喪失 ミニコンサート前編7
千秋真一×野田恵


萌と薫は不思議そうな顔をして峰を見ている。

「オレもよくわかンねーんだけど……。
何か今までR☆Sが公演で演奏した曲目のリスト、一覧にしてファックスで送って欲しいって頼まれたとか……。」
「曲目のリスト?今までやった分の?千秋さま……一体何を考えているのかしらぁー……。」
「……さぁ。オレにもさっぱり検討がつかねー。まさかプログラムを急遽変更する…とかじゃねーよな?
少なくともそれじゃあ、“競演”の意味がなくなっちまうし……。
それに、あのオレ様で負けず嫌いの千秋が、はじめる前から松田さんに敗北を認めるとは思えねーしな・・・。」
「各自、集合!!ゲネプロ前の最終ミーティングを始める!!」

ホールに松田の良く通る声が響いた。話し込んでいた峰達は、それを聞いて急いで定位置に戻る。
松田と千秋が揃って、舞台袖からステージ中央へ歩いてきた。

「みんな、おはよう。いよいよ明日から本番だ。
昨日の午後のゲネプロはトラブルに見舞われたけど、今日は支配人の好意でその分多く時間が取れた。
今日は最終リハーサルも兼ねたゲネプロだから、気を引き締めていってもらいたい。」

松田さんはオケのメンバーをぐるっと見回しながら、厳しい表情でそう宣言した。

「……それから、急にで申し訳ないが、僕は昨日、千秋君からある提案を申し込まれた。
千秋君のその提案を……僕は非常に興味を持って聞いた。
これが上手くいけば、今回の公演はいい意味でとても面白い事になる。だから試してみる価値はある、と僕らは考えた。
しかし、これは僕達だけの一存では決められない。ここにいるメンバー全員の協力が、絶対条件だ。
提案者の千秋君から、その事について説明してもらおうと思っているのだが、みんな構わないだろうか?」

オケのメンバー達は近くにいる者同志で顔を見合わせ、『一体何だろう?』と口々に囁いている。

「みんなー!構わないよねー?」

コンマスの高橋が場をまとめるように発言すると、全員が頷いて同意を示した。

「では、千秋君……。」

メンバーの同意を得たのを確認した松田は、指揮台から降りて身を引き、千秋に中央に行くよう目で指し示した。
今まで松田の側に控えていた千秋は、入れ替わるように壇上に上がる。

「まずはこの様な機会を与えてくれた松田さんと、そしてここに居るオケのメンバー全員に感謝の言葉を述べさせて欲しい。
本当に有難う……。では早速、松田さんの話にあった、オレの提案の件だけど―――。」

千秋はいつになく熱っぽい眼差しでオケのメンバーを一人一人見つめながら、その事を話し始めていた。

**********

本日の山口の朝一番の患者は、のだめだった。

診察室に入ってきたのだめを一目見て、僅かに山口は目を見張った。
今日の彼女が身につけているのが黒い細身のワンピースだからだろうか……
昨日のむくんだ顔が信じられない程ほっそりとした…それでいてどこか透明な印象を、山口はのだめから受けていた。

「昨日、整形外科の担当医からも聞きましたが、打撲した箇所の回復は順調なようですね。」
「ハイ!むちうちの症状も余り出なかったので、のだめはラッキーでしタ!
背中の内出血の痕がスゴイんですケド……。
整形外科の先生は、後2週間もしたら体内に吸収されて綺麗に消えるから安心して下さいね、って言ってましタ。」
「そうですね。この痕は残る事はないですから大丈夫ですよ。」
「ほら、こっちのほっぺたの傷も大丈夫そうですヨ?先輩も、痕残らないみたいで良かったな、って言ってくれました。」

のだめは山口に右頬を向けて、擦り傷の痕を見せた。

「おや、もう大分綺麗に治ってますねー。
ふふふ。のだめちゃんの可愛い顔に痕が残ったら……と、千秋さんもさぞかし心配だったのでしょう。」

そう言って山口が笑うと、のだめはどこか返答に困ったような顔をして俯いた。
……この話をもう終わりにしたいのか、のだめは急に思い付いたかのように、膝の上にのせていたバックの中をまさぐり出す。

「のだめ、先生に渡したいものがあったんでしタ!」

そうしてバックの中から一枚の紙を引っ張り出すと、山口の前に突き出した。

「これは……?」
「明日のミニコンサートの曲のリストです。一応、のだめなりに考えて、
今の体調に無理のない範囲で出来る、クラシックのリクエスト曲のプログラムを考えてみました!」
「明日のステージの曲目ですね?わぁー!のだめちゃん、わざわざ有難うございます。」

渡された紙に目をやると、クラシックの作家とその曲名が、若い女性らしい可愛らしい文字で数曲書き記してある。
あのリクエストメモにあった、有名な曲ばかりであった。

「そういえば今、看護科の生徒が明日の準備をしているはずです。
ちょうど顔合わせにいいかもしれませんね。受付の者に言って、案内して貰って下さい。
このリストもこのまま生徒達に渡して頂けますか?それで明日の簡単なリーフレットを、生徒達が作りますから。」
「ふぉぉぉ〜リーフレット!分かりましたー。」

山口はのだめに紙を返しながら、ふと、もう一度紙面に視線を落とす。すると彼はある事に気がついた。

「おやー?のだめちゃん……私のリクエストしたあの曲、明日は弾かないのですか?」
「あ!気がついちゃいました?」

のだめは山口から紙を受け取りながら、バツが悪そうに頭をかいた。

「えへへ。ごめんなサイ!プログラムの構成上、あの曲入れにくかったんですヨ〜。」
「そうなのですかー?うーん…それは残念ですね。是非のだめちゃんに、“愛の夢”を弾いて頂きたかったのに……。」
「でも、昨日ちょっぴり弾いたじゃないですかー。」
「ちょっぴり…じゃなくて、たっぷり…聴きたかったなぁー?」
「ぎゃぼ!先生、本当にごめんなサイ!!」
「じゃあ、いつか……私の為にあの曲を弾いて下さいね?」
「あ、ハイ!」
「約束ですよ?のだめちゃん。」
「ハイ!必ず!」

のだめは右の小指を、“指きり”の形にして山口の前に出した。
山口は幼い子供のする仕草を自分がすることに照れ臭さを感じながらも、素直にのだめの指に自分の小指を絡める。
のだめは、『指きりげんまん♪』とお決まりのあのフレーズを口ずさみ、二、三度繋いだ指を上下に振った。
そうして絡めた指を解くと、山口にふんわりと笑った。

「―――そういえば……のだめちゃん。」
「ハイ?」
「千秋さんとはお話できていますか?」
「え……?」
「何だか退院してからの方が、お二人……すれ違ってるのではないかと、少々心配になりましてね……。」

山口は少し心配そうな瞳でのだめを見つめていた。

「山口先生、大丈夫です。のだめ、今朝もちゃんとお話しましたヨ?」
「千秋さんとですか?」
「もちろんデス。」
「それならいいのですけど……。」

山口が言葉を濁すと、のだめは視線を足元に落とした。

「先輩、明日がもう公演だからとても忙しそうで……。
でも、毎朝のだめが起きるのを待っててくれて、のだめの顔を見てからお仕事に行くんデス。
だからここ数日は、朝しか会ってないですケド……。」

そこまで言うと、のだめは両足をぶらんぶらんと小さな子どものように揺らした。

「先輩、のだめにとても気を遣ってくれてて……お仕事大変なのに……。」
「千秋さんにとっては……それだけのだめちゃんが大事、って事なんですよ?」

山口は優しくのだめに語りかけた。

「男ってそういうものなのです。大事な人の為なら、つい頑張ってしまうものなのです。」
「……山口先生も?」
「もちろんです!」
「そですか。」

熱心な口調で山口が説いたにもかかわらず、のだめの反応はひどくそっけないものだった。
こういう時の彼女はそっとしておいた方がいい事を昨日の経験で知った山口は、それ以上は何も言わなかった。

「さてと……のだめちゃん、夜もよく眠れているようですし、今日からお薬を減らしていきましょう。」

山口は机に向かい、診断カルテと処方箋に書き込みをはじめた。

「お薬……。記憶を取り戻すお薬も……あったらよかったのに……。」

のだめは独り言のようにポツンと呟いた。その小さな声を、山口は聞き逃さなかった。
しかし山口はその事には敢えて触れず、聞こえなかった振りをして書類にペンを走らせていた。

「今日の診察はこれで終わりですよ。では明日、午後一時半に。のだめちゃん、宜しくお願いしますね。」
「ハイ!一時半ですね!のだめの方こそよろしくお願いします、デス!」

のだめは笑顔でそう言うと、すくっと立ち上がって山口に丁寧にお辞儀をし、ドアの方へ歩いていく。
しかしすぐには出て行かないで、診察室入り口のカーテンの仕切り前でピタリと立ち止まった。

「あのね?先生……。」

そしてそのまま振り向かず、静かな声で話しだした。

「のだめ……ピアノがんばりマス!
ここにはもう居なくなってしまった……もう一人ののだめの為にも……。
この道を……ちゃんと今の自分の足で歩いて行きマス。そしたら…もう一人ののだめも…許してくれますよネ?」

そこまで言ってからようやくこちらに顔を向ける。
山口ははっと息を呑んだ。

……のだめは、山口に微笑していた。
迷いのない真っ直ぐな瞳が、山口を見つめている。
しなやかな、それでいて透き通るような凛としたその立ち姿に、のだめが何事かを決心をしたことを、山口に察知させた。

山口は目の前ののだめに、医師として何か言うべき言葉を瞬間的に探した。

「じゃあネ!山口先生、また明日!」

しかしのだめは山口に口を挟ませず、元気よく手を振ると、明るく笑って診察室を出て行った。

のだめの後姿を見送った山口は、しばらくの間茫然していた。

―――最後の笑顔……あれは紛れもなく、いつもののだめちゃんの笑顔だった。
―――だが、しかし……。

昨日の謎かけのような…宝物を入れた缶の話といい、今日の…まるで何かの決意表明みたいな発言といい、
理解を超えるのだめの言動に、彼は自分の医師としての無力感を痛感していた。
山口しばし目を閉じ、今まで自分に投げかけられた、のだめの言葉を自分の中で反芻してみる。
だが、彼の望んだ回答は、一向に思い浮かんできそうもない。

しばらくそうしていたが、山口は果ての見えない思考の闇から抜け出そうと、溜め息をつきつつ目を開く。
ふと、机の書類の下に埋もれている、クリアファイルの一つに彼の目が留まった。
それは昨日のだめに見せた、千秋を取材した新聞の切り抜きを入れておいてあったものだ。
何とはなしにクリアファイルから切り抜きを取り出し、それに目を通していると、彼はある重要な事実に気がついた。
山口が目を凝らして何度見ても……“そこ”には“そう”書いてある。

―――しまった……!私は何ていう、とんでもないミスを……!!

のだめの先程のあの言葉が、山口の頭の中にこだまのように響いてきた。


    『のだめ……ピアノがんばりマス!ここにはもう居なくなってしまった……もう一人ののだめの為にも……。』


“もう一人ののだめ”

その言葉がパズルのピースの一片となって、ある欠けた部分に、不思議なくらいすっぽりとはまるのを山口は感じた。
それまでバラバラだった全ての欠片が…次々と面白いようにはまり、山口の疑問は音を立てて氷解していく。

―――そうかっ!でも、まずは千秋さんに電話を……!

山口は慌ててのだめのファイルをめくると、そこに記してある千秋の携帯電話の番号を指で確認する。
机の上の電話機の受話器を取り、外線ボタンを押すと、一つ一つ確認するようにボタンを押し始めていた。








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