高野誠一×雨宮蛍
夢を見ていた。 釜樽の中で自分が茹で上げられている夢だった。ぐらぐらと煮立つ湯と水蒸気に身体が蒸され、とても息苦しい。思わず口を開けるとしょっぱい汗の味がした。 (く、くくく苦しい…。誰か…助けて〜…!) 「起きろ!アホ宮ぁ!」 脳天を突き抜けるような声が響き、雨宮蛍は目を覚ました。 「ぶ、ぶぶ部長?あれ?おはようございますぅ〜…」 慌てて飛び起きると、そこはいつもの縁側だった。目の前には上司の高野誠一が仁王立ちでこちらを見下ろしている。 (ああ、部長、接待が終わって帰ってきたのか……) どうやら、眠っていたようだ。Tシャツが、汗でびっしょりになっている。 「おはようじゃない!今何時だと思ってるっ?……いや、そんなことよりもなんだこの惨状は!?」 「え?あ、あの…借りてきたDVDですが?」 「そんなことはわかっている!私はなぜ三日レンタルのDVDを一度に20本も借りる必要があるのかを聞いているんだ!」 四方八方に散らばっているDVDを指しながら高野は蛍に詰め寄った。いつもと同じ黒い背広姿だが、いつもと違って完全に怒っている。 「ええと…それはですね」 高野を見上げる蛍の頬をつうっと汗が伝った。それは糸を引くように顎から垂れ落ちる。 今夜は、完璧に、熱帯夜だ。 「…部長、今日は花マル金曜日ですっ」 「……それが?」 「仕事が終わって、ビールを飲みながら、夜を明かして色んなラブストーリーでも見ようかな〜っと!…思い立ちまして、レンタル屋さんに行ったら、見てない映画がいっぱいあったのでついつい沢山借りちゃいました……」 てへっと蛍は笑う。前髪を一本結びにして、こ汚いジャージを着ていても可愛らしく見える笑顔だったが、高野は陰険な笑みを浮かべるだけだった。 「そうか……“ついつい沢山借りちゃった”のか」 「……はい」 「………この、アホ宮がぁあああ!」 怒髪点を突くような吼え声に蛍は思わず頭を抱えて縮み上がった。 「ひぃぃいいい」 「どこの世界に合計55時間のDVDを三日で見終わる人間がいる!?一日は二十四時間しかないんだぞ?貴様、この週末は『どこにも出かけず』『寝ないで』過ごすつもりか?せめて一週間レンタルにしておけばいいだろう!」 「す、スミマセン〜〜〜!!」 「まったく……!」 苛立たしげに溜息をつく高野も、暑いのか乱暴に自分のネクタイを緩めた。 「だから延滞料を24580円も取られるような事態になるんだっ。映画は一日何本までと決めておけば、どれだけ借りたかわからなくなる事もない」 「はっ…その通りであります……」 「仕方ないから今晩は私も付き合ってやる。根性で4本は消化するぞ。寝るなよ。そして、以後気をつけなさい」 「ありがたい限りでございます……」 「……それにしても暑いな」 高野は上着を脱ぐとハンガーにかけた。首周りがじんわりと汗で濡れている。 「今夜はひどい熱帯夜だ。シャワーだけ浴びてくるから、ここで待ってなさい。15分で戻るから」 「えええ!」 平伏していた蛍が、高野の言葉に顔を上げた。 「ずるいです部長っ。汗みどろなのは部長だけじゃないんですよ!私だって、さっきまで釜茹でにされてたんですから、ほら……っ」 そう言って蛍はTシャツの前面をびろんと引っ張った。バケツの水をひっくり返したよう……とまではいかないものの、ぐっしょり汗でぬれている。 高野はそんな蛍の姿を軽蔑そうな眼差しで貫いた。 「君は寝ていただけだろう……私は今の今までし、ご、と、を!していたんだ!先に入ったって文句言われる筋合いはないっ」 「そんな〜〜〜〜〜!!!あ、そうだ」 蛍はがばりと立ち上がると高野の肩口をぽんと叩いた。 「部長、一緒にお風呂入りましょう。二人ですっきり!爽快!一石二鳥ですっ」 「阿呆か君は!出来るわけないだろうそんなこと!すぐに戻ってくるからそこで待ってろ…!」 叱り付けるように言葉を発すると、高野はそのまま背を向けて風呂場まで歩いていってしまった。 「部長〜〜〜〜???」 蛍は呆然としたままその姿を見送る。彼の足音だけが残響しやがてそれも風呂場の扉を開ける音とともに止んでしまった。 生暖かい風が彼女のうなじを舐めあげる。汗をかいた部分が一瞬ひやりとした。 (言われちゃった…出来るわけないって……) 先ほどの高野の言葉を反芻すると、ぺたりと蛍は座り込んだ。ひんやりとした木造の床が彼女の身体を受け止める。 (私たち、恋人同士じゃなかったっけ!?部長〜〜〜〜〜???) *** 蛍が一年越しに高野の住まいに戻ってきたのは、およそ一月前のことだった。 互いの気持ちを確認しあい、この先の人生を二人で、この縁側と一緒に歩んでいこうと決めた。 一年かけて、恋人だった手嶋マコトに対する想いを思い出にして、今まで頼りになる上司だった高野に対する想いを受け入れたのだ。 もう自分に、怖いものはない筈だった。 (なのに……まさか……) 睨むようにして蛍は浴室に続く廊下を見つめた。今頃、高野は一人で快適なバスタイムを味わっているのだろう。 (ここまで女として見られていないとは思わなかった……) このひと月の間、高野と蛍は身体の関係どころかキスのひとつもしていないのだった。最近の中学生でも、もう少し進んだ関係になっていそうなものだと蛍は思う。 「はぁぁ〜〜部長ぉぉ〜〜〜〜」 床に倒れこむように寝転がると蛍はクッションを抱き、顔をうずめる。 (私たち、一緒に住むようになって一ヶ月ですよ?私たちの関係だって、去年とは違うんですよ?……いや、もしかして部長の『好き』は、やっぱり親鳥が雛に対して持つ愛情と一緒で、異性に対するときめきではないのか?ああああ、もうわかんないなぁ〜〜〜!) クッションを抱えたままゴロゴロと転がるとDVDの山に乗り上げ、思い切り崩してしまった。先ほど高野が「まったく一度にこんなに借りやがって!」と憤慨しながら集めたものだ。 蛍はクッションから顔を上げ、溜息をついた。 「……勉強しようと思ったんだもん」 ラブストーリー物の映画を観ることで、少しでも乏しい恋愛経験の足しになればと思ったのだ。参考になりそうなものが多くて、うっかり大量に借りてきてしまった。 (どうせ私なんか、干物女だしなぁ……) 部長との関係を、もう少し、今とは違う形にしたかった自分を、蛍は情けなく思う。知識や経験が足りないおかげで、こんなものにしか頼れないのだと。 先輩の山田早智子や同僚の三枝優華ならこんな悩みを持つこともないだろうと考えると、ますます惨めな気持ちになった。人生の大半を干物として過ごしてきた自分は、きっと圧倒的に女としての魅力や武器が欠けているのだ。 「はぁあ〜〜〜」 「何を溜息ついているんだ」 「……部長」 見上げると、風呂上りで紺の甚平に着替えた高野がタオルで髪を拭いていた。 こないだ38歳を迎えたはずだが、すらりとした長身とふさふさの髪の毛のおかげか、少しも中年臭くない。相変わらず現役で女性社員に人気があるのもわかる気がする。 (……けど、この男の人は、一緒に住んでる恋人にも手を出さないくらい、枯れてるんだ…) 「ほら、急いで上がってやったぞ。さっさと入ってきなさい」 「………はぁ〜〜〜〜〜〜い」 不機嫌そうに立ち上がる蛍を、高野は訝しげな眼差しで見つめるのだった。 *** 先ほど流したはずの汗が、またじわりじわりと浮き上がってくるのを、蛍はえらく不快に感じた。 隣では、涼しげな顔をした高野が画面に映る映像を追っている。 「……部長」 「なんだ?」 「………暑くて映画に集中できません…」 時計は0時を回ったところだが、気候の方は全く涼しくなる気配を見せなかった。 右手に持つ缶ビールもだいぶ汗をかいている。まだ映画が一本目なのに蛍は早くもばてそうな気がした。 「馬鹿者。まだこれしか観てないんだぞ?気力で耐えなさい。心頭滅却すれば何とかと言うだろう。もともとは君の責任だ」 「それはそうですけどぉ〜〜〜〜」 ぐったりと卓袱台に伏せる。木造の家具は夏場もひんやりとして気持ちがいいのだ。 「クーラー付けませんか??こんな無風の状態じゃ、いくらこの家の風通しが良くても意味ありませんよっ……」 「……この家にエアコンはない。あるのは、私の寝室ぐらいだ」 「じゃ、部長の部屋いかせてくださいよ〜〜〜。これじゃ、次の映画まで耐えられません……」 高野のこめかみがぴくりと動いた。眉根に皺を寄せて、機嫌の悪そうな顔を見せる。 「いやだ」 「けちぃ〜〜〜」 蛍の抗議に、高野は心外そうな顔をした。納得のいかない様子で言葉を叩きつける。 「けちじゃないっ。だいたい、非常識だろう。こんな夜中に若い女が男の部屋にっ……」 「非常識じゃないですよっ!私、部長の彼女だもん、違うんですかぁ!?」 「あのなぁ……!」 何かを言いかけて、高野は口を噤んだ。しばし、逡巡するように蛍の不満顔を睨みつけていたが、やがて目を瞑って長い溜息をついた。 「……わかった。私のノートパソコンにDVDをセットしなさい。向こうの部屋で観ようじゃないか」 「へ?」 「へ?じゃない、さっさとしなさい。今日観る分のDVDは全部持っていくんだぞ。私は先に行って窓を締めてエアコンの電源を入れてくる」 「……は、はいっ」 苛立ちをぶつけるつもりで言った我侭が、思わぬところで叶ったので蛍は意外な思いだった。同時に、爪の先から頭のてっぺんまでさざめくような緊張が走る。 (ららら、ら、ラッキー、なの、かな?) 一緒に住み始めて一月たった今でも、高野の部屋に入ることは稀だ。 互いのプライバシーを尊重するために、相手の領域を侵さないことが暗黙の了解になっている。 それに、今まではどちらかの部屋で時を過ごすよりも、縁側でビールを飲みながら二人で語り合ったほうが心地がいいという思いもあった。 (ようやく、恋人らしいシチュエーションに、なれそうだなぁ……) 期待と同時に、女らしい不安感が蛍の胸をよぎった。 ノートパソコンとDVDを抱えて部屋に入ると、高野は窓を閉めている最中だった。 「よし、じゃあそれを机の上に置いておきなさい。あとは再生ボタンを押してベッドに腰掛けていればいい」 「べ、ベッドですか…!」 「パソコンは机の上だぞ」 「はい!」 言われるままにパソコンを机にセットして、画面の位置を調節すると蛍は高野の寝具に腰を下ろした。同時に、エアコンの電源を入れながら高野が蛍の隣に座る。いつも縁側にいる時と同じ位置関係のはずだったが、蛍の胸は異様に高揚していた。 (部長に対してこんなに緊張したのは……初めてかも…) いつも安心感を与えてくれる筈の存在が、今は異様に威圧感を放っている気がする。自分の勝手な思い込みなのだとはわかっていても、胸の高鳴りは収まらなかった。 ごまかすように缶ビールをぐいと煽ると、蛍は高野に笑顔を向けた。 「……や、やっぱいいですねぇ!エアコンは涼しいなぁ、クーラー万歳!」 「あ、貴様ビールまで運んできたのか!駄目だ駄目だ、私のベッドの上で飲食など許さんぞ」 「えええ〜〜〜そんなぁ。こいつをやりながら映画を観るのが楽しみだったのに…!」 「人の部屋で勝手に楽しみを満喫するな!」 結局ビールも取り上げられてしまい、蛍は手持ち無沙汰な思いを味わう羽目になった。 目の前の画面では、男女がキスシーンを繰り広げている。蛍は気まずい気分になって横目でちらりと高野を見やったが、彼は相変わらず涼しげな表情で映画を追っていた。 (こんなに動揺してるのは、やっぱり私だけなのかぁ……) 少し期待していた自分を蛍は恥じた。 (部長は、やっぱり私に女として興味を持ってないんじゃ……そりゃ、そっか。一番彼女として見せちゃいけないような姿ばっか見て、いまさら私に女を感じるような事が……) ふと目の芯を刺激され、涙が下瞼に盛り上がった。泣いたらいかん、とプライドが蘇り蛍は根性でその涙を飲み込んだ。 「か、か、感動的ですね。この場面。うひゃー、泣きそうになっちゃった」 「まあな」 興味なさげに相槌を打つ高野は、相変わらず半眼のまま目の前の画面を見つめていた。 映画が3本目に差し掛かってからしばらくした後、隣に座っていた高野の上半身が後ろに倒れた。 「ぶ、部長!?」 「悪い、雨宮……」 驚いて振り返る蛍に、高野は倒れたまま声をかける。 「実は、今日の接待、先方が気難しい人だったもんでね。思ったより気を使っていたらしい……正直、今すごく眠い」 言いながら高野の瞳は半ば閉じていた。既に意識が朦朧としているのか、視線が泳いでいる。 「ええ〜そんなぁ、今夜は付き合ってくれるって言ったじゃないですか」 「だから悪いといっているだろう。我侭だな君は……」 「はいはい、わかりましたよ!DVD持って出て行きますから、どうぞお休みくださいっ」 (やっぱり今夜も空振りか……どーせ、どーせ私なんて) 憤慨しながら立ち上がりかけた蛍の腕を、高野の長い指が掴んだ。 (わ!) 一瞬、掴まれた腕がかっと熱く燃えたように感じる。 心臓がいよいよ高鳴ってくるのを抑えるために、蛍は大きく息を吸い込んで吐き出した。そして、おずおずと高野の顔を伺う。 「部長……?」 「……」 相変わらず薄目を開けたままの高野の視線が、ゆっくりと蛍を捉える。何かを言いかけようと開いた唇が、少し色っぽかった。 「ぶちょ……」 「ここにいればいい」 言うと、彼はようやく瞼を閉じた。 再び、ドキリと蛍の鼓動が戦慄く。彼女の瞳が少し潤んだ。 「え?」 「暑いんだろう?……ここで映画を観ていけばいい。私は寝るがな。音は出来るだけ小さくしてくれよ……」 それだけを続けると、そのまま高野は吸い込まれるように意識を失った。後には、蛍の腕を掴んだままの彼の指先と、規則正しい寝息だけが残る。 蛍はまだ早く鳴り打つ心臓に手を当てたまま、高野の寝顔に小さく呟いた。 「はーい…」 昨夜は夕方から夜にかけて中途半端に眠ってしまったおかげで、ノルマのDVD4本を観終わるまで蛍は眠気を感じなくて済んだ。 白々と夜が明ける様子をカーテン越しに感じながら、彼女は隣で寝入っている高野の顔を睨むようにして見下ろした。 (まったく……部長が手を離してくれないおかげで、DVDを取り出したりセットしなおしたりするのに、えらい体力使ったんですからねっ) それほど強い力で握られているわけではないので、はずそうと思えばはずせたはずだ。だが、惜しくてそれも出来なかった。 (DVDも見終わったことだし、そろそろエアコンと電気消して自分の部屋に戻らなきゃな……) だが高野の整った寝顔を見つめていると、離れがたい気分になってくる。 部屋に戻るには、この腕に感じるぬくもりも剥がさなければならない。 このところ仕事が忙しくて二人で話をする機会も持てなかったよなぁと蛍は小さく溜息をついた。 相手が眠っていても、こうして二人でいる時間はやはり貴重だ。 「ぶちょお〜……」 小声で呼びかけても、彼の反応はない。 「起きてください……起きないと、チューしますよっ」 ずいぶん前に高野から言われた台詞だった。 あの時の蛍は、それを聞いた途端にがばりと起き上がって、目をぱちぱちと瞬きさせた後、再び寝転んで『キス待ち』の体制に入るという大きなリアクションをお見舞いしたが、今の高野は言われたことすら気づかないように熟睡している。 SS一覧に戻る メインページに戻る |