千秋真一×野田恵
![]() 「……相変わらず、マキちゃんは元気だなぁー!ね、のだめ?」 そういって同意を求めるように、レイナはのだめに振り返った。 ……のだめはそれには答えず、レイナの背中に隠れるようにしがみつきながら、極限まで顔を伏せている。 そのくせ、どこか挙動不審な様子で、じろじろと辺りを窺っていた……。 どうやらここに居るであろう知り合いに、よっぽど顔を見られたくないらしい。 「ごめんごめん、さっきは言いすぎた。そんなにヒドイ顔じゃないから、のだめ心配しなくても大丈夫だよー!」 レイナがそう謝ると、のだめは低い声でぼそぼそと呟いた。 「そんなに…じゃなくても…ヒドイ顔…には変わりないじゃないですかぁ〜……。」 「んもー!何よー!のだめのくせに乙女心出してー!」 「レイナちゃん……ひとまず人のいない方へ行きましょうヨ〜……。」 「だってここを動いたら、マキちゃんとはぐれちゃうかもしれないじゃん!!」 「それならあそこ!あそこのテラスなんかどですか?ねっ?あそこのテラスに行ってましょうヨ〜! あそこなら同じフロアだし、マキちゃんもすぐ見つけられマスって!ね?」 「ええええー?」 「ね?そうしまショ!そうしまショ!ささ、早く早く〜!」 のだめが余りにしつこく粘るので、レイナは渋々のだめに従う事にした。 「レイナちゃん、ほらっ!もっとシャキシャキ歩くー!」 のだめはレイナの背中を信じられない位強い力でぐいぐいと押して、テラスの方へ押し出していた。 のだめにせかされ、二人は一面ガラス張りの、サンルームのようなテラスに向かう。 コンサートホールはほぼ全面禁煙なのか、移動途中にあったテラスの案内版の下には、 “R☆Sオケ関係各位喫煙はこちらでお願いします”と手書きの紙が張り添えてあった。 さっきのエントランスからは、手前の柱が邪魔して分からなかったが、 サンルーム内の、ちょうどその柱の裏側の傍に、どうやら先客がいるようだ。 ……人影は二人。 一人は黒いスーツを着た、すらりとした長身の男性。 もう一人は遠目から見てもスタイルの良い、ノースリーブのサファリワンピを着た若い女性だ。 二人はリラックスしたムードでタバコを燻らせながら、親しげに談笑していた。 「あ……。」 レイナはのだめより先に、その二人が誰だか気が付き、無意識に足を止めてしまった。 すると、のだめは不満げ顔をちょっと上げ、 「もー!レイナちゃん、何で急に止まるんですかー!さっさとテラスに行きま」 そう文句を言ってる途中で、レイナに少し遅れてテラス内にいた先客の姿に視線が釘付けになる。 ……のだめは、言いかけた言葉をそのまま飲み込み、口を噤んでしまった。 「……。」 「あれ……。千秋さまと…確か、多賀谷彩子……。」 「たがや…さいこ…サン?」 たどたどしい口調で、のだめはレイナに尋ねた。 「ああ、うん……。千秋さまの音高時代からの同級生で……。声楽科にいた……。」 レイナがその続きを言うのを躊躇っていると、のだめは食い入るような真剣な瞳で、次の言葉を待っている。 「その……。高校時代から二人は付き合っていたらしいけど……。」 「……つまり元カノ…ですカ?」 「うん…まぁ……。でもっ!大学に入って別れたらしいから……。」 「そですか……。たがや…さいこサン……。しゅごいキレイな人ですねぇ〜……。 千秋先輩…何であんなキレイな人と、別れちゃったんですかねぇ〜……?」 「そんな事……当人同士にしか分からない事でしょー? もうっ!今カノはのだめなんだから、しっかりしなさいよー!わかった?」 レイナは少し居心地悪いこの場の空気を変えたくて、ワザとはっぱをかけるようにのだめに言った。 「ほわー。先輩、すっごく楽しそーデス……。 ……千秋先輩があんなに大口開けて笑うの、のだめはじめて見ました〜……。」 のだめはどこか虚ろな表情で、ふふふっと笑った。 「そっかぁ〜……。のだめは先輩に…無理…させてばっかりだったんですねぇ〜……。」 それはいつも通りの、のだめらしいのんびりとした口調だったものの、 その刹那、レイナは妙な違和感を背後に感じた。 ―――え……? ―――わたしの背中でしがみつく様に服を握り締めてるのだめの手が…微かだけど…震えてる? 「ちょ、ちょっと……のだめ?」 レイナは慌ててのだめに向き直ると、俯いているのだめの顔を覗き込んだ。 のだめの顔は、心持ち青ざめているようだった。 「どうしたの?二人の事、気にしてるの?んもぉーバカのだめ!のだめが全然心配するような事じゃないでしょー?」 レイナはのだめの両手を握り締めた。のだめの両手は季節が夏だとは思えない程、氷の様に冷え切っていた。 「ほーら!そんな顔しないの!もぉーブサイクなのが余計ブサイクに……。」 レイナの声を遮るように、のだめはすっ…と顔を上げた。 それは今までに見た事の無いような、冷静なのだめの表情で……レイナは少しうろたえてしまった。 のだめは感情をどこかに置き忘れたような……無表情なその顔のまま言った。 「のだめ…朝から動きすぎてチョト疲れました……。 それにやらなければいけない事があったのを…今思い出しましたヨ……。 ごめんなさい、レイナちゃん。のだめ、もう帰りますね?」 そう言ながらようやく微かに笑うと、レイナの手をやんわりと振り解いた。 「一緒に夕ご飯…食べたかったんデスけど…マキちゃんにも謝っておいて下さいネ。 今日は本当に楽しかったデス!っじゃ!!」 そう言うとのだめは、エントランスの方へ向かって脱兎の如く駆け出した。 「え?え?ちょっと、待ってー!!のだめぇーー!?」 走り出したのだめの腕を咄嗟に掴もうとしたが、 ワンテンポ遅れたレイナの右手は宙を泳ぎ、逃げ足の速いのだめを捉える事が出来ない。 取り残されたレイナは、のだめの後姿がコンサートホールの入り口からあっという間に消えるのを あっけにとられながら、ただ見ているだけしか出来なかった。 「あーー!レイナー!ここに居たーー!!」 マキがさっき走っていった方向とは逆から、手を振りながらこちらに全速力で走ってくる。 そのちょっと後ろには峰もいて、同じ様に小走りでこちらに向かって来ていた。 「はぁっっ……!はぁっっ……!もうー!さっきの所に戻ったら、のだめもレイナもいないんだもんっ!! 二人を探してホール一周しちゃったよ〜!ふぅーー!いい運動したーー!」 マキは息を整えながら額の汗を拭うと、レイナにパスを差し出した。 「はい!レイナの分!これがあれば大ホール内に入っても大丈夫だって。」 「あ…ありがとー。ごめんねマキちゃん、走らせちゃって……。」 レイナは首からぶら下げるタイプのパスを、マキから受け取った。 「さっきから、大ホール内の空調の調子がちょっとおかしくて……それでいったんゲネプロ止めてンだ。 今、緊急メンテナンスしているらしい……。んで、仕方ないから休憩中〜。」 少し遅れてマキ達に合流した峰は、肩を竦めながら苦笑いした。 「よう!いらっしゃい!久しぶりだなー?今日はじっくり見学していってくれ!」 「はい。ありがとうございます、峰さん。」 レイナが峰にお礼を言ってるそばで、マキはきょときょと左右を見回している。 「あれ?のだめは?トイレ……?」 ようやく、マキはのだめがここにいないのに気が付いたようだ。 「それが……。」 ……レイナはさっきの顛末を、二人に簡単に説明した。 「えー!?じゃあーのだめ帰っちゃったの!?っな……!!」 レイナの話を聞いたマキは、絶句して言葉が続かない。 「確かにあそこにいるの…千秋と多賀谷だなー……。でもたいした事じゃないんだぜ? うちの今回の公演のスポンサーの一つが、多賀谷楽器なんだ。 スポンサーとマスコミ関係にはゲネプロ公開することになってて。ほら、多賀谷って多賀谷楽器のお嬢様だろ? だからただ単に、ついでに千秋に、公演前の挨拶に寄ったっちゅーだけで……。」 「そうなんですか……。」 レイナが峰の言葉に納得していると、峰は急に真面目な顔をして尋ねた。 「なぁ、のだめ…そんなに気にしてた?あいつらの事……。」 レイナは、のだめが自分の背中に隠れながらも二人から目を離せず…… それでいて指先が白くなる程自分の服を握り締めていて…… ……そしてその手が小刻みに震えていた事を、峰に伝えた。 「ふーーん。そっかぁ……。」 レイナの話を聞いた峰は思わせぶりに右の眉を上げ、何故だか嬉しそうに、にーと笑った。 「え?え?何で峰さん、嬉しそうなんですか?」 面食らってるレイナに、峰はバチン☆とウィンクした。 「だって、つまりそれっていい傾向、ってコトだろー?そっかー!のだめ、気にしてたのかーー!」 峰は腕を組みながら、うんうんと頭を上下に振って、一人で悦に入っている。 レイナ達は峰が言っている意味が今一よく分からなくて、二人して顔を見合わせて首を捻った。 「まぁまぁ!のだめには後でオレから、電話でも入れておくからさっ!」 峰はレイナ達の背中を順にバンバンッ!と叩くと、豪快に笑った。 「あいつはいないけど…二人とも予定通り、今夜はうちで夕メシ食っていってくれっ! 親父、朝から張り切って用意してたから。」 「あ、ありがとうございます。お言葉に甘えて、お邪魔させていただきますね、峰さん。」 マキが峰へお礼を言ってぺこりと頭を下げたので、レイナも慌ててそれに倣った。 「……あ、それからこの事。……千秋にはナイショ、な?頼むぜ?二人とも……。」 思わせぶりに小さな声で、二人のの目を交互に覗き込む様にして峰は頼んだ。 「ええと……。はい。」 「はい。分かりました。」 マキ達は素直に頷いた。 「……よし!サンキュ!二人とも!」 「おーーーい!峰ーー!ゲネ再開だってーーー!」 その時ロビーにいたオケメンバーの一人から、峰に声がかかった。 「おーーー!今行くーー!!」 峰は大声でそう返事すると、二人に振り向いた。 「じゃ!オレ行くわ!二人ともR☆Sのゲネプロ、楽しんで行ってくれよな。」 峰はマキ達にお茶目な感じで敬礼!のポーズをとると、大きなコンパスでホール内へ走り去った。 ********** 予備校に行く前の俊彦が軽めの夕食を済ませていると、玄関の方から『ただいまーーデス!』という声が聞こえてきた。 ―――あの声は……のだめさん? ―――今日は確か夕飯は友達と、外で食べてくるって言ってなかったっけ……? 俊彦は疑問に思って食堂から出ると、同じような事を思ったのか、ちょうどリビングから出てくる由衣子と目が合った。 「あ、俊兄。今の、のだめちゃんの声だったよね?」 「……うん。」 俊彦と由衣子は一緒に玄関に向かうと、 ちょうど大きな袋を2つ抱えたのだめが、ヨタヨタと玄関の扉を閉めていた所だった。 「のだめちゃん、お帰りなさーい。」 「……お帰りなさい。」 二人がそう声を掛けると、のだめはふぃーっと息を吐きながら、『俊くん、由衣子ちゃん、ただいまデス!』と笑った。 「のだめちゃん、今日はお友達と夕ご飯食べてくるんじゃなかったの?てっきり今日は遅くなるんだと思ってた……。」 由衣子がそう尋ねると、のだめは少し疲れた表情を見せた。 「そだったんですケド……。今日は朝から動いたせいか、少し体がバテちゃったみたいで……。 先生から『余り無理しないように』って言われてたし、二人には謝って、のだめだけ先に帰って来ちゃいましタ。」 「え?バテちゃったって……。のだめちゃん、体の方は大丈夫なの?」 由衣子は心配そうに、のだめの顔を見上げた。 「大丈夫ですヨ〜!ちょっと大事をとっただけですから。それにのだめ、やらなきゃいけないコトもあったし……。」 「やらなきゃいけないコト?」 「……その袋が関係あるの?」 のだめの持っている大きな袋を顎で示しながら俊彦がそう指摘すると、彼女は照れた様にはにかんだ。 「えへへ。さすが俊彦くん、鋭いですネー。実はのだめ、ピアノとお話しようと思って〜。」 「ピアノとお話??」 「……それってどういう意味?」 のだめの言っている意味がよく分からなくて、二人は聞き返した。 「え?言葉どおりですヨ?“ピアノとお話”デス!おしゃべりなのだめと違って、ピアノは少しケチで無口なんですヨ〜。」 あはは〜と暢気に笑いながら、のだめは相変わらず意味不明な事を言っていた。 「イマイチよく分からないんだけど…まぁそれはこの際置いておいて……。 それで、その“お話”する為に何を買ってきたの?」 俊彦はそれが理解できる回答でなかった事に少し苛立ち、不満げな声色で尋ねた。 「えと、楽譜とか音源とか? ……楽譜は…へへへ…今ののだめは…まだちょ〜っと苦手なんで、ひとまず沢山CDを買ってみましタ。」 二人によく中身が見えるように、のだめは持っていた袋を大きく開いて見せた。 「わー!のだめちゃん、ずいぶん沢山買ったねー!」 中を覗き込みながら、由衣子は感心したように呟く。 「そのせいで、のだめのお財布からは諭吉サンが一人もいなくなってしまいましタ……。 それどころか、もうプリごろ太の最新刊も買えません……。とても悲しい事デス……。」 のだめは後ろに陰を背負いながら、どこか空虚な目をして呟いた。 「……のだめさん。ちょっとボクと一緒に来てくれる?」 「……?いいデスけど……。何ですか?俊彦くん。」 「……来ればわかるから。」 俊彦はそれだけ言うと、まだ頭から疑問符を出しているのだめを、二階のある部屋の方へ先導した。 「……さぁ、どうぞ。」 俊彦は、千秋の部屋の斜め左前にある部屋の扉を開くと、のだめに先に入るように促した。 「ふぉぉぉぉ〜!!しゅごい〜!!ここってオーディオルームですか〜?」 のだめは奇声を上げながら、感嘆したようにオーディオルームをぐるっと見回している。 「……まぁ、たいていのレコードとか楽譜とかは、ここに揃ってるんだけど。」 のだめが持ってる袋を指差しながら、俊彦は冷静かつ簡潔にその事実を伝えた。 「別に買ってこなくても、それ、うちにも全部あったのに。」 「ぎゃぼ!?」 「……つまりのだめさん、諭吉さん達とお別れしなくても良かったんじゃない?」 「ぎゃぼーーーー!!と、俊彦くん、何でのだめにこの部屋の事教えてくれなかったんですかーー!!ヒドイ!!」 のだめはショックのあまりか、持っていた袋をドサリと落とした。 「だって、てっきりもう知ってるものだと思ってたから……。」 「ムキーーーー!!知らなかったですヨ!こんな部屋があるのーー!!」 のだめは白目になりながら、猛烈に俊彦に抗議した。 「あれー?でも、昨日の夜…のだめちゃん、確か三善家☆探検!…してなかったっけ?」 「……は?……三善家☆探検?何ソレ。」 由衣子の発言に俊彦が不審げに眉を顰めるが、 それに構わず、のだめは聞き取れないぐらい低い声でぶつぶつと独り言を言っている。 「……これなら昨日…全部の部屋…開けておくんでしたヨ……。」 「え?」 「……こっちの話デス。」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |