喪失 ミニコンサート前編6
千秋真一×野田恵


「ま、松田さん。大丈夫ですかー?テレビでこんな発言をされてしまって……。」

日比野さんは少し慌てたように、オレ達の会話に入ってきた。
アンカーらしく場を何とか和ませようとしているのが、オレにも伝わってくる。
松田さんはようやくオレから視線を外すと、日比野さんに向かってにっこりと微笑んだ。

「ははは、大丈夫ですよ。だって、自分を脅かす若い才能の芽は、出来るだけ早く摘んでおきたいですからねー。」
「わー!大胆な発言ですねぇー。千秋さんはどうですか?只今の松田さんの発言をうけて。」

日比野さんはテレビ的に面白い展開になったのに勘付き、この状況を逃さないとばかりに、
興奮した様子でオレにも話を振ってきた。

「松田さんからのこの言葉、そっくり返したいと思います。
僕も相手が先輩だからといって、絶対に手を抜くことはしません。
正々堂々、真正面から自分の音楽に取り組むのみ、です。」

オレは努めて冷静に、自分の気持ちを話したつもりだった。
しかし隣にいた松田さんはやや不満げに、鼻をふん!と鳴らした。

「千秋君はこう言ってますけど、この結果はもう週末には分かる事ですから。
来て頂けるお客様には、どういった結末になるか、その辺りもしっかりと見届けて欲しいですね。」

松田さんのその発言を聞いた瞬間、オレの中で何かが急激に目覚めるのを感じた。

―――そうか……!
―――松田さん…オレの音楽が未完成なままであるのを…見抜いて……。

先程のゲネプロの昼休み時、『千秋君、今回は随分と自信があるみたいだし?』と言われた真意が今はっきりとわかった。
オレの中で、沸々と自分に対する怒りがこみあげてくる。
そうだ……。オレは忘れていた。自分が全身全霊をかけて求めてきた、オレの音楽の事を……!!

のだめの事があったからと言って、それをおざなりにしていいなんて理由、どこにもなかった。
……オレは音楽を冒涜し、松田さんを冒涜していた。
松田さんが激怒するのも分かる。オレがその立場だったら、相手を張り倒していたかもしれない。

……なぁ、のだめ。
オレ達の間には、いつも音楽があったよな……?オレ達…音楽を通して、こんなにも強く惹かれあってきた。
そうだ……。オレが自分自身を見失い、そして音楽を穢す事は、二人にとってこんな悲劇的な事はないんだ。
それはおまえが記憶失って……オレを忘れてしまう事なんかよりも……。
……なぁ、そうだよな?…のだめ……。

―――もしかして……。
―――松田さんはこの事をオレに悟らせようと……態と今この場所で…オレを挑発、したのか……?

いつの間にかトーク内容は、現代のクラシックブームについて、に変わっていた。
和やかに談笑する日比野さんと松田さんの会話を聞きながら、オレはある決意を固めていた。

『今、自分がやれる事を精一杯やるだけです。』

松田さんと再会した時に言った、オレのあの言葉に“嘘”は、ない……!
オレはこの収録が終わったら“ある事”を、松田さんに提案しようと心の中で考えていた。

**********

『本日のゲストは、松田幸久さんと千秋真一さんでした。
公演が成功する事を、私も祈っております。お二人とも本当にありがとうございました。』

『ありがとうございました。』
『どうもありがとうございました。』

短いBGMが挿入され、画面はCMに入った。
三善家では、久々に家族全員がリビングに揃ってじっとテレビを見つめていた。
CMが流れ出すとそこにいた全員が一斉に、はぁー…と盛大な溜め息を吐き出した。

「……なんか真兄、松田さんにいじめられてたけど…大丈夫かな?」

俊彦が低い声で呟く。
すると、今まで食い入るように見ていたテレビ画面から顔を外した由衣子が、口を尖らして俊彦に言った。

「由衣子……松田さんキライ……!」
「……でも真一には、いい刺激になったみたい。最後の方のあの子のあんな表情……私、はじめて見たわ。」

征子はテーブルに置きっ放しになっていた、空のティーカップを片付けながら言った。
松田に対して息子が見せた火のように燃えあがった先程の瞳を、彼女は思い出していた。

「真一の調子が今ひとつなようだと、R☆S事務局から聞いていて私も心配だったのだが……。
今日のテレビ出演が、真一にとってこの公演がどれだけ重要な事か、
再認識するいい機会を与えてくれたのかもしれないな。」
竹彦は右手で顎を撫でながら言った。

「松田さんの挑発に奮起して、真兄のR☆Sの公演が成功するといいね。」
「でもぉ〜…よりによってテレビ出演の時に、あんな風に言わなくってもぉ〜……。」
「大丈夫ですヨ、由衣子ちゃん。」

まだ不満げに言い淀む由衣子に、のだめはキッパリと言った。

「……千秋先輩なら大丈夫、デス!」

そしてソファから立ち上がると、

「のだめも……がんばらないと……。」

そう独り言のように呟いて、リビングから出て行った。

「の、のだめちゃん……?」
「……のだめちゃんにもちゃーんと伝わってるのね…真一の気持ち。」
「え?征子ママ、それってどういう事?」

由衣子が訊ねると、征子はふわりと笑った。

「ね?由衣子ちゃん、二人を優しく見守ってあげましょう。私達にはそれ位しかできないから……。」

どこか遠くを見るような眼差しで話す征子の言葉に、
由衣子は今まで考えたくなかった事が急に頭に浮かび、不安になった。

「……真兄ちゃまとのだめちゃん…別れちゃったり・・・しない・・・よね?」
「二人がどうするのかお互い考えて出した結論を、私達は尊重してあげないと・・・ね?」

その言葉を聞いて涙ぐむ由衣子の髪をそっと撫でると、征子は優しくその肩を抱いた。
その仕草に誘われるように由衣子は征子の胸にしがみ付くと、声を出すのを堪えて泣き出す。
征子は由衣子の背中をポンポンとあやすように叩き、そしてそんな二人の様子を、竹彦も俊彦も黙って見つめていた。

病院の予約時間が9時だった為いつもより早めに起きると、ちょうど千秋先輩も朝食をとっている所だった。

「あ、先輩おはようございます。」
「おはよ。のだめ、今日は早いな?」

先輩が自分の左に座るよう目で促すので、私は少し緊張しながらもそれに従った。

「由衣子ちゃんと俊彦くんは?」
「もうとっくに学校に行ったよ。二人とも通学時間、結構かかるからな。」
「……そでしたか。」

昨日の今日なので…余り長く会話が続かない。
私は何となく居心地の悪さを感じながらも、頑張って先輩に話しかけた。

「あの、昨日のテレビ、見ましタ。由衣子ちゃん達と一緒に。」
「……うん。」

―――先輩の反応はやっぱり良くない。
―――あんまりあの事に、触れられたくないんだ……。

言わなければ良かった……と、私はすぐに後悔した。
しかし、先輩は俯く私の顔を覗き込んで額を掴むと、髪をくしゃくしゃっ!と乱暴にかきまぜた。

「うぎゃっ!せ、先輩!な、何するんデスかっ!?」
「ばぁーか。おまえまで、そんな情けない顔すンな!」
「えっ?」
「……昨日のオレ、情けなかっただろ?松田さんにやりこめられてて。」
「あ……。」

そこで先輩はカフェオレを一口飲んだ。

「でもあれで、オレも完璧目が醒めたっていうか…ホント松田さんに感謝しねーと……。
それに…オレもやられっぱなしじゃ絶対終わらせねー……。リベンジしないと…な?」

先輩はそう言って、私を見て笑った。
昨日までの先輩と違って、それはどこかすっきりとした表情だったので、私は拍子抜けしてしまった。

「そういえばのだめ…明日来れないんだって?」

先輩は食事をする手を止めて私の方を向き、テーブルに頬杖をついた。

「さっき俊彦達から聞いた。病院の子供達にピアノを弾く約束をしたとか……。」
「そなんです……。ごめんなサイ。」

私が頭を下げると、頭上からはぁー…という先輩の盛大な溜め息が聞こえてきた。

「少しショックだな……。おまえ、何時からそんなに薄情になった?」
「ぎゃぼ!ほ、本当にごめんなサイ!でものだめ、先に子供達と約束しちゃったんです。だから……。」

慌てて顔を上げると、先輩は拗ねたような瞳をしてこっちを見ていた。

「……オレより子供達の方が、そんなに大事?」
「そ、そーゆー訳じゃないんデス!!ただ、本当に先に約束しちゃったからっ……!!」

―――ど、どうしよう?どうしたら先輩の機嫌が直るんだろう……?

うろたえていると、先輩が急に肩を震わせて笑い出した。

「くっくっくっく……。ごめん、ごめん。ちょっといじめすぎた。オレ、別に気にしてないから。」
「……へ?」

私は間の抜けた返事を返す。
すると先輩は頬杖をつくのをやめ、その手で頭をかくと、照れたように笑った。

「その…正直に言えば気にしてなくはないンだけど……。うん…ちょっと残念…かな……。
けど、仕方ないしな、子供達と約束したんじゃ……。それにおまえ、日曜日の方は大丈夫なんだろ?」
「あ、ハイ。日曜日は三善家の皆さんと、松田さんのAプログラムから聴きに行く予定デス!」
「そういえば明後日のBプログラムの方が、おまえ好みの内容かもな。」
「え?そですか?」
「うん。後でパンフレットでも見ておけよ。俊彦か由衣子が持ってると思うから。」
「ハイ。そうしマス。」

ふと、先輩は食堂に掛かっていた時計に目をやると、慌てたように立ち上がった。

「いけねっ!オレ、もう行く時間だ!」
「えっ?もう行っちゃうんですか?」
「ごめん。やらなきゃいけない事が急に決まって、時間がすっげー足りないくらいで……。
いや、これはオレがいけないんだけどっ……。
あっ、今日はなるべく早く帰るようにするよ。帰れたらその…一緒に夕飯食べよう……な?」
「あ、ハイ……。」

先輩は椅子をダイニングテーブルの内側の元の位置に戻すと、座ってる私の後ろを通り過ぎながら言った。

「じゃ、行ってくる!千代さんに、せっかく用意して貰った朝食、残しちゃってごめん、って伝えておいて!」
「分かりましタ。先輩、気をつけて下さいね!」
「ん。じゃーな!」

食堂の入り口で、先輩は一度こちらに振り返り手を上げると、すぐにその姿は消えた。

「ふぅー……。」

先輩が居なくなったのを確認してから、私は息をついた。
お互い避けている訳じゃないけど……昨日からのこの気まずさだけは、私だけでなく先輩も感じているはずだ。
今日は、先輩といつも通りの会話が出来たような気がするけど……。
これも私に気を遣って努めて普通にしてくれてる結果なんだ……と思うと、
胸がぎゅっ…と締め付けられるように苦しくなった。

「あら、のだめさん、お早いですね。おはようございます。」

千代さんが淹れたての湯気の立つコーヒーを、トレイにのせて食堂に入って来た。

「食後のコーヒーをお持ちしたんですが……真一さんは?」

千代さんは食べかけの朝食が残されたテーブルを見ながら私に聞いた。

「先輩なら、もう出掛けちゃいましタ。何か急いでいるみたいで……。
千代さんに、『朝ごはん残しちゃってごめんなさい』って、先輩言ってました。」
「そうでしたか……。のだめさんの朝ごはんも今、用意しますね?」
「ありがとうございマス!あ、千代さん!そのコーヒー、のだめが飲みます。」
「え、これでよろしいんですか?ブラックですけど……。ミルクとかお持ちしますか?」
「いえ、それでいいんデス!」

言い張る私を不思議に思ったのか、千代さんは目を丸くしながらも、そのコーヒーをコトリ、と置いた。

「では、のだめさんのご飯、用意してまいりますので……。」

千代さんはいそいそと食堂から出て行った。

先輩が飲む筈だったコーヒーに、ふぅーふぅーと息を吹いて冷ます。そして……ゆっくりと一啜りした。

―――わー……。やっぱり苦い、デス……。

普段コーヒーをブラックで飲まない私には、やっぱりというか…それはとても苦く……。
……どこか酸味を感じる味わいだった。

―――千秋先輩のコーヒーの好みは、ブラックなんですネ……。

らしいというか、あまりにも先輩のイメージにはまってて、私は少し可笑しくなった。

……こうやって、一つ一つ先輩の事を新しく知っていく度に、
意識したくなくても、自分の中で、彼の存在が否が応でも大きくなっていく。

―――それなら千秋先輩が、私が “前の私” と違う……という事を感じる度に、
―――先輩の中で “今の私” が占める割合はどうなるんだろ……?

……考えたくはなかったけど、結論は明らかだった。

頑張って全部飲んだけれども、そのコーヒーは私にはやはり……ひどく苦かった。

**********

昨日大ホールでトラブルがあった事に責任を感じたのか……
ホールの支配人が、約束していた時間よりも二時間早くホールを提供してくれた為、
ゲネプロも、予定より二時間早く始まる事になっていた。

「なぁ……。昨日のテレビ見たか……?」

峰がそう言うと、鈴木姉妹、黒木、そして真澄は一様に頷いた。
ゲネプロ前の軽い音あわせ中に、いつものメンバーがステージ下に集まっていた。

「千秋さま…松田さんにいじめられてたわねぇ……。」
「うん。松田さん、千秋さまをすっごい挑発してたよね?私達テレビの前で、どうなるかとドキドキしっぱなしだった!」

薫がやや興奮気味に言うと、萌も首をうんうんと縦に振った。

「いやー最初はどうなるかと思ったよなー……。
まさかテレビで……しかも生放送であんな事が起きるとは思わなかったしさー。
おかげで昨日の夜から、事務局に公演の問合せの電話がバンバンかかってて、すっげー大変らしいぜ?」
「そうなんだ……。でも僕は…昨日のあの放送を見て…すごく嬉しかったよ。
ようやく、千秋君が音楽に対して、情熱的になる姿を見られたからね。」

黒木が一言一言噛みしめるように呟くと、そこにいた全員が同意の意を表した。

「やっぱ松田さんはスゴイよな……。だって公共の電波使って、あの千秋を本気にさせたんだぜー?」
「千秋さまの…一瞬にして燃え上がるようなあんな熱〜い瞳…わたし初めて見たわぁー。シビレちゃった!!」
「千秋君さ……恵ちゃんの事があってから、すごく悩んでいたみたいだったよね。
それがその…千秋君の音楽に出ちゃってて……。松田さんはその事を指摘したんだろうな。」

冷静に分析するような黒木の言葉に、鈴木姉妹は静かに相槌をうつ。

「うん……。千秋さま、指揮を振りながら…ずっと苦しそうだったよね……。
私達、千秋さまの今の気持ちとか、置かれている状況とか…それがわかるから余計に辛くて……。」
「でも千秋君、僕らには何も話してくれないし……。
僕だって力になりたかったけど、これは千秋君が自分で解決しなくてはいけない問題だったから……。
でも、昨日のあのテレビ…あれで千秋君、いい意味で吹っ切れたんじゃないかな?
松田さんを睨んだあの目……。あれは彼が本気になった時の目だったよ……。」

黒木の話を受けて、峰は興奮したように拳を突き上げて叫んだ。

「今日はオレ達、覚悟してゲネプロに臨まねーとっ!!帰ってくるぜ?鬼・千秋がよー!!」
「ははは。久々に嵐の予感…かな?……楽しみだね。」
「あら、わたしはとっくに用意できてるわよー?」

黒木も真澄も、嬉しそうに決意を語っている。

すると、峰は急に何かを思い出したのか、手をポンと打った。

「あ!そういや沙悟浄からさっき聞いたんだけど、昨日の夜遅く、テレビ出演後の千秋から電話貰ったって。」
「え?千秋さまから?なんで?」








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