喪失 ミニコンサート前編
千秋真一×野田恵


「どうしました?目元が少し赤く腫れていますけど、何かありましたか?」
「昨日の夜、プリごろ太の映画を見ちゃって、感動の涙を流しすぎたせいデス……。」
「プリ……?」

―――昨日の約束通り、整形外科の診察が終わったのだめちゃんは、私の診察室に顔を見せに来てくれたのだが……。

一目見ただけで、山口にはそれが泣き腫らした顔である事はすぐに分かった。
彼女はややむくんだ顔を、別に何ともないといった風で、特に気にしていない様だったが……。

「山口先生、プリごろ太、知りませんかー?」
「いえ…知ってますよ、有名な漫画の……。」
「そーデス!のだめ、今日これから音大の友達と、今年のプリごろ太の夏の映画の公開初日に行くんデス!!」
「……はぁ。」
「それで昨日の夜からのだめ的に、つい盛り上がっちゃってー。
のだめの一番お気に入りの過去の作品なんですけど……それを見ちゃったんデス!
何度見ても、やはり感動ーでしタ!!」
「……そうでしたか。」

山口はやや話についていけなかったのだが、のだめはお構いなしに話し続ける。

「また今から、新たな感動の嵐!が待ってるんですヨ〜!今年分の涙の総決算してきマス!!ぎゃはぁ!」

のだめが本当に嬉しそうにプリごろ太の映画の話をしているので……
情けない事に、山口はそれが嘘か本当か分からなくなってしまった。
でも……少なくとも嘘をついているようには、彼には思えなかった。

「始まる前からそんなに泣いてしまって……。きっと今日の映画を見た後は、せっかくの可愛い顔が台無しですよ?」
「カ…カワイイ!?のだめがっ!?」

のだめはそう言われ慣れてないのか、目を白黒させた。

「可愛いですよ〜のだめちゃん。それにとってもいいコですしね。千秋さんの気持ちが分かります。」

『千秋さん』と山口が言ったのを聞いた瞬間、のだめはやや不自然に、つい…と目を逸らした。

「……そ、そんな事ない、と思いますヨ?……先輩、のだめの事は変態、って言ってましたカラ……。」

―――おや……?
―――これは…ちょっとおかしい。

のだめの今までとは違った反応に、山口は少し警戒した。

「……昨日お話した土曜日の件、考えて頂けましたか?」

少し様子を見る為にも、彼は態と話を変えた。

「ええと、ハイ!」

すると、のだめは明らかにホッとした表情を見せた。

―――どうやら千秋さんと何かあったようですね……。

山口はそれを直感的に悟った。

「のだめ、お引き受けする事にしましタ!頑張りマス!」
「本当ですか?それはよかった……。有り難うございます、のだめちゃん。子供達も喜びますよ。」
「のだめもお役に立てて嬉しーデス。だって…のだめにはピアノしか…ありませんから。
あっ!コレは取り柄、って言う意味ですヨ?」

ピアノしか、という言い回しに言った本人も驚いたのか、のだめは自分の発言を慌てて最後に訂正した。

「明後日の土曜日で、時間が余りありませんが……大丈夫でしょうか?」
「子供達と一緒に歌う曲はそんなに難しくないですし、のだめの得意分野でもあるので大丈夫デス。
クラシックの方は……有名な部分を短くアレンジして弾くだけだから、かえって楽な位デス!」

ここにきてようやく、のだめはいつもの元気な笑顔を山口に見せた。

「では後程、ミニステージにあるグランドピアノまでご案内致しますね。」
「ハイ!あの、ピアノ…調律はしてあるんですか?」
「ええ。のだめちゃんに絶対引き受けて頂けると思っておりましたので、昨日の内に手配しておきました。
事務局長に頼み込んでね……経費を出して頂きました。」
「え、そだったんですか?」
「のだめちゃんに弾いて頂くのに、ひどい音では失礼ですからね……。
あのグランドピアノ、生徒達が使う以外は入院病棟のエントランスの飾りみたいになっていて、
購入して以来、調律した事なんて無かったみたいです。
調律師さんもこんないいピアノ、処遇が余りに酷くて可哀相だ…っておっしゃってましたから。」
「じゃあ、のだめのコンサートが終わった後も、ちょくちょく弾いて可愛がってあげて下さいネ。」
「……看護科の生徒達に、そう言っておきましょう。」
「そだ!あの中に、山口先生のリクエストってあったんですか?」

ふいにのだめは山口に訊ねた。

「ええ、ありますよ。どの曲かお分かりになりましたか?」

のだめは可愛らしく小首を傾げて、困った様に笑った。

「むむむ。チョトわからなかったデス。ごめんなさい。のだめ、先生の好み、よく知らないですから……。」
「ははは。そうでしたね。私のリクエストは“愛の夢・第3番”って曲ですよ。」
「ふぉぉぉ〜!リスト!有名な甘〜いロマンティックな曲ですネ!先生…実はロマンチスト?」

ロマンチスト、といわれて山口は大いに照れた。

「いえいえ。実はクラシックの曲名、私はこの曲名以外は、聴いた事はあっても殆ど知らなかったもので……。
この曲だけは、ある人から教えて貰って憶えていたのです……。」
「ほえー。ある人ですか……?」

のだめは興味津々と言った風情で、身を乗り出してきた。

「恥ずかしながら……。私の青春の一ページといった感じでしょうか……。」
「むきゃー!甘酸っぱい青春の思い出??のだめ、是非聞きたいデス!!」
「私の話なんて……あまり面白くないですよ?」
「いいんデス!いいんデス!話して下さい!」

のだめが余りにせがむので、山口は記憶を辿りながら、ぽつぽつと話し始めた。

「私がまだ医学生だった頃の話です……。私は地方から上京してきた苦学生でしてね。
その頃は三畳一間の風呂・トイレ無しの、ぼろぼろのアパートに住んでおりました。
もちろん…今はそれも懐かしい思い出ですけどね。」

「ふむふむ。」

「その頃同級生に…まぁなんというか…憧れの存在がおりましてね。
彼女はその大学の……いわばマドンナ的存在で……。
東京にある、大きな大病院の一人娘さんでして…田舎者の私にとっては、とにかく眩しい存在でした。」

「むきゃ!マドンナー!山口先生、寅さんですネ?」

「はははは。彼女はいつも長く美しい髪をさらさらと風に舞わせて……。
そう……白いレースの日傘をさし、それにとてもよく似合うワンピースを身に纏ってました。
彼女の傍からは何とも言えない良い香りがして、近くの席に座れた日は、授業なんて頭に入らない位でしたよ。」

のだめはうっとりとした表情で彼の話を聞いていた。

「そうですよネ……。やっぱり学生生活には、勉強だけでなくトキメキがないと……!!」

「ある時、実験病棟に移動する際、大学内にある音楽室の近くを通ったら、ピアノの音が流れてきたんです。
誰だろうと思って覗いてみると……それは彼女でした。
あの頃ピアノなんて弾ける人は、裕福な家庭に育った人位でしたからね……。
私のいた田舎では、ピアノは音楽の先生が授業で弾く程度のものでしたから。」

「そなんですかー。」

「……初めてでした。本格的なクラシック曲…というようなものを聴くのは……。
だからしばらくの間、私がぼーっと彼女のピアノに聴き惚れていると、
私がでくの坊の様に、突っ立っているのに気がついたのでしょう。
彼女はこちらに視線を寄越しピアノを弾く手を止めると、女神の様に微笑して言いました。
『山口君も、クラシック好き?』とね……。」

「ぎゃはぁーー!のだめだったら、後ろに花飛ばしマス!!」

「私は何も口に出せず、ただブンブンと首を横に振ることしか出来ませんでした。
それまで、彼女とろくに口も利いたことなかったものですから……。
純情青年…といえば聞こえはいいですが、実際はただの奥手の田舎学生でしたからね。」

山口はあの時の情景を心の中に思い浮かべていた。

「すると彼女はふわり…と頬にかかっていた髪を掻き上げると、優しく微笑んで……
『今のはリストの<愛の夢・第3番>・・・好きな曲なの。』と私に教えてくれたんです。」
「あへ〜!素敵な思い出じゃないですかーーー!!」
「そうですか?」
「そうですヨ!じゃあこの曲は、山口先生の思い出の曲でもあるんですね。」
「そうなります…か?さぁ、私の恥ずかしい話はこれ位にして、エントランスの方へ参りましょうか。
ちょうど、昼食時間ですから。」

いい加減気恥ずかしかった山口は、そう言ってのだめを促すと、彼女は『ハイ!』と素直に立ち上がった。

**********

グランドピアノは昨日、看護科の学生が調律の後に磨いたのだろうか……黒く光沢のある艶を発していた。

「わぁ〜!本当にいいピアノですネ!弾いてあげなきゃ可愛そうですヨ。」

のだめは瞳をキラキラさせながら呟くと、鍵盤の蓋をふわりと開ける。
そして人差し指で、ポーーーーンと音を鳴らした。

「ふふふ……。ちゃ〜んと調律してありマス……。」

ピアノの前に座ったのだめは本当に嬉しそうで、彼女が本当にピアノを愛している事が山口にも伝わってきた。

「えへ。先生の思い出!デス!」

そう言って山口にいたずらっぽい眼差しを向けると、聞き覚えのあるあのフレーズを奏で始めた。

「……“愛の夢・第3番”。」

素人の彼でも、これがロマンティックな愛の曲という事は知っている。
のだめは頬を染めながら、時々口を尖らせたりして、とても幸福そうにピアノを弾いている。

……少し酷だとは思ったが、山口はここで彼女の反応を見る事にした。
今日最初に会った時に彼女が見せたあの違和感を、自分なりに解決しなければならないと思ったからだ。

「……そういえばのだめちゃん。この事、千秋さんにご相談されましたか?」

その瞬間、演奏がパタリと止んだ。

「……モチロンですヨ。」
「千秋さんは何ておっしゃってました?」
「別にいいんじゃないか?って……。
先輩、今、お仕事すっごく忙しいみたいで、のだめもそれ以上聞きませんでした。」
「そうでしたか……。」

ふと、のだめはピアノの鍵盤に視線を落とした。
視線は鍵盤にあるけれど…それでいて何処か遠くを見ている様な、暗い翳のある凝視だった。

―――この表情は……あの夜に見たのと同じ……?

「山口先生。」

相変わらず視線を鍵盤に向けたまま、のだめは唐突に話し出した。

「子供の頃、クッキーの空き缶とかを、宝物とか大事なモノ入れにしませんでしたか?」
「え?あ、空き缶……?そういえば…メンコ入れにしていた事がありましたね。」
「……久しぶりに缶を開けてみたら、大事なモノだけがその中から無くなっていたんデス。……先生ならどうしますか?」
「え……大事なもの?」
「そです。大事なモノだけ、無いんデス。」
「そうですね……。私なら、ひとまず別の場所に無いか、探して見ると思いますが……。」
「じゃあ、大事なモノを入れていた缶はどうしますか?見つかるまでそのままにしておきますか?
それとも、缶だけあっても仕方ないから……捨てちゃいマスか?」

―――のだめちゃんのこの謎かけ……。一体彼女は何を言いたいのだろう……?

この発言の表層的なものに囚われずに、何とか冷静に真意を見極めねばと、山口は頭の中をフル回転させていた。

「のだめだったら…もしかして捨てちゃうかもしれません。
……大事なモノが入っていなかったら意味ナイ、ですから。」

そう言ってのだめはピアノの蓋をパタンと閉めると、立ち上がった。

「……のだめ、そろそろ帰りマス。」
「あっ!一緒にお昼ご飯でもいかがですか?明後日のお礼に、是非私にご馳走させて下さい。
病院の食堂も、結構美味しいですよ?」
「ゴメンナサイ、山口先生。のだめ、1時に友達と約束しているので…もう行かないと。
先生と一緒にご飯、食べたかったんですけど……。」
「いえ……。それならばいいですよ。映画、楽しんでいらっしゃい。
では明後日、一時半にはこちらに来て頂けますか?色々と準備がありますので。」

のだめはこくんと頷いた。

「ハイ、明後日一時半ですね。必ず伺いマス!」

そう言うと、グランドピアノのあるステージ上から軽やかに飛び降り、彼の前に立った。

「じゃあ、山口先生、また明日!先生の診察の予約は、確か…午前9時でしたよね?」
「ええ。明日も忘れずに、ちゃんといらして下さいね。」
「ハイ!」

のだめはそう言うと、水色のワンピースの裾を翻し、やや小走りに歩いて行った。
途中一度、入り口の自動ドアの所で振り向くと、山口に小さく手を振り、また軽やかに歩き去った。

**********

午前中に行うはずだったオレのゲネプロは、松田さんのスケジュールの都合で午後に変更になった。
松田さんはどうしても午後、外せない仕事が入ってしまったらしい。
オレはゲネプロ前までに、少し頭を冷やしたかったので、それはかえって好都合だった。
本来なら人のゲネプロは聴かない主義だったけど……。

オレはホールの後ろの方の座席に座って、松田さんのゲネプロをぼんやりと見学していた。

―――今朝のオレは最低最悪だった。
―――オレはのだめに酷い事をした。

昨日のR☆Sオケのリハーサル。
その前の日の失態を繰り返さないように、オレは努めて自分をコントロールし過ぎた結果かえって無口になり、
オケのみんなを震え上がらせてしまった。
一部では鬼・千秋、って呼ばれていた位だから、オレの様子はおそろしく不気味だったんだろう……。

それでも何とか曲想はまとまった。
が、はっきり言って何とか聴ける程度になったという位で、オレの音楽はそこには全くない。
もがけばもがくほど、オレの求めてる音が…想いが…指の間から砂の様に虚しく零れ落ちていくのを感じていた。
……そこには絶望的な無力感しかなかった。

夜、約束していた食事会の席で……
佐久間さんも大川先生も、オレの様子が少しおかしいのに気づいて、凄く心配してくれていた。
大丈夫ではないのに、『大丈夫です』と答える自分が自分でないようで…情けなくて腹立たしかった。

―――こんな時……。
―――あいつがオレだけに奏でてくれる…あのハチャメチャなピアノでも聴けたら…それだけで……。

佐久間さん達と別れ、三善の家へ帰るタクシーの中で、オレは虚ろな顔をしてそんな事を考えていた。
何時だってあいつは、オレが進むべき道を見失いそうになる度、軌道修正してくれていた。
Sオケの時も……指揮者コンクールの時も……。

『んもう!先輩!またカズオ!!』

『先輩はー粘着の完全主義だからー!』

あいつはそう言ってオレを甘やかすわけでもなく、さりげなく導いていてくれていたんだな……。
今更になって気がついた。
傍に居てくれただけで、オレはそう…こんなに救われていたのだと……。

……気がつくと、オレは携帯のメール画面を見ていた。
あの事故があった以来、それはなかば癖になっていた。
それはもう無意識に……いつも同じ画面だった。
それは記憶を失う前ののだめが、最後にオレにくれた、あのメールの文面だった。

―――このメールをくれた時には確かに、“オレののだめ”はちゃんとそこに居た。

深夜、無言で行きかう…無機質な車のランプしか見えない、高速のタクシーの中だからだろうか……。
それとも、食欲が無く、その代わりに飲み過ぎたワインのせいだろうか……。
あの時のオレは、確かに感情が高ぶっていた。








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