喪失 ミニコンサート後編2
千秋真一×野田恵


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今日ののだめちゃんは大活躍だった―――。

2時から始まった看護科の生徒達による温かみのある手作りステージは、
まずは生徒達と入院中の子供達による、可愛いお遊戯から始まった。
その時も、のだめちゃんはピアノでの伴奏を自らかってでたらしく、例のペンギン姿で軽やかにピアノを奏でていた。

しかしのだめちゃんの姿は、一見するとまるで看護科の生徒の中の一人の様に見えてしまうから驚きだ。
すぐに周りと溶け込み、誰からも愛されるキャラクターは、のだめちゃんの素晴らしい魅力の一つなんだろう。

―――成る程。千秋さんもこの辺りにやられちゃったのかもしれませんね……。

私は一人、コッソリと笑みを漏らした。

最初にのだめちゃんが千秋さんの恋人だと聞かされた時、
まるでタイプの違う二人がどのように愛を育んだのかと、私は密かに興味を覚えていた。
けれど、のだめちゃんを見ているうちに、私にもそれが段々と分かってきた。

勿論千秋さんものだめちゃんも音楽家だから、二人は音楽によって結び付けられたんだろう事はすぐに私にも伝わったが……。
でも二人を結び付けてるものは、それだけではないと私は感じていた。
のだめちゃんは明るくて笑顔がとても可愛くて、彼女が側に居てくれるだけで、心がポカポカとあったかくなるのだ。
そして自分の事よりも他人を思いやる、誰よりも素直で優しい心をもった女の子だ。

けれども……。
それはもしかしたら、傷つきやすく脆い自分の心を守る為の、のだめちゃんなりの方法なのではないだろうか……?

私はいつの間にか、そう考えるようになっていた。
それはつまり、自分が他人の領域に鮮やかに入り込んでしまう事によって、
自分自身には他人を決して立ち入らせず、ガードを張っているようなものだ。
そう感じるようになったら、私はのだめちゃんを守って、出来るだけ彼女の力になってあげたいと思うようになってしまった。
きっと千秋さんも、私と同じ様な事をのだめちゃんに感じていたに違いない。

―――男はこういうギャップに弱いんですよね……。

千秋さんののだめちゃんを見つめる眼差しは、可愛くていとおしくて仕方ないと言った様子で、
それはまさに恋する男の瞳……だった。

「……では今から、ペンギンのお姉さんによる、ミニコンサートを始めたいと思いまーーす。
一緒にお歌を歌うみんなは、ステージの上に、上がって来て下さーーい!」

さっきのピンクのウサギ姿の生徒がマイクでアナウンスすると、小児科の子供達がわーと一斉に舞台上に駆け集まった。
いつの間にかのだめちゃんは、すっかり“ペンギンのお姉さん”になっている。

「では今から、ここにいるみんな達によるお歌の発表会を始めまーーす。みんなぁーー!用意はいいですかぁーー?」
「はあーーーーーい!」

可愛らしい声が、あちこちに伸び上がった右手と共に、次々に大きく上がる。
すると子供達の一人がのだめちゃんに近づいて、ペンギンの襟元に赤いリボンの付いた紐をかけた。
よく見れば看護科の生徒達の手作りの、男の子は青い蝶ネクタイ、女の子は赤いリボンを襟元にしている。
のだめちゃんも子供達とお揃いになったのが余程嬉しいのか、顔を破願させ、首に掛けられたリボンを手に取って見詰めていた。

「それではみんな、いきますヨ〜〜?」
のだめちゃんが子供達に合図の声を掛ける。

「いちっ・にっ・さんっ・ハイ!」

ズンチャッ♪ズンチャッ♪ターーーン♪ターーーン♪

『プリリーーーンごろぉーーーたっ♪プリごろたぁーーーー♪』

エントランスホール中に子供達の元気な歌声が、楽しげなピアノと共に響き渡っていた―――。


『……のだめ、僕と会った時は幼稚園の先生になるのが夢だったんです。』


子供達と嬉しそうに歌いながら、ピアノを奏でるのだめちゃんを見ていたら……
千秋さんとの昨日の電話での会話が、急に頭に蘇ってきた。


『のだめはすごいピアノの才能を持ってるくせに、
上を目指すというか、真剣に音楽に取り組む姿勢が見られなくて……。
だから僕はずっと、歯痒い思いをしていました……。』


確かにのだめちゃんは、例え幼稚園の先生になったとしても、子供達から好かれるとても素敵な先生になったことだろう。


『のだめから、自分もピアノを勉強する為に留学したいと聞かされた時、
彼女の気持ちが僕はとても…とても嬉しかったんです……。』


では何故、のだめちゃんは幼稚園の先生になる夢を捨て、千秋さんと共に留学の道を選んだのだろう。

―――それは…千秋さんの側に居たかったから……?

「……お歌を歌ってくれたみんなーーどうもありがとうーーー!みんな、気をつけて、降りてねーー。
急に飛び降りちゃ危ないよーー?あっ、ペンギンのお姉さんはまだ降りちゃダメですよーー?」

子供達と一緒にステージから降りようとしていたのだめちゃんにアナウンスのツッコミが入ると、会場がどっと沸きあがった。

「では次に、続けてクラシックの名曲を取り揃えた、第2部をお楽しみ下さい。
曲目は先程皆さんのお手元にお配りした、リーフレットの2枚目にございます!」

生徒がアナウンスで説明をすると、あちらこちらからガサガサと紙を捲る音がする。

「弾いて下さるのは子供達のアイドル、ペンギンのお姉さんこと、野田恵さんです!」

大きな拍手と共に、のだめちゃんがペンギン姿のまま、照れたように黒羽で頭をかいて、ペコペコとお辞儀をしている。

「えと、はじめまして。野田恵デス。周りからはのだめ、って呼ばれていマス。そう呼んで下さい。」

のだめちゃんがそう自己紹介すると、子供達から『のだめちゃーーーん!!がんばれーーー!!』と声が上がる。

「みんなーー!ありがとぉーーデーース!
あの、今日は、ひょんな事から、クラシックのミニコンサートを任される事になりましタ。
皆サンのリクエストにお答えして、誰でも聞いたことのある有名な曲の一部をアレンジして弾きたいと思いマス。
のだめ、一生懸命弾きますので、皆さん楽しんでいって下さいネ!」

そう言ってもう一度ぺこりとお辞儀をすると、のだめちゃんはピアノの前に腰を下ろした。
そしてじっと鍵盤を見詰めてから、天を仰ぎ見るように顔を上げ、瞼を閉じる。

その精神集中している姿に、辺りが水を打ったようにしん…と静かになる。
次の瞬間、のだめちゃんはパッと目を見開き、勢いよく鍵盤に指を叩きつけた。


《革命のエチュード》


「うわ……すごっ……!」

辺りからどよめきが起こる。
一心不乱に両手を鍵盤に叩きつける、のだめちゃんの鬼気迫る演奏は、
先程のぽや〜んとした彼女の表情がまるで嘘だったかのようだ。

「すごい……。ほとんどミスタッチがない……。」
「何でペンギン姿で…あんなに弾けるんだ……?」

ピアノの知識がある人も沢山居るのだろう…あちらこちらから息をのむ声が聞こえる。

……そうしてのだめちゃんは次々と、有名な曲を弾き続けていった。
素人が聴いても技巧的と思われる曲を、魂をぶつける様に情熱的に弾いたかと思えば、
感傷的な曲を情感豊かに、物憂い切なげな表情で弾きこなす。


『僕はあいつのピアノが……世界中で一番好きなんです……。』


昨日の千秋さんの言葉が、のだめちゃんの演奏中……私の胸にいつまでも響いていた。

息もつかずに20分の間奏でられ続けた演奏も、のだめちゃんが最後の《英雄ポロネーズ》を華やかに弾き終え、終焉を迎えた。
すると会場からは歓声と共に、盛大な拍手が沸き起こった。

「わーー!ペンギンのお姉さん、すごかったです!!私達もビックリしましたーー!
野田恵さん、素敵な演奏をどうもありがとうございましたーー!」

司会の生徒が、のだめちゃんを手招きしている。
のだめちゃんはハァハァと呼吸も荒かったが、再び恥ずかしそうに照れた表情を見せると、
ペコペコとお辞儀をしながら彼女の横に立った。

「のだめさん、ありがとうございました。ピアノ、素晴らしかったです!生の迫力に触れて、私達も感動しています。」
「あはは〜。どうも、デス。のだめのピアノ、楽しんでいただけたみたいで、こちらこそうれしいですヨ〜。」

あちらこちらから、再び拍手が沸き起こる。
いつの間にか拍手が“パンッパンッパンッパンッ”と一定のリズムになって会場中を包んでいた。

「皆さん、のだめさんのアンコールが聞きたいですかーーー?」

司会の生徒がそう呼びかけると、会場中から歓声と共に拍手が打ち響いた。

「のだめさん、アンコールにもう一曲お願いできますか?」
「え、アンコールですか。弾いちゃってもいいんデスか?」
「ええ、是非是非!よろしくお願いします!」

のだめちゃんははにかんで笑うと、司会の生徒からマイクを渡して貰っている。

「皆さん、沢山の拍手、ありがとうございましタ!のだめもとても楽しかったデス。
お言葉に甘えて、アンコールとして一曲弾かせていただきマス。
さっきまでの曲は短くアレンジしたものが多かったのですケド、今度の曲は最初から最後まで通しで弾きマス!
少し長いですけど、チョトだけ、のだめにお付き合い下さいネ!」

そこまで言うと、のだめちゃんはふぅーと息をついた。

「あ、スイマセン……。なんかこのペンギンさんの格好がとっても暑いので、脱いでもいいデスか〜?」

のだめちゃんがおとぼけた様に発言すると、再び会場中が笑い声でどっと沸いた。

「えへへ。じゃあ、チョト失礼して……。」

のだめちゃんはごそごそと、陰の方でペンギンのつなぎを脱ぎ始める。
すると愛嬌あるペンギン姿からガラリと変わって、のだめちゃんは少女の様な清楚な白いワンピース姿になった。
ワンピースの少し透ける生地に散らされた小花模様が、より一層のだめちゃんの可憐さをひきたてている。

「ぷはーー!涼しいーー!あ、お待たせいたしましタ〜。ではアンコールにもう一曲お聞き下さい。
お世話になった山口先生に捧げマス!曲名は……リストの《愛の夢・第3番》!」

―――えっ!?

再びピアノの前に座ると、のだめちゃんが“あの曲”を奏で始める。

「素敵……。あのコ…ロマンティックな曲も意外に似合うわね……。」
「……ペンギンじゃないから…じゃないかい?」
「……ふふふ…そうね……。」

一番後ろの列に居た初老のご夫婦が、そんな事をヒソヒソと囁きあっている。

私の愛の思い出を……愛の思い出を失ったのだめちゃんが弾く―――それはなんという残酷さだろう。
だから私には、彼女がこの曲を弾かないだろう絶対の自信があったのだ。
……でなければ、私があの話をのだめちゃんに話した意味がない。

―――私は何故、この曲を彼女に弾いて欲しいと言ってしまったのだろう……?

千秋さんとのだめちゃん―――
二人ともお互い、しっかりと手を繋ぎ合いたいのに、お互いを思いやりすぎて、ただ小指を絡めるのさえも躊躇っていた……。
そんなもどかしい二人を見ていたら、私は彼らを包み込んで応援してあげたくなったのだ。
……そうしてあげたかったのだけれど、私にもすぐそうするには躊躇われる理由があって……。
私は結局、二人の力になれなかった……。

のだめちゃんのピアノが次第に、甘く激しいあの旋律を奏で始める。
まるで何かに登りつめる様に瞳を陶酔させて鍵盤を叩く彼女の姿に、いつしか私の心も深く衝き動かされていく。

ずっと遠ざけていたクラシックに、こんな風に邂逅するとは思わなかった……。
この曲を再び、こんな形で聴かされる事になろうとは思わなかった……。

―――あの時と同じ…だ……。

そう…この曲を初めて聴いた時も、こんな風に突然だった。

その刹那、ピアノの前に居たのはのだめちゃんではなく―――彼女だった。
見間違えたかと思い、私は何度も何度も目を凝らす。
しかし何度見てもそこに居るのは、白いワンピース姿の…さらさらの長い髪が風に舞って……
透き通るような白く細い指が、鍵盤を踊るように駆け回っている……そんな姿の―――

やっぱり彼女だ……!!彼女が今ピアノの前に居て、この曲を弾いている……!!

―――わ、私は……幻を見て……?

ピアノの前に居た彼女が、今度は私のすぐ目前で、優しく笑っている……。
泣きたくなる位懐かしい…私の大好きだった……あの笑顔で……。

―――本当に…君なのか……?

そう問いかけると、まるでそうだと言わんばかりに瞳を細める……。
そうして……彼女は微笑を浮かべたまま私に近づいてくる。
ふわりと私を包んで……風のように通り抜けた瞬間―――


『山口君……。』


―――君は確かに今…私の名前を呼んだ……。
―――君はそんな所でずっと……私を待っていたというのか……?

事故に遭って夢見るように死んでしまった―――私が初めて愛した恋人。


『たいした外傷も無かったのですが……頭の打ち所が悪かったのでしょう。ご愁傷様です。』


病院のベッドで、まるで夢を見ているように微笑を浮かべて眠っている君に、医者はそう言った。
あの時私はまだ医学生で……何も出来ずに茫然と立ち尽くす、ただの無力な男だった。
今、脳神経外科医になったのも……これ以上不幸な私達をつくりたくなかったからだ。

君が愛したクラシックを……私は疎んじた。
二人の思い出が詰まったこの曲名も……まるで私達の未来を予知していたかの様で、ずっと嫌悪していた。








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