千秋真一×野田恵
![]() 「龍……のだめちゃん、どうかしたのかい?」 テーブルの上に残っていた皿を片付けながら、峰の父親は言った。 「なんか…あいつ、変な事言ってた。“自分は千秋の側にいる資格がない”とか……。」 「うーん。のだめちゃん…やっぱり気にしてるのかねー……。」 「は?気にしてる?なんだそりゃー!親父ぃ!」 峰の父親は息子の言葉に困ったように首を振ると、食器類を流しに持っていき手際よく洗い始めた。 そして彼は、息子を諭すような落ち着いた声色で言った。 「……龍太郎。お前も先生とのだめちゃんのことを心配に思うなら、温かく見守ってやんな。 ……とにかく、周りがアレコレ言い過ぎないことさ。」 「わかってるけどよぉー……。やっぱり心配なんだよ。 オレ、自分が考えていた以上に、あいつらが二人で一緒にいるのが好きだったんだなぁ……って思うとさ。 もう、何とかしてやりたくて……!」 「でも龍から先生の事、あんな風に言われたら……のだめちゃん、困っちゃうんじゃないか? なんてったって、記憶を失って一番辛いのは…のだめちゃん自身なんだから……。」 「……あ。」 『もう一度最初からはじめたって、大事なのは二人の気持ちだろ……? なぁ、大丈夫だって!のだめ、お前のことすぐに好きになるから!だって、相手はあの千秋真一なんだぜ?』 『峰……この話は……もう止めよう。』 その時峰の脳裏に、昨日のタクシーの中で、千秋と交わした言葉が卒然浮かぶ。 『今のおまえ、すっげー得だぞ?昔と違って、千秋がおまえにベタ惚れの状態からはじめられるンだからな!!』 『……そんなこと、ナイ……。』 彼は、自分の一方的な考えや思いを、千秋とのだめの双方にぶつけてしまったのをようやく自覚した。 「……違うかい?」 「……うん、そうだな……。親父の言うとおりだ……。オレ、少し無神経すぎた……。」 無神経・・・と自分自身をそう思った瞬間、罪悪感が悪心のように峰の喉元にこみあげてくる。 それを抑えようとして彼は、自分のTシャツの胸元を乱暴に絞り取るように握り締めた。 ……ひどく落ち込んだ様子の息子を見て、彼の父親は優しく声を掛けた。 「さ……。もうそろそろ先生が出るテレビの時間だから。その前に風呂に入ってきな……。」 「……うん。」 峰は立ち上がると、店の奥の方へトボトボと歩いて行った。 彼の父親は心配そうに息子のしょげた後姿を、皿を拭きながら見守っていた。 ********** 千秋はオリバーを伴ってテレビ局の関係者通用口へ入ると、前方に自分の名前が掲示してあるのに気が付いた。 「オリバー。オレ達、こっちの控え室みたい。」 日本のテレビ局が物珍しいのか、キョロキョロしているオリバーに千秋は声を掛けると、彼の前に出て歩き出した。 「これじゃ、どっちがマネージャーかわからないじゃないか。」 「ゴメンゴメン!」 控え室は松田の名前も掲示してある。どうやら一緒のようだ。 千秋が軽くドアをノックすると、中から『どうぞ〜!』という男性の声が聞こえた。 「あ、松田さん。お疲れ様です。」 「やぁ!千秋君、遅かったね。もうすぐ本番だよ?早く着替えとかしないと。」 「すいません……。ちょっと今日、色々トラブルがあって……。」 「ああ、僕は途中で退席したから知らなかったけど、午後のゲネプロはとんだ事になったらしいね。 ホールの空調が壊れたんだって?」 「……そうなんです。結局直ったんですけど、時間がものすごく押してしまって……。」 「ふふふ。僕、午前中にしておいてよかったなぁ〜!」 「……そうですね。」 千秋は幾分ムッとして答えた。 その時、ドアから軽くノックの音が聞こえた。 二人同時にドアに振り向くと、松田がさっきと同じように『どうぞ〜!』と声を掛けた。 するとドアが静かに開き、手に金属製のメイクボックスを下げた、若い女性が中に入ってきて一礼した。 「失礼します。私が本日千秋さんを担当しますヘアメイクの者です。よろしくお願いします。」 「あ、よろしくお願いします。」 千秋が会釈すると、『では、髪の方からよろしいですか?』と言って彼女は千秋の髪のセットし始めた。 雑誌の撮影の時と同じように、人にこうやって髪をいじられ慣れしていない千秋は、 気恥ずかしいのか鏡の中の自分さえ見れず、伏目がちに俯いていた。 その時、隣で千秋が髪をセットされてるのをニヤニヤしながら見ていた松田が話しかけた。 「ねー可愛いお嬢さん。千秋君を僕より男前にしないでね?」 「え?」 ヘアメイクの女性の手元が止まった。 「ま、松田さんっ。何でもありませんから…あの、続けて下さい。」 千秋にそう言われ、彼女は小首を傾げながらも作業を再開した。 どのようにセットするかしばらく髪を弄んでいた彼女は、鏡の中の千秋の目を覗き込むと訊ねた。 「千秋さん、特にご希望等はございますか?」 「特になし!千秋君、そのままでも十分男前だから!適当でっ!!」 「……適当でいいです。」 松田の発言を受け、千秋はどうでもいいといった声色で答えた。 千秋はゲネプロ会場から、水一つ飲まないで急いで移動してきた事を思い出し、急に喉の渇きを覚える。 鏡越しに部屋を見回すと、入り口の脇に立っていたオリバーを見つけ、声を掛けた。 [オリバー……悪いけど、これで何か飲み物買ってきてくれないか?] [何がいい?ミネラルウォーター??] [……それでいい。] 控え室からオリバーが出て行くのを横目で確認すると、千秋ははぁーと溜め息をつく。 ふと、鏡を見ると、その中に映っていたヘアメイクの女性が目を丸くしていた。 「あの……?何か……?」 「千秋さん、ドイツ語しゃべれるんですね!」 「はぁ……。まぁ……。」 「ねー嫌味でしょ?さっきの大きなドイツ人の男性、千秋君のマネージャーさんだよ?」 「ええっ!?そうなんですか?」 「ええ……。まぁ……。」 結局、ヘアメイクが終わるまで松田にからかわれっぱなしだった為、 オリバーがミネラルウォーターを手に控え室に戻った頃には、千秋は相当疲れきった表情をして椅子に座り込んでいた。 ********** 「さて、今夜のニュース・サマリー・10の特集は、素敵なゲストをお二人、お招きしております。 うちの南なんて、始まる前からキャーキャー言ってましてねー。 え?早く紹介しろって?あっちゃん、今日は声が上ずってるよ?ははは。では、お呼び致しましょう〜!! 新進気鋭の若手ばかりのオーケストラ、ライジング☆スターオーケストラを指揮する二人の若きマエストロです。 松田幸久さん、千秋真一さんどうぞ!」 アンカーの日比野さんが席を立つと、奥のゲスト控えにいたオレ達は会釈しながら移動し、 メインテーブルの前の空いている、二つの椅子に揃って腰を掛けた。 「ようこそお越し下さいました。今夜はゲネプロの後という事で、お二人とも大変お疲れのようですが。 大丈夫でしょうか?」 もう一人の女性キャスター南さんが、オレ達に柔らかい微笑を口にたたえながら声を掛ける。 「ええ、大丈夫です。ご心配頂きましてありがとうございます。」 松田さんは得意のキラースマイルで彼女にそう答えると、南さんはオレから見ても分かる位、可愛らしくポッと頬を染めた。 ―――松田さん……。年上までも……。 オレは本番中だっていうのに、そんな事を考えていた。 「サラリーマン諸兄のアイドル、南亜希子をここまで骨抜きにするゲストは久々ですねー! えー、私のすぐ横にいらっしゃるのが、千秋真一さん。あっちゃんの横が松田幸久さんです。 どうも〜こんばんわ!はじめまして!」 「はじめまして!」 「こんばんわ……。はじめまして……。」 「今日はお忙しい中、NS10にお越しくださいまして、ありがとうございます。」 「いえこちらこそ、お招き頂きまして、本当にありがとうございます。」 「ありがとうございます……。」 「千秋さんは、ちょっと緊張されてるのかな?」 「……はい。その、テレビに出るのは初めてなので、とても緊張しています……。」 「その点、松田さんは堂々としていらっしゃいますねぇ〜!」 「いえ、本当は内心、緊張でドキドキなのですが…今日は千秋君と一緒ですからね。 少し無理をして、平静を装っているんです。一応、僕は先輩ですから。ははは。」 「そうなんですか?そうはとても見えませんよ?」 ―――絶対嘘だ……。 笑いあう日比野さんと松田さんを横目で見ながら、オレは思った。 この松田さんに、そんな殊勝な考えがあるはずがない。 「松田さんと千秋さんのプロフィール等も入った、本日の特集VTRがありますので、お二人ともご一緒にご覧下さい。」 南さんが松田さんにそう話しかけると、松田さんは南さんの瞳をじっと見つめて言った。 「こういうのって…何だか気恥ずかしいですね?」 「ふふふ。今お二人が明後日に控えている、R☆Sオケの公演のリハーサル風景もお楽しみ頂けますよ?」 「ええっ!?いつ、撮影を……?」 二人の話のある一部分に疑問を持ったオレは、ライブだというのについ言葉に出してしまった。 すると松田さんはオレの方を見て、思わせぶりに笑った。 「千秋君には言ってなかったんだけど、販売用DVD様にって回していたカメラ、あったでしょ。 アレ、実はここのスタッフさんだったんだ。」 「えっ!?アレ?!そ、そうだったんですか?」 「千秋君に言うと、怒られそうだったから。内緒にしててごめんねー。」 「ま、松田さんっ……!」 「なんか息のあったコンビというか、仲の良いお二人ですね?では、仲の良いお二人、VTRをどうぞ〜!」 絶妙のタイミングで日比野さんがVTR紹介を入れると、画面が切り替わり、特集が始まった。 「はぁー……。」 「何?いいじゃない。ちょっとドッキリみたいで楽しみでしょ?」 「……松田さん、もう隠し事ないですよね?」 「えーそれはどうかなぁ……?ほらほら、リハの風景だ!千秋君話してないで、Vちゃんと見ないと!」 「す、すいません。」 オレは机の上にある個人用モニターで、VTRを慌てて見ながら謝った。 画面ではリハの風景から、オレ達の紹介画面に切り替わっていた。 自分の事が紹介されているのにどこか他人事のような気がして、オレはぼんやりとVTRを見ていた。 だからオレはその時、松田さんがオレの事を目を細め、鋭い視線を送っていた事に、ちっとも気が付かなかった。 「どうでしたか?VTRの感想は?」 VTRが終わると、すぐ横の日比野さんが話しかけてきた。 「僕達や、R☆Sオーケストラの事をとてもよく取り上げて頂きまして、光栄に思っています。 けれど、若い人にクラシックブームが起きているというのは、僕達だけの功績ではありません。 多くの演奏者、その関係者、 そして何よりも、クラシックを楽しんでくださる聴衆の皆様あっての事だと思いますので……。」 「千秋さん、真面目な方なんですねー?」 「そうなんですよ。千秋君、師匠に似なかったんですよねーそこは。」 松田さんが、茶化すように口を挟んだ。 「あ、千秋さんの師匠は、マエストロ・シュトレーゼマンでしたね。どうですか?唯一の弟子から見た世界の巨匠は。」 「え……?シュトレーゼマンですか?音楽はとても尊敬できる人です。」 「……それ以外は尊敬できない?」 「いえ!そういう訳ではなくて……。」 オレはなんて答えたらいいのか戸惑っていた。あのジジイなら、この番組も後でチェックするに違いない。 変な事を言えば、執念深いあの性格から考えても、相当恨まれると思うし、 それで弱みを握られたりしたら大変だから、おいそれと迂闊な事は言えなかった。 「ははは。千秋君が困っているようなので、話を変えましょうか。 今週末のR☆Sオケの公演はお二人の競演が聴けるともあって、チケットが発売開始20分で売り切れたとか。 すごい人気ですねー。その事、どう思われましたか?」 「あ、そうなんですか?すみません、それは初めて聞きました。すごく…その、嬉しいです。 沢山の方々と音楽を通して、素敵な時間を共有できるように頑張りたいと思います。」 「松田さんは如何ですか?」 「ええ、そうですね。僕も大変嬉しく思っています。演者はやはり、聴衆あっての事ですから。 特に指揮者は、オケのメンバーと違って担当する楽器がありませんからね。 独り善がりにならないよう、その辺はいつも肝に銘じています。」 オレ達の返答に日比野さんは軽く頷きながら、さらに質問してくる。 「二日間通して、お二人は同じプログラムをそれぞれ振られる、という事ですが。 どうでしょう?やっぱり意識しますか?お互いの音楽性…など。」 日比野さんのその質問は、多分聞かれるだろうと予想していた事柄だったので、 オレはあらかじめ用意しておいた返答を、なるべくそれらしく述べた。 「もちろん意識してない、といったら嘘になりますが……。それが今回の公演の見所の一つであるわけですから……。 でもなるべく自然体で自分の音楽を楽しめたら、また皆さんにも楽しんで頂けたら…と思います。」 すると、松田さんがさっきまでとは明らかに違う声のトーンで話しだした。 「僕は千秋君と違ってですねー……。」 そこまで言うと、オレの方へねっとりとした視線を向ける。 「今回の公演は、若く、そして有能な千秋君が競演相手、という事でとても意識しています。 でも僕のそんな想いとは違って…千秋君は何か別の事に気を取られているというか…悩んでいるみたいで…… 今回の公演に対して、今ひとつ集中しきれていないようなんですよ。 ……まぁ、そんな青いところも、“千秋真一”の魅力の一つ、なんでしょうけどー?」 ―――……松田さん?一体何を……? ……オレは動揺した。 さっきまでの飄々とした松田さんの雰囲気と違って、それは明らかにオレを挑発している態度だったからだ。 怯んだオレの姿を見た松田さんは、睨み付ける様な鋭い視線のまま、それでいてどこか満足げにニヤリ、と笑った。 「ですから今回僕は、“千秋真一になめられているな”と、結構頭にきてましてねー。 それに僕は、後輩を育てるといった、偽善めいた優しさは、全く持ち合わせてない人間ですから。 彼が本気でぶつかってこないようなら、それを好機に、完膚なきまでに叩きのめすまで、ですよ!」 ―――なっ……!? その刹那、オレ達の視線は青い火花が飛び散るように、激しく交錯した。 スタジオは、凍りついたように静かになる。 オレも松田さんも一瞬たりとも目を逸らさずに、じっとお互いを凝視し続けていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |