喪失 ミニコンサート前編8
千秋真一×野田恵


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看護科の生徒さん達との軽い打ち合わせが終わり、私は病院を後にした。
病院の中庭にあるフラワーガーデンに立つ時計台を見ると、時間は11時をちょっと過ぎた所だった。

―――今、三善さんちに帰っても誰も居ないし……。
―――でも、ピアノの練習もしなきゃいけないんだケド……。

私はタクシーには乗らず、駅に向かって歩き出していた。
目指すは―――事故があった日以来、ずっと行きたかった“あの場所”。
駅から電車を何本も乗り継ぎ、一時間半以上かけて移動すると、懐かしい風景の中に私は降り立った。

   『桃ヶ丘音楽大学』

駅の案内板にその文字を見つけると、右手をその文字の上にそっと置いてみる。
そこから何かを感じ取ろうと、私はしばし瞼を閉じた。

しばらくそうしてから目を開けると、私は一歩一歩確かめるように歩き出す。
……それはまるで失ってしまった思い出を…必死に辿るような足取りだったかもしれない。

駅からそのまままっすぐ道なりに進むと、すぐに左右に軒を連ねる商店街に入った。

「もきゃ!?スーパーひとしくん!?のだめの記憶の中と違って、改装して綺麗になっていマス!!」

私は驚きと嬉しさで興奮しながら、お店の中へ勢いよく飛び込んだ。
ひとしきりスーパーひとしくんの店内をひやかすと、ペットボトルのお茶を一つだけ購入して店を出る。
向かいの店を見ると、マキちゃん達とよく食べに行った回転寿司屋さんがある。
そこは概観も何も変化することなく、記憶の中と同じように今もそのまま営業していた。

―――千秋先輩と一緒に……この道も通ったのかな……?

そう思ってはみるが……やっぱり何も感じる事がない。
ややもすると落ち込みそうになる気持ちを鼓舞して、それでも私は大股で歩き出した。

『桃ヶ丘音楽大学』と銘の入ったプレートのついた大学の通用口に立つと、大きく深呼吸した。
そうして気持ちを落ち着かせると、大学内へ歩みを進める。

―――のだめの中じゃまだ大学1年生なのに……実際は違うんですよネ?

今はちょうど試験期間内なのだろうか……大学の敷地内に人影はまばらだった。
辺りをキョロキョロ見回しながら、私はレッスン室のある校舎へ向かう。

夏の明るい日差しの外とは違って、少し薄暗いレッスン室が並ぶ校舎。
どこか……懐かしい匂いがした。

入ってすぐにある掲示板を見ると、試験期間中の注意事項や、教室変更を知らせる張り紙等が掲示してある。
沢山の演奏会のお知らせの中には、あのR☆Sの公演ポスターも貼ってあった。

「野田くん……?そこにいるのは野田くんじゃないか?」

後ろから急に自分の名前を呼び掛けられて、私は慌てて声のする方へ振り返った。

「ああ、やっぱり野田くんだ!」

廊下の向こうから見知った顔が、人好きのする笑顔でニコニコと私に近づいてきた。

「た、谷岡センセっ!!」
「久しぶりだねー。元気で頑張っていたかい?」
「ハ、ハイ!」
「ああ、そうか!千秋くんと一緒に帰ってきてたんだねー?どうかな?パリの音楽院での勉強は……。」
「はぁ…その…のだめ、がんばって……いるような……?」

私がしどろもどろになりながら答えると、谷岡先生は可笑しそうに笑った。

「はははは!慣れない海外で大変だろうけど、頑張るんだよー?」
「ハイ。のだめ、がんばりマス……。」
「そうだ!江藤先生が野田くんに、とても会いたがっていたよ!」
「へ?江藤……センセ?」

急にハリセンの名前が出てきたので、私は面食らった。

「彼は今ちょうど、京都で行われているセミナーに講師として行っていて不在なんだ。
あー野田くんが学校に来ていたと知ったら、きっと残念がるなー。」
「残念……がる?」
「ほら、野田くんが江藤くんと一緒につくった『もじゃもじゃ組曲』のラストの第12曲。
彼はアレを、自分の生徒達にエチュード代わりに弾かせている位、お気に入りでねー。」
「もじゃもじゃ組曲の…“だい12きょくぅっ”!?」

『もじゃもじゃ組曲』が第12曲まで作られていた事実を知って、私は唖然となった。

「ええと、<幸せ色の虹>変ロ長調……だったかな?うんうん、確かにあれはすばらしかった!
もじゃもじゃ組曲の中でも、間違いなく最高傑作だよねー。江藤くんが自慢するのもわかるなぁ。」
「は、はぁ……。」
「ふふふ。私と野田くんとで作った11曲も、なかなか良かったんだけどねぇ……。」

谷岡先生は口元に、いたずらっぽい微笑を浮かべながら言った。

「おっと、もう次の教室へ行く時間だ!この期間、試験監督をしなくちゃいけないから色々大変でねー。
そうだ。野田くんも明日からの千秋くんの公演、行くのかな?」
「あ、ハイ。」
「ボクも聴きに行くんだよ。じゃあ野田くんともまた会場で会うかもしれないね?
江藤くんも大事な教え子の公演だから京都から駆けつける、って言ってたし……。彼にも会えるといいね。」
「……そ、そですネ。」
「それじゃあ、野田くん。また!コンセルヴァトワールでの勉強、しっかりね!!」
「ハイ!谷岡先生もお元気で!また!」

谷岡先生は手に持っていた試験用紙を入れたと思われる封筒を脇に抱えると、私に手を振った。
私も谷岡先生に大きく手を振る。
先生は優しい表情を浮かべ、“わかった”とでも言うように私に目配せすると、大教室がある方向へ姿を消した。

―――ビックリ……。

私は額にかいた汗を、ハンカチで拭った。
先程スーパーひとしくんで買ったお茶を、息もつかずごくごく飲み干す。そしてぷはーと息をついた。
まさか谷岡先生とバッタリ会うなんて予想していなかった。心臓がまだドキドキいっている。

谷岡先生の話で……私は色々とまた新しい事を知った。
一つ目は、『もじゃもじゃ組曲』が12曲目で完結しているいう事。
自分の中では、つい最近1曲目を谷岡先生と完成させたばかりだったから、それはとても変な気がした。

それから二つ目はハリセン……。
そういえば病院で、千秋先輩に簡単に私の過去の話をしてもらった時に、
確か4年生の時に江藤先生についてコンクールに出たって聞いてはいたけれど……。

―――あの話、間違いじゃなかったんですネ……。

『ちなみにオレは3年の時にハリセンから谷岡先生に担当が替わったから、おまえの逆だな。』

そういえば千秋先輩、そんなことも言ってたっけ……。
どうやら私は4年生の時に、あの江藤先生と『もじゃもじゃ組曲』の第12曲を一緒に作っていたようだ。
その……ちょっとまだ信じられないけど……。
その後にコンクールを目指したのだろうか?

―――でも、なんで私がコンクール??

そんな事をぐるぐると頭の中で考えながら、学校の外へ出る。
考え事をしていた私の前に、ふと、ラーメンのいい匂いが漂ってきた。
すると私のお腹が、ぐるるるるる〜と派手に鳴り響いた。

「ふわぁぁ〜。美味しそーなとんこつラーメンのいい匂い〜!そういえば、お昼ご飯食べてないんでしタ!」

時計を見ると午後2時をとっくに過ぎている。8時過ぎに三善家を出てきてから随分と時間が経過していた。

「あっ!のだめ、勝手に大学に来ちゃって、千代さんに連絡してない!」

私は出かけにお昼までに帰る、と千代さんに言ってきてしまった事をようやく思い出した。
あわてて、バックから携帯を取り出す。
そういえば病院に入る前に電源を切ってしまっていた。私は急いで携帯の電源を入れた。

―――もしかして千代さんが心配して携帯に電話くれていたかも……。

病院からここに来る前に、ちゃんと電話を入れておけば良かったと後悔した瞬間、
携帯からプリごろ太の着メロが盛大に鳴り響いた。

〜♪〜♪〜♪

―――えっ?えっ?

随分とタイミングよく電話が着信した事に戸惑いながらも、私は携帯をパチンと開いた。
液晶画面は、先輩のお母さんからの電話である事を示している。
知っている人からの電話なのが分かってホッとしながらも、私は急いで電話に出た。

「も、もしもし?」
―――のだめちゃん!?のだめちゃんなの!?

先輩のお母さんの少し早口な声が、電話口から聞こえてきた。

「そですけど?どうしたんですかー?」
―――のだめちゃん!心配したのよ?今、どこにいるの?

「え?い、今ですか?のだめ、ちょっと買いたいモノがあって……東京の方へ出てましタ。」

大学に来ているとは言い辛くて、私はとっさに嘘をついた。

―――そうだったの?それなら先にそう言ってくれないと……。

「ご、ごめんなサイ!電話するの、ウッカリ忘れちゃって。」
―――もう、のだめちゃんの携帯も全然つながらないし……。

「病院で電源切ったっきり、電源入れるの忘れちゃってて……。
ほ、本当にごめんなサイ!のだめ、今からすぐに三善さんちに帰りマスから!」
―――いいのよー。もう、何もなかったんだから。のだめちゃんだって、一人でしたい事だってあるでしょうしね?
   ただ真一が、ちょっと心配性なだけなんだから……。

「え、千秋先輩?先輩がどうかしたんですカ?」
―――さっき真一から電話があって、のだめちゃんがそこにいるかって訊くのよ。
   そしたら千代さんが、『のだめさん……お昼には帰るって言ったきり連絡もないし、まだ帰ってきてません。』
   ……な〜んて言うものだから、ふふふ…真一、ちょっとパニックになっちゃってー!

「せ、先輩が…パニック……?」
―――『のだめの携帯もつながらない!』って、もう、そりゃー大騒ぎして……。あの子って意外と……過保護ね?

先輩のお母さんはクスクス笑いながら言った。

―――のだめちゃんと連絡がついたって、私から真一に伝えておくから大丈夫よー?

「スイマセン……。のだめ、今から急いで戻りマス!」
―――いいのよ?ゆっくり……気をつけて帰っていらっしゃいなー。
   あ、じゃあー駅に着いたら電話してくれる?迎えに行くから。

「ハイ、分かりましタ。電話しマス!」
―――本当に急がなくて良いからね?じゃあのだめちゃん、また後で……。

先輩のお母さんが電話を切ったのを確認してから、私も電話を切る。
そういえば昨日先輩に、『移動するときは必ず連絡して』と言われていた。
さっきの電話で、先輩のお母さんは『真一がパニックになっちゃって』と言ってたけど……。
先輩のお母さんは大げさに言ったんだとは思うけど……千秋先輩はすごく心配性なのかもしれない。

―――千秋先輩の重荷にならないようにしなくちゃ……と決意したばっかりだったのに。
―――のだめ……何やってんデスか……。

脳裏に、昨日峰くんに『千秋に心配かけるなよ』と言われた事も思い浮かんで……私は更に落ち込んでいた。

本当はこの後、一人暮らしをしていたアパートにも行ってみるつもりだったけれど……。
私は予定を切り上げて大急ぎで駅にとって返し、帰路に着いた。








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