千秋真一×野田恵
![]() とうとうR☆Sオーケストラの公演初日を迎えた。 時刻は土曜日の朝の七時半、天気は快晴―――。 「おはよーのだめちゃん!」 「あ、おはようございマス!皆さん。」 二階の客間から降りてきたのだめは、すぐにリビングに足を向けた。 リビングには千秋以外の三善家の全員が、すでにコンサートに行く装いで集まっていた。 「のだめちゃん、もうちょっとゆっくり寝てても良かったのよ?」 征子が優しくのだめに声を掛ける。 のだめはここにはいない、もう一人の人物の姿を探して、キョロキョロと辺りを見回した。 するとのだめのそんな様子を敏感に察した俊彦が、彼女に声を掛ける。 「真兄なら、今朝早く出て行ったよ。」 「え?もうデスか?」 「そうなの〜!由衣子達が起きてきた時には、もうすでに真兄ちゃま出掛けた後だったの〜。 由衣子、真兄ちゃまのお見送りしたかったのにぃ〜……。」 「そうですか〜……。千秋先輩…もう行っちゃったんですか……。」 ここ数日、忙しくても自分の顔を見てから仕事に行く千秋だっただけに、のだめはがっかりした表情を見せた。 決して自惚れていた訳ではなかったが、やはり本番当日に彼が自分に会わずに出掛けてしまった事実が、 のだめに深い落胆と…そして一抹の不安を抱かせた。 「真一、何かまだ色々忙しいみたいで……。今日がもう本番なのにね?」 バングルタイプの時計をはめながら、征子は肩を竦めて笑った。 「大丈夫かなぁー……真兄ちゃま……。」 「まぁ、私達がここで心配しても何も始まらない。後は真一を信じるだけだ。さ、私達もそろそろ出掛けるとしよう。」 竹彦がそう言うと、俊彦も由衣子もソファから腰を上げた。 「のだめちゃん!由衣子達、少し早めに行きたいから、もう出ちゃうんだけど……。 やっぱり今夜の松田さんのBプログラムにも来れないの?」 「えと…ハイ……。病院でのお約束が、何時に終わるかよく分からないので…ごめんなさい……。」 のだめが困ったように説明すると、やはりまだ納得できていないかったのか、由衣子はぷぅと頬を膨らませた。 それを見た俊彦が、のだめに救い舟を出す。 「もうしょうがないよ、由衣子。のだめさん、困らせちゃだめだ。明日があるだろ?」 「うん…わかってる俊兄……。もぉーのだめちゃん!明日は絶対に真兄ちゃまの公演、由衣子と一緒に聴くんだからねっ?」 「ハイ!絶対デス!もちろん!」 「そうだ…明日の事だが……。」 ソファに置いてあったダークブラックのスーツのジャケットを羽織ながら、竹彦がのだめに話しかけた。 「私達はホール近くのホテルに予約を入れてあるから、今夜はこのままホテルに宿泊の予定なんだが。 俊彦だけは予備校があるから、昼の公演後は家に帰る予定だ。だからのだめちゃんは明日、俊彦と一緒に来るといい。」 「俊彦くんと?」 「……何か不満?」 俊彦は抗議めいた低い声でのだめに言った。 「いえいえ!そんな事は……。」 慌てたようにのだめが俊彦に両手を振る。 「わ、分かりました。のだめ、明日は俊彦くんと一緒に行きますネ!」 「そういう訳だから、俊彦。おまえがのだめちゃんをちゃんと連れて来るんだぞ?」 「……っていうか普通、役割が反対なような気もするけれど?のだめさん、ボクより大人なんだし。」 息子の冷静な返答に、竹彦は吹き出した。 「はははははっ!そう言われてみれば、確かにそうだな!」 「むー……のだめのコト、馬鹿にしてますネ……。」 「じゃーのだめさん。明日はボクをホールまでちゃんと連れて行ってくれるんだよね?」 「おお!私からも頼んだよ。」 「うぎっ!二人ともひどいデス〜……。」 二人にからかわれてイジケたのか、のだめは近くに飾ってあったアンティークの花器に“の”の字を指で書いていた。 「じゃあ、のだめちゃんも今日は頑張ってね!ピアノ!」 「ハイー!由衣子ちゃん、のだめの分も楽しんできてくださいネ!」 「皆さんそろそろご用意の方はよろしいですか?タクシーが玄関に来ておりますが。」 千代さんがリビングに入ってきて言った。 「では行こう。」 竹彦の合図で、全員リビングを出て玄関に向かった。 「じゃあねー!のだめちゃん明日ねー!」 「ハイ!明日ー!」 「あ、のだめさん。今日はボク、公演後に予備校へ行くけど、10時前には家に戻ると思うから。」 「10時前ですね?俊彦くん、了解しましタ!」 「じゃ、行って来るわね。のだめちゃんも気を付けて、病院に行ってね?」 「あ、はい。先輩のお母さんも気をつけて下さいネ!」 のだめに言葉をかけながら、三善家の面々は2台のタクシーに分乗する。 手前の一台には竹彦と征子が、後ろの一台には俊彦と由衣子が乗りこんだ。 やがて、タクシーが静かにゆっくりと走り出すと、のだめは玄関に出て千代と二人で4人を見送った。 見送りの後、少し軽めの朝食を済ませると、のだめは再び客間に戻る。 そして隅に置きっ放しだったスーツーケースを部屋の中央に引っ張り出すと、中を開けようとジッパーに手をかけた。 「今日のミニステージで着れそうなお洋服、のだめ持ってますかネ……?」 ぶつぶつ呟きながらスーツーケースを覗き込む。 開けてみると一番手前に、メッシュ製の折り畳み式のスーツフォルダーが入っているのに気がついた。 リボンベルトを外し広げてみると、フォーマルなワンピースが二着、ハンガーにかかった状態で収納されている。 中にあったのは裾のレース使いの贅沢な、小花模様の夏らしい透け感が綺麗な白いワンピースと、 紺色地に音符のラインストーンが贅沢に散りばめられた、少し丈が短めでフェミニンなシルエットなワンピースだった。 「ふぉぉぉぉ〜!洋子特製ですね〜コレ!しかもおニューじゃないですかーー!」 のだめはハンガーから二つのワンピースを外すと、鏡の前に立って各々あててみた。 洋裁好きなのだめの母親が娘の為にあつらえたそれは、当然のようにぴったりと彼女にフィットした。 「今日は白い方を着て行きまショ!」 若干ついていた折りじわを取る為に、のだめは紺色のワンピースを再びハンガーにかけクローゼットの中に丁寧にしまった。 そして白いワンピースの方を手に取り近くの椅子にかけると、今来ている服を脱ぎ、着替え始める。 ワンピースに足を通した瞬間、のだめはふと思い当たった。 「あ…そか。だから二着……。」 ワンピースが二着あったのは、おそらく今日と明日の公演に着れるように、母の洋子が用意したのだろう。 のだめはしばらく鏡の前で考え込んでいたが、首を振ると、ワンピースに袖を通し後ろのファスナーをぐっと上げた。 着替えが済むと、のだめはピアノの鍵盤を拭く為のハンカチを荷物から探し出した。 いつものお出かけバックを手にし、その中にハンカチ…それから携帯を順番に入れる。 バックの中を一応確認しようとまさぐると、一番底の奥からビニルの袋に入ったあのネックレスが出てきた。 ―――あ…コレ……。 のだめはビニル袋から可愛らしいハート形のルビーのネックレスを取り出して、目の前に持ち上げてみた。 朝の眩しい光の中でそれはキラキラと煌めき、のだめの瞳を魅了する。 のだめはネックレスを身に着けるべきか否か迷うが……やはりそうする事を止めた。 ―――ネクレス…どこかにしまえる所……。 ふと、テーブルの上に置いてあったトイピアノにのだめの目が留まった。 そういえば、グランド型のトイピアノの内部は収納ボックスになっていた事を思い出す。 のだめはトイピアノの蓋を開け、その中にネックレスを華奢な鎖が絡んで傷まないように配慮して置いた。 それからのだめは再びバックの中に目をやる。すると、折り畳んだ紙が入れっ放しだったのに気がついた。 取り出してみると、それは山口から貰った千秋を取材した新聞の切抜きのコピーだった。 『千秋さんは今度の凱旋公演後、すぐにパリに戻られるとか。』 『ええ、そうです。常任を務めているオケの定期公演が、すぐ後に控えてますので……。 またしばらく日本を離れる事になると思います。その意味でも、今度の公演を大事にしたいですね。』 千秋がこの公演後すぐにパリに戻るという事実が、今ののだめにはとても重かった。 “このまま自分は、千秋とパリに一緒に行っても良いのだろうか……?” “私には本当に、その資格があるのだろうか……?” のだめは自問自答した。 ―――いけないいけない!今は、目の前のミニコンサートに集中!!デス!! のだめは両手でパンパンと自分の頬を叩くと、『ヨシ!』と小さく気合の声を上げた。 そして切抜きのコピーを元のように小さく折り畳み、先程のネックレスと同じようにトイピアノの中に入れた。 トイピアノの蓋をパタンと閉めると、忘れ物がないかもう一度確認し、のだめは客間を後にした。 ********** 最後ににもう一服…と、オレは煙草に火をつけ、ふー…と指揮者控え室中にその紫煙を燻らせた。 今から公演本番―――いよいよだ。 何時だってどんな舞台でも、この時間が一番緊張して…それでいて期待に武者震いする。 ―――のだめも…もうそろそろかな……? あいつがこの場所にいないのは残念だったが、不思議とオレの心は落ち着いていた。 場所は違っても同じ時間に、のだめと共にステージにのぼっているという事が、オレに湧き上がる勇気を与えてくれる。 ―――大丈夫……。オレもあいつも、自分の音楽を、持てる力全てで……!! 「千秋さーーん!そろそろ本番です。準備の方よろしくお願いしまーーす。」 公演スタッフから声を掛けられて、オレは控え室を出て薄暗い舞台袖へと移動する。 ステージ前で待機していると、すぐ側にある二つのモニターから、ホールとステージ上の様子が映し出されているのが目に入った。 ホール内を埋め尽くした満員の観客は、すでにしんと静まり返って、演奏が始まるのを今か今かと待ちわびている。 その時、コンサートマスターの高橋が、おもむろに椅子から立ち上がった。 A〜〜♪ 高橋のヴァイオリンが調律の為の音を弾き始めると、オケのあちこちからそれに合わせてAの音が響き渡りホール中にこだまする。 高橋はクールな表情でオケ内をぐるっと流し目し、スマートな様子で、すっと椅子に腰を下ろした。 その瞬間、オケから奏でられていた全ての音がピタリと止んだ。途端に耳にいたいくらいの静寂が辺りを包む。 「千秋さん出番ですっ。」 ―――さぁ!楽しい音楽の時間…だ!! スタッフの合図と共に、オレは煌めく光と音楽の洪水の中へ、大股で歩き出した。 同時刻、病院にて―――。 「あっ!!山口先生、こんにちわーー!!」 「の、のだめちゃんっ!?どうしたんですか、その格好……。」 「先生見て下さい!のだめ、ペンギンさんですヨ!!似合いますかネーー?うきゅっ♪」 のだめは山口の前で、ぐるっと1回転してポーズをとって見せた。 「とっても可愛いですけど……。どうしたんですか?そのペンギンの着ぐるみは……。」 のだめが着ているのは、ずんぐりむっくりした真っ黒の胴体に白いお腹が可愛らしい、ペンギンのつなぎだった。 「昨日看護科の生徒サン達が、動物のつなぎを着てダンスを踊ってるの見てたら、のだめも着たくなっちゃたんデス!」 「はぁ。」 「のだめ、本当はお猿さんのつなぎが良かったんですケド、今日はワンピースだったんでー! ペンギンさんのは足がわかれてなかったんで、これなら着れるかなって!」 「もしかして、それを着てピアノを弾かれるんですか?のだめちゃん。」 「そですヨ?変ですかー?」 「変じゃないですけど……。むしろ、子供達はとっても喜ぶと思いますよ。けれど…少し弾き辛くはありませんか?」 「大丈夫デス!ピアノを弾く時は、この足と手の所を外せばいいですから!」 確かにペンギン足のスリッパを脱げばペダルは踏めるし、実際つなぎはノースリーブになっており、 黒い羽の部分は肩からぶら下がっていて、羽の内側に付いている取っ手を持って振ってるだけだから、 ピアノを弾くにはそんなに支障はないようだ。 「のだめちゃん、今日は本当に有難うございます。それから…私の配慮が足りなくて申し訳ありませんでした。」 「配慮?」 「千秋さんの公演と重なっていたのに、私は全く気がつかなくて…のだめちゃんにミニコンサートのお願いを……。」 「全然いいんデスよ〜!山口先生!!」 のだめはペンギンの黒い両羽をパタパタさせて、明るく笑った。 「先輩の公演は明日もあるんデス!のだめ、子供達にピアノを弾いてあげられて、すっごく嬉しいんですから!」 「でも……。」 「先輩の公演は明日だけでなく、これからもいっぱい聴けますし!でも、今日のミニコンサートは今日一回きりですからネ! のだめ、頑張りマス!!」 のだめは片方の黒羽をこめかみの横に持ってきて、敬礼のポーズを取った。 「有難うございます、のだめちゃん。そう言って貰えると、こちらも嬉しいですよ。」 「えへへ。先生ものだめのミニコンサート、楽しんで下さいネ!」 「ええ、もちろんですよ!」 のだめが思った以上に元気な様子なので、山口は少し胸を撫で下ろした。 山口には、昨日千秋に電話した時の胸騒ぎが、杞憂に終わったのかどうかはまだ分からなかった。 しかし、少なくても昨日ののだめよりは、今日の彼女はずっと安定した精神状態を保っているのを彼は感じていた。 「のだめさーーん!そろそろ準備の方、よろしくお願いしまーーーす!」 同じようにピンクのウサギのつなぎを着た看護科の生徒が、グランドピアノの側に立ってのだめを呼んでいた。 「ハーーーイ!今行きまーーす!!先生、のだめ行ってきますネ!」 「ええ。頑張ってくださいね。私も客席から応援してますから。」 「ハイ!」 のだめは相変わらず翼を羽ばたかせながら、トタトタとペンギン足で、呼ばれている方へ走っていった。 山口はそんな彼女の姿を、後ろから黙って見守っていた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |