喪失 ミニコンサート前編2
千秋真一×野田恵


“先輩、早く会いたいです。”

のだめからのメールの最後にあったこの一文に、何故だかその時のオレは、激しく心を揺さぶられていた。

―――オレだって……会いたい……!
―――会って…抱きしめて…お前の存在をこの腕にちゃんと感じたい……!!

『千秋先輩は、甘えん坊さんですネ。』

―――そう言って何時もの様に……オレをからかって欲しい……。


気がつくとオレは、あのメールに返信を打っていた。
“オレも早く会いたい。”と……。

……我に返ったのは、送信ボタンを押してしまった後だった。
自分がしでかしてしまった事の重大さに、オレは血の気が引き、青ざめた。
もし…このメールを“今ののだめ”が読んでしまったら……?
オレはひどい罪悪感に苛まされた。

車中でそんな事があったオレに更に追い撃ちをかけたのは、のだめからのあの書置きだった。

“話たい事がある”

あの手紙を読んだ瞬間、オレは崖から突き落とされたような、深い絶望を感じた。

のだめが事故で記憶を失ってから、ずっと考えていた事……。
いや、考える事を今まで拒絶していた事、と言った方が正解かもしれない。
しかしのだめのあの書置きがその瞬間、その事を一筋の光のように照らし、オレの目前に晒したのだった。

『のだめ、パリに戻らないで、大川に帰りマス。』

オレはそう言われる事を、ついに覚悟しなくてはならなかった。

三善の家に帰り着いたのは深夜一時半過ぎで、家中ひっそりと寝静まっていた。

“もし寝てても、起こしてください。”

その一文が、心臓を抉り取られるような痛みを伴って、オレに早く覚悟をしろと詰め寄っているようだった。

本当は向かいたくない客間だったけど……
オレは疲労感と心の重さををずるずると引き摺りながら、結局のだめの部屋へ行った。

ノックなしでそっとのだめの部屋の扉を開けると、ベッドサイドの小さな明かりだけが灯っていた。
オレは足音を立てないように、そっとベッド際まで近づく。
ベットの中を覗き込むと……
ぼんやりとした薄暗い明かりの中、由衣子とのだめが向かい合わせで寝ているのに気がついた。

由衣子は、枕を抱き枕のように抱えこみ、可愛らしい様子でぐっすりと眠っている。
一方のだめは……由衣子の体にそっと手を添えて、包み込むような仕草で寝入っていた。
まるで母親が、赤子をあやしながら一緒に寝入ってしまった時のような……。
のだめの長い睫に縁取られた目元はほんのりと薔薇色に染まり、唇は少しだけ緩く開いていた。

それはオレも何度か見たことのある、懐かしいのだめの寝顔だった。
パリに居た頃は、息がかかる位近くで…そう…オレのベッドの中で……
何度もコイツのこんな表情をオレは見ていたのに……。

―――お前はすぐ近くに居るのに、どうしてこんなに遠い……?

……オレは寝ているのだめの頬に触れようと、そっ…と右手を伸ばした。
しかしどうしてもそれをする事が躊躇われ、結局右手は虚しく空を切った。

行き場を失ったその手を……オレはそのままだらりと降ろすと、
鬱屈した気持ちを押さえ込むように、その手が痛みに悲鳴を上げるまできつく握りしめていた。

そうして……オレはやるせない気持ちまま、のだめの部屋を後にした。
疲労感はあるのに気が高ぶってほとんど一睡もできず、オレは明け方まで机に突っ伏して悶々と過ごした。

それでも、今朝……やっぱりのだめに会ってからゲネプロに行こうと思いなおして……。
オレはリビングで、あいつが起きて来るのを待っていた。

―――けれど。
のだめの顔を見た瞬間、オレの中で何かどす黒いものが蠢いてくるのを、もはや止める事は出来なかった。

……オレは本当に、卑怯で卑劣な男だった。

オレは態と冷酷な態度を取って、何かを言おうとしていたあいつの言葉を封じた。
聞きたくない言葉を、最初からあいつに言わせない様に仕向けたのだ。
案の定、オレの態度にのだめは戸惑いを隠せず、口ごもってしまっていた。
だからあいつの口から話したい事がプリごろ太の事だと言われた時は、見境も無くついカッとしてしまって……。

―――オレがこんなにお前の事で苦悩しているのに、プリごろ太かよ?

……そうなじりたい気持ちを抑えるので、あの時のオレは精一杯だった。

でも、人間として未熟なオレは結局それを隠し切れず……のだめを冷たく切り捨てる様な言動を取ってしまった。
今思えば…もしかしてプリごろ太の話は嘘で…本当の“話したい事”は別にあったのかもしれない。

あいつは最後、怯えた瞳でオレを哀しげに見ていた。あんな表情…決してさせてはいけなかったのに……。

その後自室に戻って、オレは猛烈に後悔した。
後悔するなら始めからしなければいいのに……本当に愚かで浅はかだった。
だからオレはすぐにダイニングルームにとってかえし、のだめに謝罪したが……
正直、何をどうちゃんと謝ったか憶えていない。

のだめはオレに対して…虚しくなる位他人行儀な様子で…何を言っても『ハイ。』としか言ってくれなかった。
記憶を失ってから始めて病院で再会したあの時みたいに……のだめは身を固く強張らせ、その笑顔は引き攣っていた。

それを目の当たりにしてオレは更に動揺してしまって……ついあの“携帯の事”を口走ってしまった。
……幸運な事に、のだめはどうやら携帯の事にはまだ気がついていない様だったけれど……。
その携帯の話に不思議そうに目を丸くして、オレを見上げるあいつの表情を見た時……
ふと、右頬の擦り傷が目に留まった。

オレはもう本当に無意識に……のだめの髪を掻き上げ、頬を触ってしまっていた。
その前の晩、寝ているのだめにさえ出来なかった事なのに……。
もちろん突然こんな事をしても、益々あいつを動揺させるだけだと十分わかってはいたが……。
でもそんな事を考えるよりも早く、オレの体が動いてしまっていた。

久しぶりに触れたあいつの頬は…ふわふわ柔らかくて…暖かかった。
……泣きたくなる位、懐かしい感触だった。

触れた指先から、オレの気持ちがあいつに伝わってしまいそうで……
どうやってこの手を引っ込めたらいいのかと思案し始めたその時、オレはのだめの顔が劇的に真っ赤に変化するのを見た。

それは戸惑いや困惑、動揺…そういったものをすべて紅色にして頬にのせたような…そんな表情だった。
だからオレが手を話した瞬間、のだめはもう耐え切れないといった様子で、すぐに顔を伏せてしまって……。
昔は同じように顔を真っ赤にしても……
あいつは恥ずかしがりながら陶然と……オレを見詰めかえしてくれていたのに……。

そう……あいつの柔らかな眼差しは、何時でもオレを温かく包み込んでくれていて……。
それはオレに……ただ一筋に愛を伝えてくれていた。
オレを見つめるあいつの大きなあの瞳は、オレを好きだと…愛しているのだと…いつでも告げていてくれた……。

―――胸がヒリヒリと痛んだ……。

俯いたまま、ひどく居心地悪そうに目も合わせてくれないあいつの頑なな様子を見て、
オレは暗澹たる思いで、ただその場を立ち去る事しかできなかった。

あの日以来感じている……この“喪失感”。
オレはこの苦しい感情と、一体いつまで向き合っていかなければならないのだろうか……?

「千秋君。すまなかったね。」

後ろから急に声を掛けられて、オレは身体をビクンとさせた。
気がつくとステージ上ではオケのメンバーが楽器を手にして椅子から立ち上がり、
あちこちで談笑しながら舞台袖の方へ引っ込んでいる所だった。

「ここで僕のゲネプロ見てたとは知らなかったなぁ。君、そういう事をするようなタイプじゃないと思ってたから。」
「あ……。松田さん。お疲れ様でした。」

オレは慌ててホールの座席から立ち上がり、松田さんに一礼した。
どうやらオレがのだめの事で苦悶している間に、松田さんのゲネプロが終了していたようだ。

「ふーん……。じゃあ僕も午後、ぎりぎりまで君のゲネ、見せて貰っても…かまわないよね?」

松田さんはニヤリと右の口角を上げ笑うと、オレに突き刺す様な鋭い視線を寄越し、腕を組んだ。

「千秋君、今回は随分と自信があるみたいだし?……じゃあ、また。」
「……え?」

松田さんはそう言うと、『お昼ご飯〜♪』と鼻歌を歌いながら去っていった。
オレは松田さんの言ってる意味が分からなくて、しばらくそのまま茫然と立ち尽くしていた。

「おーーい千秋ぃーー!!昼メシ食いに行こうぜぇーー!」

振り向くとステージ上で、峰がヴァイオリンを上に掲げながらオレに叫んでいた。
その周りには真澄や黒木君もいて、鈴木姉妹は手を振っていた。

「ああ……!」

オレは大きな声でそう返答すると、皆が待っているステージの方へ向かった。

**********

「ああもうっ、そんなに泣いちゃって……。のだめ、今すごい顔になってるよ?」

横でびーーむ!と、鼻をかんでいるのだめに、マキは水で濡らしたハンカチを絞って渡すと、
のだめは『ありがとーデス。』と言いながら、素直に瞼の上に乗せた。

「のだめ〜。わたしはあの映画のどこに、そんな泣かせポイントがあったかそっちが知りたいよ……。」

レイナは、のだめの後ろで手を拭きながら、呆れた様に苦笑していた。

「レイナちゃん!どうして分からないんですカ〜!最後、ごろ太とカズオの……」
「はいはい……。分かった分かった二人とも。トイレ混んでるんだから、もう行くよ?」

口を尖らせて抗議するのだめを宥めながら、マキ達はトイレを出た。

映画が終わった後の女子トイレは、物凄く混んでいた。
今日の映画は内容から考えて当然だが、圧倒的に若いママとその子供達が多く、
年頃の女性だけのグループは、マキ達だけだった。
しかもそのうちの一人ののだめが、周りが引く程号泣していた為、
トイレにいたマキ達以外の誰もが、奇異な視線で3人をじろじろ見ていたのだ。

……それがマキには、ものすごく恥ずかしかった。

「っぷ!のだめ、今すっげーブサイクだよ……?」

のだめの頬っぺたをぐにゅ!っと押しながら、レイナはクスクスと笑いを堪えている。
マキもレイナに同調して、のだめをからかった。

「あはは〜!確かにブッサイク〜!!
ってゆーか、待ち合わせに来た時から、のだめの顔、ちょっとむくんでたじゃん?
……ったく、映画が楽しみで眠れなかったなんて、
小学生が遠足の前の晩に興奮して眠れないと同じだよ……。あんた、小学生……?」
「ヒドイですーー!!二人とも!!のだめは小学生じゃありません!23歳の立派な大人の女性デス!!」
「あー立派な大人の女性が、プリごろ太で号泣とはねーー。」
「ムキーーーーー!!」
「まぁまぁ。二人とも……。マキちゃんこれからどうするの?夕ご飯まではちょっと時間あるけど。」

さっきと変わり、今度はレイナがマキとのだめの仲裁に入る。

「それなんだけど。夕飯前にちょっと寄りたい所があるんだ♪二人とも付き合ってくれる?」
「もちろんいいけど……。どこ?」
「ふふん。着いてからのお・楽・し・み。」
「ふぉぉぉぉ〜!着いてからのお・楽・し・み……。」

レイナものだめも、不思議そうにお互いの顔を見合わせていた。
マキはいたずらが成功した時のような笑みをコッソリ浮かべると、二人の先に立って、駅の方向へ歩き出していた。

電車で20分程揺られていると、マキが目指している目的地のある駅に着いた。

―――ふふっ。わたし達が今どこに向かっているか……二人ともまだ気がついていないっ♪

マキは心の中で、自分の作戦が上手くいっている事を喜んだ。

3人連れ立って改札を抜け、バスのターミナルがある方向とは逆に出ると、
一面ガラス張りで整備された、新しい歩行者通路が一直線に伸びていた。

「あー!歩く歩道ーーー!!」

のだめは嬉しそうに軽やかに飛び乗ると、まるで子供のように手すりに寄りかかった。

「マキちゃん、もしかしてこれから行くのって……。あそこ?」

レイナが前方奥のほうに見える建造物を指差しながら言った。

「え??何っ?何があるんですか?」

のだめも慌てて、指差された方向に視線を合わせている。

そこには昨年7月に竣工されたばかりの、
真新しい現代的なデザインが施されたコンサートホールが、夏の日差しの中ぼんやりと浮かび上がっていた。

「……コンサートホール……。」

のだめは半ば放心したように呟いた。

「もしかして…マキちゃん。ここって……。」

レイナはようやくすべてに合点がいったのか、興奮に頬を軽く紅潮させている。

「えへへ。そうだよー。驚いた?R☆Sオケ、今日ゲネプロやってるんだって。
峰さんから特別に許可貰って、見に来ていいよ、って言われてたんだー。」
「ええーー!本当??わたし達、R☆Sオケのゲネプロ見学してもいいの?やったーー!!」

マキちゃん、さすが!と言いながら、レイナはマキに抱きつく。そして嬉しそうに笑った。

「……ゲネプロ。」

のだめは相変わらずどこか遠くを見ている様な表情で、ぼんやりとしている。
少し変に思ったマキは、のだめの顔を覗き込んだ。

「のだめ?どうした?ゲネプロ、見たくないの?」
「いえ!すっごく見たいデス!見たいんですケド……。萌ちゃんと薫ちゃんも見に来てね、って言ってたし……。」
「……何か問題でもあるの?」
「だってっ!……のだめ、今すっごいブサイクだって、さっき二人してあんなに言ったじゃないですか〜……。
だから…のだめ…あんまり今の顔・・・人に見られたくないデス・・・。」
「おーー!のだめが女の子してるーー!!」

レイナが驚いたように目を丸くさせた。

「ぷぎーーーー!!のだめだって、23歳のお年頃な……。」
「ハイハイ、大人の女性ね〜。それはもう分かったから。
……要するに、その顔を千秋さまに見られたくないのよね?んー?」

そう言ってからかうと、のだめはこちらが吃驚する程顔を真っ赤にさせた。
何か抗議したいようだがうまく言葉が出ない様で、口をパクパクさせている。

「大丈夫、大丈夫。ゲネプロが終わる頃には、そのブサイクも大体直ってるって。」

少しも慰めにもならない事を、レイナはのだめの肩をポンポン叩きながら言った。

「……二人して、のだめのコト、馬鹿にして……。」

拗ねたようにのだめは、低い声でぶつぶつといつまでも文句を言っていた。

コンサートホールのエントランスに入ると、“大ホールは只今ゲネプロ使用中”と掲示してある。
しかしロビーの向こう側で、楽器を手にしたオケのメンバーと思われる人達が、
ドリンクを飲みながら談笑しているのに、マキ達はすぐに気がついた。

「あれーー?もう、ゲネプロ終わっちゃったのかなぁ……。」

レイナは残念に思う気持ちを隠しきれずに、横にいるマキに尋ねた。

「ええ〜!?まだそんな時間じゃないと思うけど……。おかしいなぁー。
ちょっと事務局に行って聞いてくるよ!
あ、それから峰さんに、三人分のスタッフパス、貰ってくるからぁーーー!」

そう言うとマキは、舞台袖につながる通路に向かって、猛スピードで走って行ってしまった。








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