喪失 ミニコンサート前編4
千秋真一×野田恵


のだめはまだ白目のまま、怨めしそうに俊彦から顔を逸らし、口を尖らせた。

「ごめん。でもボク本当に……のだめさんはもうこの部屋の事知ってると思ってたんだよ。」
「…も、いいデス……。」

のだめは落としてしまった袋を拾い上げながら、CDケースにヒビが入っていないか一つ一つ手にとって確認していた。

「買う前に真兄に相談すればよかったのに……。真兄からこの部屋の事、説明なかった?」
「あのさ俊兄……。その…最初の夜、由衣子とお父さんがちょっとからかったから、
真兄ちゃま……デザートの途中で居なくなっちゃったでしょ?
それからもお仕事忙しくて、ほとんどおうちにも居なかったし……。
ごめんね、のだめちゃん。これってまた…由衣子のせいかも……。」

由衣子はしょげたように項垂れた。

「由衣子ちゃんや先輩の叔父さんのせいじゃないですヨ〜……。本当にもーいいんデス。」

のだめは最後にリストの楽譜を取り出すと、いとおしそうな眼差しでそれを撫でた。

「のだめがこうやって身銭を切って買ったんだから……
ピアノものだめをチョトかわいそーに思って、気を許してくれるかもしれませんネ……。
……イヤ、もしかしたら更にその上、手心なんかを加えてくれるかも……?」

何を妄想しているのか、うぷぷぷ……とのだめは少し不気味に笑っている。
それを見た由衣子と俊彦は、困惑を隠せずにお互い顔を見合わせた。

「あ!夕ご飯食べたら、のだめ、ここのお部屋使ってもいいデスか?」
「別にかまわないと思うけど……。」
「じゃあ、お言葉に甘えて!ありがとうございマス!」

のだめはニコニコしながら、傍にあったテーブルの上にさっきのCDと楽譜を置いた。

「真兄、今日明日ゲネプロで、明後日はもう本番だから……。多分ここの部屋使わないと思うし。」
「きゃー!そっか、もう明後日なんだー。楽しみだね!ね、のだめちゃん♪」

由衣子が嬉しそうに同意を求めると、のだめはきょとんとした顔をした。

「明後日……?」
「え?まさかのだめちゃん…真兄ちゃまの公演がある事も…知らなかった!?」
「いえ……。それはモチロン知ってましたけど……。」
「あ、チケット?チケットの心配してるの?大丈夫!のだめちゃんの分もちゃーんと用意してあるから。」
「のだめの分も?」
「うん!一応土曜日と日曜日の全部の公演のチケット買ってあるから。
ホール近くのホテルも取ってあるし。ねー?俊兄。」
「ボクは土曜日の夜は予備校があるから、松田さんのBプログラムは聞きに行けないけど……。
ま、真兄が振るのは午後1時半からのAプログラムだからね。もちろんそっちは行くけど。」
「土曜日午後1時半……。」

のだめは小さな声で由衣子に告げた。

「……のだめ、ソレ、行けません。」
「ええー!?なんでっ!?どうしてっ?のだめちゃん!」
「のだめ…土曜日の午後、病院の子供達にピアノを弾いてあげる…ってお約束しちゃったんデス!」
「そんなの、別の日にしてもらえないの?だって、真兄ちゃまの指揮者コンクール優勝の凱旋公演なんだよっー?」
「最初に約束したのはこっちデスから。それに子供達も、すっごく楽しみにしてて……。
……のだめの都合で子供達を悲しませるような事は、出来まセン。」

そうきっぱりと言い切るのだめの語調は有無を言わせない響きがあって……。
由衣子を見据える瞳には、その返答に対する一片の迷いも無かった。

「えぇーー…でもーー……。」
「……由衣子、しょうがないだろ?じゃあのだめさん、日曜の夜7時からのBプログラムの方は大丈夫?」
「ハイ。日曜は今の所、病院もありませんし、丸々一日、空いてマス!」
「んもぅ〜……。どっちも聴かなきゃ、この公演の意味ないのにぃ〜……。」

由衣子はまだ不満げな様子を見せた。

「日曜にゆっくりと一日楽しめるんだから、もういいじゃないか。
ほら、土曜、日曜連チャンだと…今ののだめさんの体の具合だと、少ししんどいかもしれないし。」
「……本当にごめんなさい、由衣子ちゃん。土曜日はダメだったけど、日曜日はのだめと一緒に行きましょうネ?」

のだめは拗ねてる由衣子の頭を撫でると、ようやく観念したのか由衣子は頬をゆるめた。

「うん、わかった……。のだめちゃん!日曜日、絶対だからね?」
「ハイ!絶対!」
「……と!ボク、もう予備校に行く時間だった!」

俊彦が慌てて腕時計を確認すると、時計の針はもうとっくに彼が予備校に向かっているはずの時刻を指していた。

「ヤバイ……。完璧遅刻だ……。」
「ゴ、ゴメンナサイ。のだめがなんか引き止めちゃったみたいで……。」
「俊兄〜!もう、今日はお休みしちゃったら?一日位、いいんじゃないー?」
「バカ!その一日の油断が、ライバルに更に引き離される原因になるんだ!」

俊彦は由衣子に怒った。

「俊兄、毎日あれだけ勉強してるんだから、少し位平気よぉ〜……。
むしろ俊兄の事をライバルだと思っている人達に、ちょっと油断を与えてあげる位の心の余裕さっていうかぁ〜……。」
「由衣子っ!!!」
「っきゃ!こわ〜い!!俊兄の怒りんぼーーー!!」

由衣子はのだめの後ろに隠れると、『いーーだっ!!』と言いながら舌を出した。

「ったく!でもま、確かに…由衣子の言う事にも一理あるな……。そっか…うん、余裕……。」
「……と、俊彦くん?ど、どーしたんですカ?」

考え込む俊彦を不審に思ったのか、のだめはおずおずと上目遣いをして様子を窺っている。

「よし!今日はこのまま休むか……。それに今夜は、真兄のテレビ出演もあるし!
ま、今日欠席した授業は、来週の月曜に代替すればいいだけだし!」

さっき由衣子を叱り付けてしまった手前、俊彦は腕を組み、出来るだけ難しい顔をして言った。

「……あれだけ由衣子のコト怒ってたクセに…結局休むんじゃん……。」
「……何か言った?」
「別にぃ〜〜……!!」
「あの〜二人とも……ケンカ終わりましタ?」

俊彦と由衣子の間で少し困っていたのだめは、もじもじしながら口を挟んだ。

「のだめ、さっきの俊彦くんの発言でチョト気になる事があったんですけど……。」
「何?」
「今夜は、先輩のテレビ出演がどーとかこーとか……?」
「え、のだめさん聞いてなかった?今日の夜のニュース番組のゲストでさ、真兄出演するんだよ。松田さんと一緒に。」
「ええっ!?千秋先輩がっ!?テ、テ、テレビにっ!?」

のだめは興奮からか、やや上ずった声を上げた。

「うん。ほら10時からやってる有名なニュース番組あるでしょ?
あの中で“現代のクラシックブームを探る”って特集が組まれて、R☆Sオケが取り上げられるんだってさ。」
「ふぉぉぉぉぉ〜!!!!」
「んもぉー!のだめちゃん!今夜の三善家は夜10時前には全員リビングで、テレビの前に集合よっ!!」
「……由衣子なんてさ。この日の為だけに、父さんにおねだりしてDVDレコーダー買って貰ってるんだよ。」
「さ…さすが由衣子ちゃん……。」
「あ〜〜〜!!真兄ちゃまのファン、ますます増えたらどーしよう?由衣子…それだけが心配。」
「……おまえがある意味一番怖いファンだよ……。」
「……俊兄、何か言った?」
「別にぃ〜〜……!!」
「っっぷ!……ぎゃははははははは!!!!!」

二人のコミカルな応酬を見ていたのだめは、爆発したように腹を抱えて笑い転げた。

「二人とも仲いいんデスね〜?夫婦漫才みたい!あ、違う。これは兄妹漫才デスね〜〜?」
「っは?」
「ぎゃはー!!兄妹漫才〜!!いいですよネ〜兄妹って…はうん……。」
「あのー、のだめさん?話がよく見えないんだけど?」
「あー!!そう思ったら、のだめもよっくんの事思い出しちゃいましタ!よっくん、元気かなぁ……。」
「……よっくん?だぁーれ?のだめちゃん。」
「のだめの弟デス!のだめに似て、とってもシッカリ者でお料理上手デス!」
「……のだめさんに、“似て”?……何かのギャグ?」
「そだ!!由衣子ちゃん!うちのよっくんのお嫁サンに来ませんカ〜??
ムキャ!!そしたらのだめにも、かわいい妹が出来マス!!しゅてき!ナイスアイデア!!」
「え〜それだとぉ〜…のだめちゃんが俊兄と結婚したって、由衣子はかわいい妹になれるよぉ〜?」
「ぎゃぼ!!」
「ぎゃぼ!!って何だよっ!?それはこっちの台詞!!!」
「……と、俊彦くん。のだめじゃご不満ですカ……?」
「……そうなったら、少なくとも真兄は不満だろうねっ!!ふんっ!!」
「ぎゃぼぉ〜……。」
「ふふふ。のだめちゃんの負け〜〜〜!!」
「……か、完敗デス。師匠…のだめ、1から漫才修行し直してきマス……。」
「だから、さっきから何だよ?漫才、漫才って!!」
「……あら、結局3人でコンビ組んだの?」

クスクスと忍び笑いをしている征子が、3人の後ろに立っていた。

「あ、征子ママ。お帰りなさーい!」
「……お帰りなさい。」
「お帰りなさい、デス!」
「ただいま。みんな、夕ご飯は食べちゃった?」
「ううん。由衣子とのだめちゃんはまだだよ。あ、俊兄は食事途中だったけどぉ〜?」

思わせぶりな視線で、由衣子は俊彦を見上げた。

「……ボク、今日は予備校、休みます。」
「あら、そう?私、今日お昼食べ逃しちゃってペコペコなのよ。みんなは?」
「由衣子もお腹すいたー!」
「のだめもー。先輩のお母さんと一緒に夕ご飯、食べたいデス。」
「じゃ、みんな、こんな所でトリオ漫才してないで、早くダイニングへ!ね?」
『はーーーーーい!!』
「っは?トリオ漫才!?」
「俊兄、お先〜〜!」
「早く来ないと、のだめが全部食べちゃいますヨ〜??」

俊彦に声を掛けつつオーディオルームから飛び出した二人は、競うように食堂へ走り出した。

「だからぁーー!!さっきからその、漫才って何だよぉーーー!!」

俊彦はまだ納得がいかないのか、走る去る二人の後姿に向かって叫んだ。
しかし二人があっという間に階下に消えたのを見てバカらしくなったのだろう。
ぶつぶつ何か独り言を言いながらも結局、オーディオルームを出て行く。

それを見た征子は、再び起こった笑いを俊彦に聞かれないように堪えながら、
彼の後を追って、ゆっくりと食堂へ歩を進めた。

**********

「峰さん、峰さんのお父さん、今日は本当にご馳走様でした!」
「おー!また来いよーー!」
「公演、楽しみにしてますね!」
「まかせとけっ!!じゃーな!二人とも気をつけて帰れよ?」
『ハイ!』

峰は店の表に出て、マキとレイナを見送る。二人は手を振りながら裏軒を後にした。
峰は裏軒の暖簾を器用に外すと店の中に立て掛け、表に吊るしてあった営業中の札をひっくり返した。

「親父ぃー!今日はもう店仕舞いだ!」
「はいよっ!今日は何てったって、この後に先生のテレビ出演もあるしねー。」

峰が時計を見るとちょうど9時5分前。彼は携帯を手にした。

「マキちゃんからさっき聞いてたんだ。のだめの携帯のナンバー。あ、これこれ。」

峰はさっき彼女達が座っていたテーブルの上の、
調味料入れの側に置いてあった小さい紙切れを見つけると、携帯に入力し始めた。

「おお?龍、のだめちゃんに電話かいー??」
「うん。今日あいつ来なかったしなー。」
「のだめちゃんに、新作麻婆、食べに来てよ!って伝えておいて!」
「わかった。親父のあの力作なー!」

峰が携帯を耳に当てると、しばらくして規則正しい呼び出し音の音が聞こえ始めた。

トゥルルルルルル……トゥルルルルルル……
―――……プチっ

―――……も、もしもし?
少し警戒したようなのだめの低い声が、峰の耳元に聞こえてきた。

「もしもし?のだめかー?オレ!峰だけど。」
―――あ!峰くん。こんばんわー。のだめ、誰かと思いましたヨ。知らない電話番号だったから……。

「ごめんごめん。マキちゃんからのだめの携帯のナンバー聞いたんだ。」
―――そでしたかー。

「おまえ、今日夕飯食いにうちに来なかっただろー?ゲネプロも見ないで帰っちゃうし。
―――……ご、ごめんなサイ。

「どうしたんだよ。うちの親父、おまえに会うの楽しみにしてたんだぜ?
おまえの好きな裏軒☆スペシャルの新作麻婆、用意して待ってたのによー。」
―――……し、しんさくまーぼ?

「(のだめちゃーーーん!待ってるからいつでも食べに来てよーーー!)
……だってさ。ははは!聞こえた?」
―――ハイ……。

「さっき、レイナちゃんがのだめが体調悪そうだった、って言ってたからちょっと心配になってさー。
そンで電話してみたんだ。大丈夫か?」

電話越しとはいえ、のだめはやはり少し元気がない様子で、峰は気になった。

―――も、大丈夫デス。ちょっと朝から動いてバテちゃたっただけで……。今日は本当にごめんなサイ……。

「いいっていいってー。でも、のだめ、あんま無理すんなよー?病み上がりなんだからな?」
―――ハイ、気をつけマス。

「おまえに何かあったら、うちのオケにとってもマイナスなんだからなー?」
―――……へ?な、何でデスか?

「何でって。バカのだめー!うちの大事な明後日からの公演、千秋次第なんだからなー?
おまえいつも言ってたじゃん。“夫婦はいつも一緒デス!”だろ?」
―――…………。

「千秋をあンま心配させんなよー?ああ見えてあいつ、オレ様のクセして結構繊細なところあるから。」
―――……き、気をつけマス……。

「……なぁー…のだめ。」
―――……ハイ?

「……千秋にしておけよ。」
―――え?

「千秋にしておけよ。」
―――……あの?

「おまえ、相手はあの千秋真一だ。男のオレから見ても、最高の男だぜ?」
―――……。

電話口ののだめは黙っていたが、峰はそれに構わず電話を続けた。

「千秋はおまえがあんなに学生時代追いかけて、ようやくおとした男だろーー?
あいつ、才能はあるくせにストイックで妥協しなくて…それで時々完璧主義が過ぎて、トラブる事もあるけどさ……。
……でも、あんなに真摯に音楽に取り組んでる男、そうはいないぜ?」
―――…………。

「しかもオレ様のクセして、すっげー面倒見が良くて……。ホントはお人好しなんだよなぁー、あいつ……。
そうそう!オレ達留年しそうで、徹夜で一緒に千秋に勉強教えてもらった事あったっけ……。」
―――……っ。

その時峰の耳元には、電話の向こうでのだめが息をのむ音が聞こえた。

「おい。のだめ、ちゃんと聞いてンのかー?」
―――……聞いてますヨ。

「今のおまえ、すっげー得だぞ?昔と違って、千秋がおまえにベタ惚れの状態からはじめられるンだからな!!」
―――……そんなこと、ナイ……。

「あ?何だよおまえ、千秋に不満でもあンのか……?」
―――……峰くん。のだめ……先輩の側にいる資格、ないんデス。

「は?資格って、のだめ何言ってんだ?んなモン、男と女の間に要るわけないだろー?」
―――……そうじゃなくて……。と、とにかく、のだめ、先輩の側にいちゃいけないんデス。

「の…のだめ?もしかして千秋と何かあったのか……?」
―――(のだめちゃーーーん!先にお風呂入っちゃうよーーー?)ハーーーイ!今、行きマスーー!
峰くん、ごめんなサイ。のだめ、人を待たせてるんで!じゃっ!

「おいっ!?のだめ!?ちょっ……。」

―――ぶちっ!
ツー……ツー……ツー……

「あいつ切りやがった……。」

峰はしばらく携帯を握り締めたまま、茫然としていた。







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