喪失 ミニコンサート前編9
千秋真一×野田恵


**********

ゲネプロ終了後、急いで帰ってきたつもりだったが、オレが三善の家に着いたのは夜の9時過ぎだった。
帰宅してすぐにリビングへ顔を出すと、俊彦と由衣子が二人で何やら雑誌を読み比べしていた。

「ただいま……。」
「あっ!真兄。お帰りー!」
「お帰りなさーーい!真兄ちゃまーー!」
「二人とも、夕飯はもう食べたか?」
「うん、今日はのだめちゃんが『お昼ご飯食べてなくてお腹がすいたー!』って言うから、
由衣子、のだめちゃんと一緒に早めの夕ご飯食べたの。
俊兄はそのご飯の途中で帰ってきたから……。その後3人で一緒にデザートを食べたよー?」
「そっか。……そういえば、のだめは?」

その時、リビングの外からピアノの音が微かに流れてくるのに気が付いた。

「……アレ、のだめ?」
「うん、そうなのー。由衣子が学校から帰ってきた時には、のだめちゃん、もうピアノ弾いてたよー。
千代さんが言うには、病院から帰ってきてそれからずっとピアノの練習してるみたい。」
「へぇ……。」
「のだめさん、昨日はずっとオーディオルームに篭りっきりだったし……。
今日は夕食とお風呂の時以外は、ずっとピアノの前に居るって感じだねー。」
「うん。そんな感じ!」
「えっ…のだめが……?」
「のだめさん、パリにピアノ留学してる位なんだから、これ位当然の事じゃないの?」
「……う、まぁ…前のあいつ…だったらそうなんだけど……。」

言い淀むオレを見て、聡い俊彦は事情を察したらしく、急に話を変えた。

「そういえば真兄、夕食は済ませてきたの?」
「いや、まだだけど。」
「じゃ由衣子、千代さんに言って、真兄ちゃまのご飯、用意して貰って来るね〜!」
「うん、ありがとう由衣子。」

礼を言うと、由衣子は嬉しそうに頬を染め、元気よくリビングを出て行った。

「じゃあ、オレ……ちょっとあいつの顔見てくる。」
「うん、わかった。真兄の夕ご飯の用意が出来たら、呼びに行くよ。」
「ああ、頼むな。」

俊彦をリビングに残し、オレはサロンの方へ向かった。

サロンに通じる廊下を静かに歩いて行くと、ピアノの音がどんどん近づき響いてくる。

―――この曲は……ドビュッシーの『月の光』……?

のだめが弾くには少し感傷的だと思ったが、こんな月の綺麗な夏の夜には……合っているのかもしれない。

サロンのピアノには、ノースリーブのクリーム色のルームワンピース姿ののだめが居た。
洗い晒しの柔らかいのだめの髪が、夏の夜風にふわり、ふわり…と舞っていた。

「これは、明日弾く曲?」

オレが後ろからそう声を掛けると、のだめは椅子から弾かれたように飛び上がった。

「千秋先輩っ!?いつからそこにっ!?」
「今さっき、帰ってきたとこ。サロンからピアノの音がするから……。」
「そでしたか!びっくりしたー!あ、お帰りなサイ!」
「……ただいま。」
「あ!先輩ゴメンナサイ。のだめ、先に夕ご飯食べちゃいました。」
「ん、由衣子から聞いた。オレ、帰るのちょっと遅くなっちゃったしな。」
「今日のだめ、お昼ご飯食べ損なっちゃったんで〜それで待ちきれなくて〜……ぎゃは!」
「そんな事より……。のだめ、どうして嘘をついたんだ?」
「へ……?」
「子供達にピアノを弾くって約束したって話。あれ本当は、山口先生にミニコンサートを頼まれたんだろ?」
「あ……。」

のだめは気まずそうにオレから目を逸らした。

「今日の昼間、オレ、先生から電話を貰ったんだ。」
「べ、別にのだめ、う、嘘なんてついてませんヨ?子供達がのだめのピアノで歌を歌いたいそーなんデス。
明日、看護科の生徒さん達がそういう催し物をするので、たまたまそれがステージ上になっただけで……。
だから、先に子供達と約束したっていうのは、本当のコトなんデスよ!」

のだめは相変らず目を逸らしたまま、一生懸命オレに言い訳をしている。

―――こいつの…こういう所は…やっぱり全然変わらないな……。

オレは心の中で苦笑していた。
のだめは今も昔も、都合が悪い時や嘘をつく時は、目を合わせないようだ。

「……ふーん。でも山口先生は、のだめはオレにその事を相談して決めたって言ってたけど?」
「ぎゃぼ!」
「……これでも嘘じゃない?」
「ゴ、ゴメンナサイ!」
「いいんだ。その…別にその事を問い詰めたいわけじゃない。ただ…何でちゃんと話してくれなかったのかな…って。」
「せ、先輩、あの……とっても忙しそーだったから!だから、のだめ……。」
「え……もしかしてお前の話したい事って……この事だったのか?」
「あ、えと、ハイ……。」
「そっか……。じゃあ、オレがいけないんだな……。自分の事で手一杯で、お前の事考えてやる余裕がなくて…ごめん……。」
「いいんですヨ!先輩は大事な大事な公演を控えてるんですから、そんなの当然の事ですヨ!
それにこれはのだめ自身が決める事ですし、別に先輩が気にすることじゃないんデス!
のだめが自分で考えて、そうしたいと思ったから、ミニコンサートを引き受けることしたんデス!」

いつになくきっぱりと言い切るのだめの様子を見て、オレは昼間の電話で、山口先生に言われた事を思い出していた。

『どうものだめちゃん……
記憶が戻らない自分は、千秋さんにとってもはや重荷でしかない、そんな風に考えているようなのです。』

『だから、それが“もう一人ののだめちゃん”
……つまり、”記憶を失う前の自分自身”に対しても申し訳ない……と感じているようで……。』

「……分かった。おまえが考えて自分で決めた事だ。オレは何も言わない。けど……。」
「……けど?」
「今度からはそういうの、ちゃんとオレに話せ。言ってくれないと、かえって気になるだろ?」
「そ、そですよね……。ゴメンナサイ。これからはちゃんと先輩に話します。」
「うん。そうしてくれ……。」

オレ達の間に、しばし沈黙が訪れる。
オレは、昼間山口先生から色々言われていた事もあって、何をどう言うべきか考えあぐねていた。
しかし、先に静寂を破ったのは、のだめの方だった。

「……山口先生、何て言ってましたカ?」
「え?」
「今日、先輩に先生から電話があったんでショ?」
「ああ……うん。」

オレが言葉を濁すと、のだめは悪戯っぽい眼差しでオレを見る。

「言ってくれないと、かえって気になりますヨ〜?」

さっきのオレの言葉を、そっくりそのままのだめに返された。
言った後ののだめは“してやったり!”といった表情をしていて、オレは少々ムッとした。

「何言ってやがる……。」
「だって先輩が、先にそう言ったんじゃないですかぁー!」
「おい、こら!調子に乗ンな!」
「ぎゃぼーー!」

会話にいつもの調子が出てきた。オレ達は顔を見合わせて久しぶりに少しだけ笑いあった。

「さっきの山口先生の電話の件だけど……『申し訳ない』って先生、オレに謝ってた。」
「え?何でですかー?」
「明日、おまえに頼んだミニコンサートがオレの公演と重なっていただろ?
知らなかった事とはいえ無神経な事をしてしまったって、先生ひどく恐縮してた。」
「うーん。山口先生はチョト、気にし過ぎやサン、ですネ!」
「確かにな……。別にこれから幾らでも、オレの公演を聴くチャンスなんてある訳だし。
それにおまえ、日曜は来れるんだからな。」
「ふふふ。千秋先輩、のだめがいなくても、明日の公演大丈夫ですカ〜?」
「はぁ!?当たり前だろ!オレ様を誰だと思ってんだ。ンなもん、おまえが来てようと来てまいと関係ねー!」
「うぎっ!……千秋先輩、カズオ……。」
「カズ……。ったく…今のおまえにまでそう呼ばれるとはな……。」
「えっ!?前ものだめ、先輩のことカズオって呼んでいたんデスか?」
「……たまに…嫌がらせのようにな……。」

オレがはぁーと溜め息をつきながらぼそりと呟くと、のだめは嬉しそうに奇声を上げた。

「ふぉぉぉぉーー!カズオーー!!」
「“カズオ”じゃねぇ!!オレの名前は“真一”だっ!!」
「ぎゃぼ!ごめんなサイ!えと……真一くん?」

のだめに久しぶりに『真一くん』と呼ばれて、オレは思わず胸がドキン、と高鳴った。
のだめがオレの事をそう呼ぶのは…二人きりの…その、ごくごくプライベートの時かなんかで……。
しかもそれは、記憶を失う前ののだめに関してだ。

だからまさか“今ののだめ”に、そんな風に呼ばれるとは予想だにしていなくて……。
意表を突かれたオレは青臭いガキみたいに、自分でも恥ずかしい程顔が真っ赤になってしまった。

「……?先輩?どーしたんですカ?」
「……別に。」
「変な千秋先輩ですネー!」
「…………。」

のだめは可愛らしく小首を傾げながら、赤面したオレを不思議そうに見上げている。
俺は火照った顔を早くクールダウンしたくて、レースのカーテンが揺らめいている窓の方へ移動した。
窓から顔を出すと、オレの頬を一陣の湿った夏の夜風が、すっと撫でていった。

「あー…外は気持ち良いな……。夜風が吹いて……虫の音が聞こえて……。」
「ほら!先輩、見て!今日はお月様がまん丸ですヨー!」

いつの間にかのだめも後ろに来ていて、空に向かって人差し指で月を指し示した。

「本当だ。今日は満月か……。」
「先輩とのだめ……明日、同じ時間にステージの上に立っているんですネ……。」
「……そうだな。」
「先輩はのだめがいなくても、全然平気ですよネ?きっと……。」

いつになくしんみりとした口調でのだめが呟いた。

「え……?」
「でものだめもネ、一人で大丈夫ですヨ?ちゃんと自分でやっていけますから!
明日だって……!それに、これからも……きっと……。」

のだめは遠い彼方に思いをはせているような感傷的な眼差しで、今夜の満月を見ていた。



『記憶が戻らない今の自分からは、いつか千秋さんが離れていってしまう、そう思い込んでいるようです。』

『私が、“きっといつかピアノが教えてくれますよ。”……なんて言ったものですから、
のだめちゃん、もう自分にはピアノしかない、と思い詰めたみたいで……。』

『……つまりですね。のだめちゃん、ピアノを頑張る事によって、
失ってしまった自分の過去と、今の自分との…何というか、折り合いをつけたいようなのです。』



オレの頭の中に、山口先生との昼間の電話のやり取りが浮かんでくる。
先生は、のだめの今の心理状態を酷く心配していた。
でもオレは最初に先生からその話を聞かされた時、胸の奥から何か甘酸っぱいものがこみ上げてくるのを感じていた。
そしてそれと同時に……自分がとても恥ずかしくなった。

昨日までのオレはのだめに……

“パリに行かないで大川に帰る”“やっぱり幼稚園の先生になりたい”、

……そんな事を言い出されたらどうしようとビクビク怯えていた、愚かで心の狭い男だった。

でも、そうだ……のだめはそんなヤツじゃない。
オレが惚れたのだめは……そんなヤワなヤツじゃなかったんだ。

男としてはこういう時こそ、頼ってくれた方が嬉しかったりするんだけど……。
でもそれじゃ、やっぱり“のだめ”じゃないしな。
のだめは自分なりに考えて、その結果……ピアノを頑張ろうと決心したんだろう。
理由は……まぁ、ともあれ……。
オレがおまえから離れるなんて思い込みの激しい所も、のだめらしいといえばのだめらしいけど……。

……そういえば、記憶を失う前の“のだめ”もそうだった。
派手にすっころんでも……オレが手を差し伸べる前に、いつもおまえは自力で立ち上がってきたんだよな?
コンクールに失敗したあの時も……オレが大川へ迎えに行かなくても、おまえはすでに留学することを決めていた。

オレは何時だって、決心したおまえの背中を、最後にちょっと押す位しか役割がなくて……。
情けないけど…おまえがオレにしてくれた事に比べれば、オレはおまえにホント些細な事しかしてやれてないんだな。
だから今も、ただおまえをこうやって見守る事しか出来ないけど……。

「真兄ちゃま!ご飯の準備できたってー!」

由衣子がサロンの入り口来ていて、オレに声を掛けた。

「ああ。今行くよ。」

オレが返事をすると、由衣子は気をきかせたのか、すぐにリビングの方へ戻って行った。

「先輩、今からご飯ですか?」
「うん。ちょっとバタバタしてて。」
「のだめ、もうちょっとピアノ弾いてますんで。早く行かないとご飯冷めちゃいますヨ?」
「そうだな。メシ食って、今日はもう休むか・・・明日の為にも。」
「のだめもそれが良いと思いマス!」

そう言うと、のだめは再びピアノの方へ歩いて行く。そして椅子に腰をかけると、さっきの『月の光』の続きを弾きだした。
オレは窓際でのだめの演奏を少しだけ聴いてから、ダイニングルームへ向かった。
その晩オレが夕食をとっている間中、のだめが奏でるピアノの音色はサロンから途切れる事はなかった。

**********

その夜、私は喉の渇きを覚えて深夜に目を覚ました。
時計を見ると……夜中の3時をちょうど過ぎた頃。

隣で寝ている由衣子ちゃんを起こさないようにそっとベットから抜け出すと、客間のドアを静かに開けて廊下に出た。
しんと寝静まっている三善さんのおうちでは、僅かな足音でも響くような気がする。
私は音を立てないよう慎重に歩みを進めながら、キッチンのある階下へ降りて行った。

キッチンに入り冷蔵庫を開けると、手前のドリンクフォルダーに麦茶が冷えている。
洋風の三善家では余り麦茶を飲む習慣がないらしく、これは私が千代さんに頼んで作って貰ったものだ。

「やっぱり日本の夏は、冷た〜い麦茶ですよネ!」

鼻歌交じりにそう一人ごちると、手ごろなサイズのグラスを食器棚から取り出し、麦茶を注ぎいれた。
そしてそれを一気に飲み干す。
冷たくて香ばしい琥珀色の液体が、一瞬にして私の渇いた喉を潤した。

「ぷっは〜〜〜!やっぱり夏の麦茶は最高デス〜〜!」

もう一杯飲もうと麦茶の入ったガラスポットを傾けると、ふと、キッチンの窓にぼんやりと映る明かりが目に入った。

―――あれ?なんだろ……?

注ぐのを止めてガラスポットをキッチンテーブルの上に置くと、私は窓際まで近づいた。
キッチンの窓から外を見上げると、ちょうど二階の客間と反対の方にある部屋に明かりが灯っている。

―――あそこは……確か千秋先輩の部屋?
―――サロンで会った時には、明日の為にも早く休むと言っていたハズなのに……?

その時、私は先輩に麦茶を差し入れすることを思いついた。

後ろの食器棚を再び見回すと、ちょうどぴったりな可愛らしい水泡の入ったガラスピッチャー……
そしてそれとお揃いの冷茶グラスがある。
製氷機から氷を取り出してピッチャーの中に入れ、その中に麦茶を半分ほど注ぐと、トレイの上にグラスと共に載せた。

来た時と同じようにゆっくりと慎重に、私はそれを持って二階へ上がった。

―――麦茶だったら緑茶と違ってカフェインが入っていないから、深夜に飲んでも大丈夫ですよネ?

先輩の部屋の前まで来ると、やっぱりどうしても先に躊躇いが出る。
私は呼吸を整えると、トレイを右手と胸元を使って上手く支えながら、左手で部屋を小さくノックした。








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