喪失 ミニコンサート後編10
千秋真一×野田恵


「い、痛いデス!先輩!!」
「あ、ごめっ……。」

オレはすぐに、のだめからパッと手を離す。

「千秋先輩と一緒に居たいから…って言ったんですヨ?のだめ……。」

のだめはどこか悪戯が成功した子供みたいな表情をしてオレを見上げた。

「そ、そっか……。」
「嬉しいですか?」
「うん……。」
「今ののだめから言われても……?」
「うん…って―――“今ののだめ”?」

オレが聞き返すと、のだめは困ったように俯いた。

「のだめ、今日、先輩の音楽を聞いて……胸がきゅーんって苦しくなったんデス。」
「え……?」
「こんな気持ち初めてで……。」
「……それで、オレの背中に飛びつきたくなった?」
「はぅ!?」
「“これってフォーリン・ラヴですか〜!?”って聞かないの?」
「な、何で!?」

発言を先回りされて混乱しているのか、のだめは目を白黒させている。

「はぁ……ようやくここから始まる訳か……。」
「へ!?」

まだ話の展開についていけないのだめの額を、オレは軽く小突いた。

「前の時はもっと早かったぞ!おまえが無駄な抵抗ばっかりするから、事がややこしく……!」
「ぎゃぼっ!?」

オレは溜め息をついた。
こればっかりは峰の言う通りだった。のだめをオレに惚れさせておけば、話はこんなに早かったのだ。

―――あいつ…たまに的を射た発言するんだよなぁ……。

「むきゃー!千秋先輩!!何、一人で納得して、一人で悦に入ってるんですカ!のだめ、全然分からないですヨ!!」

のだめは白目をむいて口を尖らせて抗議している。オレは身を屈ませてのだめの頬に顔を寄せると、その耳元にそっ…と囁いた。

「つまり今のおまえも、それから前のおまえも……。オレにとってはどっちも惚れた女に変わりない、って事。」
「えっ!?」

真っ赤になって動揺しているのだめに気がつかないふりをして、オレはその華奢な身体を久しぶりに強く抱きしめた。

「オレ達、また始めからやり直しになるけど……いいよな?」
「……よ、よろしくお願いしマス。」
「あー……でも一つだけムカつく事がある。」
「え?な、何ですカ?」

オレの腕の中で、のだめはおずおずとオレの顔を見上げていた。

「前と違って……現時点ではオレの方がお前に惚れてる。」
「はうぅーーーーーー!!」
「ははは。」

オレの告白を頬を桃色に染めて、のだめはくすぐったそうな表情で聞いている。
抱きしめていた腕を緩めると、今度はのだめがオレにぎゅっ!と抱きついてきた。

「どうした?」
「……のだめ、先輩と一緒に…パリに行ってもいいんですよネ?」
「当たり前だろ?お前はオレと一緒にパリに帰るんだ。」
「……ヨカッタ。のだめ、先輩からその言葉が聞きたかったんデス。」

そう言って嬉しそうに微笑むのだめを、オレはもう一度思いきり抱きしめた。

**********

「さ…もう遅いし……。身体の具合も悪いんだから早く寝ろ。部屋まで送っていってやるから。」
オレはそう言いながら、のだめの額にかかった前髪を優しく掻き分け、口付けを軽く落とした。

―――今はまだ、驚かしたくはない……。

のだめが自分に好意を感じ始めてくれた事を知っただけでも、今夜のオレには十分だった。

のだめの背中に手を添え、オレは促すようにそっ…と押した。しかしそれに抗うようにのだめはじっと動かない。
どうしたんだろうと思って顔を覗き込むと、何かを秘めたような潤んだ瞳でじっとこちらを見ている。

「どうした?」
「あのっ…あのっ……。」
「ん……?」
「その…のだめ…先輩と、い、一緒に…今夜…この部屋で寝ちゃいけませんか?」
「えっ!?」

―――何を言うんだ、こいつはイキナリ!?

オレは激しく動揺した。
せっかくオレが理性を総動員して、何とかギリギリの所で耐えてやっているというのに……。
確かにこいつはオレの想像をいつも軽やかに飛び越してはいくが……こんな夜にこんな事を……。

「……ダメですか?」

―――だからその上目遣いをやめろ!

「このバカ!!ダ、ダメに決まってるだろっ!!」
「どうしてですか?」
「ど、どうしてって……。あのなー……。お前は一緒に寝るだけで満足かもしれないけど…男はそうはいかないんだよっ!
オレだって…その…なんというか健康な男なんだから……隣で好きな女が寝てたら、だな……
その…それだけじゃ…済ませられないかも……しれないだろっ!?」

―――何かオレ、発情期の中学生男子みたいなこと言ってるな……。
―――恥ずかしい位に、きっと顔真っ赤だろう……。

「でも…のだめと千秋先輩……。前も…その…そゆこと……してたん…デスよね?」

のだめは聞き取れない位小さな声で、両手の指をツンツンとさせながらオレに尋ねた。
その姿がめちゃくちゃ可愛くて……オレはつい意地悪したくなった。

「“そゆこと”って?」
「そ、そゆこと、デス!!」

のだめは顔をゆでだこの様に真っ赤にして俯いた。

「……つまりセックス?」
「ムキャーーー!先輩スケベ!!えっち!!」
「お前から言ったんだろ……。」
「言ってまセン!!んもぉー、いいデス!千秋先輩のバカっ!おやすみなさいっ!」

のだめが真っ赤になって怒って帰ろうと身を翻すその瞬間、オレはのだめの二の腕を掴んだ。

「そこまで言われて帰すオレかよ……。」

そのまま強くのだめの身体を自分の胸元に引き寄せ、その耳元で囁く。

「……いいのか?」

そう訊ねるとのだめはぱっと目を見開き、オレを熱っぽく見詰めて小さく頷いた。

「もう一回聞く。……本当に、いいのか?」
「……ハイ。」

オレ達の視線がねっとりと絡み合う。
先に視線を外したのはのだめの方だった。
そしてそのまま長い睫毛を伏せると、オレに甘えるようにそっと身を寄せてきた。
オレもそれに引き寄せられるように、のだめの閉じられた瞼に唇を押し当てた。

―――瞼の下でのだめの瞳が、まるでわななくように小さく震えた……。

その瞬間オレは、はっきり、自分が“のだめを欲している”という感情を自覚した。
のだめの身も心も全て、今夜、自分だけのものにしてしまいたい。
だってこんなにも…こんなにも一人の女を愛しいという気持ち…のだめ以外の他の誰にも、感じた事はなかった……。

のだめのすべてを奪いたいと思う欲望に、オレはもう逆らわずに身を任せた。
その愛らしい瞼に、ふわふわな頬に、柔らかい髪に、そして甘い唇に…ひとつひとつ確かめるようにキスを落とす。

のだめは頬を薔薇色に染め、Tシャツの胸元にしがみ付いて震えながらも、無垢な様子でオレの口付けを受け入れている。
それを目の当たりにしてオレは、はたと気がついた。

―――そっか……。
―――恋人として幾度も肌を合せてきたけど……今のこいつにとっては、これは“初めて”なんだ……。

のだめが記憶を失う前のオレ達は、確かにそういう関係にあった。
とはいえ、今ののだめにはそんな事は関係ない。
そもそものだめの中の時計では、オレは、“知り合ってまだ1週間程度の男”だ。
それでも…そんな男に今…こいつは身体を許してくれようとしている……。

オレの官能を刺激するのには、それだけで十分だった。

愛する女の全てが欲しいと思うのは男として当然の感情だけど……
だからこそこいつを……オレは今夜、大事に、大切にしなくてはいけない。
キスの余韻に浸っているのか、未だ瞼を閉じたままだったのだめを、オレは横抱きにして軽々と持ち上げる。

「……きゃ!」

痛めた背中の箇所にはなるべく手を回さないように慎重に抱えると、そのままゆっくりとベットの方へ移動する。

「落ちないよう、ちゃんと掴まって?」

そう言うと、のだめはオレの首におずおずと躊躇いがちに両腕を回し、その身を預けた。

「これって…お姫様抱っこ…ですよネ?」
「……うん。」
「のだめ…初めてデス…お姫様抱っこ。はうん……。」
「……よくやってやったんだけどな?」
「むきゃ!そーなんですか……?」
「おまえ、結構重いし?それで前、腰を痛めた。」
「ぎゃぼーーー!?それ、ほ、本当ですか?」
「……嘘。」
「ムキーーーーー!!乙女に向かってデスねっ!言っていい冗談と、悪い冗談とが……」
「ほら、いつまでもしゃべってると舌噛むぞ?」

ベッドサイドにつくと、オレは大事なものを扱うように、のだめをゆっくりとベッドの上に降ろした。
そして、その横に腰をかける。
のだめといえば、さっきまで抗議していた勢いがあっという間に消え、途端に緊張で身を小さく固くしていた。

―――ベットの上……まだそれだけなのにこの反応……。

久しぶりに見た初々しいのだめの仕草に、オレは堪えきれない愛おしさを感じていた。
何とかのだめの緊張を解してやりたくて、そのピンク色の頬っぺたをオレは人差し指でむにっと軽く押す。

「言っとくけど。今から『やっぱりダメです。やめマス。』っていうのは……ナシだからな?」

くくく…と笑いを堪えながらからかうような口調で言うと、のだめはキッと顔を上げた。

「言いまセン!!」

……そう強がりを言うけど、のだめの目元にはもう涙が滲んでるし、耳まで真っ赤だ……。

―――あーヤバイ……。
―――こいつ、すっげぇー……可愛い。

そう思った瞬間、オレは少し強引にのだめの唇を奪った。
のだめが記憶を失う前の…本当に二人が初めてキスをしたあの時と同じように……。
でも……あの時とは違う。あの時とは違って…これはただ…愛しさを伝えるだけの……。

“初めて”……のこいつをおどかさない様に、オレはその華奢な両肩に優しく自分の両手を置いた。
そしてはじめはゆっくりと……軽いバードキスから……。

ちゅっ…ちゅっ…ちゅっ…ちゅっ……

ついばむように繰り返されるキスを、のだめは瞼を閉じて頬を紅潮させ、うっとりと受け入れている。

キスの合間にオレは、両肩にあった手を首筋をそっ…と辿りながら徐々に顔の方へ移動させる。
そしてのだめの柔らかな両頬を、手のひらで包み込むようにしっかりと挟み、顔を上向かせた。
絶え間なく交わす羽のように優しく軽い口付けを、少しづつ長く…深いものへと…徐々に変えていく。
角度を変え、深さを変えながら、じっくりと時間をかけてキスされるのが、のだめは好きだったからだ。

最初は戸惑っていたのだめも、オレのキスに何とか応え様と徐々に力を抜きはじめた。
そのせいか、キスの合間合間に、固く閉ざしがちだった唇が少しだけど……ゆるく開いてくる。

その時、のだめの頭がガクン…と傾いた。

オレはすぐに、片手をのだめの背中に回し、もう一方の手でのだめの後頭部を強く掴んだ。
支えていなければ後ろにひっくり返ってしまうのではないかと思う位、のだめはオレにそのしなやかな身を預けている。
Tシャツの裾を両手で小さく握り締めながらも、
オレに全身を委ねきって、キスを受け入れているのだめの純真な姿がたまらなく…可愛い。

オレはのだめを支えながら、更に味わいつくそうと、その甘美な唇に深くおおいかぶさった。
下唇をやんわりとはみながら、その愛らしい唇の小さな隙間から、一度舌を差し入れる。
その瞬間、のだめは驚いてすぐにその身を固くした。

のだめのそんな様子を確認したオレは、いったん舌を引き抜く。
同時にのだめの唾液も吸い取り、その甘く官能的な味を十分に堪能した。

オレはのだめをあやすように、背中に回した方の手で、のだめの背中をゆっくりと上下にさする。
……そして深く口付けながら、再度探るようにのだめの唇を割って舌を差し入れた。
逃げたがるのだめの舌に、自分の舌を尖らせてノックするように何度も優しく触れていると、
だんだんとその抵抗は消え、再びその体が弛緩しはじめた。

……いつしかオレは、当初の目的を忘れて、のだめとのキスに夢中になっていた。
のだめの薄く開いた唇に今度は強引に舌を侵入させ、のだめの暖かい舌を優しく…時に激しく絡め取り蹂躙する。

くちゅ…ちゅっ…ぴちゅ……

お互いの心臓の鼓動さえ聞こえてきそうな静寂の中……
のだめの柔らかな口内を犯す度に二人の口元から漏れる、甘い吐息と共に奏でる湿った水音…それだけが部屋の中で響いていた。

……それはオレに、これから先にある“何か”を、確かに連想させて……。
益々昂ぶったオレは、上下の歯列をねっとりと何度もなぶり、更に再度、のだめの舌を絡め取ろうとすると―――

「ん〜ん〜!!!」

その時、のだめが小さく抗議の声を漏らした。
我に返り、オレは慌てて唇を離す。二人の間に唾液の銀糸がたらーっと架かった。

「ごめんっ!!オレ、ついっ!……びっくりした?」

のだめはふるふると首を振る。

「え?……イヤだった…か?」
「ち、違いマス!!ただ……。」
「ただ……?」

のだめは俯くと恥ずかしそうにもじもじとして、小さな声で囁いた。

「……千秋先輩……ちゅー…上手すぎマス……。」
「え?」
「このまま先輩にちゅーされ続けたら…のだめ…とけて無くなっちゃうかと思いましタ……。」

―――時々こいつ、本当に男を殺すような台詞を素で言うんだよな……。

正直参ったと思いながら、オレは心の中で苦笑した。もういい……。この女に惚れた時点で、どう考えたってオレの白旗だ。

「ばぁーか。ったく…あんまり男を喜ばすような事言うな。……後で後悔したって遅いんだからな?」
「……へ?」

その返答の代わりに、ちゅ…ともう一度のだめの唇を軽く奪う。
するとのだめは傍から見ても分かるくらい、かぁぁ……と頬から首筋までピンク色に染めた。

「まぁ…オレのキスに一生懸命応えてたおまえも……オレ的にはかなり可愛かったけど?」
「ヤだ!も…そんな事、言わないで下サイ……!」

恥じらいと喜びとでキラキラ煌くのだめの上目遣いの瞳が、今のオレにはたまらなく蠱惑的だ。

「のだめ…もっとこっちに……おいで?」

そう言うと、のだめは遠慮がちに膝立ちで近づいてくる。

「もっと……。」
「……ハイ。」








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