、あの…」 今度は形勢が逆転する。攻めるのは茂の方だった。 じりじりと詰め寄ると、どんどんと背を丸め、電信柱が小さくしぼんでいく。 「なんだ、何を隠しとる?」 「え、と…」 布美枝の顔は紅潮し、一向に茂と目線を合わそうとしない。 筆を置いて、両拳を胸の前で交差させ、ぶつぶつと言い訳めいたことを呟いている。 誰が見ても、その身体全体で、「豊川との間に秘密を持った」と物語っているではないか。 万が一にも豊川と布美枝に限って、そのようなことはないと思っていたが、 男の腕ならばこの細い身体、いくら長身の布美枝でも動きを封じることは簡単だ。 豊川は確かに整理がついた、と言っていた。それは一体どういうことだったのか。 あの屈託なく、下心も垣間見せなかった笑顔は、全くの作り物だったのか。 「おい!」 茂は煮えたぎる腹の内に勢いをつけ、布美枝の肩をがしっと掴んだ。と同時に、 「あーっもうっ、そげに意地悪く焦らさんでもええでしょ!」 布美枝の叫びに近い声が飛んだ。 「何がだ!」 「だから、聞いたんでしょ…」 「はっきり説明せ!」 「そげに怒らんでも…二人であたしのこと笑っとったんでしょう」 「…は?」 下唇を突き出して、子どものように布美枝は拗ねだした。 が、茂には全くその意味が解らない。 「だから、ネクタイのことですっ」 「え?」 「兄に教えてもらったからネクタイ結べますって言っといて、結び方すーっかり忘れてしまっとったから、 豊川さんに教わって練習台になってもらっとったこと、聞いたんでしょう?!」 いよいよ開き直ったという風に、ふてくされた顔で乱暴に言い捨てる。 「見栄張っといてやっぱり出来んっていうの、格好悪いから黙っといて欲しかったのに。 豊川さんも人が悪いわ。どうせおとうちゃん、それ聞いて知っとったから、 意地悪くあたしのことからかおうとしたんでしょ」 じろっと睨みつける眼を、茂はただぽかんと口を開けて見つめ返すしかなかった。 ネクタイ…ネクタイ…はて、そういえば、やたらくたびれて歪んだネクタイを締めていたな。 茂がそれを指摘すると、慌てた様子で解いていたような気がする。 それはしかし、どこかうっすらと、はにかんでいたようにも思える。 「今日の、あれ…お前が結んだのか」 「…そうですけど…。あれ?豊川さんから聞いたん、…ですよね…?」 無垢な顔で茂を見上げる布美枝の向こうに、ネクタイ結びの練習台にさせられる豊川が浮かぶ。 豊川の気持ちを知らなかったとは言え、想い人にネクタイを結んでもらうその行為は、 逆に何も知らなかったからこそ、あまりに酷な気がした。最中の彼の心境を測れば、やや同情もする。 「…豊川さんの名誉のためにも言っとくが、そげなことあの人からは何も聞いとらん」 「えっ…」 「墓穴を掘るとはこういうことだ」 かーっと血の気が布美枝の顔を昇っていく様に、茂は堪えきれずに笑った。 布美枝は両手で顔を扇ぎ、何とか鎮めようとしながら、それでも治まらない赤面に、遂に顔を覆う。 「だらず。練習なら俺でやれ」 「だ…だって」 ため息を吐きながら、茂は諌めるようにして布美枝の頭をぽんぽんと叩いた。 茂が一瞬抱いた「疑念」は、やはり豊川に限ってあり得ないことではあった。 が、何かの拍子にその淵へ転がされてしまう危うさを、布美枝は自らに潜めていることを知らない。 知らなかったこととはいえ、思慕を寄せてくる男に対して無防備を晒す、 危なっかしい布美枝の行動には小さく苛立ってもいた。こいつは男というものを、解ってなさすぎる。 「他所の男のネクタイなんぞ結んどるんじゃない」 優しく言うつもりが、ややきつくなってしまったかも知れない。 申し訳なさそうに、うっすら涙目になっている布美枝に見上げられると、少しだけ胸が痛む。 と同時に、そこはかとない独占欲にも灯がともる。 こうなったら転がり落ちるだけだった。ただただ、布美枝を貪る獣の淵…。 「おと…っ」 乱暴に唇を奪っても、驚きこそすれ、やがて自然と交わりを許してくれる。 しん、とした部屋に互いの息切れの音が響く。息継ぎの僅かな間も惜しむほどに、深い接吻だった。 「…ちゃ…ん?」 しっとりした後ろ髪を持ち上げ、広がった首筋に口づけていると、耳元で布美枝が囁く。 「お仕事…」 「もう今日は無理だ」 「…なら…二階…に」 半分蕩けた身体を捩りながら、理性の端の端で布美枝が呟く。 「駄目だ。お前は藍子がおったらこっちに集中せんからな」 「集中って…ゃ…っん」 寝間着を肌蹴させ、柔らかな乳房に辿りついて吸い付く。 背を支える茂の右手を、手助けるように茂の首に巻きついていた布美枝の両腕が、微かに力を失った。 布美枝の乳首が簡単に尖るのは、寒さの所為ではないはずだった。 丁寧に舌で舐めまわし、ときおり軽く歯噛んでみると、ぴくりと反応する。 乱れた寝間着は、実のところ真っ裸よりそそるな、などと茂は頭の隅の方で考えていた。 「し…げ、さん?」 「む?」 乳房にかぶりついたまま、目だけで布美枝を仰いだ。 「あの…ね?」 一番柔らかい部分へぎゅっと口づけの痕を残して、乳房へ別れを惜しみつつ、 顔を上げると、また布美枝の頬から耳へ唇を移動させた。 耳元で「なんだ」と囁きながら、舌を這わせて耳をねっとりと覆った。 肩をすくめながら、小さく喘ぐ声に気をよくして、しばらく耳元を舐っていた。 「怒っとるの?」 少し緩んだ口元に、悪戯っぽい布美枝の眼がこちらを見つめていた。 「貴方が勤め人だったら、毎日ネクタイ結んであげとったかな? 他所の男の人の、奥さんみたいなことして…ちょっこし、ヤキモチ妬いてくれた?」 常にぼんやりしているくせに、時折妙に鋭く心理を言い当ててくることがあるので、油断がならない。 まさに図に星というところを指摘され、茂は言い返す言葉を失っていた。 ふふ、と軽く微笑うと、布美枝は茂の頬に両手を置き、ちゅ、と軽く唇を触れた。 そのまま手を首から肩へ移動させ、茂の上半身の寝間着を肌蹴させ、露わになった堅い胸元をさすった。 茂の懐に今一歩入り込み、先ほどまで茂がしていたように、今度は布美枝が耳元に唇を寄せた。 かぷり、と耳たぶを甘噛み、吸い付く。首筋へ舌を這わせ、頬にも何度か口づけた。 「しげ、さん…」 甘い吐息とともに耳に直接吹き込まれる妖しげな呼びかけ。茂は目を閉じて布美枝を抱きしめた。 「きゃ」 途端にバランスを崩し、茂の方向へふたりは倒れこんだ。 何かそういうきっかけになるような釦でもあるのか知らん…と布美枝を仰ぎながら考えた。 (今日は釦を押してしまったかな…) いつもは茂の為すがままに、その身を預けて快悦に昇っていく布美枝だが、 時々こうして主導権でも執ったかのように、あれこれと前戯を施してきたりすることがある。 そのほとんどが、虫でも這うようなこそばゆい愛撫だったが、それでも茂は身を任せた。 決して得意ではないことに、それでも懸命な布美枝は、極上にいじらしい。 茂の広い胸の上で、小鳥が餌を啄ばむように、小さな唇があちこちに落とされた。 首筋に戻ってきた舌が、また耳元を舐る。くっくっ、と茂が笑うと、布美枝もふふ、と笑った。 背中に回してあった右手で、布美枝の唇に触れ、口づけを誘う。 ゆっくりと降りてくる柔らかな感触と、隙間から入り込んでくる温い舌触りに、しばし酔っていた。 と、しばらくして、やおら布美枝の右手が内股あたりを弄り始めた。 おや、と思って目を開けると、布美枝は少し躊躇した表情で今一度口づけ、すっと茂の視界から消えた。 「…っ…」 次の瞬間、下着の上から、やや傾き、角度をつけ始めた下半身を唇の先で突かれた。 思わずびくっと反応して、腰が引けた。 指と舌で先端をくすぐられるように弄られ、じわりと先走るものの気配を感じる。 ゆっくりと、剥かれるようにして下着を取られ、窮屈に押し込まれていた先矛が、ひんやりと空気を纏った。 頼りない指がそれを包み、上下に緩く扱かれる。舌が先端をちらちらと舐めた。 「ん…」 くすぐったさに、身を捩ったところで声が洩れた。 一層の角度をつけ、膨れ上がってくる肉棒に、今度は上下に舌が這う。睾丸も舐られた。 まるで犯されているような錯覚に囚われ、茂は羞恥に襲われる。と同時に、もっと、と心中で乞うてもいた。 布美枝は最大になった茂のそれを、無理矢理口に収め、何度か上下させ始める。 茂を包み込む布美枝の口内は、じんわりと温かい。 眉をひそめて懸命に夫を愛する妻の表情に、ぎゅっと胸が締め付けられた。 このまま吐き出してしまいたい欲求と、もうひとつの場所を味わいたい欲求が、しばし茂を苛んで…。 布美枝の後頭部に右手を置き、ぽんぽんと合図する。 「も…えぇ…」 かなり限度まできていたのだな、と自分でも驚いたほど、か細い声だった。 はあ、はあ、と息を切らせた布美枝が、手の甲で口を拭った。その姿がどうにもまた淫らに見える。 体勢を起こし、布美枝を抱きしめた。何度か労いの口づけをしながら、右手で繁みを探る。 「ぁ…」 とろとろと蕩けだした淫液で、掌が簡単に濡れそぼった。 下着を剥ぎ取り、自らの屹立の上に腰を下ろさせる。 「あ…は…」 吸い込まれるようにいとも簡単に、布美枝の中へ収まる。ふうっと茂は深い安堵のため息を吐いた。 「こっちもええが…」 と、布美枝の唇を、ちょんと指で突っつき、 「こっちも、ええ、…な」ずい、と腰を突き上げた。 「やっ…あ!」 仰け反った布美枝の背を支え、突き出された乳房に喰らいついた。 「あんっ…」 茂の髪を無意識に掻きまわす指先、ぎゅうと縋りついてくる細腕。 熱い内側は、口内とは全く違って、襞が絡み付いて締め上げてくる。 溢れ出す互いの愛液にまみれ、ぐちゃぐちゃと卑猥な音がした。 「あっ、あ、ああ、し…げ…ぇさ…!」 その合間に耳元で聴こえる布美枝の喘ぎが、一段と茂の衝動を駆り立てる。 豊川のような、ただ見つめるだけの愛もあっていいだろう。 が、自分にはそんな愛し方は出来ないと、茂は思った。 心も、身体も、布美枝の全てを独占し、時には掻き乱してみたくもなり、時には優しく触れたくもある。 (要するに我侭なんだ…) ただひたすら我侭にしか、この女を愛することは出来ないのだと思った。 白い欲を内に吐き出す瞬間に、茂はひときわ強く布美枝を抱きしめた。 言葉では伝えられない不器用さを、その右手に全て込めて。 - ‐ ‐ ―――――翌日。 「はいっ、おとうちゃん、そのまま」 「あ?」 不浄の用から戻った茂を、にこにこと出迎えた布美枝の手には、くたびれたネクタイが握られていた。 「練習、させてくれるんですよね」 「ああ?今から?雄玄社の原稿、早やことせんといけんのだが」 とたんに、口を尖らせて睨みつけられる。やれやれと頭を掻いて、応じてやった。 ひょい、と首にタイをかけて、「じゃあいきますよ」と鼻息が荒い。 こういうところもまた、愛嬌というやつなのだろうか、と茂は少しにやけた。 しばらく布美枝はああでもない、こうでもないと、タイを捩り、結んでは解きを繰り返していたが、 「ここからどげでしたっけ」 と、茂を見上げた。 「…俺は知らんぞ」 「えっ?!」 「戦争行く前はネクタイなんぞ結んだことなかったしな。腕がなくなってからは、 イトツか兄貴に結んでもらっとったから、結び方は知らん」 「ええーーっ!!」 布美枝の絶叫に、傍らの藍子は思わず耳を塞いだ。茂も顔をしかめる。 「だって、昨日、練習は俺でやれって…」 「練習台になってやるとは言ったが、結び方を教えてやるとは言っとらん」 「…」 「適当でええが」 がっくりと肩を落として呆然とする布美枝と、口を尖らせる茂を、藍子は交互に見上げて首を捻る。 「これじゃあ練習にならんーーーっ!」 脱力して座り込む布美枝の頭を、子どもをあやすように藍子が撫でる。 茂は呵々と笑って、首にかかっていたタイをひょいと解き、くるくると布美枝の首に巻きつけてやった。 SS一覧に戻る メインページに戻る |