布美枝〜豊川の場合〜(非エロ)
番外編


豊川悟が編集部に戻ると、同僚の梶谷が「お疲れ」と声をかけてきた。

「豊さん、電話あったよ。水木先生の奥さんから」

意外な人物からの連絡に、少しだけ胸がざわついた。

「電話が通ったんだって。いつでも連絡くれって。これ、番号」

メモを受け取ると同時に、事務的な内容だったことにがっかりした。
そして何故か「がっかりした」ことに一瞬戸惑った。何を期待していたのだろう?
気を取り直して早速電話に向かう。
ちょうどいい。正式に鬼太郎の執筆を依頼しようと思っていたところだった。
ダイヤルをまわすと、すぐに件の奥方の声がした。少し緊張する。

『…はい、村井でございます。冷やし中華ですか?』
「…え?」

いくぶん不機嫌そうな声で、訳のわからない問いかけがあった。

「あの…雄玄社の豊川ですが…」
『あっ!豊川さんっ!すんませんっ。おとうちゃんっ、豊川さん…!』

その慌てぶりに、思わず噴き出す。冷やし中華?
それにしてもこの女性は本当に…面白い。

- - -

万を超える部数を誇る少年雑誌を扱っている豊川の慢心が、
衰退著しい貸本漫画にしがみつく漫画家というものに、
正直なところいささか無粋な興味を持たせたのが、全ての始まりだった。
が、その漫画家の作品はどれもやけに「ざらつく」感覚で、やたらと心惹かれて堪らない。
編集部の面々からは「恋心にも近いほどの執心ぶり」などとからかわれもしたが、
その漫画家に出会ってから、豊川の編集者魂とでも言うものが、
俄然、燻ぶりから一気に炎に燃え上がったのは言うまでもない。
それが水木しげるその人だった。
そして、その漫画家の傍らに居た女房に、興味を覚えたのはつい最近のことだ。
ひょろりと背が高く、細い身体でおっとりとしていて、田舎言葉を喋り、朗らかに笑う。
徹頭徹尾控えめで、夫の半歩後ろに佇んでいる。
あの奇天烈な男の女房という割には、あまりにも地味な印象だったが、
なぜかふとした瞬間に、ぼんやりと心の中に入ってくる。
まさか年上の、しかも人妻に懸想をするなど、我ながら考えたくもないことだったが、
だからといって全否定できる自信もない。
奪いたいとか、そういう肉欲的なことではなく、どこかプラトニックな感情だと思った。

(理想…なんだよな)

妻にするなら、という意味で。
しかし、女性の社会進出目覚しい昨今、彼の女房のような女性は意外と少ない。
傷心に近い心持ちで、豊川は小さくため息をついた。

- - -

茂の「テレビくん」がその年の漫画賞に決まった。
豊川はその知らせを聞いた瞬間、信じられない思いでその場に立ち尽くした。
梶谷が痛いほどバシバシと肩を叩いてきて、やっとその現実を実感し始め、
ぶるぶると震えが起こり、同時に茂を初めて訪ねたときに見た、あの背中を思い出した。
本物だ、と直感したあの時。間違いではなかった。
そして大急ぎで受話器に向かう。ダイヤルがゼロに戻るその僅かな時間でさえ、永劫のごとく感じた。
きっと茂本人はこの報せを飄々と受け、そして流すのだろう。
豊川は何より布美枝の反応が見たかった。あの朗らかな笑顔が、泣き笑いに染まり、
夫の功労に心から歓喜するのだろう。
思った通り、電話口に出た茂は淡々と受賞の報せに、「分かりました」と返事をしただけだった。
梶谷はそれを聞いて、呆れた顔で笑った。「面白い人だな」苦笑して豊川は頷いた。

数日後、やはりどうしても茂夫婦のことが気になった豊川は、
受賞祝いと称して、銀座でとびきりの羊羹を買い、電車に飛び乗って調布へ向かった。
電車に揺られながら、やはりここのところの我が身はおかしい、としみじみ思った。
横恋慕に過ぎない布美枝への淡い想いは、日に日に色づいてきているような気がする。
けれど、決して届くはずもない絶望も隣り合わせて、身の程を弁えることも重々理解していた。
茂の隣に居てこその彼女なのだ、そしてその隣に居てこその笑顔を、どうしても見ていたいのだ。
矛盾してもなお欲する訳のわからない感情に、今日もまた突き動かされている。

駅から遠い村井邸にようやく着いた頃には、すっかり冬めいてきたにも関わらず、薄っすらと汗をかいていた。
動悸がやけに速いのは、歩く速度が速かった所為だと言い聞かせ、いつものように明るい声で扉を開いた。

「豊川さん」

出迎えてくれた布美枝は一瞬驚いて、そしてふわりと微笑んだ。

「どげされたんですか?締め切りはまだ先だと思っとりました」

島根の出だという彼女の訛りが、また格別その人柄を柔和に見せる。

「あ、いや」

貴方の笑顔が見たくて、などと言うわけにもいかず、つい言葉に詰まる。

「先生に、受賞のお祝いをと思いまして」

少し慌てて、土産の包みを差し出して見せた。飽くまで、茂に会いにきたのだと強調してみる。
また、柔らかく微笑む顔に、何故だか照れて咄嗟に俯いた。
しかし茂は散歩に出かけて不在だと言う。

「もう少ししたら帰ると思いますけん、どうぞ上がって待っとって下さい」

夕飯の支度をしていたのか、居間に通されると土野菜を煮込む匂いがする。
茂の仕事部屋では、娘の藍子が座布団を枕にすやすやと眠っていた。
間違いなく、偉大なる水木しげるの娘だけあって、随分とお絵かき好きのようだ。
そして同じく布美枝の娘だけあって、くるくるした瞳は言葉で表現できない魅力があった。
愛くるしい寝顔に、ふっと頬が緩む。
ふと、奇妙な空気だ、と豊川は思った。
独身の身分でこんなことを思うのは不思議だったが、すごく居心地が良い。
夕食の準備をする妻と、父の帰りを待ちくたびれて眠る娘。まるで、我が家のような。
緩んだ顔に、やがてはっと我に返り、ごくりと唾を呑み込んだ。
主人が不在の家に上がりこんで、妙な妄想を繰り広げる自分に、慌てて姿勢を正した。

豊川は自身の所在なさに、出直そうかと思い始めたが、
背中から、小さく「そうだ」と布美枝の声がして、反射的に振り返った。

「…豊川さん、ちょっこし…お願いがあるんですけど」
「え?あ、はい。何でしょう」

すると布美枝はすっと豊川の喉元を指差し、

「…ネクタイの結び方、教えていただけませんか」

少しはにかむようにして言った。

「は…」

豊川は、自分の首に結んであった濃いブルーのネクタイに手を宛てた。

「結婚する前に兄に教えてもらったんですが、すっかり忘れてしまって」
「?はあ…」
「授賞式、12月にあると仰っておられたでしょう。今度、背広を新調することにしたんです。
ちゃんとネクタイ締めて行かんといけませんけんね」
「ネクタイ…、…あ!」

豊川はようやく、布美枝の言わんとすることに合点がいった。

「そうか、先生、ネクタイ結べないんですね」

隻腕の茂はしかし、何事も全て器用にこなす男だったので、
豊川は時折、そんなことはすっかり忘れてしまうようになっていた。
しかしなるほど、確かにネクタイは片腕では結べない。

「先生に、教えていただいたら…」
「それが…見栄を張ってしまって。結べますから大丈夫ですって、言い切ってしまったんです」

そこで兄と練習したときの記憶を手繰り寄せたのだが、忘れてしまっていたのだと言う。
少し恥ずかしそうに、しかし見栄を張った手前引き下がれないという意地のようなものも垣間見え、
その様子がやけに可笑しく、豊川は自然と笑ってしまっていた。

「や、すみません。奥さん、なんか、可愛らしい方ですね」
「え」

やや、頬を染められたような気がして、はっとして目を逸らす。

「あ、いや、え、っと…」

慌しくネクタイを解いて、おずおずと布美枝に差し出した。

「どうぞ…」

手渡す瞬間、その細い指が触れた。たったそれだけのことで、かっと身体が熱くなった。
一歩踏み寄ってくる布美枝に、思わず後ずさりしそうになる。
長身の布美枝の顔は、相対すると真っ直ぐに瞳同士がかち合う高さになり、
どうしようもない焦りが豊川の全身を包んだ。
ふわり、とタイが首にかけられて、また一歩布美枝が近づいた。

「…ま、まず、結ぶ方を長く持って、胸の前で交差させて…」

真剣な眼差しが、豊川の胸の辺りにぶつけられて、一気に鼓動が加速度を増した。
聴こえやしないかと気が気でないが、布美枝の意識はタイに集中しているようだった。

「下から、ここに…そうです、そこに通して…」

しなやかな指が、頬を掠めそうになって避ける。
いつの間にかまた、ぐっと距離が縮まってきているように感じた。
不徳なことこの上ない、豊川はどきどきしながら自分を責めた。
不純すぎる激しい動悸が、尊敬する茂への裏切りのような気がして、自分自身を酷く苛んだ。
何とかこの状況を打破したい、身動きが取れない状態で、頭だけをフル回転させた。

「あ、ああ、そうだ、お祝いを言いそびれていました!」
「え?」

きょとんとこちらを見つめる布美枝の視線を、まともに見ることはせずに、
結び目を再び解きほぐしたネクタイを持つ、薄桃色の手の爪先に目を落とした。

「おめでとうございます!年に1度の賞です。本当に素晴らしいことです!」

布美枝の笑顔を見たかったとはいえ、茂の受賞にも未だ心身打ち震える感動が豊川の中には残っている。
自分が信じたあの背中が、こうして認められたことに胸を張りたい。

「先生、いかがでしたか」
「いかが…?って?」
「電話では随分、あっさりとされていたので」

タイの長さの塩梅を確認してから、布美枝はくす、と微笑った。

「当然だな、と言っとりました」
「ははは、先生らしいですね。私は、信じられない思いでいっぱいでした。今もです」
「ふふ…」
「びっくりして、しばらく放心しましたよ。同僚たちと抱き合って喜んだりして」

興奮気味に話す様子を、にこにこと聴いてくれている。
ややあって、勢いよく熱弁をふるっていたことに、少しだけ気恥ずかしくなり、
豊川は軽く頭を掻いて咳払いをした。落ち着いた声で、尋ねる。

「…奥さんは、いかがですか」
「あたしは、豊川さんとはちょっこし違いました」
「え?」

ずっと合わさないようにしていた目線を、思わず布美枝に向けた。

「信じられんとかは、全然思いませんでした。なんというか…。こういう日は、
遅かれ早かれきっと来ると思っとりました。必死で漫画を描いとる後姿を見たときから…」
「…」
「疑いもしませんでした。…来るべき時が来た。それだけです」

凛とした眼差しが、真っ直ぐに豊川を見つめた。
その眼は、豊川の胸の中心をぐっと鷲掴み、ぎゅうっと締め付けた。
やがてゆっくりと悟っていく。茂と布美枝の間の、揺るぎない絆、
布美枝が茂に対して抱く、尊敬よりも深い敬い、愛情よりも深い愛。

「けど、豊川さんには本当に感謝しとります。
貴方がおらんだったら、未だにその時は来とらんだったかも知れません」

結び目の形を整えてから、一歩下がって目を細める。
重苦しい胸を抱えて、豊川はその姿をぼんやりと眺めた。
何故このひとは自分の隣に居ないのだろう。何故他の男のものなのだろう。
自分が持っていない、他の子どものおもちゃを羨ましく思うような、酷く幼稚な感情を恥じた。

目の前にある白い肌や、揺れる黒髪、長い睫、凛とした黒い瞳、柔らかく潤む唇。
微かに漂ってくる、何とも言えない甘美な香りが、じわりと背中に汗を浮かばせた。
いかほどの時間も経っていないはずなのに、豊川にはその時間が永遠のように思えた。
息が詰まって苦しい。ぐるぐると頭の中がとっ散らかってくる。
このまま、この細い腕を掴んだら、この細い身体を抱き寄せたら…。
出来ないことはない、けれどとたんに全てが崩れてしまう。
たった一時の衝動に全てを流されてしまうほど、自分のふたりへの親愛は浅くはないはずだ。
ぐっと息を呑んで、持ち上がりそうになる腕を必死で抑えた。

「…なんか不格好だなぁ…」

やおら呑気そうな布美枝の声がして、ようやく、ほう、と脱力する。
そして咄嗟に身構えるようにして早口で言った。

「す、すみません。もう帰らないと!編集会議があるんでした!」

自分でも随分声が上ずってしまったな、と思ったが、お構いなしにぺこりと頭を下げると、
傍らに脱いであった上着と鞄を手にとり、大急ぎで玄関へ向かった。

「あ、あのっ…」

後から追いかけてくる布美枝の顔を、しっかりと見ることはできずに、
また勢いよく頭を下げて、逃げるようにして出ていった。
あまりにも不自然なのは自分でも解っていたが、この家に1秒でも居ることができなかったのだ。
走って走って、何かを振り切るように、豊川は脚が地を跳ね上げる限界まで走った。

- - -

とぼとぼと重い足取りで駅の手前まで来ると、公衆電話が目に入った。
そういえば他の作家との打ち合わせの段取りを、今日中に電話しなければならなかったことを思い出す。
腕に引っ掛けてあった上着のポケットをまさぐって、手帳を探す。

「…あれ、無い…?」

何処かで落としたのだろうか、どこにも無かった。
編集者にとっての手帳は命綱。スケジュールから電話番号から、ありとあらゆる情報が詰め込まれている。
もしかしたら、あの家に落としてきたのかも知れない。家に入る前、暑くて乱暴に脱ぎ捨てた記憶が。
今更また戻るのは、ここまでの距離を考えるとうんざりしたが、
それ以上に鬱々としてしまうのは、やはり布美枝に再び相まみえるだろうことだった。
少なからず彼女に対して好からぬ妄想を抱いたことに、罪悪感を感じずにいられない。
まるで裁判官の前に立たされる罪人の気分だった。

重い足を引きずりながら、せめて道端にでも落ちていて欲しいと、きょろきょろしながら引き返した。
けれど望み虚しく、結局また茂の家まで戻ってきてしまう。
あれこれと事前に言うべきことを口の中で反芻し、極力事務的に、短時間で済まそうと考える。
逃げ腰なのが我ながら情けなく思いつつ、ひとつ深呼吸をして、きっと戸口を睨みつけた。
ゆっくりと入り口に近づいたとき、勝手口の向こうから人の声が聴こえて、瞬時に歩みを止めた。
やや体勢を変えて外から覗き込むと、布美枝が洗濯物を取り込みながら、誰かと話している様子が見えた。
声の主は、茂だった。いくぶんほっとした。
布美枝とふたりだけで相対するよりは、茂が居てくれる方が緩衝材になる。
気を取り直して声をかけようと、一歩踏み出した。
刹那、身体ががっちりと石のように固まった。

くすくすと微笑う布美枝の唇が、茂のそれと合わさり、ふたつの影がひとつになる。
その瞬間を目の当たりにしてしまった。
二度三度、戯れのように啄ばんで、くすくすと今度は両者が笑う。
それから見つめあって、茂の右腕が布美枝の身体を引き寄せた。
ゆっくりとまた触れ合った接吻が、やがて熱を帯びて深くなる。
見てはいけないと思いつつも、目が離れない。
少し離れては、追いかけてまた合わさり、息継ぎの間も惜しむように、互いの唇を掬い上げる。
布美枝の、うっとりと閉じられた瞼から湾曲に伸びる睫も、やや紅潮した柔らかそうな頬も、
つい先ほどまでは自分の眼前にあったはずの全てだった。
細い骨を思わせる頼りなげな腰まわりには、茂の右腕が指定席のごとく収まっている。
名残惜しむように口づけを終え、額を合わせて息を整えるふたりの横顔が、
映画のワンシーンのように美しく見えて、豊川はただ呆然と立ち尽くしていた。

「…おかあちゃ〜ん」

家の中から、母を探す娘の声がした。
布美枝、茂、そして豊川も、その声に我を取り戻す。
慌てて豊川は、本来の目的をすっかり忘れてその場から退散してしまった。
ひたすら歩いていると、今見た光景にやっと動揺が始まる。
けれど、決して黒い感情は沸いてこなかった。不思議と心が軽くなる気持ちがあった。
失恋というのとも違う、落胆とも違う、むしろ悟りに近い。

結局、豊川が思慕した布美枝という女性は、あの男の隣に居るときでこそのものだったらしい。
茂の隣で笑う布美枝、茂を語る布美枝、茂を愛する布美枝、茂に愛される布美枝…。
豊川の本能は知っていた。布美枝を我がものとしたとたんに、きっと布美枝は布美枝でなくなる。
茂のものであり続けるということこそが、豊川が布美枝を慕った必要条件であった。
触れたいとは思っても、決して茂から布美枝を奪おうとは思えなかったのはそういうことだ。
きっと無理矢理にでもこの手中に収めたとき、布美枝は儚く消えてしまうのだろう。
豊川にとって布美枝とは、ただひたすらそういう女性だった。

ひとつため息を吐いたとき、

「豊川さん」

後ろから呼び止められた。振り返ると、茂が小走りでこちらに向かってくるのが見える。

「良かった、追いついた」
「…先生」

ふたりは気づいていなかったとはいえ、夫婦の愛の営みを垣間見てしまった後だと、
どうしても気恥ずかしくて、豊川は思わず俯いてしまった。

「あんた、これを落としていったようですな」

差し出された茂の手には、豊川の手帳が握られていた。
ここでやっと、手帳を探しに戻ったのだということを思い出し、思わず苦笑した。

「すいません、あちこち探してました。ありがとうございます」
「随分慌てとったようですな。ネクタイがくたびれて歪んどりますぞ」
「え…あ、はは…」

(これは貴方の奥方が…)

豊川は苦笑して、ネクタイに手を宛てた。
冷たい風がひゅうっとふたりの間をすり抜ける。
布美枝に結んでもらったネクタイをゆっくりと解くと、その風がひらりとタイを巻き上げた。
同時に、自身の内側で燻っていたどうしようもない残り火が、ふっと吹き消されたような気がした。
風とともに解き放たれた淡い想いは、冬の訪れを告げる冷たい空気に溶けて消えた。
豊川はそれを見送るように空を仰ぎ、そしてゆっくりと茂に向き直って、
猫のような、やや小生意気な笑みを浮かべてみせた。

「先生、気分転換の散歩も結構ですが、締め切り、来週ですよ」

続編:布美枝〜茂の場合〜(村井茂×村井布美枝)






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